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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

決定権者 4/4

2019-11-23 15:56:09 | 教育

> 4.では、どうしたら良いのか?
>  一言で言うと、「教育を『教育に関する決定権者』から取り戻し、国民全体で議論すべきだ」ということに尽きる。

決定権者がいなくても議論はできますね。

>そのための方策には色々有りうるだろうが、たとえば私は「国会に附置した第3者機関たる『公的オンブズマン』が、国民の教育に関する意見を募集し、その中の最良の案をオンブズマンが責任を持って選び、国会に提案する」というアイデアを持っている。

良い案が出ると良いですね。国会に提案するのは、手段ですからね。目的の内容を詳しく知りたいですね。手段の目的化は危険ですね。

>しかしそんな夢物語、今の政権下では全くあり得ない・・・。

それでは、‘いつの日か、、、’ ということですね。遠大な計画ですね。

>  私は自分の孫たちに、いや日本の子どもたち全てに、勉強一辺倒ではなく、それこそ「美しい日本」の美しい自然を満喫する体験を一杯して欲しいのだ。

それには、誰もが賛成するでしょうね。

>小中学校では、子どもたちを毎年1ヶ月は海や山で過ごさせる、という案はどうか?

考えは、人様々ですからね。それも一案になるでしょうね。

>日本の子どもたちの大半は今、自然が乏しい都市部でビルに囲まれて生活し、学校や塾通いで遊ぶ暇もない。

残念ながら、それは事実ですね。環境の ‘あるべき姿’ に関する提案も必要ですね。

>一方、地方では、自然は一杯あるのに、各地で限界集落が増え続けていて、過疎問題が深刻である。>ただでさえ狭い日本の国土なのに、過疎地の多くの土地は為政者の無為・無策によって放置されたままである。

政治指導による土地の有効利用も必要ですね。

>  しかし日本は本来、木々に覆われた緑の国であり、多くの島々が点在する海の国でもある。>私の乏しい海外体験から言っても、日本ほど温暖で美しい自然に囲まれた国は見たことがない。>これを利用しないのはもったいない。

そうですね。国土の有効利用は、教育と関係なくても実行すべきでしょうね。

>私としては子どもたちに、たとえば日本中に何千とある無人島のどこかで、澄み切った海と緑あふれる山々に囲まれて、たっぷりと冒険を楽しんで欲しい。

考えは、人様々ですね。

>そういう機会を子どもたちに与えることこそが為政者の務めであり、そういう施策が地方を過疎から脱却せしめ活性化させる引き金にもなりうる、と確信しているのだが・・・。

過疎からの脱却は政治家の仕事でしょうね。個人には、自由な選択が必要ですね。
日本語は、現実描写の言葉です。構想は、非現実の内容であり、現実ばかりの世界ではその内容は ‘嘘’ ということになります。ですから、偉大な構想もまともな話とはならない。真面目な話ができない。
我々日本人は、日本語と英語を良く学び、文法における時制の役割-の大切さを十分に理解する必要があります。さすれば、我々の考えは現実の世界にとどまらず、どこまでも限りなく伸びて行くことでしょう。閉塞感に襲われることも無くなります。
我々日本人には、手段の目的化が起こりやすい。それは、手段は現実の内容であり、目的は非現実の内容であるからです。現実の内容しか持たない日本人は、非現実の目的を見失いがちになり目的達成が難しくなります。わが国の憲法を改正するのは、どのような世界 (非現実) の実現を目指すのか。わが国の教育の改革を断行するのは、どのような人間 (非現実) の育成を実現するのか。こうした行き着く先の内容を多数のひとに周知徹底しなくては、全ての運動は水泡に帰すことになるでしょう。
非現実の内容を矛盾なく述べることかできれば、外国人も我々を信用するでしょう。国際協力もやりやすくなるでしょう。日本人の国際貢献ももっと大きなものになるでしょ。
日本人の無哲学・能天気ぶりは下記の内容からも読み取れます。現実の中で良いとこ取りに終始しています。非現実の内容を持たない人間の喜劇ですね。  
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について述べている。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べています。


