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神武天皇はいつ即位した?(;´Д`)

2021-04-10 17:25:30 | 古代史
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雑誌「正論」2021年4月号で竹田恒泰さんの「日本はいつ建国したか」が第21回正論新風賞受賞記念論文として公開されていました。竹田さんを以前はよくテレビで拝見して、しっかり勉強された方という好印象でしたので、興味深く読みました。しかしその中身は神武天皇不在説を批判した内容でした。すでに「誤解と幻想の神武東征」「不比等の呪いが日本を破壊する」で述べたとおり考古学的に完全に否定される神武天皇ですが、受賞するだけあって巧妙なレトリックを使い、中々説得力があります。手ごわい神武天皇実在説ですが、ここで反論したいと思います。保守のホープ竹田さんそのものを否定しているわけではないので誤解なさらないようにお願いします。ちょっと長くなりましたが最後までお付き合いください(*^-^*)

竹田さんは、神武天皇は実在したというのが論理的必然だと主張されます。神武天皇をはじめとする初期の天皇の埋葬に関する記事が「記紀」に存在するのは、編纂当時に御陵が存在したとしか考えられず、「もし、『記』『紀』が実在しない天皇を記述していたなら、実在しない天皇の御陵が後世に造作されたことになる。実在しない天皇の御陵が当時から認知されていたことは考えにくい。また、『日本書紀』には、六七二年に壬申の乱で神武天皇陵を拝ませたとの記事がある。六七二年の時点で神武天皇が実在したものと信じられ、その御陵が存在したと考えられるだけでなく、『日本書紀』が編纂された八世紀において、この記述が何ら疑問なく受け入れられていたことが分かる。」と述べられています。



しかし、初期天皇の御陵に本当にその天皇が埋葬されたのかを誰も確認したわけではないのです。神武天皇陵も江戸時代に、「幕府の権威をより一層高めようとした。元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時に神武天皇陵に治定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」というところにある小さな塚(現在の神武陵)という説や、最有力の洞の丸山という説もあった。その後、文久3年(1863年)に神武陵はミサンザイに決まり、幕府が15000両を出して修復し、同時期に神武天皇陵だけでなく、百余りの天皇陵全体の修復を行った。このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、国源寺は明治初年、神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。確証に乏しい陵墓選定ではあったものの、明治時代以降には文字通り神格化が進んだ。1916年(大正6年)には、畝傍山中腹にあった洞村(208戸)が天皇陵を見下ろしているとして集団移転させられた出来事もあった[14]。」Wiki「神武天皇」より)とあるように、御陵の位置に対する確かな伝承はどこにも存在しないのです。『日本書紀』に記述されていたことをもって神武天皇陵が存在し、天皇が実在したと考える竹田さんの考えは全く受け入れられません。

竹田さんはさらに、『日本書紀』に記された日付には十四件の干支に誤りがあることは指摘されていますが、他の千六百五十件の日付に何ら影響を及ぼしていないことが分かっていると述べ、神武天皇の東征と即位の日付も正しいとしています。その一方で、『日本書紀』が編纂された八世紀から「千年以上も前の特定の日付の干支を正確に書き分けるのは神業というに相応しい。もしも『日本書紀』が単なる創作物語だったなら、そこまでする必要があろうか。」という主張ですから『日本書紀』の編纂者が事実を正しく書いたと言わんとしているのは分かります。しかし、『日本書紀」は単なる創作物語ではなく、しっかりしたある政治目的を持った創作物だとまでは考えられないようです。

だから竹田さんは、『日本書紀』編纂者が、膨大な竹簡や木簡と睨めっこしながら進めたものと考えられるとし、何百年も遡って記述する以上、矛盾や異伝があるのはむしろ当然のことである。編纂者は倭・韓・シナの原史料をそのまま記述する方法を採り、その解釈は後世に委ねるとするのが編纂方針だったとしています。ですが、文字のない時代とする神武天皇の東征開始や即位の日付に異伝がないことはまさに神業ですね。さらに辛酉年が中国で王朝交代する革命の年と予言されたものに一致するため、何らかの政治的な目的で編纂された証拠と言うべきものなのです。

また、神功皇后紀には二三八年の卑弥呼の朝貢から二六六年の台与の朝貢までの計四本の記事を注記しながら、本文ではそのことに全く触れていないのです。このことは編纂者が史実を知っていながら、神功皇后の神話として歴史を改ざんしたと考えるべきです。

八世紀初頭の遣唐使が倭国から日本国に国号変更を届け出た時も、その後の「旧唐書」には二つの別々の国として扱われていますので変更は実現しませんでした。唐が滅び、五代十国から宋になって、九八四年東大寺の僧奝然(ちょうねん)の遣使によって、「王年代紀」がもたらされて「日本は古の倭の奴国」と初めて認識され、「新唐書」においてようやく倭国から日本国に変更が正式に認められました。つまり、「日本書紀」が創作した高天原が、後漢光武帝から金印を賜った奴国と認識され、皇祖神が二十三代の歴代奴国王であると理解されたということなのです。

また、初期の天皇が長寿すぎる問題について、「『魏志』倭人伝の裴松之注に「魏略ニ曰ク、其ノ俗正歳(太陰暦)四節ヲ知ラズ、但、春耕秋収ヲ計ツテ年紀ト為ス」とある。これは日本が春秋年(一年二倍暦)を用いていたことを記録したものと考えられる。」と述べていますが、全く間違った解釈なのです。

