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交野市立第3中学校 卒業生のブログ

中高年の

皆さ~ん  お元気ですか~?

他人様の苦労を背負うことが一番大切な仕事

2013-01-15 21:10:50 | 徳育 人間力

┌─────────────────────────────────┐
  「師に学んだ『古事記』の心、日本の心」
  
      栗山要(ジャーナリスト)

      『致知』2012年5月号  特集「その位に素して行う」より

└─────────────────────────────────┘

 ここに私が生涯の宝として大切に保管している書があります。

「切散八俣遠呂智(きりはなつやまたのおろち)
 負袋爲従者率往(ふくろをしよいともびととなりていきき)」

 意訳すれば、

「八俣遠呂智(八岐大蛇)のような生き方を遠ざけ、
 袋を背負い、従者となり、人生を歩いていこう」

 となります。

 これは私に『古事記』の本質を説いてくださった
 恩師・阿部國治先生の信条を示す言葉です。

 東京帝国大学法学部を首席で卒業され、
 将来を約束されていた阿部先生は、

「八俣遠呂智のような権力者の生き方と決別して、
 大國主命のように、人々の苦労が詰まっている袋を背負って、
 世の中の下積みになるような仕事をしていこう」

 と決意されたのです。
 この「袋背負いの心」こそが
『古事記』が我々に説き示してくれている本質であり、
 日本人の原点、大和心の神髄なのです。


『古事記』には、大國主命の生き方を通じて
「袋背負いの心」について端的に記されています。


 年頃になった大國主命と八十神(大國主命の兄神)たちは、
 親神の希(ねが)いを受け、
 日本一の比賣神(ひめがみ)と謳われる
 稲羽の国の八上比賣(やかみひめ)のもとへ求婚に赴くことになりました。

 その際に大國主命は八十神から、
 旅の道程で必要なすべての荷物を皆の代わりに背負っていくよう頼まれます

 大國主命は、人にものを頼まれれば
 万難を排して引き受けようとする心を持っていました
 そこで大國主命は大きな袋を作り、
 八十神たちの荷物をすべてその中に入れて背負っていくことにしたのです

 大國主命は身軽な他の八十神たちにいつも遅れ、一人後からついていきます。
 その様子はどう見ても従者のようでしたが
 その表情には些かも悲観や怒りの念は窺えず、
 いつも微笑みをたたえ、元気な足取りで荷物を運んでいました

 結果的に八上比賣が選んだのは、他の八十神ではなく、大國主命でした。
 阿部先生は、大國主命が他の八十神たちが敬遠した荷物運びを
 すべて引き受けた気持ちが非常に大切だと強調され、

「できるだけたくさん、
 他人様の世話をやかせていただくことが立派なことであり、
 他人の苦労を背負い込むことを喜びとせよ」

 と説かれています。

 同時に、自分はこういうことをしてあげているのだから偉い、
  感謝されるのは当たり前という思いを抱くことを戒め、
 これは大事な仕事である、
 しなければならない仕事であると思ってその仕事をするなら、
 それでもうすべてである。
 その仕事をすること、それ自体が喜びであり、感謝である。

 仕事の中では、他人様の苦労を背負うことが一番大切な仕事であり、
 それが大和民族の本来の姿であると説かれています。


【伸びてくる選手に何か共通したものはありますか?】

2013-01-15 20:52:44 | 徳育 人間力


  昨年開催されたFIFA U-20女子W杯で
 史上初の3位に輝いた「ヤングなでしこ」。

 同代表コーチを務め、
  現在、なでしこジャパンの主将として活躍する宮間あや氏や
GKの福元美穂氏ら有力選手を育てたのが、本田美登里氏です。

 伸びる選手と伸びない選手の共通点をお話しいただきました。



┌───今日の注目の人───────────────────────┐


 「宮間あや選手が成長できた理由」
 
  本田美登里(U-20 サッカー日本女子代表コーチ)

       『致知』2013年2月号    特集「修身」より

└─────────────────────────────────┘


【記者:伸びてくる選手に何か共通したものはありますか?】


まずどんなに嫌なことや辛いことがあっても、
変わらずにサッカーが好きでいる子。
負けず嫌いでありながら、周りにもちゃんと気が使える子。

例えば宮間は凄く人思いな子で、私がちょっとでも心配事があると、
すっと寄ってきて


「大丈夫? あやに何かできることない?」


と声を掛けてくれる。
彼女はそれを私にだけじゃなく、
チームメイト全員に対してできるから、
いまの立場にいるのだと思います。


それと、あの子はいつも私に質問をしてきましたね。

「なんで点が入るの? なんでパスが通ったの?
 なんであやはボールを取られたの?」

って

「なんで、なんで?」


と聞いてきて、それをきちんと理解しようとしていた。

きっと自分の中に描くイメージがあって、
そのイメージを大きくしよう、大きくしようとしていたんでしょうね。
何か頼み事をしておいても


「できました」


と言うだけじゃなく、


「できたけど、次何をやったらいい?」


と、絶えず次のことに目を向けていました。


【記者:伸びる選手は心掛けが違うんですね】


同じことを言われても、
それを疑問に思う子と思わない子、
言われたことだけをやる子と
それ以上のことをする子がいます。

そういう一つひとつの積み重ねが、
五年や十年という年月の中で
大きな差になっていくと思うんです。


「正岡子規が救ってくれた」 白駒妃登美(ことほぎ代表取締役)

2013-01-15 20:12:00 | 徳育 人間力

◇─────────────────────────────────◇

   「正岡子規が救ってくれた」

      白駒妃登美(ことほぎ代表取締役)

