1
女と幼児が増録の山に入ったという波動はすぐさま、山全体へ、植物情報体となって伝
えられた。増録の山頂にあるデイアラ神社のイチョウの樹木が小刻みに振動し枝がゆれる。
葉がざわざわと音をたてる。音信は高原山中腹にある寺山修司寺のイチョウの大木に送ら
れた。山の樹木は生命体でもあった。高原山は過去と未来を規定し人間の運命も左右して
いた。そして高原山の畏怖とは古よりの隠された伝承にあった。
「野に伏し、山に伏し、我、木霊と言霊の残響の裂け目より、現れ出ん。役小角(えんの
おずね)五行陰陽道の古来、修験。空と海と山岳よりの密なる教え、修行に司どる寺山の
修司なり。我の修司は豊穣の山より与えられん。「修」「司」より得た霊応、験(しるし)
の力、内密を、親、兄弟といえでも、一切他言してはならぬ。我、山と野の自然智衆、真
言の本と行なり。日、月、火、水、木、金、土の道を陰陽暗黒歩行せん。山と野にて、朝
を迎えん地下人に仏在り。山は豊穣の源泉と源態なり。我、生と死の裂け目、表徴なりて、
恐山と木霊する高原山の寺山にて仏とともに在り」
近世まで修行を司る下野国山岳修験道の道場、それが高原山の寺山修司寺だった。
明治元年、古来よりの日本宗教を壊滅崩壊せんと、明治維新政府がイギリス帝国の命令
により、「神仏分離令」を布告した。これにより、修験道は生存の危機に突入した。明治
維新とは、イギリス帝国の工作によって成立した代物だった。坂本龍馬もイギリスの政治
工作員であった。植民地政策を貫徹するイギリス情報機関によって、徳川幕府転覆のプロ
グラムが秘密裏に起動していった。それに乗ったのが岩倉具視だった。岩倉具視の陰謀計
画を実行したのが、テロリスト山県有朋と伊藤博文だった。幕末の孝明天皇と皇太子であ
った睦仁親王は、山県有朋と伊藤博文によって暗殺された。ここで万世一系天皇の血の系
譜は切断されてしまった。明治天皇にすり替わったのは長州の大室寅之祐だった。嘘と欺
瞞を隠蔽するため、大室寅之祐は強権による絶対天皇制の現人神、近代の大帝、近代の神
となった。
大室寅之祐を睦仁親王に代わる「玉」として長州から連れてきたのが三条実美だった。
三条実美と岩倉具視こそはクーデターによって、長州とともに明治維新革命政府を樹立し、
万世一系の古来よりの天皇、血の系譜を切断した公卿だった。大室寅之祐は天皇の血を継
承していない成り上がり者だった。成り上がり者はおのれの歴史を嘘で記述していく。強
権の明治維新政府が南朝後醍醐天皇系譜を大々的に教育勅語として、国家神道を貫徹した
のは、大室寅之祐を近代の帝、大日本帝国軍の神とするためだった。
明治、大正、昭和へと日本破壊は計画的に進行し、大日本帝国はイギリス帝国の代理機
関として東アジアの侵略戦争立国になり、強権により支配貫徹された軍隊国家となった。民
衆は強権によって虐殺され、戦争に狩り出され、その結末がヒロシマ・ナガサキへのアメ
リカ軍による原爆投下だった。大室寅之祐王朝は21世紀の現在の「平成」まで続いてい
る。その基礎をつくったのが高原山を支配したテロリスト山県有朋だった。
高原山の寺山修司寺は、真言宗智山派へ所属することを選択し、山県有朋による高原山
修験道壊滅と高原山支配、明治維新政府の日本破壊、宗教弾圧の近代暗黒時代を生き延び
ることができた。
悲惨なのは寺院よりも神社だった。強権によって明治元年から、全国の神官は神社から
追放され一掃された。神社を守ろうと追放に抗った神官は、長州黒百人組によって暗殺さ
れた。明治維新政府の大室寅之祐王朝国家神道建設は計画的に江戸時代まであった神社を
潰していった。全国の神官と全国四割の神社が明治維新政府によって消滅させられた。残
された神社には、明治維新政府から派遣された神官が居座った。神社の頂点に明治維新政
府が創設した靖国神社の祖が居座った。その祖こそ大室寅之祐である。
江戸時代までの神社研究は禁止された。こうして明治に大室寅之祐王朝国家神道は強権
によって成立したのであった。昭和の敗戦後も神社研究はマッカサーによって禁止された。