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決定権者 3/4

2019-11-23 14:14:24 | 教育

>3.マスコミの罪
>  さて、「教育政策の決定権者」の中に、報道機関=マスコミがいる。 >マスコミの中でも朝日新聞は、教育問題に熱心である。

教育は、重要な問題ですからね。

>しかし私は、この新聞に対しては強く批判的である。
>JanJanBlogでも私は、朝日新聞社の東大偏重報道を批判してきた(注2)。
>試みに読者のみなさんも、例えばここ1週間くらいの朝日紙面を見ていただければ、いかに紙面に東大の文字が氾濫しているかがおわかりになると思う。

東大に関係した大切なことが書いてあるのではないでしょうか。

>  そういう新聞社が、7月12日付けで、第15回「朝日のびのび教育賞」の募集をしていて、「学校や家庭、地域が手を携えて、子どもたちの豊かな心を育む活動」を表彰する、と謳っているのには笑ってしまった。

何かおかしなことが書いてありましたか。

>  確かに、朝日の東大偏重にはそれなりの根拠がある。>日本の官公庁の官僚幹部の大半が東大出身であり、無数にある独立行政法人や公益法人のトップはもちろん、日本のあらゆる分野における重要ポストの多くが東大出身者に占有されているのは、事実である。> 47都道府県知事の実に8割が官僚出身者で占められ、その大半が東大卒であるのも事実である。>今回の参議院選でも、いかに東大卒で官僚出身の当選者が多かったことか。

学閥の繁栄というのですかね。

>しかし、だからといって、こういう現状が決して国家として「正常な」状態とは、少なくとも私には考えられない。

そうですね。’あるべき姿’ (things as they should be) から逸脱していますね。

>  新聞とかテレビとかは、「権力の監視」がその大きい役割のひとつであるはず。>しかし朝日新聞は、決してこういう日本の現状には批判を加えない。

日本人には、批判精神がないですからね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
非現実 (考え) の内容は、時制のある文章になる。非現実の内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) として表現される。これらの内容は、世界観 (world view) と呼ばれている。人生の始まりには、世界観は白紙の状態である。しかし、この白紙の状態は、誰しも気になるところである。そこで、各自でその白紙を自主的に埋めて行く。そして、自分自身に世界観ができる。自分自身の世界観 (非現実) に照らし合わせて現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主となる。
英文法には時制 (tense) というものがあるので、英米人には世界観がある。だから、彼らは批判精神の持ち主になる。日本語の文法には時制がないので、日本人には世界観がない。だから、批判精神もない。理想を目指した改革運動も難しい。

>そういう意味で、朝日新聞はもちろん他の大半のマスコミも、上述の塾と同じく、教育政策に関しての政府の補完勢力の一翼を担っている、と言わざるを得ない。

残念ながら、全国民がそうですね。

>  何かあればすぐ東大の先生方を引っ張ってくることが多い朝日は、そうと公言しないままに、読者とその子どもたちに対して、「東大は日本で冠たる大学であり、その他の大学は相手にならず、したがって子どもたちも、大学ピラミッドの頂点たる東大を目指せ!」と煽っているのである。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的上下判断ができないと、日常の日本語会話の上達も難しい。そのうえ、日本人の礼儀作法も序列作法になっているので、世俗的な ‘ものの上下’ を知らなければ、礼儀正しい日本人にもなれない。人を見損なってはいけないという想いが高じて、脅迫観念の域にまで達している。だから、日本人は堅苦しい日常生活を送っている。人々は、’頑張って’、’お疲れ様’ などと声を掛け合って励まし合っている。