正歳四節とは、中国最初の夏王朝の正月から始まる四季のまつりのことで、魏略は倭人がこれを知らないということを述べているだけです。四季のある日本では人々の活動は春耕秋収がひとつのサイクルですから、それによって一年を定めているという話なのです(「不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」について)。春秋二倍年歴は荒唐無稽な説なのです(「不比等の呪いが日本を破壊する(*´Д`)」)。

また、貝田禎造氏の「古代天皇長寿の謎」で示された一カ月を十五日とする話を長寿の理由としています。「『日本書紀』が記す一六六四件の日付は、第二代綏靖天皇から第三十二代崇峻天皇までの記事の約九二%が月の前半、つまり一日から十五日に偏っている事実である、しかも、二~五代、七~九代、十三代、十五代、二十五代の天皇の記述は全て月の前半の日付だということ。そして、後半の日付を記しているのは、天皇の所在地、行幸の日程、外国や外国人などの記事に限定されていることから、貝田氏は、一ヵ月を三十日とする暦と十五日とする暦の二重構造により表記されていると指摘した。」と紹介されています。

月は地球に対して公転し、ほぼ三十日の周期で満ち欠けを繰り返すことにより、ひと月と呼ぶものですから、一ヵ月十五日とする理由がありませんし、事象によって二重構造になる意味は全く不明です。むしろこれは『日本書紀』が恣意的に二重構造を選択した、つまり古代天皇の記事の日付自体を捏造したことを物語る証拠でしょう。従来から言われるように日本の歴史を古いものとするために架空の天皇を挿入し、創作したということであって、むしろこのような常識外れの長寿な天皇は実在しないということを示唆するものなのです。

しかし、竹田さんは一年二倍年暦などを信じられておられるようです。考古学的にみて第十代崇神天皇が三世紀前半から中期にかけての人物と見ており、九代前の神武天皇まで、一代平均二十年とすれば一八〇年前ころの人物としています。つまり神武天皇は西暦の紀元前後に即位したとみるのが妥当だと述べられています。

しかしその時代は先述したとおり後漢から金印を貰った頃で、福岡平野にあった奴国が倭国の中で最も隆盛な時期ですから、神武天皇が実在するならば、まず大和で即位するのではなく、南九州から北部九州に攻め上って奴国を滅ぼしてから大和に行って即位するのが常識的だと思われます。しかしながら、その時代に南九州に北部九州を凌ぐ勢力があったのかは考古学的に完全に否定されます。その時代の南九州には奴国の比恵・那珂遺跡に匹敵する大都市の遺跡などありませんし、須玖岡本遺跡最大のD地点王墓に匹敵する王墓も存在しないからです。ですから、結局神武天皇は実在しなかったということなのです。

それではなぜ、『日本書紀』で神武天皇を登場させたかが問題になります。

すでに二七〇年頃に大国主と女王台与の倭国を滅ぼしたニギハヤヒ直系の狗奴国王卑弥弓呼(ヤマト大王=彦御子)が記紀では第十代崇神天皇(はつくにしらすすめらみこと)として登場させました。崇神紀に疫病が流行り、民が半分くらい死んだので、三輪山の神オオモノヌシ(大国主)の神託を受けて、大国主の子のオオタタネコを呼んで祀らせたら、崇りが収まったという記事があります。二八〇年にヤマトの後ろ盾だった呉が西晋に滅ぼされ、西晋に朝貢していた倭国をヤマトが滅ぼしたために追討されることを怖れたので、大国主と台与(「記紀」では神功皇后とした)の子のホムダワケ(応神天皇)を初代ヤマトの祭祀王(天皇)とした史実に対応します。日本建国の主役は大国主であり、直接国譲りさせたのはニギハヤヒの子孫のヤマトの物部勢と尾張勢でした。八世紀末に実権を握っていた藤原不比等は、日本建国で活躍した豪族を抑えて、律令制によって権力維持を図りました。「日本書紀」編纂によって史実をねつ造した神話に創り変えて、失脚させた豪族たちの祭祀権も奪って活躍した史実まで横取りしました。

初代天皇神武天皇は、日本建国の史実を隠すために創作された神話でした。

真の初代天皇(ヤマトの祭祀王)は応神天皇ですが、「日本書紀』では神功皇后によって仲哀天皇の皇子たちを滅ぼして即位した東征神話にしています(注)。実際は、ヤマトの大王(崇神天皇)が河内にいたオオタタネコ(恐らく南九州に逼塞していたホムダワケ)を探し出して三輪山で大国主の祭祀をさせたと言うのが史実ですから、初代神武天皇を時代を変えて登場させることにより、神話に厚みを持たせて史実を何重にも覆い隠すために創作されたということなのです。


(注)「記紀」で応神天皇の父とした人物ですが、本当の父は大国主と突き止めました。「日本書紀」では仲哀天皇は、その父ヤマトタケルが死んでから38年後に生まれたことになる杜撰な記事になっています。天皇という称号は7世紀の天武天皇時代からと言われていますが、役割的にはヤマトの祭祀王です。初代祭祀王は第15代応神天皇です。ヤマトタケルは建国の真の主役を隠すために創作されたスーパースターです。その、父である第12代景行天皇も、実は仲哀天皇が崩御した後の大国主の国譲りで活躍した尾張王であり、国譲り神話で活躍させた藤原氏の氏神タケミカズチ(鹿島神宮祭神)だと突き止めています。詳しくはこちらをご参照ください。(2023.5.30 赤字訂正)


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