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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

メディアの病 4/4

2020-06-17 10:36:06 | 文化


> 弱者を装うことによって、力を得ることができる。 >これがマイノリティ憑依である。 >だから新聞やテレビは過去から現在にいたるまで、「市民目線で」「庶民の目から見れば」などの言い回しを好む。 >市民や庶民という「政治権力に抑圧される弱者」に装うことは、本来は権力のひとつであるマスメディアにとって、みずからが批判の刃にさらされる危険性を減らすことができ、実に便利な「戦術」だったということになる。

そうですね。マスメディアは、大衆の中に身を埋めて自己の危険を減らしているのですね。’市民の目線で’ とか、’庶民の目から見れば’ という表現は、市民や庶民がのりうつる一種のシャーマニズムですね。
日本人には、現実の表現しかない。だが、憑依によって二つの現実を演じる者がいる。しかし、’それで、どうした’ (So, what?) の問いには答えが出ない。うらめしい。
英米人には、現実と非現実の両方がある。’今ある姿’ (things as they are) の現実内容を 自己の ‘あるべき姿’ (things as they should be) である非現実の内容を用いて批判すれば、批判精神 (critical thinking) を表すことができる。その批判は個性的であるから、彼らの国のマスメディアの中には有力紙が存在する。  

> 「弱者である」ということはメディアの空間では無敵だから、それに対して政府や企業の側、あるいは言論人などがそれに批判を加えても、まったく揺るがない。

自己の意思を示せばその内容に責任を持たなければならない。弱者の守りは、受け身による守り。批判を加えられない堅固な守りですね。

>なぜなら「弱者を代弁している自分たちこそが正しく、それを批判する者はイコール弱者を批判する者であり、悪である」という認識を保ち続けることができるからだ。

‘弱い者いじめをしてはいけない’ と子供の時から教えられていましたからね。’あるべき姿’ を想定できないでいる人間には自己主張が難しい。これは、自己主張への批判を避けるための拙い方策ですね。

>だから彼らは、外部から叩かれれば叩かれるほど「悪から叩かれる自分たちはやはり正しいのだ」と意思をより堅固にしていってしまう。>「私たち記者は正義。がんばる」という通信社記者のツイートが話題になったことがあったが、まさにこの心情である。

安直な正義感ではないでしょうか。まさに玉砕型ですね。恥の文化の終焉ですね。生産的なところがない。

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 >加えてこのように悪を糾弾し続ける姿勢は、加速しやすい。

勧善懲悪のようなもので、実に分かりやすくて脱線の恐れがありませんね。

>悪がいなくなった後も、いつまでも悪を探してしまう。 >なぜなら「悪と対峙し、弱者を代弁する自分こそが善である」というマイノリティ憑依の構図は、「加害者対被害者」「悪対善」という単純な二項対立の中でしか存在し得ないからだ。

そうですね。現実しかない日本人には絶対化がありません。現実の中で絶対化する内容を求めるのは至難な技ですね。
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について述べている。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べています。
そこで、自分の為に善の存在を持続させる必要があるのです。シャーマンも失職しては困るのでしょう。だが、憑依の構図は建設的ではありませんね。 

>つまり悪がいなくなったとたんにこの構図は崩れてしまい、批判側はマイノリティ憑依のポーズをとれなくなってしまう。

そうですね。マイノリティ憑依には、二つの現実があって、非現実がない。それが問題です。現実の内容の正解はただ一つです。  

>それを防ぐために、批判側は無意識のうちに新たな悪を探し求めてしまう。

‘犯人捜し’ はいつまでたってもやまらないようですね。テレビ番組の捕り物帖の人気もやまらない。


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メディアの病 3/4

2020-06-17 10:09:23 | 文化

>しかし伊丹のような声は戦後の空気の中で少数で、「われわれは被害者だった」「騙されていた」という大合唱に日本は呑み込まれた。 >無謀な戦争に突入してしまったのはひとえに軍部という「加害者=悪」の責任であって、自分たちには責任がなかったのだという認識が世論として定着した。