>  そういう記事づくりで東大のダントツぶりを煽って、多くの子どもと親をして、「やはり東大を出ないと日本では人生の落後者になるのね」と納得させ、やる気を無くさせておきながら、一方で「子どもたちの豊かな心を育む」運動を表彰するとは・・・。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾を含んでいない文章は、全て正しい考えを表している。だから、正解は一つではない。考えは、人人により違っている。だから、正解も多数ある。矛盾を含んでいる文章もその矛盾を取り除けば正しい考えになる。この目的には、対話・議論が役に立ちます。対話・議論を盛んにして、正しい考えを多く作ろう。我々の選択肢が増える。

>私は言いたい:「あなたたちの長年にわたる東大偏重記事で、いかに多くの子どもたちが、本来の『豊かな心』を蝕まれてしまっていることか。

そうですね。序列信仰の成れの果てですね。

>あなたたちは、日本の教育を悪くした『犯罪者』のひとりでさえある」と。

序列信仰は、一億一心の状態にあるでしょうね。一億総ざんげが必要なのかもしれませんね。


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決定権者 2/4

2019-11-23 05:52:09 | 教育

> 2.教育に関する決定権者たちの暗黙の方針
>  しかし、文科省をはじめとする教育の決定権者たちが、ここ10年余り次々に打ち出してきた教育改革とは、つまるところ「教育分野への市場原理の導入」であり、子供たちをお互いより一層競争させることにその主眼があった。

競争をさせれば、序列判定は容易になりますね。そのために教育しているのでしょう。

>  「この過酷な競争社会で、せめて自分の子は競争に勝ち抜いて欲しい」という親の思いはみな同じであろう。

こどもは競走馬のようなものですね。

>しかし、経済力がある家庭では、子供を塾とかに通わせることによって、経済力のない家庭の子と比較してより高い学力を身につけさせることができる。>つまり確率的に、おカネのある家庭ほど自分の子を「勝ち組」に入れることができるのだ。

そうですね。親の貧乏は、その子供に感染しますね。

>しかも教育の決定権者たちは、この現状に何の手も打とうとはしない。

日本人には意思がない。教育の決定権者にも意思決定ができない。意思の無いところに方法 (仕方) は無い。仕方がないから、無為無策でいる。

>いや、それどころか、現政権は今年度から、金持ちが孫に教育資金を贈ると孫ひとり当たり1500万円までは贈与税がかからない、という政策をはじめた。 >これは、金持ちの子どもほど「より良い教育環境」が与えられる、言い換えると子どもたちの間に教育格差が一層広がることは止むをえない、と教育の決定権者自身が認めたことを意味する。

そういうことになりますかね。

>  しかし私はこういう、親の経済力の差で子供の間に「勝ち組」と「負け組」を作ることについては、全く反対である。

そうですね。親の貧乏は、その子供に感染しますね。

>塾についても、欧米先進国では見られない業種でもあり、その存在自体が世界に向けて恥ずかしい限りであり、一刻も早くこれを禁止あるいは規制すべき、と考える。

受験戦争は、’仁義なき戦い’ ですね。学問 (非現実の内容) ではなく、処世術 (現実の内容) ですね。

>  そもそも塾とか予備校とかいう業種は、東大を頂点とする大学ピラミッド、つまり大学間格差が厳然として存在していることを前提として、それぞれの塾がピラミッドの頂点たる東大に何人の学生を合格させたかを競うことで成立している、いわば「教育分野での死の商人」である。

世俗の序列がはっきりしていますね。わが国においては、序列の存在そのものに意義があると考えられています。これは、むなしいことです。

>したがって塾自体が政府の補完勢力となって、東大を頂点とする大学間の格差を一層助長させ、本来公平かつ自由闊達になされるべき大学間の、本当の意味での「競争」を著しく阻害している。

日本語圏内の激しい争いですね。グローバル (全地球的) な、ユニバーサル (万人共通) な競争を阻害していますね。

>  しかし聞くところでは、今の文科大臣は有力な予備校や塾から政治献金を得ている、という。>何をか言わんや。

それは、やめなくてはなりませんね。

>  よしんば大臣に代表される「教育政策の決定権者」たちが、今の市場原理的な弱肉強食の教育環境を「是」としているにしても、決定権者の代表である大臣は、せめて国民に、「教育に関する国家目標」を明確に語って欲しい。

