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一喜一憂

2018-04-09 10:12:27 | 教育
>■□■くらべて一喜一憂しても仕方がない
>試験の答案用紙を、隣の子どもに覗かれないように腕でかくして、顔を近づけて書いている子がいる。

私も、答案用紙を隠していました。

>わたしの小中学生のことにもそういう子がいたし、いまの学校にもいるようだ。>覗かれて、隣の子どもがいい点をとると、自分が損をすると思うからである。>でも、どうしてそれが損になるのだろうか…。

いずれ、入学希望者の選抜試験を受ける身の上ですからね。相手が上位であることは、自分の損になる事は明らかです。

> 試験というものは、本来は自分の成長度を確認するためのものである。>漢字のテストであれば、以前とくらべて自分はどれだけ漢字を覚えたかを確認し、よかったときは喜び、悪かったときはこれからがんばろうと思う。>そのためのテストだ。>隣の子が何点とろうが、自分位は関係ない。

そうですね。あるべき姿は、マイ・ペイスの成長ですね。

>それなのに、現在の学校では、子どもたちを競争させるための試験が行われている。

教育を盛んにするために、学校は子供の向上心をあおるのですね。これも学校の手柄かな。

>そんなことをするから、学校が刑務所さながらになってしまうのだ。>子どもたちに学習の喜びがない。

そうですね。個性を無視された競争ばかりをさせられているから、こどもたちには学習の喜びがありませんね。

>子どもたちが学校で味わうものは、他人との競争に勝った、負けたの優越感、屈辱感でしかなくなっている。

縦社会に生きる序列人間は、優越感と屈辱感の連続生活ですね。

>これは、農耕民族であった日本人の宿命かもしれない。

‘隣の芝生’ の様なものですかね。

>日本人は、隣の田んぼばかりを見て暮らしてきた。>隣の田んぼより自分の田の稲の実りが悪ければ、どうも恥ずかしいと思い、自分の田が成績がよいと安心する。>かといって、あまりに成績がよすぎても、隣のやっかみを買うのではないかと心配する。>いつも判断の基準が隣なのだ。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を話す時には、’ものの上下’ を考えざるを得ない。要は比較の問題である。
英米人であれば、’あるべき姿’ と ‘今ある姿’ の比較になる。だが、日本人は無哲学・能天気であるから、’あるべき姿’ が無い。それで、日本人にもある ‘今ある姿’ 対 ‘今ある姿’ の比較になる。それで、基準が隣になることが多い。

>とっくの昔に、日本は農業人口が三パーセント以下になってしまって、日本は農業国ではなくなった。>そのかわりに、世の親たちは、稲ではなく子どもの成績のくらべっこをしているらしい。>子どもたちがかわいそうだ。

そうですね。これは大人の責任ですね。言葉に無頓着な日本人の性癖か。親たちの反省が必要ですね。日本人の反省が必要ですね。

><<「隣と比較して勝ちや負けか」が、判断基準になってはいないか。>>

そうですね。とかく話がちいせえのう。これも無哲学・能天気のせいでしょうね。


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