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修身科悪玉論 1/3

2019-11-07 23:04:19 | 教育

>341511 道徳の理念とかけ離れた「修身科=悪玉論」の実体  >直永亮明 ( 23 会社員 ) 18/12/10 AM09 【印刷用へ】 >以下リンク
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> 道徳の「教科化」は、安倍晋三内閣主導で強引に導入されたという批判もあるが、歴史的には正確ではない。
>1945年の敗戦後、教育から修身科が無くなって以降、道徳の「教科化」は常に議論されており、いわば「戦後70年」を通底する歴史的課題でもあった。

道徳の教科化は、日本人にとっての頭痛のたねになっていますね。

>  では、なぜ道徳を「教科化」する必要があったのか。>その直接的な理由は、1958年に設置された「道徳の時間」の「形骸化」にあったといえる。>道徳教育は、人間教育の普遍的で中核的な構成要素であるとともに、その充実は今後の時代を生き抜く力を身につけられるよう一人一人を育成する上で緊急な課題である。

そうですね。一人一人の判断力育成が大切ですね。

>道徳授業のこうした「形骸化」は、学校教育が子供たちに対する教育の責任と役割を十分に果たしていないということであり、同時にそれは、「人格の完成」を目指す教育基本法の目的の実現を妨げていることを意味していた。

そうですね。自己判断のできない人間には、人格の完成もありませんね。

>  こうした道徳授業の「形骸化」の基盤には、戦後日本の社会に蔓延(まんえん)した「道徳教育アレルギ―」が影響していることはいうまでもない。
>それを象徴するのが、「修身科の復活」「価値の押し付け」「いつか来た道」という戦後日本で繰り返し唱えられてきたステレオタイプの反対論である。

リーズンのない人たちは、ステレオタイプになりがちですね。

>  ところが、「修身教育の復活反対」を声高に主張する人に限って、修身科のどこが問題なのかという質問にほとんどまともに答えられないし、そもそも修身教科書を読んだことがないというのが実態である。

反対論者にも、そのリーズンは必要ですね。

>批判の対象である修身教科書を読んだこともない人たちが、何の疑いもなく「修身科の復活反対」を声高に主張する。

感情的なところが、伝統的な歌詠みに似ていますね。

>  これ以上の無責任なことはないが、この種のお粗末な反対論は戦後日本の社会にあふれてきた。

日本人には、意思がない。意思の無い人間には、責任もない。ちょうど、死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われることはない。彼らには、殺意というものがないからである。
意思は、未来時制の文章内容である。ところが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。

>私は、こうした根拠の乏しい感情的な批判を「修身科=悪玉論」と称しているが、「修身科=悪玉論」こそが、戦後の道徳教育を「形骸化」させ、「思考停止」させている大きな要因であるといえる。

そうですね。日本人には、非現実 (考え) の内容がない。非現実の内容は、時制のある文章により表現される。日本語には時制がないが、英文法にはある。時制のある文章は、非現実のそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) を表現できる。それらは、果てしなく展開できる。非現実の世界は当初白紙の状態であるが、白紙の状態は誰しも気になる所であり、個人的に少しずつその内容を埋めて行くことになる。これが世界観 (world view) である。自己の世界観 (非現実) に従って現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主になる。日本人には世界観がないので、批判精神もない。だから、不満を述べるときには、つい感情的にならざるを得ない。


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主体的

2019-11-07 04:53:27 | 文化

(略)
> *
>もちろん、光があれば影がある。> 「好きを仕事にしないと豊かになれない」世界は、「主体的に動く人だけが豊かになれる」という、残酷な世界だ。>自分で選びとらない限り、何も手に入らない世界。

そうですね。’求めよ、さらば与えられん’ ということですね。Ask, and it will be given to you.