      『致知』2013年2月号 読者の集いより

◇─────────────────────────────────◇

昨年(2011)6月に、私が好きな日本史のエピソードを
二十九集めた『人生に悩んだら日本史に聞こう』という本を
出版させていただきましたが、
そもそも私は歴史の専門家ではなく、
単なる歴史好きだったんですね。

いまから三年前、作家のひすいこたろうさんに
出会ったことがきっかけで、
ブログに歴史のエピソードを綴るようになりました。

それが出版社さんの目に留まって、
本の企画が持ち上がったんですが、
その時私は人生最大のピンチを迎えていました。

といいますのも、いまから四年前に
私は子宮頸がんになったんです。

その時はまだ初期状態だったため、
全摘手術と放射線治療を受けて退院することができました。

ところが、一昨年の夏、治ったと思っていた子宮頸がんが
肺に転移していたことが分かったのです。

私は死というものがすぐ目の前に来たような
恐怖に駆られました。

がん細胞が一つ、また一つと増えてしまい、主治医から
「こんな状況で助かった人を見たことがありません」
と言われてしまったんです。

出版社さんから「本を出しませんか」
という話をいただいたのは、ちょうどその時でした。

私は残された時間はすべて子供のために使いたいと
思っていたので、最初はお断りするつもりだったんです。


私がピンチに陥ると、必ず歴史上の人物が
助けてくれるのですが、その時、
力を与えてくれたのは正岡子規だったんですね。

子規は江戸末期、四国松山に武士の子供として生まれます。
幼い頃から「武士道における覚悟とは何か」を
自問自答していた子規はある時、それは
「いついかなる時でも平気で死ねることだ」と、
自分の中で一つの結論を得ます。

その後、若くして脊椎カリエスに罹り、
彼は三十代半ばで亡くなってしまうのですが、
この病気は物凄く激痛を伴うもので、
何度も自殺を覚悟したといいます。

その苦しみの病床の中で彼は悟ったんですね。
自分は間違っていた。

本当の武士道における覚悟とは、
痛くても苦しくても生かされている
いまという一瞬を平生と生き切ることだって。

だから彼は、どんどん激しさを増していく病床にあって、
死の瞬間まで文筆活動を止めず、自分らしく輝き続けたんですよ。

私は正岡子規が大好きでしたから、
私も子規のように最後の瞬間まで
自分らしく生きたいって思い直して、
出版のお話を受けることにしました。

そして抗がん剤治療を受けるために、
病院のベッドが空くのを待っていたんですね。

その間に毎日パソコンを開いて、
出版に向けてブログ記事を整理していたんですけど、
その時に私はあることに気づかされたのです。

過去も未来も手放して、いまここに全力投球する。
そうすると、扉が開いて次のステージに上がれる。

そんな天命に運ばれていく生き方を
過去の日本人はしてきたんじゃないかって。

そして、私もそうやって生きようと思ったら、
不思議なことが起こったんですね。

あんなに不安で毎晩泣いていたのに、
夜ぐっすり眠れるようになったんですよ
不安が雪のように溶けてなくなりました。

私たちの悩みのほとんどは過去を後悔しているか、
未来を不安に思っているかのどちらかで
いま現在、本当に悩みがある人って少ないのではないでしょうか。

もし、“いま”悩みがあるという方が
いらっしゃったとしたら、多くは
“ここ”に照準が合っていないのだと思います。

人と比べて劣等感を抱いたり、
人からどう思われているかが気になったり。

ですから、時間軸を“いま”に合わせて、
地点を“ここ”に合わせたら、
おそらく世の中の悩みのほとんどは
消えてなくなってしまうのではないかと思います。

入院が決まり、精密検査を受けて驚きました。
消えたのは悩みだけじゃなかった。

いくつもあったがん細胞が全部消えていたんですよ。
それで私はいまもこうして生かされていて、
皆さんときょうお目に掛かることができたわけですね。


「“修身”の7つの段階」

2013-01-07 20:53:22 | 徳育 人間力

┌───今日の注目記事───────────────────────┐

   「“修身”の7つの段階」

       『致知』2013年2月号                  

└─────────────────────────────────┘


「修身」の度合いを心理学的に考察した人に
薄衣佐吉氏(うすぎ・さきち/故人)がいる。

氏は心は発達するものであり、七つの段階があるという。

第一は自己中心の心。

 赤ちゃんがそれである。
 自分の欲求だけに生きている。


第二は自立準備性の心。

 幼稚園児の頃である。
 用事を手伝ったりする。



第三は自立力の段階。

  成人を迎え自立する。



第四は開発力の時代。

 困難に立ち向かい、開発改善していく力を持つ。
 年齢的には三十~四十代か。


第五は指導力。

 四十~五十代になり部下を指導していく。


第六は包容力。

 好き嫌いを超えて人を包容していく


生きる力と笑顔を生み出すのは 母の手のひらだった

2013-01-06 19:38:52 | 徳育 人間力

┌───今日の注目の人───────────────────────┐

       生きる力と笑顔を生み出すのは
       母の手のひらだった

                占部賢志(中村学園大学教授)

                『致知』2013年1月号
                 特集「不易流行」より

└─────────────────────────────────┘

 大阪大学医学部の先生で玉井克人さんという方がいます。

 玉井医師は「表皮水疱症(ひょうひすいほうしょう)」の専門家で、
 この病気は全国で数百名ぐらいの難病中の難病といわれています。
 
 通常、私たちの皮膚は三層から成っていて、
 それがくっついているそうですが、
 「表皮水疱症」はそれが不十分で、
 夜、寝返りを打つだけで、皮膚がずれて破れてしまう

