goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

教育 2/2

2020-06-25 22:24:31 | 文化

 

> 例えば、スポーツ観戦をしていて、今は自分の応援するチームや人が点数を入れた時、相手のミスによる場合も、まあ見苦しいほど喜び、歓声をあげるが、少なくとも昭和三十年代の日本人は、相手がミスをした時は、決して歓声も上げず、拍手もしなかったと記憶している。 > 相手のミスを喜ぶのは賤しいという気持ちがあったのである。 >また勝敗が決まれば、勝利の喜びをあからさまにすることもなかった。 > 外人は、日本人はなぜ喜びをあわさないのか、素直に感情表現をしない、何を考えているかわからない民族と感じたようだが、日本人にとって、勝敗が決まればそれでよいではないかという思いがあり、それ以上、勝利の喜びをひかえるのは敗者への配慮であった。 

 

わが国は上下社会ですからね。勝敗に関する想いは外国人に比べてはるかに深いですね。

 

>いわば武士の気風が、普通の庶民にまで広がっていたのであろう。

 

そうですね。武士の気風は、即ち日本人の気風。日本語を使う人間には共通した気風だったでしょうね。

 

>このような慎ましさも、高度経済成長と共になくなっていった。>今では一部の武道にそんな気風が残っているだけである。 

 

序列社会 (上下社会・縦社会) における序列の乱れが起こりつつあるのでしょうね。

 

>※試合終了の礼も終わっていないのに、空手も柔道も平気でガッツポーズをする。

 

喜びの一瞬ですね。武士道や礼儀作法には関係がないですね。

 

>国際大会では、負けて悔しいのか、外国選手の中に終わりの礼もしないものがいる。 

 

外国人は、 ‘礼儀正しい日本人’ のようにはなれませんね。彼らは空手も柔道も ‘上下の儀式’ であるとは考えていないでしょうからね。 

 

>こういう時に、即座に長期間の出場停止を命じる矜恃がないのなら、もうこれらの団体は武道を標榜するのはやめられた方がいいのではないか。

 

そうですね。武道ではないですね。空手も柔道も今や国際スポーツですね。だから、日本式の作法 (序列作法) ばかりにこだわるのはやめた方が良いですね。

 

> 反面、公共意識というものは、良くなかったと思う。 > 当時は町内会などの寄り合いなど時間通りに始まったことなどなく、まずは30分は遅れて始まるのが普通であった。 > 道にゴミを捨てる、つばを吐く。 >花見に行けば平気で枝を折る。 >汽車は終点につけば、新幹線であっても床は弁当がらなどのゴミだらけであった。 

 

そうですね。旅の恥はかき捨てでしたね。’序列なきところに礼儀なし’ の状態でしたね。

 

>このような気風も、高度経済成長と共に、急速になくなっていった。 >企業に所属する人が増え、時間の厳守などが意識されていった結果であろう。 

 

そうですね。社畜が増えましたね。 

 

>まあ戦前の家庭教育が一方的にすばらしかったという考えは、幻想だろうなあ。

 

そうですね。個人主義がなかったからでしょうね。個性を伸ばす教育がなかった。金太郎飴のような顔をした人間ばかりが製造されました。  

 

>確かに良い点もあったのだが、戦前の家庭教育は、戦前の社会状況の中で成立したものであり、良い面と悪い面もそれらと密接に結びついており、良いとこだけを取ってくることは不可能である。

 

そうですね。良い面と悪い面が過不足なく組み合わさって成り立っていましたね。

 

>人間は過去に戻ることはできない。 >しかし、最近、放送局がスポーツ番組で「格下相手に」という言葉を平気で使うようになった。

 

そうですね。階級社会の影響によるものでしょうね。彼らの競技には必ずランクがついて回ります。無差別級の考えは喜ばれない。序列社会においては、無差別級 (the 0pen-weight division) に価値がある。無階級は体重の上下に限ったものではない。いかなる個性をも無視することにより、人間の序列に無上の価値があると信じられています。それは、真の人間序列の存在の確認にもなっています。正一位の人間の出現でもあります。

 

> 今までの日本人は決してこのような言葉を、口に出さなかったし、今でも中高生の部活で生徒がこのような言葉を使えば、指導者は強く叱責すると思う。>ところが民放だけでなく、某国営放送までこのような賤しい言い方をしていたのには驚いた。

 

わが国は勝負の世界ですからね。恥の文化の国においては、下位は則ち ‘恥’ ですね。日本人は礼儀作法 (序列作法) により勝負のたびに上下感覚 (恥) を示さなくてはならない。外国人には恥の文化がない。無差別級 (モノの上下) の考えがスポーツ界で後退していますね。無差別であれば、モノの上下がより正確に定まるという想いの後退ですね。

 

>このような言い方は、近隣の某国では日常的に普通に使うようだが、日本人はどうなってしまったのでしょうね。

 

日本人は、序列社会 (縦社会) と階級社会 (横社会) の間をさ迷い歩くことになるでしょうね。日本語を使いながら欧米人の真似をするのが難しいためです。日本人は、何を考えているのかわからない。

 

 

 

 

 

.