そうですね。風評被害のようなものですね。人々は犯人探しに熱中していましたね。そして、軍部を見つけて成功しましたね。それから、自分には責任のないことになって禊 (みそぎ) をすませましたね。安堵しましたね。日本人にはもともと責任がないのである。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪には問われない。彼らには、殺意というものがないからである。無い責任を有ることにして、それを何処に押し付けるかの問題にした時に混乱が起こる。だから、日本人が責任の所在を問題にした時には、まともな解決法はない。 悲劇が起こる。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)  

>355863 戦後メディアの病② 弱者を装う  >根木貴大 ( 45 静岡 営業 )  20/04/19 PM10 【印刷用へ】  >リンク
>■市民や庶民という「政治権力に抑圧される弱者」に装うこと
>私 [佐々木俊尚] は2012年の著書『「当事者」の時代』(光文社新書)で、「マイノリティ憑依」という概念を提示した。>「マイノリティ憑依」は、弱者に寄り添うといいながら、自分に都合の良い幻想の弱者像を勝手につくりあげ、その幻想の弱者に喋らせ、弱者を勝手に代弁することである。

そうですね。日本人にお馴染みのシャーマンのような存在ですね。
日本人には現実の内容しかない。だから、人によってはたった一つの世界の中で二つの現実を演じる人がいる。それがシャーマンである。

>メディアは自分の狙った物語を描こうとキャッチーな場面を撮影し、その物語に画面をはめ込もうとする。>そこには第三者であるメディアの想像が繰り込まれてしまっている。 

メディアには、売れるものが必要だからですね。

>このマイノリティ憑依については「佐々木が弱者を無視しろと言っている」「弱者への差別だ」と誤解して非難する人がときどき現れてくるが、そうではない。 >逆に弱者の本来の発言が無視されてしまい、彼らの存在そのものが他者に奪われてしまう問題をマイノリティ憑依は孕んでいるのだ。  

そうですね。マイノリティはメディアの ‘出し’ に使われているのですね。

>サバルタン [subaltern: 従属的社会集団] という言葉がある。「みずからを語ることのできない弱者」というような意味だ。>サバルタンはもともとは社会の支配階級に服従する底辺層を指した。
>歴史は常に支配階級によって書かれ、社会に受け入れられていくのに対し、底辺層サバルタンの歴史はいつも断片的で挿話的なものにしかならず、つまりサバルタンはみずからの力でみずからの歴史を紡ぐことを許されていない。>つまりサバルタンの歴史は、つねに自分たちを抑圧する支配階級によってのみ語られ、書かれてしまうという矛盾した構造をはらんでいる。>サバルタンは西洋と東洋、宗主国と植民地といった対比で使われるが、日本の戦後メディアと弱者の関係はサバルタンの構図に類似している。 >メディアは弱者の側に立つと称して勝手に代弁し、加害者=悪を糾弾する。

メディアが従属的社会集団に代わって犯人捜しをするのですね。

>現実世界での金や地位、支配力などの物理的な強弱はともかくも、インターネットも含めたメディアの空間では、弱者こそが最も「力」が強い。>なぜなら弱者を正面切って批判するのは難しく、非難を浴びやすいからだ。 

弱者は受け身に終始する人達であるからですね。 


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メディアの病 2/4

2020-06-17 04:19:54 | 文化

>既存の資料や、これまで発表されなかった個人的知識だけを主たる材料に、こういう即席の『暴露本』が書けるという事実からは、今自分たちが正義面で糾弾している戦争にメディアが加担していたことについて真剣な自己反省が生まれることはなかった」 

日本人には意思がない。だから、加害者意識 (罪の意識) がない。そして、反省の色もない。だから、歴史は繰り返す。

>メディアの自己反省などは皆無で、「軍部が悪かったから戦争になってしまった」と悪を糾弾しているだけの内容だった。>しかし実際には、日中戦争から太平洋戦争とつながる背景には、メディアの扇動や国民の高揚があったことはよく知られている。