 ですから、いつも水疱ができるので、
 それを一つひとつ専用の針で潰し、
 軟膏を塗らねばならないそうです。

 これを朝夕二回やるんです。そういう難病です。
 
 玉井医師はこの研究と治療をずっと続けてきて、
 信じられない現象に気づくんですね。
 それは、この難病を背負っている子供たちが一人の例外もなく、
 いつもみんな笑顔で実に明るいというのです
 
 あれだけの難病、しかも毎日激痛と闘っている
 いつ治るかも分からないのに、なぜこんなにも明るく、
 逆にこちらが癒されるような笑顔を見せてくれるのか、
 不思議でしょうがなかった。

 ところが、その理由が分かったそうです。

 
 それは、母と子の触れ合いによって活性化される
 「スキンシップ遺伝子」
 の働きなのだというのです。


 要するに彼らは生まれた瞬間から
 毎日毎日、朝夕二回、母が水疱を潰して、
 全身に手のひらで軟膏を塗ってやるでしょう。

 その母の手のひらが遺伝子に働きかけ、
 情動の発達を促して、
 あの優しい笑顔を生み出していたというのです。


 それを玉井医師は「スキンシップ遺伝子」と呼ぶのです。

 
 私はこの玉井医師のレポートを読んだ時、大変感動しました。
 難病やハンディという大変な逆境を背負っていても、
 人を癒し、明るく世の中を生きる力を生み出すのは、
 母の手のひらなんだと。

 目に見えぬ母の愛情には、
 それだけの力を与えることが科学でも証明されたということです


人物とは言葉である

2013-01-06 19:07:03 | 徳育 人間力

人物とは言葉である。

日頃どういう言葉を口にしているか。

どういう言葉で人生をとらえ、世界を観ているか。

その言葉の量と質が人物を決定し、それにふさわしい運命を招来する。

運命を拓く言葉の重さを知らなければならない。

「小さな人生論 1」 藤尾 秀昭 致知出版社より


 「最期のときを共に過ごして」(ひびの・すえ=管理栄養士・健康運動指導士)

2013-01-04 23:43:40 | 徳育 人間力

┌───2012年、反響の大きかった記事ベスト3──────────┐



     「最期のときを共に過ごして」


              日比野寿栄
               (ひびの・すえ=管理栄養士・健康運動指導士)

               『致知』1998年10月号「致知随想」


└─────────────────────────────────┘


「大丈夫ですか」


車椅子の上で体勢を整えようとされた上妻由紀子先生に、
私は思わず尋ねた。

すると由紀子先生は、
私に向かって諭すようにこう言われた。


「『大丈夫ですか?』という言葉は、
 安易にかけるものではありませんよ」


こういうことである。

体が不自由だからといって、
いつも人の手を借りなければいけない状態に
あるのかといえば、そうではない。

「大丈夫ですか」と問い掛けるのは、
かたわらで見ている側の心の不安の表れである。

由紀子先生は
「ちゃんと私の状態を把握していますか」
と問い掛けたかったに違いない。

私が栄養士として由紀子先生の身近で仕事をするようになって、
1か月ほど経ったときのことだったが、
いまにしてみればその思いがよくわかる。


由紀子先生との出会いは2年半ほど前のことだ。

新聞で腎臓病食専門の栄養士募集の広告を見て、
応募したのがきっかけである。
由紀子先生は精神科医で、東京の町田市にある上妻病院を開設され、
副院長を務められた方だ。


「この世の中から病気をなくすことはできない。
 でも、病気で苦しむ人の心をなくしていきたい」


との志を掲げて病院を始められたのだが、
間もなくリウマチを患われた。

その後、2年半前には腎不全になり、
私が由紀子先生と過ごさせていただいたのは、
62歳で亡くなるまでの約一年半である。

20数年にも及ぶ闘病生活が辛く苦しくなかったはずはない。

それなのに


「病気によって苦しいのは、本人ではありません。
 代わってあげることのできない周囲の人たちのほうが
 よほど苦しいのです。地獄とはそういうことです」


と言って、決して弱音を吐かなかった。
いつも周りに気をつかって、笑顔で振る舞われる先生が
不思議で、尋ねたことがある。


「先生はどうしてそんなに強いのですか」


先生の答えはこうだった。


「それは多分、人間はとても弱い存在だということを、
 知っているからだと思います。

 例えば、この苦しみをだれか一人の人間に預けて、
 もたれかかろうとしたとします。

 そうしたら、その人はきっと私の重荷に耐えかねて、
 つぶされてしまうのね。
 それくらい人間は弱い生き物です。

 だから、人間に絶対を求めてはいけません。
 絶対なるものは、目に見えない、
 神とも言うべき存在に求めるしかないのです」


先生は、いつも見えない神と対話しながら、
ご自身の弱さと闘ってこられたように思う。


そのような先生の姿勢から、
私はさまざまなことを教えられた。


先生は仕事に対してことのほか厳しい方だった。
私が栄養計算をしてお出しした料理にしても、
1回目で口にしていただけることはほとんどなかった。

あるとき、食べやすいようにと、焼きなすの皮をむいて
食膳にお出ししたことがある。


「これではだめよ。
 なすはアツアツの状態で、
 自分で皮をむいて食べるようにしなければ」


と、作り直しを指示された。

先生は薬の瓶も決して捨てることはなく、
ものを大切にされる方だ。
それなのに、なぜ作り直しを指示されたのか。


「プロとして報酬をもらっている以上、
 最高のものを提供しなければいけない。
 妥協してこれでいいですよ、と言ってしまったら、
 その人のためにはならない」


そう思って、苦言を呈してくださったのではないかと思う。

別の折、仕事の厳しさを説明するために、
次のような話をしてくださった。


「あなたがある人から1万円を借りたとしましょう。
 『明日返しますから』と約束していたのに、
 うっかりして返すことを忘れてしまいました。

 『ごめんなさい、明日には必ずもってきますから』
 と言えば、その人はきっと許してくれることでしょう。
 でも、天の裁きというのは、
 自分の言った言葉を守らなかった時点で下っているのですよ。