そうですね。それにしても、無哲学・能天気の国民であっては国家目標の明確化は無理ですね。

>国家としての教育理念を全く語らないまま、なし崩し的に今の弱肉強食的な「選択と集中」政策を遂行しつづけているのは、主権者たる国民を愚弄している。

そうですね。成り行き任せは、国民を愚弄していますね。意思の無い国においては、万事が成り行き任せになります。


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決定権者 1/4

2019-11-23 05:01:58 | 教育

>279519 日本の教育の「決定権者」は日本の教育をどうしたいのか!?①  >向芳孝 ( 50代 農業 ) 13/07/23 PM10 【印刷用へ】 >JanJanBlog(リンク)から転載します。 >-----------------------------------------------------------------
>1.はじめに > 前報(注1)で私は、日本の政治を実質的に動かしているのは、選挙で選ばれた政治家ではなくて、「国民の僕(しもべ)」であるはずの官僚である、と主張した。

官僚は、政治に関する国民の代表ではありませんね。もしそうであれば、改めるべきです。

>読者の中にはこれを「極論」と見る人もいようが、それでも、日本の政治を決めている「要」の人たち、それを仮に「決定権者」と呼ぶならば、彼らは、官僚を主軸とした政治家―財界―報道機関―御用学者から成る「官―政―財―報―学」ペンタゴン構造の一員である、という点についてはそう異論はあるまい。

日本には、責任者がいない。責任者は意思決定をして与えられた権力を使って、その時々の事態に対処しなくてはならない。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。
意思は、見政治性の文章内容であるが、日本語の文法には時制というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。
カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

> 日本では、それぞれの政策分野にそれぞれの「決定権者」がいる。

わが国には個人の意思決定が無く、全てが事の成り行きで決まる。

>3・11という国家未曾有の危機に遭遇してはじめて分かったように、日本のエネルギー分野に関しては、「原子力ムラ」に代表される決定権者=既得権益層の一群がいる。>世論調査によっては原発再稼働に反対する世論が再稼働容認の2倍もいるというのに、政府は国民の多くの反対をものともせず、一刻も早く再稼働させるつもりでいる。

そうですね。原子力村は中国政府のようなもので、民意の反映にはだれも熱心ではありませんね。

>  そう、この国で「民意」がかくも軽んじられるのは、国政が民意ではなく上述のペンタゴンによって動かされているからである。

そうですね。官-政-財-法-学 のペンタゴンですね。

>そういう意味でこの国では、国民と国家との間の溝は極めて深い。>OECDのGovernment at a Glance 2011によると、OECDの中で国民の政府への信頼の高さランキングでは日本はビリから2番目だそうで、むべなるかな・・・。

それであっても、国家の暴走は国民の責任になるでしょうね。

>  さて、突然私事で恐縮ながら、私には3人の孫がいる。>この子たちの将来を考えるとき、真っ先に私の頭に浮かぶのは、この子たちにはもう私たち世代が体験したような「受験地獄」、つまり人生の「勝ち組」切符を手に入れるために、学校で学ぶ以外に「塾」でも勉強しないといけない、そういう欧米先進国ではありえない過酷な体験はさせたくない、という気持ちである。

そうですね。わが国は、勝負の世界であります。敗者は、常に勝者に対して敗者の作法を取らなくてはならない。ものの上下はそれで決まる。個人の価値判断は期待されていない。

>育ち盛りの大事なときに子どもを長時間机にへばりつけておくのは、それこそ誰かが能天気に唱えている呪文「美しい日本」のためにも、百害あって一理なし、と思う。

本当にそうですね。我々は早く脱出口を見つけなくてはならないですね。


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