メディアは戦争で大いに儲けさせてもらったにもかかわらず、でしょう。
国民の支持を背景にして、軍部が犯人ということで、お決まりの ‘犯人捜し’ は成功したのですね。捕物帳は満足できる結末を得て、めでたしめでたし。

>ところが『旋風二十年』がベストセラーになったことで、日本人の多くは自分たちの責任を忘れた。

そうですね。多くの日本人が溜飲を下げたのですね。過去は日本人の頭の中で疾く風化することになっています。喉元過ぎれば熱さを忘れる。

>いや、無意識のうちに忘却したかったのかもしれない。

日本人には罪がない。贖罪の為の宗教 (キリスト教) もわが国では流行らない。日本人の反省は、’過ちは繰り返しませぬから’ 程度のもの。何が過ちかは分からない。けじめのない社会であることが理不尽であるとは考えられていない。日本人には、ごく自然現象のように見えている。

>人々は、太平洋戦争が政治家や軍人の無知と無謀と野望のためだったと思うようになり、「戦争は軍が勝手に引き起こしたことだ」といった言論がまかり通っていく。 

日本人には意思がない。だから、その行動は事の次第と成り行きにより開始されることになる。これはアニマルの場合と同じである。万一失敗があってもその説明責任を取る者はいない。 

>自分たちの戦争への加担はそうして忘れ去られていった。

自己の意思を示せば当事者・関係者なる。示さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。そして、自分自身の考えた ‘あるべき姿’ の内容を話しかける相手はいない。ただ、思い込みだけが存在する。だから、常に孤高の人になっている。 

>「私たちはだまされていた」「私たちはずっと戦争には反対だったのに、みんな軍が悪い」という思い込みだけが膨れ上がったのだ。

そうですね。日本人にあるのは被害者意識ばかりであって、加害者意識 (罪の意識) というものがない。自分はあくまでも善良な人間であると信じている。

> 敗戦翌年の春、映画監督の伊丹万作は「戦争責任者の問題」というコラムを雑誌「映画春秋」の創刊号に書いている。 >戦争翼賛の映画をつくっていた監督やプロデューサーを告発する風潮が映画業界でも高まり、同じ映画業界の人たちが急先鋒になっていたことに、伊丹は痛烈な批判を加えた。 > 「みんな、今度の戦争でだまされたと言ってる。 >みんなが口をそろえてる。 >でも私の知ってる限り、『おれがだました』って言ってる人はひとりもいないな」

日本人には意思がない。だから、加害者意識がない。罪の意識がない。あるのは被害者意識ばかりである。実に恨めしい世の中である。これでは化け物も出ずにはいられない。

> 一般国民は口をそろえて「軍と官僚にだまされた」と言い、軍と官僚は口をそろえて「上司にだまされた」と言う。 >その上司に聞くと、口をそろえて「もっと上の者にだまされた」と言う。
>そうやって突き詰めていくと、最後はひとりかふたりになってしまう。>しかしそんなひとりやふたりの知恵で、一億人がだませるわけはないのではないか?

そうですね。実に不思議な受け身の社会の仕組みですね。 

>そして伊丹はこう指摘する。 >戦争で誰が自分たちを苦しめたのかと思い出すときに、真っ先に記憶からよみがえってくるのは近所の商店主や町内会長や郊外のお百姓さんや、あるいは区役所や郵便局の役人たちではないだろうか。 >ありとあらゆる身近な人たちが、自分たちをいちばん苦しめていたではないか、と。 >つまりは悪人とは自分たち平凡な人々だったのだ。

そうですね。よくよく考えてみれば、そういう事になりますね。政治音痴ではどうにもなりませんね。


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メディアの病 1/4

2020-06-17 03:54:12 | 文化

>355862 戦後メディアの病① 国民総無責任化  >根木貴大 ( 45 静岡 営業 )  20/04/19 PM10 【印刷用へ】 >リンク
>2011年の福島第一原発事故にまつわる新聞やテレビの報道は、日本の戦後メディアが内包していた問題をまざまざと浮かび上がらせたと言える。 

