覚悟を決めない限り、何も得ない人生になります。
覚悟を決めたら、あらゆる問題が
全部自分のほうに向かってくるんですね。
そういう覚悟を持って、
人間は仕事に打ち込んでいかなければいけない。
「人は何にしびれるか。
何にしびれるかによって、その人は決まる。
中江藤樹は『論語』と王陽明にしびれていた。
人間は本物にしびれなければならない」
覚悟を決めない限り、何も得ない人生になります。
覚悟を決めたら、あらゆる問題が
全部自分のほうに向かってくるんですね。
そういう覚悟を持って、
人間は仕事に打ち込んでいかなければいけない。
「人は何にしびれるか。
何にしびれるかによって、その人は決まる。
中江藤樹は『論語』と王陽明にしびれていた。
人間は本物にしびれなければならない」
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
「王監督から学んだプロのあり方」
小久保裕紀(元福岡ソフトバンクホークス選手)
『致知』2013年3月号
特集「生き方」より
└─────────────────────────────────┘
僕がプロで成功した一番の要因は
王監督との出会いだと思っています。
亡くなられた根本陸夫監督の後を引き継いで
ダイエーの監督に就任されたのは
僕がプロ二年目の時でした。
その出会いからトータルで十五年、
王監督の下でプレーさせてもらったんですけど、
僕はその教えを忠実に守ることを心掛けてきました。
王監督からは例えば「楽をするな」って教わったんですよ。
「練習の時に楽をするな。練習の時に苦しめ」と。
練習は普通センター返しが基本と言われていて
大方の選手はそうしているわけですけど、
僕の場合は王監督から
「ボールを遠くに飛ばせ。
それにはバットを振った時、
背中がバキバキと鳴るくらい体を百二十%使え」
と言われました。
皆、練習の時は適当にやって、
試合で百%の力を発揮しようとするのですが、
これは間違いだということがいまはよく分かります。
王監督のことでは強く印象に残っていることがあります。
怒ったファンからバスに卵をぶつけられたことがありました。
忘れもしません、九六年五月の日生球場での
公式戦最終日です。
負けが続いていて、怒ったファンの方が
たくさんの生卵を僕たちのバスに投げつけられたんです。
卵が飛び散って外の景色が見えないくらいだったのですが、
そんな時でも王監督はどっしり構えて絶対に動じられなかった。
後ろをついていく人間としてリーダーが
ここまで頼もしく思えたことはなかったですね。
帰ってからのミーティングでも
「ああいうふうに怒ってくれるのが本当のファンだ。
あの人たちを喜ばせるのが俺たちの仕事なんだ。
それができなければプロではない」
とおっしゃいました。
僕はまだ人間が小さいですから
「あんなやつらに」とついつい思っていたのですが、
それだけに絶対に言い訳をしようとしない
監督の姿には学ばされました。
首の骨を折る大けがにより、
充実した教員生活から一転、
人生の奈落に叩き落された腰塚勇人氏。
┌─────────────────────────────────┐
「いつも笑顔でいよう
いつも感謝をしよう
周りの人々の幸せを願おう」
腰塚勇人(「命の授業」講演家)
『致知』2013年3月号 特集「生き方」より
└─────────────────────────────────┘
実は怪我をするまで、僕は競争が大好きな人間でした。
「常勝」が信条で、人に負けない生き方を
ずっと貫いていたんです。
だから「助けて」なんて言葉は
口が裂けても言えない性分でした。
それが怪我ですべて人の手を借りなければ
ならなくなりました。
僕が一番したくない生き方でした。
苦しいし、泣きわめきたいし、「助けてっ!」って
言葉が口元まで出かかってくるけど、
プライドが邪魔してそれを言わせない。
ここで弱音を吐いたら、
家族に余計に心配をかけてしまうと思うと、
なおさら言えませんでした。
皆に迷惑をかけた分、
なんとかしたいって気持ちでいたんですが、
そのプレッシャーや苦しさに
押し潰されそうになってしまって……
僕はとうとう舌を噛んだんです。
自分の未来に絶望感でいっぱいでした。
本当は死にたくなんてなかったんです。
でも首から下の動かない人生、
生き方が分からず苦しかったんです。
だけど結局、死に切れなかった。
あとには生きるという選択肢しかなくなりました。
じゃあ明日から前向きに生きられるかといったら、
それは無理です。
自分を押し包む苦しさが
なくなったわけではありませんからね。
次にしたことは将来を手放すことでした。
自分の将来に期待するから苦しむ。
だったらその将来を手放してしまえばいい。
周りに何を言われても無反応になりました。
そんなある晩、苦しくて寝つけないでいると、
看護師さんが声をかけてくれました。
「腰塚さん、寝ないと体がもちませんよ。
睡眠剤が必要だったら言ってね」
って。
その言葉に僕の心が反応しちゃったんです。