 

 

 

 


教育 1/2

2020-06-25 22:01:11 | 文化

 

>357924 戦前の家庭教育①~「人(社会)のためになる人になりなさい」が家庭教育の根源~  >前野将克 ( 22 会社員 )  20/06/25 AM01

>誰しも自分の親(先生)に「人に迷惑はかけないようにしなさい」と言われた経験があるのではないだろうか。

 

ありますね。

 

>そう言われて育った子どもは「迷惑を掛けなければなにをしていても自分の勝手だ」と潜在的に思い込んでしまう例も少なくないだろう。 

 

そうですね。日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。意思決定 (理性判断) がなくて、恣意決定 (盲目の判断) がある。 意思の自由がなくて、恣意の自由があるのだが、恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になる為に許されず、’不自由を常と思えば不足なし’ の状態に甘んじている。

意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。

 

>しかし今の時代だからこそ、今一度、家庭教育の根源は「人(社会)のためになる人になりなさい」という教えから来ていることを再認識する必要がある。

 

それは、日本人には難しいでしょうね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。生きる力が足りない。 

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく)

 

>リンクより引用

>あるブログに次のような言葉があった。

> 「アメリカ文化の根底にはキリスト教があります。キリスト教の黄金律は『自分にして欲しいことは人にもしなさい』です。[golden rule: 黄金律]

 

Do unto others as you would have them do unto you. 己の欲するところ人にもこれを施せ (マタイの福音書7: 12)  

 

>  それに対し日本の文化には儒教、仏教、神道があります。 >日本の教えは『自分にして欲しくないことは人にしてはいけません』です。

 

そうですね。論語・顔淵では、’己の欲せざるところは人に施すことなかれ’ ですね。

 

>これから始まって日本では『人に迷惑をかけてはいけない』ことになり、消極的になって『何もしない方が良い」ことになり、また』人に迷惑をかけなければ何をやってもかまわない』という風潮が生まれてくるのかもしれません」・・・・。

 

そうかもしれませんね。日本人は無意思であるから、無為無策になりますね。盲目の判断をされては、なお困りますね。

 

> 儒教、仏教、神道と「自分にして欲しくないことは人にしてはいけません」との関係はよくわからない。 

 

そうですね。日本人の宗教は儀式があって教義がないようなものですからね。日本人は儀式に従って各宗教を渡り歩いているようですね。  

 

>しかし、実際、私はこのような言葉を具体的に親から言われていないものの、社会的風潮として、「人に迷惑をかけてはいけない」と子どもを諭す雰囲気は確かにあった。 

 

ご近所に迷惑をかけると苦情が来る。平謝りをする。それが厄介である。

 

>そして非行少年は、必ずといっていいほど次のように言った。  >    「だれにも迷惑はかけてない」

 

非行少年にも儒教の教えが浸透していたのですね。

 

>しかし、これは日本の子育ての伝統ではなく、戦後に生じた傾向である。 >  戦前の大部分の親は子どもに次のようなことを言って育てていた。>    「人(社会)のためになる人になりなさい」  

 

修身教育は、’忠君愛国’・’滅私奉公’・’七生報国’ でしたね。

 

>そして、手に余るどうしようもない子どもに対してだけ   「(せめて)人に迷惑はかけないようにしなさい」と言ったのである。 

 

それは最低水準の要求ですね。

 

>ところが戦前の場合「人(社会)のためになる人になりなさい」という意味で、「国のためになる人になりなさい」と言うことが多かった。 

 

国の為になるということは、為政者の為になるということでしょうね。為政者は人民の代表ではありませんからね。 

 

>この言い方は、戦後は一種のタブーのようになってしまったため、もう一つの「人に迷惑はかけないようにしなさい」だけが残ってしまったのである。 > 現在の家庭教育の状態を憂い、このような戦前の教育を持ち上げる人がいる。>確かに良い一面を持っていたことは確かである。 >反面、ある種のいやらしい一面も持っていたことを、老人達はけっして言わない。 >単純にどちらがいいかは言えない。

 

そうでしょうね。’見ざる・聞かざる・言わざる’ ですね。

 

>357925 戦前の家庭教育②~「格下の相手」という言葉は元々日本には無かった~  >前野将克 ( 22 会社員 )  20/06/25 AM02

>リンクより引用

> 戦後、戦前の教育は否定された反動か、最近は戦前は良かったという風潮が生じているようである。

 

‘勝てば官軍’ (Might is right.) の風潮に対する反動ですかね。わが国は力で自己の正義を示す予定でした残念でしたね。

 

> 私は完全に戦後の生まれであるが、昭和三十年代までは戦前の雰囲気が残っていたように思う。>そこでの感じだが、確かに戦前の教育は、戦後言われるほど悪いものではなかったと感じている。 

 

それは武士道の事ですか。

 

 

.