> 「考えたくねえ」

現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。だから、考える必要がない。楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その話を納得するには、文法に従って文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨が折れる仕事である。だから、やらない。その代わり、日本人は、忖度 (推察) で行く。しかし、忖度と理解は、似て非なるものであるから、注意が必要である。忖度は、聞き手の勝手な解釈で、現実直視になっていない。だから、話者には何の責任もない。議論にならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘すると、だって、本当にそう思ったのだから仕方がないではないかと反発する。だから、議論にはならず歌詠みになる。

> 「受け身でいいだろ」

日本人には、意思 (will) がない。だから、能動が無くて受動ばかりがある。’後追い’ ばかりの生活をしている。’ご苦労様’、’頑張って’ と言い合っている。
意思は、未来時制の文章内容である。ところが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語脳には時制がなく、日本人には意思がない。

> 「決められねえ」

日本人には、意思がない。だから、意思決定は難しい。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。これを歯がゆく思わないものはいない。だから、精神修養による改善を期待している。
精神を鍛えるために、武芸の稽古をする。すると動作の機敏な人間が生まれる。しかし、意思がないので、判断力がない。
しかし、日本人には、恣意 (self-will) がある。恣意は文章にならないから意味がない。日本人には、意思疎通の代わりに恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。意思決定 (理性判断) の代わりに、恣意決定 (盲目の判断) をする。これは、極めて危険な習慣である。

> 「正解を教えろ」

現実の内容には、唯一の正解が存在する。現実は、誰も無視する事ができない。その内容は、最強の主張となる。その正解ばかりを追い求めていると、実況放送・現状報告の内容だけを語る人になる。これは、子供と同じである。

> 「リスクを取りたくねえ」

誰しも危険による損失をこうむりたくはない。しかし、リスクを避ける方法に自信がないとなれば、’触らぬ神にたたりなし’ ということになる。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には、意思がない。だから、仕方がないので、無為無策でいる。座して死を待つのか。それは、ごめんである。

>が、貧しさの象徴になった世界。

消極策による貧しさですね。

>これは、一片たりとも、人に優しくない。 >「自由に生きられる」は、いつの間にか「自由に生きねばならない」に変わっていた。

自由とは、’意思の自由’ のことである。ところが、日本人には、意思がない。だが、日本人には恣意がある。恣意を意思の代わりに使うと、’自由のはき違え’ になる。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は、何処の国でも認められない。だから、日本人に関しては、’不自由を常と思えば不足なし’ ということになる。「自由に生きねばならない」は、困ったものである。

>もちろん「そんな世の中は間違っている」という方もいるかも知れない。> 「言われたことだけやっていれば、それなりに豊かになれる世界が望ましい」という方もいるだろう。

それは、社畜・家畜の世界ですね。

>そう言う人はちゃんと選挙に行って、政治を変えよう。> ただ、現在の世の中の趨勢はテクノロジーを中心とした「専門家」が必要とされる世の中であり、急には変わらないだろう。

そうですね。専門に熱中する人が幅を利かせますね。

> 経済的に豊かである、ということは、そういうことになってしまったのだ。>だから現代人にとって最も重要な教養は「自由の使い方」だ。

自由の使い方は、意思の使い方ですね。だが、日本人には、意思がない。

>すなわち 自らの人生をどうマネジメントするか。 >意思決定をどのように行うか。 >どう試すか。 > 何を学習するか。そういった「自由」の使い方こそが、長い人生を豊かに過ごすための鍵になる。

そうですね。

>もちろん「自由」は軋轢を生む。>とくに「自由」を使いこなせる人々と、使いこなせない人々の断絶は、絶望的なほど広がる可能性がある。

自由とは、意思の自由のことである。意思を持たない日本人には不利な状況ですね。

> 何しろ、「自由」とは「他者から嫌われることだ」と、哲学者のアルフレッド・アドラーが言ったぐらいだ。>あるひとが「自由」を謳歌すればするほど、「嫌う」人が増える。>それは人間の宿命のようなものである。

そうですね。人間は、いつまでも ’お山の大将’ でいたいですからね。

> *
(略)

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