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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

無理な詰め込み教育の結果 2/2

2019-11-26 11:41:45 | 教育

>もう一つ提案があります。>入試制度を変えるのです。>中学入試も高校入試も、問題数が多すぎます。>これは考える力を見るための試験ではなく、暗記力を測るための試験です。>だから問題数を思い切って大問題に絞り込み、考える問題を中心に出題する。>ただし、じっくり考えなければ解けないような問題です。> 大学入試を頂点とする入試制度を、すべて思考力を問う形式に変える。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えでない。
矛盾を含まない文章は全て正しい考えを表しています。ですから、正解はただ一つではない。考えの内容は、人それぞれです。だから、正解は無数にある。矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を取り除くためには、対話・議論が役に立ちます。だから、対話・議論を盛んにする必要があります。

>そうすれば、まず学校での教育が変わるはずです。>当然、受験産業のあり方も変わってくるでしょう。>教育関係者はもとより、親の意識も考えることの重要さに向くはずです。>入試改革による教育制度改革に手をつけるべきです。

教育の ‘あるべき姿’ (things as they should be) の内容はハッキリすれば、そのための制度改革も内容がはっきりしますね。我々には、行き着く先の内容の明確化が何よりも大切ですね。さもないと、手段の目的化が起こってせっかくの努力も徒労に終わることでしょう。

>■ひとりでも多く「考える力を持つ」子どもの育成を
> いずれにしても、悠長に構えている暇はありません。>残された時間は、そんなに多くはないのです。>一刻も早く思考の授業を取り入れることで、ひとりでも多く「考える力を持つ」子どもを育てなくてはいけません。

そうですね。我々日本人は、無哲学・能天気の状態ではいられませんね。’考え人’ になりましょう。
我々日本人は、日本語と英語を良く学び、時制に対する重要性を深く理解する必要がありますね。時制の使い方を覚えれば、自己の考えも思うがままに表現できます。相手の考えかたも理解できて、自己の信頼も得られます。英米人は、日本語を話す時でも、日本語特有の閉塞感に煩わされることはありません。彼らの考え方には、色々あるからです。我々も彼らに倣って日本語を使いましょう。さすれば、日本語の良さをも合わせ持つことにより ‘鬼に金棒’ の民族になることでしょう。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り) 

> ***


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無理な詰め込み教育の結果 1/2

2019-11-26 11:15:23 | 教育
 
>匿名希望 ( 20代 設計 ) 19/09/16 PM09 【印刷用へ】 >リンク より引用しています。 > ***
>■無理な「詰め込み教育」の結果…
>日本の教育制度は、明治維新以来、基本的に変わっていません。>教育とは教えて、暗記させること。

そうですね。以前から弟子が師匠に教えを乞うことですね。

>子どもたちの考える力を育む教育とはなっていないのです。

そうですね。’考える力’ は無理ですね。

>時代が大きく変わりつつある今、学校教育も転換すべきだと考えます。

どのように変えたらよいかが我々の問題ですね。

>日本の教育の現状には強い危機感を覚えます。

同感です。無哲学・能天気の民族でいては、一寸先が闇ですね。危険この上もない状態です。

> 今行われているのは、無理な詰め込み教育です。

そうですね。わが国の学生は、記憶装置との競争を強いられていますね。

>2002年から導入された「ゆとり教育」は、子どもたちの学力低下を招きました。>これを反省して2008年に告示された学習指導要領では、学習内容が増やされ、授業時間の10%増などが盛り込まれています。>その結果、とにかく多くの知識を詰め込むためのカリキュラムが組まれています。> 急いで量を詰め込んでも、子どもたちの頭はまったく動きません。>教えられる、すなわち受け身の状態では、頭は活性化しないのです。

そうですね。‘受け身の姿勢’ や ‘待ちの政治’ では、自己の構想は実現しませんね。

>そんな授業で、頭が柔らかくなることはあり得ません。>つまり、今の学校教育を続ける限り、子どもたちが頭を使えるようには絶対にならないのです。

そうですね。困ったものですね。

(略)
>■すべての入試制度を「思考力を問う」形式に変更すべき
>学校教育に「思考教育」を取り入れるためには、教員養成系の大学で教師を志望する学生たちにも、思考教育のやり方を学ばせる必要があります。

そうですね。現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見れば分かる。考える必要はない。楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その内容を了解するためには、その文章を文法に従って理解する必要がある。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常日本人は、理解を避けて通る。
日本人は、理解の代わりに忖度 (推察) を使っている。忖度は、理解とは似て非なるものである。忖度の内容は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。つまり、現実直視になっていない。そのことを忖度の主に話すと、’だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と言って反発する。だから、日本人は議論にならない。歌詠みになる。

>だからといって思考教育を実践するためのマニュアルなどはありません。>そんなものは不要です。> 子どもたちに寄り添って、子どもたちと一緒に考える。>決して教えず、子どもたちを励ます。

非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章として表現することができます。時制のある文章は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) の内容を表します。これらの非現実の世界は、個人の世界観 (world view) と呼ばれています。人生の始まりにはその内容は白紙の状態にありますが、年を取るにしたがって誰しもその白紙状態が気になってきます。それで、人は ‘考える人’ になります。自分の考えでその白紙の部分を置き換えてゆきます。その考えの内容は、哲学と呼ばれます。歴史に関する考えは、歴史哲学になります。宗教に関する考えは宗教哲学に、政治に関する考えは政治哲学になります。
科学は科学哲学、人生は人生哲学、などなど。
思春期になると言語機能が飛躍的に発達するので、英米人は英米流の高等教育機関に進学します。そこで自分の哲学を完成させて、学士・修士・博士と称号を得てゆきます。
しかるに、日本語の文法には時制というものがない。だから、日本人には哲学 (非現実に関する内容) がない。私は、日本人のインテリから、’哲学とは何ですか’ と何回も尋ねられた。彼は、日本の大学で哲学の勉強をしなかったのかもしれない。それとも、西洋の哲学者の内容を丸暗記していたのか。自己の哲学がないから、無哲学・能天気の状態でいます。
哲学が想定外となっている思考停止の人々の序列争いは、勢い暗記の競争にならざるを得ないでしょうね。そして、ここから抜け出す道は無い。


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