 仕事も同じです。
 自分が今日はこうしよう、と思って決めたことを
 きちんと果たしているかどうか。

 だれかが見ているからやるのではなく、
 自分と交わした約束を守っているかどうか。
 それが仕事の基本的な心構えなのですよ」


このように言われるのは、先生自身が仕事に対して、
真摯な姿勢で取り組まれてきたからにほかならない。
病院を設立する前、先生がある病院に
勤務されていたころのことである。

勤務時間が終わっても、
交代の医師が来ないことが度重なった。
そんなとき、由紀子先生はいつも表情一つ変えることなく、
何時間も待機されていたそうである。

院長先生が、そのような由紀子先生の働きぶりに感心して、
給料のほか、同額以上の別封を渡されたそうだ。


由紀子先生はこうも話されていた。


「大抵の人は、人生の花を咲かせるには、
 耕された土地に、種をパッと蒔けばいいと
 勘違いしているようです。

 人生に花を咲かせるというのは、
 コンクリートの上に花を咲かせるのと同じくらい
 大変なことなのです。

 考えてもごらんなさい。
 コンクリートの上に咲いている花がどこにありますか。
 でも、そのように苦心惨澹(さんたん)して咲かせた花は、
 心の中にいつまでも咲かせ続けることができるのです。

 私が病に苦しみながらも、心やすらかにいられるのは、
 これまでに咲かせた花がいまも萎まずに
 咲いてくれているからなのです」


先生が繰り返し繰り返し語られた言葉に、


「あなたはどれだけ損得なしに、
 人のために尽くすことができますか」


というのがある。

だれかのために、惜しむことなく、身を呈す。
その瞬間にこそ、人は神に近づける――
という思いが、先生の根底にあった。

そして、惜しまれつつ召された
由紀子先生の生きざまを振り返れば、
限りなく神に近づこうと努力された方だったと改めて思う。

先生とは短い縁であったが、私もそのような生き方に
一歩でも近づきたいと願っている。


尾角光美さん

2012-12-30 00:05:28 | 徳育 人間力

18歳のとき、父は経営するベンチャー企業が倒産して失踪。翌年、母が自殺した。その2週間後、東京から京都の同志社大に進むが、体を壊して休学した。街が華やぎ、学友が帰省する年末、何も食べずに寝続けては一人、死を思った。

状況を変えたのは「死にたいほどつらいんやね」と寄り添ってくれた友人の存在だった。大みそかに自宅へ招いてくれる知人もできた。「私のもらった温かい経験を社会に還元しよう」という思いが企画の出発点になった。

大みそかから元日にかけて「年越しいのちの村」を大阪市天王寺区の應典院(おうてんいん)で開く。多くの人が家族と過ごす年末年始。自殺を考える人や居場所のない人は孤立感が増す。そんな人たちが集って「もう1年がんばってみるか」と思ってもらえたら。みんなで年越しそばを食べたり、書き初めをしたりして、新たな年を楽しく迎える。

自死遺児らを支援する団体「リヴオン」の代表。7月、50代の男性から「死にたい」と電話がかかってきた。話しているうちに男性の名前を間違えた。男性は笑い、「どれくらいぶりに笑えたんやろか」。できることはありませんか、といのちの村の運営に加わってくれた。

春には大学を卒業する。リヴオンは法人化し、東京と京都に事務所を置く。「誰でも孤独になる可能性がある。手を伸ばせば人とつながれる社会であることが大事なんです」

おかくてるみ(27歳)

(朝日新聞2010年12月26日付朝刊「ひと」欄から)


尾角光美(おかく・てるみ=一般社団法人リヴオン代表)

2012-12-29 23:52:24 | 徳育 人間力

┌───随想ベストセレクション───────────────────┐

    「旗を揚げる」

        尾角光美(おかく・てるみ=一般社団法人リヴオン代表)

                『致知』2012年12月号
                       致知随想より

└─────────────────────────────────┘


私が母を失ったのは九年前、十九歳の時でした。

長年、鬱状態が続いていた母はいつも
「死にたい」と繰り返していました。

「あんたなんか生まれてこなければよかった」と
辛辣な言葉を毎日のように浴びせかけられ、
大切な肉親でありながら、
一緒に暮らすのが辛くてしかたがありませんでした。

それでも母を少しでも喜ばせたいと思い、
浪人生活を送りながら内緒でアルバイトをして貯めたお金で、
母の日にバッグをプレゼントしました。

よもやそれが最後のプレゼントになるとは
思いもよりませんでした。

程なく、経営する会社を倒産させた父が失踪。
経済的にも精神的にも負担が過度に重なった末、
母は私が大学に入る二週間前に自ら命を絶ったのです。

以来、私のカレンダーから母の日はなくなりました。

ところが五年前、母の日というのは、
一九〇八年五月十日に母親を亡くしたアメリカの女の子が、
教会で行われた追悼の集いで白いカーネーションを配り、
亡き母親への想いを伝えたことが始まりだと知りました。