イギリス帝国が明治維新クーデターによって擁立させた大室寅之祐王朝を第二次大戦後も
日本の象徴として守るためであった。その象徴とは日本破壊だった。
日本の寺院と神社は徳川幕藩体制によって守られてきた。明治からの近代とは日本破壊
だった。
はるか遠い昔、高原山には鬼人が住んでいたという。鬼人とは縄文人の蝦夷だった。高
原山は黒曜石の生産地であり工房があった。黒曜石は天然のガラスで、矢尻やナイフへと
加工される。狩猟にはなくてはならない道具だった。高原山の黒曜石は坂東各地や峠を越
え会津地方にまで行き渡っている。
大和朝廷は坂東各地や下野国に、新羅人、高句麗人を送り込んでいった。
江戸時代に那須湯津上村で発見された那須国造碑には、先祖が公氏という滅んだ中国後漢
王朝の血統にあり、持統三(六八九)年、直韋堤が野国那須評(こおり)の長官に任命され
た、と刻まれている。そして、持統天皇が藤原京に遷都した翌年の文武四(七〇〇)年、
直韋堤が死去し、その子、意斯麻呂が建碑したと彫られている。
那須湯津上村の百姓が開墾した畑から那須国造碑を発見したという知らせは、領主であっ
た水戸藩主二代目の徳川光圀に上奏された。徳川光圀はただちに那須湯津上村へと馬に乗り
駆けていった。後を追う家臣団。那須国造碑は徳川光圀に衝撃を与えた。徳川光圀はそこで
古来からの声を聞いたのだった。日本古代の文物に光圀は憑依されてしまった。光圀は家来
に那須国造碑の永久保存を命じた。水戸に帰ると徳川光圀は「大日本史」の編纂に傾注して
いった。
下野国は渡来人国造によって、律令制度が整備されていった。天武二(六七三)年には、
すでに下野薬師寺創建されたとされている。続日本書紀には持統元(六八七)年に新羅人
が朝廷から下野国開墾に送りこまれている記事がある。霊亀二(七一六)年には、下野国
などの高麗人を武蔵国に移し、高麗郡を設置という記事がある。渡来人は国造りの屯田兵
だった。
日本書紀には景行天皇の項に、武内宿禰による日高見国の蝦夷報告がある。
「武内宿禰東國より還りまゐきて奏言(まう)さく、東夷中、日高見國有り。其の國人男
女並に椎結(かみをあげ)、身を文(もとろ)げて、人と為り勇桿(いさみたけ)し。是
を総べて蝦夷(えみし)と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えて曠し。撃ちて取るべし」
撃ちて取るべし、それは蝦夷の土地を奪い、そこに渡来人による水田稲作を広げ、土地
を奪われる原住民の抵抗という荒魂を静め、無抵抗な良民とする精神支配の仏教を布教さ
せることであった。水田稲作には労働力が必要である。律令制度とは水田稲作開墾と仏教
布教の国づくりだった。
原野を開墾し水を土地に流すためには集約労働力としての奴隷が必要だった。水田稲作
開墾とは徹底して人間の労働による自然への造形である。山野と原野を切り開きそこに水
の排水と排出をコントロールするという人工と工作の強靭な意思貫徹である。軍事と造作
の律令制度とは社会主義制度でもあった。坂東と陸奥そして出羽には屯田兵が送り込まれ、
奴隷となった蝦夷は水田稲作開墾の労働力として大和朝廷の支配地へと送り込まれた。ス
ターリンの命令によって住民まるごと遠地へと国替えさせられる、それと類似したことが
展開されていった。
和銅二(七〇九)年、右大臣藤原不比等の命令で、高原山の鬼人たる蝦夷を退治したの
が、下野国府軍と派遣された大和朝廷軍だった。総大将は下野国造の渡来人下毛野古麻呂
だった。彼は大宝一(七○一)年、「日本」という国号を定めた大宝律令を、藤原不比等
とともに編纂している。彼は天武天皇死後、持統天皇に仕え、藤原不比等の信任あつく、
陸奥国建設の前線基地下野国を統治すると同時に兵部卿に任命され、東国である坂東を律
令制度の要として抑えていた。
朝廷軍との戦に敗北した高原山の蝦夷は、再び高原山に暮らすことを許されず、下毛野
古麻呂によって帝都に連行され、奈良平城京建設のための奴隷労働の俘虜とされた。帝都
に凱旋した下毛野古麻呂は元明天皇から、式部卿正四位下という、現在でいえば国務大臣
