8月28日は、午後から金沢市教育委員会へ、いしかわ教育総研第2研究部会として教育事情視察を予定していました。早朝6時過ぎから市教委から連絡があり、市内の中学3年生が同居人を刺殺するという事件が発生した。教育長の同席が出来なくなったので了解して欲しいとの内容でした。金沢市内で中学生が人の命を殺めるなどという事件は、記憶にはありません。電話口で一瞬絶句し、視察内容の一部変更を了解しました。市教委視察後は、新設された杜の里小学校と改修中の玉川こども図書館を視察しました。
13:30からの視察は、刺殺事件への様々な対応に追われ、石原教育長をはじめ市教委の各課幹部は同席できず、喜多学校教育部長と山下主席指導主事から、学校教育金沢モデルの小中一貫英語教育と独自指導基準「金沢スタンダード」について説明がありました。両施策とも、教育総研の評価では、早期学習の効果が検証されていない、多極化・多言語・多文化共生の世界の流れに対応できないことや、すべての子どもに学びを公平に保障する条件を壊しかねないものとの問題指摘がなされてきました。
成果を強調する市教委との意見交換は、かみ合わず、中国大連市の実験学校における授業映像も、私たちの課題意識には説得力をもつとは感じられませんでした。子どもたちに意欲の面でも学力の面でも二極化が起こっていると現場から指摘があります。また、英語担当者にメンタルヘルスの病が起こっているとの指摘があります。成果を求められる教職員と子どもたちが、日々緊張の中で学校生活を余儀なくされている状況のように思われます。警鐘を鳴らしてきた私の問題意識も変わりません。
数字の結果で短期的に成果を見いだそうとする教育の中で、出来ないことやうまくいかないことにクラスメイトや先生、地域の人々が寄り添って支えていくという空気が、学校や地域から薄らいではいないでしょうか。中学生が母の愛人という同居人を刺殺してしまった事件の背景に、短絡的に結びつけるつもりはありませんが、より添いとは逆の厭いの空気が知らず知らずに人々の間に蔓延しているのではないかとの思いがよぎります。学校も職員が健康を犠牲にするかのように懸命に教育実践を行っているのです。しかし、余裕がない。称賛の対象とはならない多くの子どもたちの見えない内面にどんな世界が広がっているのか。世の中の有り様を、いろんな立場から反芻する時期がやってきているのに、市教委の能力主義にはブレーキがかかりません。
さて、国境が人々を分け隔てる世界が、夥しい悲劇を今も生み出し続けています。遺体が発見されたペシャワール会の伊藤和也さんは、地域住民と渾然一体となり、集落住民から厚く信頼され国際支援活動を行って来たにも拘わらずです。最も起こって欲しくない事態でした。暗澹たる気持ちです。
アフガンの武装原理主義の台頭、住民の貧困と飢餓を第三者的に眺めてはいけないと思います。私は、外国人憎悪の背景に、紛れもなく、「対テロ」戦争の名のアメリカの無慈悲な暴力、これを支持し、給油活動で共犯してきた日本政府に根本的な責任があると共に、それを結果的にせよ支持してきた日本人総体にも顧みるべき責任があると考えています。
「人権と平和の世紀」が期待された21世紀ですが、未だ大国の国益のぶつかり、民族排外主義による紛争、利害対立によって生まれる暴力の連鎖を断ち切ることが出来ません。
国境を越えた民衆連帯と共生。
圧倒的大多数の民衆は、こんな時代の到来を望んでいると思いますし、民衆自らが行動する以外に実現することはないと思います。私たちが足元からやれることはなんなのでしょう。一緒に考えていきたいです。
喜べないニュースが重なります。東海地方と関東地方で記録的な豪雨。河川の氾濫で人命が失われ、多くの家屋が甚大な被害を受けた模様です。つい一ヶ月前の金沢の水害の本格復旧を待たない立て続けの災害です。亡くなられた方にお悔やみと被災された方々にお見舞いを申し上げます。