その年は、母の日が始まってからちょうど百周年。

私は、それまで心の奥にしまい込んでいた
母への想いを伝えたいと強く思いました。

そして、同じような想いを抱いている人がいるなら
一緒に想いを伝えたいと考え、
母親を亡くされた方々から手紙を募り、
『百一年目の母の日』という本をつくりました。

マスコミで報道されて話題になり、以来毎年刊行しています。

日本ではこの十五年、毎年三万人以上もの人が
自ら命を絶っています。

東日本大震災でも多くの方が突然の死別を経験されました。
それに伴い、大切な人を失った人びとを精神的、
社会的に支えるグリーフサポートの重要性が高まっています。

大切な人を失った悲しみは、一人ひとり異なります。
私の場合、母に対する感情的なわだかまりや、
拭いがたい孤独感など、様ざまな感情が
心の中で複雑に交錯し苦しめられました。

大学にはなんとか入学したものの、
身体をこわして講義への出席もままならなくなりました。

学業復帰への足がかりをいただいたのは、
親を亡くした子供に奨学金貸与を行っている
あしなが育英会でした。

同会が開催したテロ、戦争、病気などによる
遺児たちへのケアの現場で、
悲しみと悲しみが出合ったところから
希望が生まれるのを目の当たりにしました。

二〇〇六年に自殺対策基本法が制定されて以来、
国内の地方自治体が遺族支援に取り組んできました。
その流れの中で、自治体をはじめ、学校、寺院などでの講演、
研修などで全国から呼ばれるようになりました。

年間三万人以上もの方が自ら命を絶ついま、
自殺の問題は決して他人事ではなく、
自分事として考えていきたい。

そしてこの問題が私たちに問い掛けているのは、
自分たちの生き心地について。この生きづらい社会を、
どうすれば生き心地のよい社会にできるかを
ともに考えていくことが、いまを生きる
私たちの役目だということを体験を交えてお話ししました。

二〇一〇年三月、社会起業家を目指す
若者のためのビジネスプランコンペ「edge2009」での
優秀賞受賞をきっかけに、本格的に社会に
グリーフサポートを根づかせていくために、
確実に遺族にサポートが届く仕組みを考えました。

寺院や葬儀社は必ずご遺族と出会います。
そこで、研修で出会った石川県小松市の僧侶の方と
協力して地域にサポートを産み落とすことを目的とした
グリーフサポート連続講座を開催。僧侶、坊守(僧侶の妻)、
葬儀社、一般市民の方が定員を超えるほど参加されました。

自殺遺族にどんな話をすべきか。実は人を導く
僧侶の方々ですら悩んでいらっしゃるのです。

いま求められるのは、遺族が頼れる人の繋がりやサポートの場です。
講座を通じて、去年の冬にグリーフサポートの団体が
二つ発足しました。

かつてお寺は地域と深く結びついていました。
いま日本にはコンビニの二倍にも当たる
七万以上ものお寺があります。

かつてのような地域との絆を取り戻せれば、
もっと生き心地のよい社会になると考え、
「寺ルネッサンス」と銘打って
小松市以外でも働きかけをしています。

グリーフケアで大切なことは、聴く力です。
聴の字は耳+目+心で成り立っており、
自分のすべての注意力を相手に向けること。

受け身でなく能動的な行為であって、
聴くことを通じて相手の痛みや苦しみを
ジャッジせずに少しでも近づくことが重要です。

もう一つ大切なことは、相手のことを気にかけてあげること。
母を失い、自室に籠もって死を思い詰めていた
私の心に光を灯してくれたのが友人のメールでした。

友人は私をむやみに励ましたりすることなく、
ただ「きょうは食べられた?」「眠れた?」と
毎日声を掛け続けてくれました。

一通のメールでもいい。
誰かが自分のことを気にかけてくれている。

その実感が命を繋ぎ止めてくれるのです。

友人のおかげで、私はその後様ざまなご縁に恵まれ、
グリーフケアというライフワークを見出すことができました。

そしていま、いただいたたくさんのご縁は
亡き母からのギフトとして感謝の念を胸に抱いています。

旗を揚げることで繋がることのできる人がいます。
私は、大切な人の死を経験した人の目に
留まるよう高く旗を揚げ、確かに繋がっていくことで、
その喪失から希望を見いだせる社会を実現していきたいと思います。


手帳の使い方

2012-12-29 14:05:34 | 徳育 人間力


「鋭きも 鈍きもともに 捨てがたし 錐と槌とに 使い分けなば」

幕末期の日本で最も大きい私塾「咸宜園」(かんぎえん)の
塾主であった儒学者・広瀬淡窓(ひろせたんそう)が詠んだ和歌です。

「人間には人それぞれに個性があり、違った能力があるものである。
 その能力を生かすことこそ大切

といった教育法に感化され「咸宜園」の門を叩いた塾生は4000人を超えたと言われ、
その塾生の中には、靖国神社の銅像として知られる天才参謀・大村益次郎
蘭学者の高野長英、日本初の写真家・上野彦馬など、数多くの有為な人材が輩出されました。

厳しさと優しさを備え、儒教の教えの根幹は「敬天」と捉え、

「天が求める生き方をすれば、必ず良い報いが得られ、
 悪い行いをすれば必ず悪報がある」

という人生観に基づいて、淡窓が考え、実践したのが「万善簿」でした。

「万善簿」とは、

ひとつ善いことをしたら白丸をひとつ。
悪いことをしたときには黒丸をひとつ。

白丸から黒丸を引いて白丸の合計が1万になるのを目指して、
ひたすら善行に励み、悪行を戒めることを「帳簿」につけ、
自らの日々の生活態度を厳しく戒めたといわれています。

54歳から始めた善行を晩年までつけ続け、67歳で見事1万善を達成します。

「人生は習慣の織物」と言われるように淡窓の「万善簿」は、
人物の偉大さと良習慣の密接な関係を示してくれます。

「手帳」のご活用方法として、「万善簿」をつけてみるのは如何でしょうか。


弱き善人では駄目である

2012-12-29 12:42:24 | 徳育 人間力

┌───今日の注目記事───────────────────────┐

           「よい俳句を作る三つの条件」

                『致知』2010年3月号
                 特集「運をつかむ」総リードより
└─────────────────────────────────┘