級という高い地位を授かった。しかしまもなく平城京建設を指揮するおり、突然倒れ、病
死してしまった。朝廷内で下毛野古麻呂式部卿の病死は、坂東蝦夷の聖地である高原山の
怨霊に呪われ祟られたという噂が流れた。
和銅三(七一〇)年、元明天皇が平城京に遷都すると鬼怒一族は、九州、四国や西国の
水田稲作造りの奴隷俘虜として各地国造に引き取られていった。
蝦夷や隼人の奴隷俘虜労働によって建設された奈良平城宮は、和銅三(七一〇)年から
延暦三(七八四)年までの大和朝廷の帝都となった。奈良は百済語で故郷を意味する、渡
来人の都だった。
藤原不比等が六十三歳で死去した養老四(七二〇)年、不比等の子、二男の藤原房前は
高原山の怨霊を封鎖するため祈願したという。神亀元年(七二四)年、行基は、鬼怒
一族の荒魂が復活せぬよう、高原山剣が峰の麓に法楽寺を建てた。
不比等の長女宮子は文武天皇の側室となり聖武天皇を生んだ。若い女に産ませた不比等
の娘、光明子は聖武天皇の妃となった。長男の武智麻呂(南家)、次男の房前(北家)、
三男の宇合(式家)、四男の麻呂(京家)はいずれも朝廷の要職に着いている。
不比等が死去し、房前が高原山の怨霊封鎖の祈願勤行をした年、九州で隼人の反乱、東
北で蝦夷が反乱した。行基が高原山に法楽寺を建てた年には、東北日高見の蝦夷が再び反
乱をした。藤原不比等の三男藤原宇合が持節大将軍に命ぜられ、坂東から三万人の兵士を
徴用し、朝廷派遣軍は陸奥国建設、蝦夷討伐の前線基地として多賀城を設置した。大和朝
廷の藤原一族は高原山の怨霊を恐れていた。藤原不比等死去の真相は、平城京に潜入して
いた高原山の鬼怒一族による暗殺であったからである。鬼怒一族は平城京建設に奴隷俘虜
として従事していたので、藤原不比等邸の構造を把握していた。
藤原不比等の死は病死として朝廷内で発表された。
【第1回日本経済新聞小説大賞(2006年度)第1次予選落選】
女と幼児が増録の山に入ったという波動はすぐさま、山全体へ、植物情報体となって伝
えられた。増録の山頂にあるデイアラ神社のイチョウの樹木が小刻みに振動し枝がゆれる。
葉がざわざわと音をたてる。音信は高原山中腹にある寺山修司寺のイチョウの大木に送ら
れた。山の樹木は生命体でもあった。高原山は過去と未来を規定し人間の運命も左右して
いた。そして高原山の畏怖とは古よりの隠された伝承にあった。
「野に伏し、山に伏し、我、木霊と言霊の残響の裂け目より、現れ出ん。役小角(えんの
おずね)五行陰陽道の古来、修験。空と海と山岳よりの密なる教え、修行に司どる寺山の
修司なり。我の修司は豊穣の山より与えられん。「修」「司」より得た霊応、験(しるし)
の力、内密を、親、兄弟といえでも、一切他言してはならぬ。我、山と野の自然智衆、真
言の本と行なり。日、月、火、水、木、金、土の道を陰陽暗黒歩行せん。山と野にて、朝
を迎えん地下人に仏在り。山は豊穣の源泉と源態なり。我、生と死の裂け目、表徴なりて、
恐山と木霊する高原山の寺山にて仏とともに在り」
近世まで修行を司る下野国山岳修験道の道場、それが高原山の寺山修司寺だった。
明治元年、古来よりの日本宗教を壊滅崩壊せんと、明治維新政府がイギリス帝国の命令
により、「神仏分離令」を布告した。これにより、修験道は生存の危機に突入した。明治
維新とは、イギリス帝国の工作によって成立した代物だった。坂本龍馬もイギリスの政治
工作員であった。植民地政策を貫徹するイギリス情報機関によって、徳川幕府転覆のプロ
グラムが秘密裏に起動していった。それに乗ったのが岩倉具視だった。岩倉具視の陰謀計
画を実行したのが、テロリスト山県有朋と伊藤博文だった。幕末の孝明天皇と皇太子であ
った睦仁親王は、山県有朋と伊藤博文によって暗殺された。ここで万世一系天皇の血の系
譜は切断されてしまった。明治天皇にすり替わったのは長州の大室寅之祐だった。嘘と欺
瞞を隠蔽するため、大室寅之祐は強権による絶対天皇制の現人神、近代の大帝、近代の神
となった。
