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修身科悪玉論 3/3

2019-11-08 03:19:31 | 教育

> 今後の道徳教育にとって必要なことは、「賛成か反対か」の単純な二項対立の議論に終始するのではなく、過去の修身科の功罪を学問的に検証し、未来の道徳教育の展望を切り開く努力を重ねることである。

賛成・反対の表明には、そのリーズンが必要ですね。そうでなければ、議論にはならない。

>  以上の点を踏まえれば、道徳の「教科化」は、道徳教育を政治論から解放し、教育論として論じるための土俵を形成するために必要な制度的な措置であったと評価できる。>  「特別の教科 道徳」の設置によって、私たちは子供の道徳性に正面から向き合うことが可能となり、その教育として当然の関わりは、必然的に政治的イデオロギーの入り込む余地を格段に減少させるからである。

そうですね。

>  実際、「特別の教科 道徳」の設置によって、これまで繰り返されてきた「賛成か反対か」の議論は明らかに後退し、教科書、指導法、評価のあり方といった授業の本質に関心が注がれ始めたことは間違いない。

自己判断の苦手な国民は、他からの基準の移植が必要ですね。だから、徳目の暗記に終始しましたね。無哲学・能天気は恐ろしい。

>ここにこそ、道徳の「教科化」の歴史的な意義が認められる。

我々日本人は、日本語と英語を良く学び、自己の考え (非現実) の内容を表現するように努力すべきでしょうね。さすれば、外国人も我々を信頼するようになるでしょう。無哲学・能天気の人間は、つかみどころのない人間です。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

>  ところで、2014年10月の中央教育審議会答申は、今後の道徳教育のあり方について、「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にある」とした上で、「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」と明記した。

日本人の無哲学と特定の価値観の押し付けは、表裏一体をなしていますね。押し付けは、窮余の一策としての入れ知恵ですね。この策により、優柔不断・意志薄弱の人間の数は確実に減少したことでしょう。

>ここに至ってもなお、道徳の「教科化」が「修身科の復活」「価値の押し付け」であり、「いつか来た道」に至ると批判するのは自由である。>しかし、それならば、せめてこの答申の言う道徳教育のあり方に言及して具体的に批判すべきである。

そうですね。人の行いは罪のないものに限るべきですね。それ以外は自由でよいでしょう。そうしたら、真の自由の世界に近づけます。

>そのことで初めて議論は成立する。

そうですね。自由に議論したらよいですね。

>  「賛成か反対か」の二項対立の議論は不毛であり、何より道徳的ではないことにそろそろ気づくべきではないか。

そうですね。ノー・リーズンでは、話になりませんね。もっと、我々は頭を働かすべきですね。
日本人には、意思がない。だから、加害者意識がない。あるのは、被害者意識ばかりである。だから、日本人は、罪の意識にさいなまれることもない。贖罪の為の宗教 (キリスト教) も役に立たない。このような状態では、道徳的な人間にはなりえませんね。それは、幼児のようなものか。その心は、罪の意識の外にある。

>感情的な議論に時間を空費する余裕は、今の教育にはない。

そうですね。理屈を出さねば、感情を出すしかありませんね。 このことに注意を払いましょう。我々には、窮地からの脱出策が必要です。
英米人は、日本語を話しても日本人のように閉塞感に襲われることはない。考え方はいくらでもあるからである。だから、徳目を渇望して暗記する必要もない。我々にも、日本語脳に自主的な考え方を導入する必要がありますね。それには英文法の理解が必要でしょうね。さすれば、英米人の考えかたも理解できるようになる。現在のように、何でも鵜呑みにする日本人の態度は無くなることでしょう。我々に意思の表明が可能になれば、ずっと気分がさわやかになるでしょう。意思のあるところには、方法 (仕方) があるからです。個人判断が可能になります。われわれは、さらに自由になります。現状を打開する為には、日本語と英語のさらなる勉強が必要です。


