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何でも反対

2018-04-28 05:00:55 | 政治
>終戦から現在に至るまで「戦後リベラル」はポピュリズムと温情主義に陥り、日本の社会を変えられなかったのはなぜか――。>そんなテーマで書かれ、朝日新聞批判がひとつの柱になっているのが経済学者・池田信夫さんの著書『戦後リベラルの終焉』(PHP新書)である。
(略)
>ある大手新聞の主筆にこう問うたことがある。>「あなたの新聞は、いい加減に社会党的な体質から脱却すべきだ。社会党は政府のやることは何でも反対し、批判した。少しは対案を出すべきだろう。新聞も同じだ」>すると主筆はこう答えた。「対案を出すのには才能がいる。努力もいる。金も時間もいる。しかし、批判なら何もいらない。うちの読者には土井たか子さんのファンが多いから、ヘタに対案など出せば部数が減ってしまう」

才能・努力・金・時間。これらは、全て英米流の高等教育で必要とするものですね。金もかからず、時間もかからない我が国の高等教育との違いが、政治に表れているのでしょうね。

>●対案を出せないのが「戦後リベラル」の限界
>「戦後リベラル」の限界とは、批判しかせず、対案を出せないことにある。私はそう考える。>2013年7月の参院選、2014年12月の衆院選で、私は安倍政権が進めるアベノミクスの批判しかしない各野党の党首たちにこう言った。>「高度成長の時代は、国民は批判に耳を貸すゆとりがあった。しかし今、そうしたゆとりはない。各党が自民党に対抗しようとするなら、わが党ならこうするという対案を示すべきだ」。>だが、どの党も対案を示せなかった。

日本人は、現実の内容を語る。非現実の内容を語らない。
現実の内容は、見ることが出来る。非現実の内容は、見ることが出来ない。非現実は、考えの内容であり、話の内容である。
見ることのできる内容は、本当のことである。見ることのできない内容は、嘘である。
見ることのできない内容を語る事のない人は、考えの内容をも日本語で語ることが出来ない。
嘘を語らない日本人は、考えをも語らない。

>批判しかしないというのが「戦後リベラル」のひとつの特徴であろう。

論客は、’ああでもなければ、こうでもない’ と言う。’あれではいけない・これではだめだ’ と力説する。
だが、自分はどうであるかを言わない。自分には、考えというものがないからである。

>池田さんは、「『平和憲法を守れ』とか『非武装中立』のような理念を対置しても、ほとんどの国民は関心をもたない。彼らの生活を改善する具体的な対案を左翼は出せなかったのだ」と書いている。

無哲学・能天気の国民は、政治音痴ですからね。国民は、政治に関心を持たない。

>私は、池田さんのそうした指摘が大変おもしろく、まさに「私自身に突き付けられた問題」という思いがした。

そうでしょうね。
現実は、頭の外にある。非現実 (考え) は、頭の中にある。両者は所在が異なるから、内容も同じにはならない。
現実の内容は、実況放送・現状報告になる。非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章になる。時制というものは、英文法にはあるが、日本語文法にはない。だから、日本語脳では、非現実 (考え) の文章を作ることが出来ない。
現実の世界は一つである。だから、その内容も一つに定まる。個人が無い。非現実の世界は三つ (過去・現在・未来) ある。その上、これら三つの内容は、個人個人で違っている。
現実の内容は、’今ある姿’ (things as they are) であるが、考えの内容は、’あるべき姿’ (things as they should be) である。現実の文章と非現実の文章とが混乱を起こすことはない。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。正しい (矛盾を含んでいない)  文章は、全て正しい考えを示している。だから、考えの正解は一つではない。いくらでもある。
政治家が正しい選択肢を複数並べて有権者に示せば、我が国の民主主義も発展が期待できます。



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