大室寅之祐を睦仁親王に代わる「玉」として長州から連れてきたのが三条実美だった。
三条実美と岩倉具視こそはクーデターによって、長州とともに明治維新革命政府を樹立し、
万世一系の古来よりの天皇、血の系譜を切断した公卿だった。大室寅之祐は天皇の血を継
承していない成り上がり者だった。成り上がり者はおのれの歴史を嘘で記述していく。強
権の明治維新政府が南朝後醍醐天皇系譜を大々的に教育勅語として、国家神道を貫徹した
のは、大室寅之祐を近代の帝、大日本帝国軍の神とするためだった。
明治、大正、昭和へと日本破壊は計画的に進行し、大日本帝国はイギリス帝国の代理機
関として東アジアの侵略戦争立国になり、強権により支配貫徹された軍隊国家となった。民
衆は強権によって虐殺され、戦争に狩り出され、その結末がヒロシマ・ナガサキへのアメ
リカ軍による原爆投下だった。大室寅之祐王朝は21世紀の現在の「平成」まで続いてい
る。その基礎をつくったのが高原山を支配したテロリスト山県有朋だった。
高原山の寺山修司寺は、真言宗智山派へ所属することを選択し、山県有朋による高原山
修験道壊滅と高原山支配、明治維新政府の日本破壊、宗教弾圧の近代暗黒時代を生き延び
ることができた。
悲惨なのは寺院よりも神社だった。強権によって明治元年から、全国の神官は神社から
追放され一掃された。神社を守ろうと追放に抗った神官は、長州黒百人組によって暗殺さ
れた。明治維新政府の大室寅之祐王朝国家神道建設は計画的に江戸時代まであった神社を
潰していった。全国の神官と全国四割の神社が明治維新政府によって消滅させられた。残
された神社には、明治維新政府から派遣された神官が居座った。神社の頂点に明治維新政
府が創設した靖国神社の祖が居座った。その祖こそ大室寅之祐である。
江戸時代までの神社研究は禁止された。こうして明治に大室寅之祐王朝国家神道は強権
によって成立したのであった。昭和の敗戦後も神社研究はマッカサーによって禁止された。
イギリス帝国が明治維新クーデターによって擁立させた大室寅之祐王朝を第二次大戦後も
日本の象徴として守るためであった。その象徴とは日本破壊だった。
日本の寺院と神社は徳川幕藩体制によって守られてきた。明治からの近代とは日本破壊
だった。
はるか遠い昔、高原山には鬼人が住んでいたという。鬼人とは縄文人の蝦夷だった。高
原山は黒曜石の生産地であり工房があった。黒曜石は天然のガラスで、矢尻やナイフへと
加工される。狩猟にはなくてはならない道具だった。高原山の黒曜石は坂東各地や峠を越
え会津地方にまで行き渡っている。
大和朝廷は坂東各地や下野国に、新羅人、高句麗人を送り込んでいった。
江戸時代に那須湯津上村で発見された那須国造碑には、先祖が公氏という滅んだ中国後漢
王朝の血統にあり、持統三(六八九)年、直韋堤が野国那須評(こおり)の長官に任命され
た、と刻まれている。そして、持統天皇が藤原京に遷都した翌年の文武四(七〇〇)年、
直韋堤が死去し、その子、意斯麻呂が建碑したと彫られている。
那須湯津上村の百姓が開墾した畑から那須国造碑を発見したという知らせは、領主であっ
た水戸藩主二代目の徳川光圀に上奏された。徳川光圀はただちに那須湯津上村へと馬に乗り
駆けていった。後を追う家臣団。那須国造碑は徳川光圀に衝撃を与えた。徳川光圀はそこで
古来からの声を聞いたのだった。日本古代の文物に光圀は憑依されてしまった。光圀は家来
に那須国造碑の永久保存を命じた。水戸に帰ると徳川光圀は「大日本史」の編纂に傾注して
いった。
下野国は渡来人国造によって、律令制度が整備されていった。天武二(六七三)年には、
すでに下野薬師寺創建されたとされている。続日本書紀には持統元(六八七)年に新羅人
が朝廷から下野国開墾に送りこまれている記事がある。霊亀二(七一六)年には、下野国
などの高麗人を武蔵国に移し、高麗郡を設置という記事がある。渡来人は国造りの屯田兵
だった。
日本書紀には景行天皇の項に、武内宿禰による日高見国の蝦夷報告がある。
「武内宿禰東國より還りまゐきて奏言(まう)さく、東夷中、日高見國有り。其の國人男