最近よく使われる「ゲリラ豪雨」という表現は、誰が言い出したのでしょうか。どこか予測不可能で防水害システムの限界を超えているから「どうしようもない」、とりうる責任の所在をも曖昧にしようとの意図を感じてなりません。金沢でも、局地的豪雨への対応を第三者機関に諮問することになりました。住民の目線からスジの通った原因分析と対策が提言できるのか、注視しましょう。
13:30からの視察は、刺殺事件への様々な対応に追われ、石原教育長をはじめ市教委の各課幹部は同席できず、喜多学校教育部長と山下主席指導主事から、学校教育金沢モデルの小中一貫英語教育と独自指導基準「金沢スタンダード」について説明がありました。両施策とも、教育総研の評価では、早期学習の効果が検証されていない、多極化・多言語・多文化共生の世界の流れに対応できないことや、すべての子どもに学びを公平に保障する条件を壊しかねないものとの問題指摘がなされてきました。
成果を強調する市教委との意見交換は、かみ合わず、中国大連市の実験学校における授業映像も、私たちの課題意識には説得力をもつとは感じられませんでした。子どもたちに意欲の面でも学力の面でも二極化が起こっていると現場から指摘があります。また、英語担当者にメンタルヘルスの病が起こっているとの指摘があります。成果を求められる教職員と子どもたちが、日々緊張の中で学校生活を余儀なくされている状況のように思われます。警鐘を鳴らしてきた私の問題意識も変わりません。
数字の結果で短期的に成果を見いだそうとする教育の中で、出来ないことやうまくいかないことにクラスメイトや先生、地域の人々が寄り添って支えていくという空気が、学校や地域から薄らいではいないでしょうか。中学生が母の愛人という同居人を刺殺してしまった事件の背景に、短絡的に結びつけるつもりはありませんが、より添いとは逆の厭いの空気が知らず知らずに人々の間に蔓延しているのではないかとの思いがよぎります。学校も職員が健康を犠牲にするかのように懸命に教育実践を行っているのです。しかし、余裕がない。称賛の対象とはならない多くの子どもたちの見えない内面にどんな世界が広がっているのか。世の中の有り様を、いろんな立場から反芻する時期がやってきているのに、市教委の能力主義にはブレーキがかかりません。
さて、国境が人々を分け隔てる世界が、夥しい悲劇を今も生み出し続けています。遺体が発見されたペシャワール会の伊藤和也さんは、地域住民と渾然一体となり、集落住民から厚く信頼され国際支援活動を行って来たにも拘わらずです。最も起こって欲しくない事態でした。暗澹たる気持ちです。
アフガンの武装原理主義の台頭、住民の貧困と飢餓を第三者的に眺めてはいけないと思います。私は、外国人憎悪の背景に、紛れもなく、「対テロ」戦争の名のアメリカの無慈悲な暴力、これを支持し、給油活動で共犯してきた日本政府に根本的な責任があると共に、それを結果的にせよ支持してきた日本人総体にも顧みるべき責任があると考えています。
「人権と平和の世紀」が期待された21世紀ですが、未だ大国の国益のぶつかり、民族排外主義による紛争、利害対立によって生まれる暴力の連鎖を断ち切ることが出来ません。
国境を越えた民衆連帯と共生。
圧倒的大多数の民衆は、こんな時代の到来を望んでいると思いますし、民衆自らが行動する以外に実現することはないと思います。私たちが足元からやれることはなんなのでしょう。一緒に考えていきたいです。
喜べないニュースが重なります。東海地方と関東地方で記録的な豪雨。河川の氾濫で人命が失われ、多くの家屋が甚大な被害を受けた模様です。つい一ヶ月前の金沢の水害の本格復旧を待たない立て続けの災害です。亡くなられた方にお悔やみと被災された方々にお見舞いを申し上げます。
最近よく使われる「ゲリラ豪雨」という表現は、誰が言い出したのでしょうか。どこか予測不可能で防水害システムの限界を超えているから「どうしようもない」、とりうる責任の所在をも曖昧にしようとの意図を感じてなりません。金沢でも、局地的豪雨への対応を第三者機関に諮問することになりました。住民の目線からスジの通った原因分析と対策が提言できるのか、注視しましょう。