「功の成るは成るの日に成るに非ず。
 けだし必ず由って起る所あり。
 禍の作るは作る日に作らず。また必ず由って兆す所あり」

蘇老泉の「管仲論」にある言葉である。

人が成功するのは、ある日突然成功するわけではない。
平素の努力の集積によって成功する。
禍が起こるのも、その日に起こるのではない。
前から必ずその萌芽があるということである。

運をつかむのもまた、同じことだろう。

宝くじを当てる。これは運をつかむことだろうか。
棚ぼた式に転がり込む幸運というのは、
得てしてうたかたのごとく消え去るものである。
ことによると身の破滅にもなりかねない。

運をつかむには、運に恵まれるに
ふさわしい体質を作らなければならない。

言い換えれば、運を呼び寄せ、
やってきた運をつかみ取るだけの実力を養わなければならない、
ということである。

そういう意味で忘れられない言葉がある。

よい俳句を作る三つの条件である。
どなたの言葉かは失念したが、初めて目にした時、
胸に深く響くものがあった。

その第一は、強く生きること。

強く生きるとは、「主体的に生きる」ということだろう
状況に振り回されるのではなく、
状況をよりよく変えていく生き方である。
「覚悟を決めて生きる」と言い換えることもできよう

一道をひらいた人は一様に、強く生きた人である。
例えば、江戸後期の儒者、頼山陽は十三歳の正月に、
こういう覚悟を決めている。

「十有三春秋 逝く者はすでに水の如し
 天地始終なく 人生生死あり
 いずくんぞ古人に類して千載青史に列するを得んや」

(もう十三歳になってしまった。
 時間は流れる水のように過ぎていく。

 天地には始めも終わりもないが、人間は必ず死ぬ。
 どうしたら昔の偉い人と並んで
 歴史にその名を留めることができるだろうか)

 小卒で給仕から大学教授になった田中菊雄氏の言葉。

「一生の間にある連続した五年、本当に脇目もふらずに、
 さながら憑かれた人のごとく一つの研究課題に自分のすべてを集中し、
 全精力を一点に究める人があったら、その人は何者かになるだろう」

 こういう信念、姿勢が、強く生きる人格のコア(核)になる。

第二は、深く見る。

強く生きることで初めて視点が定まり、深く見ることができる。
深く見るとは本質を見抜くことである。
状況を見抜くことでもある。ここに知恵が生まれる

第三は、巧みに表す。

巧みに表すことは大事である。
分野を問わず、技術、技巧なくしてよいものは作れない。
だが、それだけではよいものは作れない。

強く生きる信念、深く見る姿勢があって、初めて技巧は生きてくる。

この三条件はそのまま、よい運をつかむ条件である。


「弱さと悪と愚かさとは互いに関連している。
 けだし弱さとは一種の悪であって、弱き善人では駄目である

哲学者、森信三師の言葉である。
運をつかむ道は人格陶冶の道であることを、哲人の言は教えている。


「天災と人災による悲嘆の状況はまるで違う」

2012-12-03 18:25:01 | 徳育 人間力

┌───随想ベストセレクション───────────────────┐


   「悲嘆を乗り越えるために」


     高木慶子(上智大学特任教授・上智大学グリーフケア研究所所長)

                『致知』2012年11月号
                       致知随想より

└─────────────────────────────────┘


私がシスターであるから特にそう感じるのかもしれません。
しかし世の中には「時の印」というものが
確かにあるように思います。

時の印とは、いま、私に、何が求められているかということ。
神戸市民、あるいは兵庫県民、あるいは日本国民として、
自分に何が求められているのか。

現在はやはり東日本大震災によって苦しんでおられる方々が、
以前の平穏な生活へと戻っていかれるのに
どういうお手伝いができるのか。
それが私を動かす原動力になっているような気がします。

ご家族や友人を亡くされるといった
大きな悲嘆を乗り越えようとする人をサポートする
「グリーフケア」を神戸で始めたのは、二十五年前のことです。

友人のお父様が末期がんを患われ、
その最期を看取ってほしいと声を掛けていただいたことが
そもそものきっかけでした。

しかし患者様がお亡くなりになれば、
今度は遺族となられたご家族の心のケアも
していかなくてはなりません。

あちらでも、こちらでも、という皆様からの頼みに応じているうち、
これまで様々な原因で悲嘆に暮れている
数千人に上る方々にグリーフケアを行ってきました。


この二十五年間を振り返ってとりわけ心に残るのは、
平成七年に発生した阪神・淡路大震災です。

それまで病院や自宅で闘病生活をされている
患者さんの元をお訪ねし、
愛する家族を残して逝くことをとても辛い、
不幸なことだと思っていたのですが、
実はそうばかりでもなかった。

災害で突然命を奪われてしまった方が大勢おられる中、
家族や友人たちに看取られながら亡くなっていけるのは、
実はとても幸せなことだったのだと気づいたのです。

それだけの大きな災害に遭うと、地元では
「命を大事にしよう」ということが合言葉のようになっていました。

しかし二年後、そんな私たちを嘲笑うかのように起きたのが、
酒鬼薔薇聖斗を名乗る少年による神戸連続児童殺傷事件でした。

その後も関西では次々と児童殺傷事件が発生し、
遺族の元を訪ね歩く日々が続きましたが、さらに平成十七年、
決定的とも言える事件が起こります。

乗客百六人が死亡し、五百六十二人に上る負傷者を出す
大惨事となったJR福知山線脱線事故でした。

その一年後、JR西日本の本社から
私の元に一本の電話がありました。


「私たちにはどのようにご遺族の方々と
 関わっていいかが分かりません。
 どうか協力してもらえませんか」。


私は幹部の方々に、ご遺族や負傷なさった方が
いまどのようなお心でおられるのか思うところを話し、
弔問に訪れる際の細かな注意点なども含め、
お話をさせていただきました。