女並に椎結(かみをあげ)、身を文(もとろ)げて、人と為り勇桿(いさみたけ)し。是
を総べて蝦夷(えみし)と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えて曠し。撃ちて取るべし」
撃ちて取るべし、それは蝦夷の土地を奪い、そこに渡来人による水田稲作を広げ、土地
を奪われる原住民の抵抗という荒魂を静め、無抵抗な良民とする精神支配の仏教を布教さ
せることであった。水田稲作には労働力が必要である。律令制度とは水田稲作開墾と仏教
布教の国づくりだった。
原野を開墾し水を土地に流すためには集約労働力としての奴隷が必要だった。水田稲作
開墾とは徹底して人間の労働による自然への造形である。山野と原野を切り開きそこに水
の排水と排出をコントロールするという人工と工作の強靭な意思貫徹である。軍事と造作
の律令制度とは社会主義制度でもあった。坂東と陸奥そして出羽には屯田兵が送り込まれ、
奴隷となった蝦夷は水田稲作開墾の労働力として大和朝廷の支配地へと送り込まれた。ス
ターリンの命令によって住民まるごと遠地へと国替えさせられる、それと類似したことが
展開されていった。
和銅二(七〇九)年、右大臣藤原不比等の命令で、高原山の鬼人たる蝦夷を退治したの
が、下野国府軍と派遣された大和朝廷軍だった。総大将は下野国造の渡来人下毛野古麻呂
だった。彼は大宝一(七○一)年、「日本」という国号を定めた大宝律令を、藤原不比等
とともに編纂している。彼は天武天皇死後、持統天皇に仕え、藤原不比等の信任あつく、
陸奥国建設の前線基地下野国を統治すると同時に兵部卿に任命され、東国である坂東を律
令制度の要として抑えていた。
朝廷軍との戦に敗北した高原山の蝦夷は、再び高原山に暮らすことを許されず、下毛野
古麻呂によって帝都に連行され、奈良平城京建設のための奴隷労働の俘虜とされた。帝都
に凱旋した下毛野古麻呂は元明天皇から、式部卿正四位下という、現在でいえば国務大臣
級という高い地位を授かった。しかしまもなく平城京建設を指揮するおり、突然倒れ、病
死してしまった。朝廷内で下毛野古麻呂式部卿の病死は、坂東蝦夷の聖地である高原山の
怨霊に呪われ祟られたという噂が流れた。
和銅三(七一〇)年、元明天皇が平城京に遷都すると鬼怒一族は、九州、四国や西国の
水田稲作造りの奴隷俘虜として各地国造に引き取られていった。
蝦夷や隼人の奴隷俘虜労働によって建設された奈良平城宮は、和銅三(七一〇)年から
延暦三(七八四)年までの大和朝廷の帝都となった。奈良は百済語で故郷を意味する、渡
来人の都だった。
藤原不比等が六十三歳で死去した養老四(七二〇)年、不比等の子、二男の藤原房前は
高原山の怨霊を封鎖するため祈願したという。神亀元年(七二四)年、行基は、鬼怒
一族の荒魂が復活せぬよう、高原山剣が峰の麓に法楽寺を建てた。
不比等の長女宮子は文武天皇の側室となり聖武天皇を生んだ。若い女に産ませた不比等
の娘、光明子は聖武天皇の妃となった。長男の武智麻呂(南家)、次男の房前(北家)、
三男の宇合(式家)、四男の麻呂(京家)はいずれも朝廷の要職に着いている。
不比等が死去し、房前が高原山の怨霊封鎖の祈願勤行をした年、九州で隼人の反乱、東
北で蝦夷が反乱した。行基が高原山に法楽寺を建てた年には、東北日高見の蝦夷が再び反
乱をした。藤原不比等の三男藤原宇合が持節大将軍に命ぜられ、坂東から三万人の兵士を
徴用し、朝廷派遣軍は陸奥国建設、蝦夷討伐の前線基地として多賀城を設置した。大和朝
廷の藤原一族は高原山の怨霊を恐れていた。藤原不比等死去の真相は、平城京に潜入して
いた高原山の鬼怒一族による暗殺であったからである。鬼怒一族は平城京建設に奴隷俘虜
として従事していたので、藤原不比等邸の構造を把握していた。
藤原不比等の死は病死として朝廷内で発表された。
【第1回日本経済新聞小説大賞(2006年度)第1次予選落選】
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます