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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

朝廷が畏れた神々の正体?(;´Д`)

2021-03-21 12:15:22 | 古代史
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YouTubeで古代史を解説した非常にいい動画を見つけましたので、ご紹介します(^◇^)


日本の歴史上に存在した神の正体の謎…考古学上隠されていた古文書に記述された神話の真実とは?【都市伝説】
99,423 回視聴•2021/02/04 雑学ミステリー通信

日本神話に登場する神である天照大神。実はその正体について驚きの仮説があると言うのです。

とてもいい解説をありがとうございます。

日本の古代史に謎が多いのは、すべて創作によるものだからです。アマテラスが女神というのも日本書紀の創作でした。

伊勢の神も賀茂大神も、そして、ほとんどの神も、その正体は記紀神話などで大国主と呼ばれた人物だと突き止めました。魏志倭人伝にある狗奴国の官狗古智卑狗のことで、兵庫県豊岡市久々比神社のご祭神久々遅命でした。棟上式の祭神とありますからスサノヲの子で木霊五十猛神(イタケル)の直系の子孫です。代々久々遅彦を襲名しています。

記紀神話や風土記などではその正体を隠すために、大穴牟遅神(オオアナムジ)・大己貴命(オオナムチ)・葦原醜男(アシハラシコオ)・八千矛神(ヤチホコ)・三諸神(ミモロ)・大物主神(オオモノヌシ)・顕国玉神(ウツクシタマ)・伊和大神(イワタイシン)などなどとして登場させています。大山祇神(オオヤマツミ)、大山咋神(オオヤマクイ)、一言主大神、アジスキタカヒコネも事代主もタケミナカタもアメノヒボコも大元神も荒神もすべて大国主の分身ですから、別名や分身が一体いくつあるのか分かりません。

また、日本武尊(ヤマトタケル)は日本建国の真の主役だった大国主を隠すために創作されたスーパースターだと分かりました。(^◇^)

大国主が国譲りした神話の元になった史実があり、ヤマト朝廷は大国主の祟りを最も畏れました。崇神天皇の宮中の神殿から本来天皇を護るはずの皇祖神を遠い伊勢まで遠ざけなければならないのも、あり得ない話です。後に、出雲に高さ約50mの日本一の大神殿を造っていますから実際に崇りを畏れていると分かります。(^_-)-☆

また、国譲りの際に大国主と共に戦死した、大国主にわずか十三歳で女王に立てられた若い妃台与(トヨ)の祟りも朝廷は恐れています。記紀神話などでは武内宿禰と神功皇后、サルタヒコとアメノウズメ等々夫婦神の多くが様々な別名で祀られています。神功皇后の妹トヨヒメも淀姫も白山比売、菊理姫、豊受大神、稲荷神(ウカノミタマ)などなどすべて台与のことでした(*^▽^*)

さらに朝廷に怖れられたもう一柱が、卑弥呼です。狗奴国のヤマト勢が倭国を侵攻する直前に日食が起こったので、霊力が衰えたとして難升米(注1)によって殺害されたと推理しました。卑弥呼もヤマトに恨みがあるのでその祟りも朝廷は恐れています。記紀では、卑弥呼の日食で殺された伝承から天岩屋神話が創作されました。卑弥呼はさらに宇佐八幡宮の比売大神(宗像三女神)、そして厳島神社の祭神イチキシマヒメとして祀られています。三女神の残りの二柱の女神は台与の分身です。

実は、日本書紀は天武天皇の勅命で編纂が開始されましたが、完成前に崩御され、後を引き継いだのが宮廷の権力を握った藤原不比等でした。皇后鵜野讃良(うのさらら、持統天皇、天智天皇皇女)と組んで、本当は皇太子だったと思われる大津皇子を冤罪で自殺に追い込み、実子の草壁皇子を即位させようとしました。しかし、病気で早逝したので年の離れた異母妹阿部皇女(天智天皇皇女、元明天皇)と草壁の間の子、幼い孫の軽皇子(文武天皇)を即位させるために、取り敢えず皇位を奪いました。その史実をもとに天孫降臨神話や日向三代の神話にしました。不比等は持統天皇の正統性のために神話でアマテラス女神を創作し、前例の二人の女帝(推古天皇と皇極・斉明天皇)も創作しています。

日本神話は藤原氏が権力を維持する目的で創作されました。建国時代に活躍した有力豪族を抑えるために、藤原氏の遠祖を活躍させる神話を創作しました。日本書紀の神功皇后紀で魏志倭人伝の記事や西晋の起居注から引用していますから、史実を理解していながら歴史を改ざんしていたことが分かります。江戸時代まで、荻生徂徠など多くの学者はアマテラス大神が男神だと分かっていましたから、建国の真相はある程度知られていました。

大国主らを従来のやり方で鎮魂祈祷しても天変地異などの祟りが起こります。そこで、民間では六世紀の仏教公伝よりも少し早く新羅仏教が導入された模様で、九州北東部の人々の間で弥勒菩薩が信仰されました。その頃の人々は半島からの渡来人で、そのほとんどが半島南部に住んでいた江南系と縄文系の倭人です。新羅の土地から来たので新羅人と呼ばれたわけです。

七世紀末から八世紀の初頭に不比等が宇佐での民間信仰に便乗したことが本格的な神仏習合の始まりでしょう。

宇佐地方の渡来人の中で卑弥呼ゆかりの縄文海人ムナカタ族が八幡比売神卑弥呼を祀っていたのですが、八幡大神応神天皇は、後に藤原氏が建国の真相を隠すために創作して広めた話なのです。日本の神社の中で八幡神社の数が最も多いのは朝廷が真相を隠すためでした。真の八幡大神はその本当の父親の大国主狗古智卑狗のことです。725年、現在の宇佐八幡宮一の御殿で八幡大神を祀り、弥勒禅院が宇佐八幡神宮寺として創建されて、ご本尊として本地仏弥勒菩薩が祀られました。七福神の毘沙門天も布袋も寿老人も福禄寿も、あと恵比寿さんまでも大国主の分身です。弁財天が卑弥呼、八番目の吉祥天が台与でした。十一面観音も薬師如来なども台与の本地仏でしょう(^_-)-☆

応神天皇の母親神功皇后は卑弥呼の死後に、前述のとおり若くして女王に立てられた台与です。崇神紀にオオモノヌシの祟りで疫病が流行ったので、その子のオオタタネコを呼んで祀られたら祟りがおさまったという話ですが、これがヤマトの初代祭祀王(応神天皇)の即位の史実を誤魔化したものです。実際はヤマトが後ろ盾にしていた呉が西晋に滅ぼされたので、西晋に朝貢した台与・大国主の倭国を滅ぼしたヤマトが追討されるのを怖れました。そこでヤマトは、先代や先々代の女王の時代から朝貢している倭国(邪馬台国)ということにしたのが本当の理由だと推理しました。

邪馬台国はヤマ国(宇佐市安心院町に比定される和妙抄の野麻)に居た女王が治める国という意味でしたが、それをパクって奈良県桜井市の纏向遺跡を「ヤマトゥ」と呼ぶことにしました。邪馬台国山門説がありますが、邪馬台の「ト」の発音が「トゥ」とちょっとだけ異なるので、山門(ヤマト)は間違いと分かります。後に、沢山いる大国主の子孫の一族ともヤマト王権は和解して政治参加を許したので、新たに生まれた大きな倭国の都を大和と書いて「ヤマトゥ」と呼んだのだと、その謎が解けました。(2021.3.22 赤字訂正)

応神天皇が即位した後に、すでに伊都国で戦死して平原王墓に葬られていた母台与を纏向の箸墓で改葬しました。また、高良山で戦死して祇園山古墳に埋葬されていた大国主久々遅彦も桜井市外山(トビ)の茶臼山古墳で改葬しました。

箸墓の被葬者は大国主の妻という伝承です。ヤマトトトビモモソヒメの名前がヤマトとトビ(大国主の御神体ヘビの別名)を百回唱える姫という意味でした。台与は当時六十歳近くの老人だった大国主久々遅彦に、前述のとおり妃とさせられ、最後にヤマト勢に殺されましたから、ヤマトもトビも恨んでいるはずだということでしょう。カゴメ歌の鶴と亀もヤマトと大国主のことです。鶴と亀がスベッた(退いた、消えた)後に誰の霊魂が残ったのと、台与の悲劇を哀れんだものです(^_-)-☆

話が脱線しかかったので、元の話に戻します。伊勢神宮内宮の祭神の正体が三輪山の大物主大神(大国主の和魂)であり、その御神体のヘビであったことは、江戸時代くらいまで民間でも分かっていたようです。江戸時代の女性天皇は、皇統の男系男子が即位することになっている天皇とは認知されていなかったことも分かっています。

しかし、明治時代に新政府が国民の結束のために記紀神話に基づく復古神道による国家神道を創設して、学校で皇国史観の国史を教育したので、日本人に記紀神話が定着しました。そのため、アマテラス女神が日本の皇祖神で、何となく神話は史実に基づく話だと思わされているわけです(注2)。

多くの国民は不比等に騙されていますが、記紀神話を信じて女性天皇や女系天皇を容認すれば伝統国家の日本は消滅しますよ(;´Д`)。

ということで、正史は権力者の不都合な真実を隠し、権力者が権力を維持するために書かれるという当たり前の原理に気付きました。

だから、魏志倭人伝でも邪馬台国の行程記事を正しく読めばたどり着くはずだというのはそれは錯覚です。

三百年近く議論しても邪馬台国の場所が確定しないことから証明されています。

行程記事は後世の日本人のために書かれたものではありませんから(注3)。


ですから以下の記事で提案する手法によって、考古学などの成果からヤマト王権の成立過程を推理してはじめて、邪馬台国の位置問題が解決できるのです(^_-)-☆

古代史の謎を解く!