多くのご遺族とも接していく中で
私自身、気づいたことがありました。


阪神・淡路大震災から数年間、ご遺族と接する中で、
家族や友人を亡くされた方の悲嘆の状態とはこういうものなのかと、
分かったような気になっていたところがあります。

ところが脱線事故によるご遺族や負傷者の方に接して、
私は完全に鼻っ柱を圧し折られてしまいました。
震災と脱線事故の経験を通じて学んだこと、それは
「天災と人災による悲嘆の状況はまるで違う」
ということだったのです。

天災は、それが地震であれ台風であれ津波であれ、
「加害者」の姿が見えません。

家族や友人を亡くした悲しみや喪失感はあっても、
恨みつらみの対象はない。

そして日本が災害大国であることを知っている私たちは、
どんなに辛いことがあったとしても、
これは仕方のないことだったのだと、
どこかに落としどころを見つけることができる。

ところが、その落としどころが恐ろしいくらいに
見つからないのが人災です。

福知山線の脱線事故から七年以上が経ったいまも、
ご遺族や負傷者の方の怒りは一向収まる気配がありません。
これは加害者がはっきり見えているか、
見えていないかの違いによるものでしょう。

そして図らずもこの二つの体験がそのまま当てはまるのが、
今回の東日本大震災です。

なすすべもなかった巨大地震や津波には
恨み言の一つも口にしない一方で、
原発を推進してきた政府や民間企業に対する怒りは
日に日に増していく。

天災と人災とが同居し、
復興が思うように進まない被災地を訪ねながら、
あぁ、私の体験はいまここでこそ生かされるのだ、
神様はこの日々のために私を準備してくださったのだと
強く思います。


いま被災地へ行くと、傾聴ボランティアの方から
「ご家族はどういう状態で亡くなられたんですか」
などと聞かれて非常に嫌な思いをした
傷ついたと言われる被災者の方が少なくありません。

悲嘆の中にある人と接する上で大事なのは、
こちらが聞きたいことを聞いてはいけないということです。
相手の方の悲しみや苦しみ、お話しになりたいことを
無条件に受け入れて、時間と空間をただ共にすること。

そして何よりも大事なのは、相手の方を尊敬し、
信頼する気持ちを持つことです。

それが赤ちゃんであろうと、お年を召した方であろうと、
その人格に対する尊敬と信頼というものを持たなければいけない。
これは悲しみの中にある人だけでなく、
どんな人に対しても同じように言えることでしょう。

どんな辛い出来事や悲しみ、苦しみがあっても、
その心に寄り添い、支えてくれる存在がいてくれることを感ずる時、
人は必ずそこから立ち上がってくることができると信じています。


 「気づく人と気づかない人の違い」外尾悦郎(サグラダ・ファミリア主任彫刻家)

2012-12-03 15:45:01 | 徳育 人間力

┌───今日の注目の人───────────────────────┐



     「気づく人と気づかない人の違い」


           外尾悦郎(サグラダ・ファミリア主任彫刻家)


                『致知』2012年12月号
                 特集「大人の幸福論」より


└─────────────────────────────────┘


【記者:外尾さんのこれまでの原動力となってきたものは何ですか】


私が外国の地で仕事をするには、
労働許可を得るのにも大変な労力が要るんですね。

毎年、長い行例に並んで書類を山のように集め、
それをまとめたり、提出しに行ったり。

何日もの日数が無駄になるようなことをしながらも、
同時に他の人に打ち勝つ作品をつくっていかなければならない。

でも私は条件が厳しければ厳しいほど
逆にいい仕事ができると思っているんです。

周りのスタッフにあれこれ注文をつけ、
それを叶えてもらうより、限られたスペースの中、
道具も時間もこれだけしかないという条件で
やったほうがいい仕事ができる。

完璧な条件はこちらに仕事をさせてくれません。

仕事をしていく上では「やろう」という気持ちが
何よりも大切で、完璧に条件が揃っていたら
逆にやる気が失せる。

たやすくできるんじゃないか、という甘えが
出てしまうからです。


果物の木でも、枝の分かれた所に石を置いてやる。

そうすると木が苦しむんですが、
それによって枝が横に伸びて表面積が広がり、果実も多くなる。
大事に大事に育てた木には実があまりなりません。


私は皆さんからよく
「外尾はなぜそんなことに気づくんだ?」
と聞かれるんですが、ガウディには
皆が同じように接しているはずなのに、
外尾は電車を待っている時や掃除をしている最中でも、
ガウディのことと絡めていろいろなことに気がつく。
その理由を知りたい、と。


これは私だけでなくどんな人もそうだと思うのですが、
苦悩する人はもう、気づかざるを得ないんですよ。

同じ状況にいても、苦悩しない人は何も気づかない。
気づく必要がないからです。
本当に何かを知っていくためには、苦悩を重ねる必要がある。

人はなぜ自分の命を懸けてまで山に登るのか。
自分にできるかできないか分からないことに対する挑戦、
自らを奮い立たせる勇気、そして苦しみ。

息も絶え絶えになりながら山を登り切り、
自分の限界を超えて頂上に達した時の喜び。

その喜びがあるから山に登るのだと思う。

そうした苦悩の上に立って、当たり前のことを
心から幸せに思える人は幸せだと思うんです。


当たり前のことを単に当たり前だと言って済ませている人は、
まだ子供で未熟です。
それを今回の震災が教えてくれました。

本当に大切なものは、失った時にしか気づかない。
それを失う前に気づくのが大人だろうと思うんです。


感謝の種からは感謝の人生

2012-11-17 10:25:27 | 徳育 人間力

┌───随想ベストセレクション───────────────────┐


     「九十五歳の回想 ~人生は蒔いた種のとおりに~」


        折小野清則
       (おりこの・きよのり=折小野農園代表者)

