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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

武士道

2018-04-09 22:16:53 | 教育

>武士道こそ日本の魂とする新渡戸稲造が説いた内容を以下に抜粋する。
>●「武士道の渕源」より~「武士道は『論語読みの論語知らず』的種類の知識を軽んじ、知識それ自体を求むべきで無く叡知獲得の手段として求むべきとし実践窮行、知行合一を重視した」

日本人には世界観が無いから、行き着く先の世界を想定していませんね。それで、移行すべき世界への建設的な励みが見られない。

>●「義」より~「義は武士の掟の中で最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振舞程忌むべきものはない」

卑劣な行動・曲がりたる振る舞いが糾弾されるが、真っすぐな内容というものが明らかでない。ただのゲーム感覚であるのか。

>●「勇、敢爲堅忍の精神」より~「勇気は義の為に行われるのでなければ、徳の中に数えられるに殆ど値しない。孔子曰く『義を見てなさざるは勇なきなり』と」

日本人には、自己の ‘あるべき姿’ を持っていない。意思が無いから優柔不断・意志薄弱である。

>●「仁、即惻隠(そくいん)の心」より~「弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に適しき徳として賞賛せられた」

序列意識に根ざした感覚で、相手を見下している。

>●「礼」より~「作法の慇懃鄭重(いんぎんていちょう)は、日本人の著しき特性にして、他人の感情に対する同情的思い遣(や)りの外に表れた者である。

日本人の礼儀作法は序列作法であるから、片苦しいものになっている。序列なきところに礼儀なし。理性が無いから感性ばかりに注意が払われている。

>それは又、正当なる事物に対する正当なる尊敬を、従って、社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する」

世俗の上下にこだわることにより、個人的な尊敬の念を表す余地が無い。

>●「誠」より~「信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。

序列社会においては、言論の自由は無い。面従腹背でなくては生きてゆけない。

>…『武士の一言』と言えば、その言の真実性に対する十分なる保障であった。

恣意 (私意・我がまま・身勝手) を鍛えて、意地・根性・大和魂に育てる。リーズン (理性・理由・適当) が無いので、リーズナブルな答えは、期待できない。

>『武士に二言はなし』二言、即ち二枚舌をば、死によって償いたる多くの物語が伝わっている」

一言の下に猪突猛進か。考え直すことは出来ないか。考える人にはなれないか。

>●「名誉」より~「名誉の感覚は、人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。

世俗の序列を人格の上下に対応させている。これで本人は、満足できるのか。

>… 廉恥心は、少年の教育において、養成せられるべき最初の徳の一つであった。

世俗の上下に反した場合には、時分は、’恥ずかしながら、、、、、’ と言うことになる。見栄と外聞か。

>『笑われるぞ』『体面を汚すぞ』『恥づかしくないのか』等は非を犯せる少年に対して正しき行動を促す為の最後の訴えであった」

罪が無くて、恥がある。日本人には意思が無いから、罪の意識 (加害者意識) が無い。だから、恐ろしい。恨めしい。

>●「忠義」より~「シナでは、儒教が親に対する服従を以って、人間第一の義務となしたのに対し日本では、忠が第一に置かれた」

我が国では、序列第一主義ですね。相対敬語の国ですね。

>●「武士の教育及び訓練」より~「武士の教育に於いて守るべき第一の点は、品性を建つるにあり。
>思慮、知識、弁論等、知的才能は重んぜられなかった。

学識経験には、関係ありませんね。これでは、学問の国にはなりえない。

>武士道の骨組みを支えた鼎足は、知・仁・勇であると称せられた」

これで、’文武両道の鍛錬を欠かさず、自分の命を以て徹底責任をとる’ ことになるのでしょうかね。
我が国の ‘責任’ の意味が英米とは違っているので、武士の世は、’とかく、この世は無責任’ となりますね。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
昔の日本人は、15歳の見習い乗子の責任は考えられたが、5代将軍と佐土原藩主の責任については考えられなかったようですね。

>●「克己」より~「克己の理想とする処は、心を平らかならしむるにあり」

日本人にはリーズン(理性・理由・適当) というものが無いから、理性で自己の感情を抑えることは難しいのでしょうね。

>リンク■『国家の品格』と武士道精神~藤原正彦 より引用



一喜一憂

2018-04-09 10:12:27 | 教育
>■□■くらべて一喜一憂しても仕方がない
>試験の答案用紙を、隣の子どもに覗かれないように腕でかくして、顔を近づけて書いている子がいる。

私も、答案用紙を隠していました。

>わたしの小中学生のことにもそういう子がいたし、いまの学校にもいるようだ。>覗かれて、隣の子どもがいい点をとると、自分が損をすると思うからである。>でも、どうしてそれが損になるのだろうか…。

いずれ、入学希望者の選抜試験を受ける身の上ですからね。相手が上位であることは、自分の損になる事は明らかです。

> 試験というものは、本来は自分の成長度を確認するためのものである。>漢字のテストであれば、以前とくらべて自分はどれだけ漢字を覚えたかを確認し、よかったときは喜び、悪かったときはこれからがんばろうと思う。>そのためのテストだ。>隣の子が何点とろうが、自分位は関係ない。

そうですね。あるべき姿は、マイ・ペイスの成長ですね。

>それなのに、現在の学校では、子どもたちを競争させるための試験が行われている。

教育を盛んにするために、学校は子供の向上心をあおるのですね。これも学校の手柄かな。

>そんなことをするから、学校が刑務所さながらになってしまうのだ。>子どもたちに学習の喜びがない。

そうですね。個性を無視された競争ばかりをさせられているから、こどもたちには学習の喜びがありませんね。

>子どもたちが学校で味わうものは、他人との競争に勝った、負けたの優越感、屈辱感でしかなくなっている。

縦社会に生きる序列人間は、優越感と屈辱感の連続生活ですね。

>これは、農耕民族であった日本人の宿命かもしれない。

‘隣の芝生’ の様なものですかね。

>日本人は、隣の田んぼばかりを見て暮らしてきた。>隣の田んぼより自分の田の稲の実りが悪ければ、どうも恥ずかしいと思い、自分の田が成績がよいと安心する。>かといって、あまりに成績がよすぎても、隣のやっかみを買うのではないかと心配する。>いつも判断の基準が隣なのだ。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を話す時には、’ものの上下’ を考えざるを得ない。要は比較の問題である。
英米人であれば、’あるべき姿’ と ‘今ある姿’ の比較になる。だが、日本人は無哲学・能天気であるから、’あるべき姿’ が無い。それで、日本人にもある ‘今ある姿’ 対 ‘今ある姿’ の比較になる。それで、基準が隣になることが多い。

>とっくの昔に、日本は農業人口が三パーセント以下になってしまって、日本は農業国ではなくなった。>そのかわりに、世の親たちは、稲ではなく子どもの成績のくらべっこをしているらしい。>子どもたちがかわいそうだ。

そうですね。これは大人の責任ですね。言葉に無頓着な日本人の性癖か。親たちの反省が必要ですね。日本人の反省が必要ですね。

><<「隣と比較して勝ちや負けか」が、判断基準になってはいないか。>>

そうですね。とかく話がちいせえのう。これも無哲学・能天気のせいでしょうね。


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