(注1)女王を補佐する男弟、一大率で伊都国男王です。実は奴国大王スサノヲをクーデターで殺して倭王になった師升の子孫です。魏の正規軍の軍旗が手渡されているので、軍事を掌握する倭国王だったと分かります

(注2)日本書紀より前に成立したと言われる古事記も、実は九世紀に宮廷で日本書紀を講義していた学者多人長(おおのひとなが、太安万侶の子孫)がその存在を初めて言い出したものなのです。古事記の完成を証明する文献も存在しませんが、独自な部分があるので、原古事記の内容が一部伝えられていると考えられます。異説を連ねた日本書紀よりもストーリーが分かりやすい神話になっているので、本居宣長が誉めたのでそれが現代まで伝わっているのです。しかし古事記の存在は、宣長以前にはほとんど知られていませんでした。

(注3)当時の倭国のことを全く知らない魏・西晋の朝廷の人々が納得できればいいようなデタラメな内容なのです。ですから、不弥国まで里程表示だったのが、その後突然、投馬国から邪馬台国まで水行一月・陸行一月というべらぼうな日数表示になっているのです。邪馬台国を置きたい場所に置くためのつじつま合わせでしたので、放射説、短里説やどんな理屈でも解決しないのです。

従来の邪馬台国の位置に関する、行程記事に基づく諸説は、司馬懿の功績を持ち上げたかった帯方郡太守劉夏たちと魏を後ろ盾にしたい難升米王の罠に嵌っているので、決着がつかなかったということなのです。三国志の編者陳寿も西晋のためにけったいな行程記録をそのまま記載したということです。



くどい話に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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2 コメント

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おはようございます (light77g)
2021-03-24 10:25:40
古代の複雑さが少しわかり始めました。

大国主さまとトヨさま。キーパーソンなんでしょうか?
こんな複雑さは現代世界の政治にもあるのでしょうか?

なんでも視野を広げて見ないと真実追求は難しいのですね?
エネルギッシュに研究されてて励まされます。

大分の宇佐のことがよくわかりました。
ありがとうございます☘️お疲れ様です。
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Re:おはようございます (刮目天 一(はじめ))
2021-03-24 16:10:04
いつもいいコメントを頂き、うれしいです(*^▽^*)
いやあ、誰もが宇佐八幡は何かいわくがあると思っていますが、証拠となる文献が見当たりません。古代史作家の井沢元彦さんも宇佐が邪馬台国かも知れないが、それを説明する証拠が見つかれば宇佐でいいと思うと言ってました。

そうなんですよ。藤原政権がその証拠を消すために日本書紀を作り、それに合わせた神社伝承を各地の神社で作っていますから、怪しいのですが、証拠となる文献が見つからないのです。

ですから、正史がどういうものなのかに気付けば割と簡単に、宇佐神宮の一番豪壮な二の御殿の比売大神(宗像三女神)が誰なのか推理できました。それは考古学の成果で確かめましたが卑弥呼でした。

そして、元々宇佐市安心院町妻垣一柱騰宮で祀られていた八幡神卑弥呼を隠すために、応神天皇と母神功皇后が宇佐神宮で祀られることになりましたが、それも誤魔化しだと分かりました。本当は応神天皇は台与と大国主の子供ですから(これも仲哀天皇で誤魔化していましたが、杜撰なウソだということが直ぐにばれます)、祟るわけでもない応神天皇を祀らなければならない理由がありません。だから、卑弥呼を隠すために作られた八幡大神の正体は大国主だと分かりました。応神天皇で隠したので、崇りを畏れて弥勒寺で祀ったということも分かりました。もちろん、大国主と台与も妻垣神社や佐田京石などとの関連から、安心院町とゆかりがあることも分かりました。つまり、卑弥呼、大国主そして台与こそヤマト朝廷が一番崇りを畏れていたからこそ、三柱をセットにして宇佐八幡神宮で祀ったと推理したわけです。

考古学や民俗学の成果による検証結果がそのことを支持していましたから確信しました。仏教が伝来して、神仏習合することにより非常に込み入った話になっていて、簡単には解けない謎でしたが、刮目天の手法によって絡み合った糸がほぐれてスッキリしました(*^▽^*)

やはり、色々と細工をしても人間が作ったウソはいつかは暴かれますね!古代史はかなり厄介な推理小説みたいなものでした。

最初の障害が突破できれば、この成果をもとに次の時代を考えて行けば、古代史はすっきりと誰でも納得できるものになるのではないかと思っています。それほど時間がかからないかも知れませんよ(^_-)-☆
古代史の面白さに興味を持っていただき、うれしい限りです。どうも有難うございます。謎解きに是非ご参加ください(^◇^)
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