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修身科悪玉論 2/3

2019-11-08 02:41:20 | 教育

>  もっとも、こうした思考停止は、教科化の積極的な「推進派」にあっても同じである。

非現実 (考え) の内容を持たないということは、即ち思考停止の状態にあるということですね。

>彼らは、修身科が過去の「遺産」であるというが、はたして何が「遺産」なのか答えられない。>中には、道徳の「教科化」さえ実現すれば、いじめや不登校、自殺などの教育問題が魔法のように解決するといった楽観論も少なくない。

矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。考えは人様々であるから、正解は無数にある。矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を取り除くためには、対話・議論が有効である。
だから、これらを一層活用すべきである。

>こうした主張は根拠に乏しく、「感情的」であるという点で、「修身科=悪玉論」の主張と表裏を成している。>しかも、両者に共通しているのは、「道徳は教えられる」「価値は押し付けられる」という道徳教育への素朴な「信頼」である。

そうですね。思考停止をしている人たちには、「道徳は教えられる」「価値は押し付けられる」という手しかないでしょうね。

>  しかし、道徳教育はそれほど簡単でも単純でもない。>誠実や親切という価値を教えれば、子供たちが誠実になり、親切になるわけではない。>愛国心を教えれば、すぐさま子供が愛国心を身につけるわけでもなければ、戦前の「少国民」に変貌するわけでもない。

そうですね。教育界は、コトダマにより支配できるものではありませんね。

>  それにもかかわらず、戦後日本は道徳教育を「賛成か反対か」という感情的なレベルの政治論に押し込め、あるべき道徳教育の理念、内容、方法といった本質的な課題の検討は妨げられてきた。

そうですね。内容のない言い合いは、本質的な課題の検討を妨げますね。問題の本質をつかむことが大切ですね。

>「賛成か反対か」の単純な二項対立の議論は、結局は政治的なイデオロギー論にたやすく回収され、教育論としての議論を希薄にした。

そうですね。自己のリーズン (理性・理由・適当) を持たない人たちの議論は、常に希薄になりますね。

>こうした状況から生み出されたのが「道徳教育アレルギー」である。

アレルギーは、病的状態ですね。道徳アレルギーは、わが国の国民病になっていますね。

>  歴史を創造するためには、決して過去を切り離して考えることはできない。>真の創造を実現するためには、過去を厳しく批判し、過去を否定的に媒介することが必要である。

そうですね。日本人には、批判精神が必要ですね。

>たとえ誤った過去を持ち、悲しい歴史を担うにせよ、こうした過去を否定的に吟味し、検証することで初めて真の創造が達成されるはずである。

そうですね。失敗には成功に資する貴重なデータが含まれていますね。

>  その意味で、戦後の道徳教育は、戦前の修身科を否定的に媒介することに明らかに失敗した。

そうですね。日本人には、考え (非現実) の内容がない。だから、徳目を外から与えてそれを励行させる以外に道徳改善の方法がなかったのでしょう。今もないですね。

>戦前と戦後とは、哀れなまでに遮断・断絶され、修身科は感情的に「全否定」されることで戦後へと継承されることはなかった。>それが「修身科=悪玉論」の実体である。

そうですね。戦前の無哲学・能天気による禍は、もうこりごりですね。修身科は、必要悪であったのか。悪玉論は、結果論ということになるのか。

>  しかし、私たちは歴史を検証せず、歴史から学ぶという視点を欠いては何も生み出すことはできない。>また、歴史を深く多角的に検討することなしに、新しい教育の創造はありえず、あるべき道徳教育の展望を開くことは不可能である。

そうですね。歴史に関する考えの内容は、歴史哲学になります。宗教に関する考えの内容は、宗教哲学になります。などなど。
私は、日本のインテリから ‘哲学とは何ですか‘ と何度も尋ねられた。哲学とは、’考え (非現実) の内容’ である。だが、英米人から、このような質問を受けたことはない。彼らは、我々日本人よりももっと哲学に親しんでいる。英米流の高等教育機関に入学して、自己の哲学を作成して、学士・修士・博士の称号を得ている。日本人の脳裏には、非現実 (考え) の内容がない。だから、哲学にはなじみがない。だから、日本のインテリは哲学の勉強とは西洋の哲学者の内容を暗記することであると思っているに違いない。そして、日本人の哲学は役に立たない。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.


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