メディアの問題は、日本人の問題でもあるでしょうね。とかくこの世は無責任。

>風評被害を抑えるべき報道機関が逆に風評を煽ったケースは少なくなく、そうした報道はいまも続いている。>これらの風評は福島の人たちへの差別を生じ、大いなる苦しみをもたらした。

そうですね。新型コロナウイルスの報道でもあるでしょうね。

>この問題はおそらく、広島・長崎における被爆者差別とならんで未来への長い期間にわたって禍根を残し、後世に研究される問題になっていくだろう。

そうですね。今後、真面目に研究されるべき日本人に関する問題ですね。

> 「弱者の味方」であったはずの新聞やテレビの記者たちが、なぜこのような差別を引き起こしてしまったのか。 

日本人には批判精神 (critical thinking) というものがない。だから、記者たちは自己の批判を加えることなく現実の内容のみを垂れ流す。 すると、風評被害も起こる。 

>本稿では、加害者と被害者の関係という構図からこの問題について論考していきたいと思う。 

日本人には意思がない。だから、被害者があって加害者がない。奇妙な社会ですね。  

>前半ではなぜ戦後メディアがこのような構図に陥っていったのかを歴史を振り返りながら概観し、後半ではこのような構図が社会にどのような影響を与えているのかを論考する。

言語は伝える手段であると同時に、考える手段でもある。だから、我々日本人は、日本語の構文の枠内での考えに終始せざるをえない。すると、日本人には現実があって、非現実 (考え) がない。

>■自分たちには責任はなかった
>戦後マスメディアの問題の原点はどこにあるのだろうか。>出発点にまでさかのぼってみよう。
> 太平洋戦争が終わった1945年の暮れに『旋風二十年 解禁昭和裏面史』(森正蔵著、鱒書房)という本が出版された。 >上巻は最初の1週間に10万部を売り、下巻は翌春に出て70万部以上の大ベストセラーとなった。 >この本は張作霖爆殺事件から満州事変、2.26事件、日中戦争、開戦直前の日米交渉、真珠湾攻撃にいたる間に政府がどのようなプロセスで政策を決定していったのかを、毎日新聞の記者たちが「暴露」したものだ。

記者たちは、裏面を詳しく知っていますね。暴露本ですね。

>序章にはこうある。 > 「このなかのあらゆる章には、これまでさまざまな制約のために公にされなかった史実が、多分に折り込まれている。 >抑圧された言論、歪められた報道は、われ等が現にそのなかで生活して来たわずか二十年の歴史を、全く辻褄の合いかねるものとしている」 

日本人は、まったくリーズン (理性・理由・適当) を失っていたのですね。

>このように、軍部や政府の秘められた内実を暴露した本という体裁だった。 >しかしこの本には批判も少なくない。 

暴露本は書ける。だが、その先は難しい。日本人には現実があって、自分自身の非現実 (考え) がないからである。 

>たとえば日本の戦後の混乱期を包括的に描き出した米政治学者ジョン・ダワーのピューリッツァー賞受賞作『敗北を抱きしめて』(岩波書店、2001年)は、『旋風二十年』についてこう書いている。
> 「それは、深い考察などに煩わされない、じつに屈託のないアプローチを取っていた。 

現実しかない人のアプローチは、結局それしかありませんね。

>日本の侵略行為の本質や、他民族の犠牲などを白日のもとにさらすことにも(南京大虐殺は触れられてもいない)、広く『戦争責任』の問題を探ることにも、とくに関心はなかった。

そうですね。心ここにあらざれば視れども見えず。
日本人には意思がない。意思の無い人間には責任もない。だから、意思と責任に関する問題が全て抜け落ちていますね。
意思は未来時制の文章内容である。日本語の文法には時制 (tense)というものがない。だから、日本人には意思 (will) がない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, thre’s a way. 
イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について以下のごとく述べられています。
、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、 (引用終り)   



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