                『致知』2012年11月号
                       致知随想より

└─────────────────────────────────┘


鹿児島県薩摩郡さつま町の山間に
「折小野(おりこの)ひがん花ロード」という道があります。

毎年秋のお彼岸の頃になると、
約四キロにわたり道の両側にひがん花が一斉に咲き誇ります。

もともとこの道は舗装されていない山道でした。

いまから十五年前に立派なコンクリートの道をつくっていただき、
当時八十歳だった私は何らかの感謝の思いを伝えたいと思いました。
そこで生命力と繁殖力の強いひがん花の球根を
人知れず植えていきました。

一つずつ、一尺(約三十センチ)置きに。
最初の年は誰も気づきませんでした。
二年が経ち、三年が経った頃、村の人たちが

「なんであの道の両脇に
 あんなにたくさんのひがん花が咲くんだろう?」

「誰がやったんだ?」

と話題になっておりました。私の近隣の方が、

「そういえば、清則さんが毎朝暗いうちから出掛けていた」

という話から、私が植えていたことが知れることとなりました。

いつしか噂は広まり、季節になると
遠方からわざわざ見に訪れる方もいるそうです。

現在は下草の手入れなどは町役場が行ってくれて、
「折小野ひがん花ロード」という大きな看板もつくってくれました。
九十五年間懸命に生きてきて、このように皆さまに
喜んでいただけることが何より誇らしく思います。


私は大正六年、この集落で農家を営む
折小野栄の長男として生まれました。

私も農家になるものとばかり思っていましたが、
十五歳の時に人生の大きな転機が訪れました。
地元からシンガポールに出て、漁業で成功された「南海の虎」
こと永福虎さんが私の中学校に講演にいらしたのです。


講演終了後、校長室に呼ばれました。

先生はこう言いました。


「折小野君、君は外国に行きたくはないか」


なぜ私が呼ばれたのかは分かりませんが、私はすぐに
「はい、行ってみたいです」と答えました。

永福さんは
「外国に行ったら十年は帰れないぞ。それでもいいのか」
とおっしゃるので、「はい、構いません」と申しました。

外国に行ったら何かいいことがあるように思ったのです。

いまにして思えば、両親はよくぞ長男の私を異国へ出したものです。
現代ではシンガポールも飛行機ですぐでしょうが、
当時、田舎に住む両親にとって月の世界へ送り出すような
感覚だったのではないでしょうか。

シンガポールでは二年間は事務所の手伝いをしましたが、
三年目からは志願して漁船に乗り、赤道を越えて
南シナ海やインド洋にも行きました。

その後、新たにできた製氷所のチーフエンジニアとして
働いていた時、大東亜戦争が勃発したのです。

当時シンガポールは英国領でしたから、私たちは捕虜となって、
灼熱の国インドの収容所へと送られました。
食料はない、連日四十度を超す暑さで、
毎日二~三人の日本人が死んでいきました。

この収容所には子供もおりました。
最初は一緒に連れられてきた先生が教えていましたが、
昭和十七年に第一次交換船によって帰国された方が多く、
その選にもれた子女は教育を受けられないままでした。

キャンプ内でただぶらぶらと過ごす子供たちは遊ぶことにすら
情熱を失った様子でした。このままではいけない。
二十代前半だった私は文学青年だったこともあり、
先生に推挙されました。


「日本の子供たちに負けるな」を合言葉に、灼熱の中、
必死で勉強し合ったことが昨日のように思い返されます。

敗戦を迎えた時が私の人生で一番の危機であったかと思います。
敗戦を伝えに磯貝陸軍中将と沢田連隊長がお見えになり、
私は悲しみのあまり自殺したいと思いました。

ところが「あの二人は偽者で、本当は日本は勝っているはずだ」と
言い出す者が現れ、賛同する者も多く、
子供たちに敗戦と伝えた私たちも襲撃され大怪我をする始末。

犯人を出すようにという厳しい命令も聞かず、暴動化し、
鎮圧するために、向こうの兵士が五十名ほど入ってきました。

「日本は勝っているのだから、銃を撃つはずがない」

棒を持って向かっていった人たちは、たちどころに撃たれました。
私にもその血しぶきが飛んでくるほど間近で十七名が死にました。

そこで奇跡的に助かり、板子一枚下は
地獄の船で日本へ帰国。敗戦直後の地元で貧しい中で農業に従事。

同時に女性ばかりだった生命保険の仕事もやり、
鹿児島県一になったこともありました。

山間の集落なので水田には向かず、
皆が苦しんでおりましたので、思い切って新たに山を開墾し、
ミカン畑に切り替えたこともございます。

その間、十七歳だった長男を水死で失い、ひどく落胆しましたが、
翌年次男が誕生するということもありました。

これまでの人生、いつ死んでもおかしくなかったのに
不思議と九十五歳の今日まで生かされてきました。

思いがけないことの連続でしたが、
しかし蒔かぬ種は生えぬよう、


諦めの種からは諦めの人生、
希望の種からは希望の人生、
感謝の種からは感謝の人生になるのだと思います



私が植えたひがん花は時期が来たら必ず花を咲かせます。
その花が、私がこの生の役目を終えた後も
村の人たちの心を和ませることができたら、幸せに思います