おまえに俺の気持ちが分かってたまるかって、
無意識に彼女をグッと睨みつけていました。
その看護師さんは素敵な方でね、
僕の様子にハッと気づいてすぐに言ってくれたんです。
「腰塚さんごめんね。
私、腰塚さんの気持ちを何も考えずに、
ただ自分の思ったことを言ってたよね。
でも腰塚さんには本当に少しでも
よくなってもらいたいと思っているから……、
なんでもいいから言ってほしいです。
お願いだから何かさせてください」
看護師さん、泣きながらそう言ってくれたんです。
彼女が去った後、涙がブワッと溢れてきました。
あぁ、この人俺の気持ちを分かろうとしてくれてる。
この人にだったら俺、「助けて」って
言えるかもしれないって思えたんです。
それまで僕は周りからずっと
「頑張れ」って励まされていました。
僕のことを思って言ってくれているのが
分かるから決して言えなかったけど、
心の中は張り裂けそうでした。
俺、もう十分頑張っているんだよ……、
これ以上頑張れないんだよって……。
だから救われたんです。
あの時以来、凄く思うんです。
人の放つ一言が、人生をどうにでも
変えてしまうんだなって。
だから自分は言葉を丁寧に使おう。
言葉をちゃんと選んで、丁寧に使おうって。
誠の一字、中庸尤も明かに之れを先発す。
読んでその説を考ふるに、三大義あり。
一に曰く実なり
二に曰く一なり
三に曰く久なり
吉田松陰の言葉である。
「誠」は『中庸』の中で明らかに言い尽くされている。
「誠」を実現するには、
実(実行)、一(専一)、久(持久)が大切である。
一つのことを久しく実行し続ける時に、
初めて「誠」の徳が発揚されてくる、というのである。
至言である。
◇─────────────────────────────────◇
「お母さんから命のバトンタッチ」
鎌田實(諏訪中央病院名誉院長)
『致知』2012年7月号
読者の集いより
◇─────────────────────────────────◇
僕が看取った患者さんに、
スキルス胃がんに罹った女性の方がいました。
余命3か月と診断され、
彼女は諏訪中央病院の緩和ケア病棟にやってきました。
ある日、病室のベランダでお茶を飲みながら話していると、
彼女がこう言ったんです。
「先生、助からないのはもう分かっています。
だけど、少しだけ長生きをさせてください」
彼女はその時、42歳ですからね。
そりゃそうだろうなと思いながらも返事に困って、
黙ってお茶を飲んでいた。すると彼女が、
「子供がいる。子供の卒業式まで生きたい。
卒業式を母親として見てあげたい」
と言うんです。
9月のことでした。
彼女はあと3か月、12月くらいまでしか生きられない。
でも私は春まで生きて子供の卒業式を見てあげたい、と。
子供のためにという思いが何かを変えたんだと思います。
奇跡は起きました。
春まで生きて、卒業式に出席できた。
こうしたことは科学的にも立証されていて、
例えば希望を持って生きている人のほうが、
がんと闘ってくれるナチュラルキラー細胞が
活性化するという研究も発表されています。
おそらく彼女の場合も、希望が体の中にある
見えない3つのシステム、内分泌、自律神経、免疫を
活性化させたのではないかと思います。
さらに不思議なことが起きました。
彼女には2人のお子さんがいます。
上の子が高校3年で、下の子が高校2年。
せめて上の子の卒業式までは生かしてあげたいと
僕たちは思っていました。
でも彼女は、余命3か月と言われてから、
1年8か月も生きて、2人のお子さんの卒業式を
見てあげることができたんです。
そして、1か月ほどして亡くなりました。
彼女が亡くなった後、娘さんが僕のところへやってきて、
びっくりするような話をしてくれたんです。
僕たち医師は、子供のために生きたいと
言っている彼女の気持ちを大事にしようと思い、
彼女の体調が少しよくなると外出許可を出していました。
「母は家に帰ってくるたびに、
私たちにお弁当を作ってくれました」
と娘さんは言いました。
彼女が最後の最後に家へ帰った時、
もうその時は立つこともできない状態です。
病院の皆が引き留めたんだけど、どうしても行きたいと。
そこで僕は、
「じゃあ家に布団を敷いて、
家の空気だけ吸ったら戻っていらっしゃい」
と言って送り出しました。
ところがその日、彼女は家で台所に立ちました。
立てるはずのない者が最後の力を振り絞ってお弁当を作るんですよ。
その時のことを娘さんはこのように話してくれました。
「お母さんが最後に作ってくれたお弁当はおむすびでした。
そのおむすびを持って、学校に行きました。
久しぶりのお弁当が嬉しくて、嬉しくて。
昼の時間になって、お弁当を広げて食べようと思ったら、
切なくて、切なくて、
なかなか手に取ることができませんでした」
お母さんの人生は40年ちょっと、とても短い命でした。
でも、命は長さじゃないんですね。
お母さんはお母さんなりに精いっぱい、必死に生きて、
大切なことを子供たちにちゃんとバトンタッチした。
人間は「誰かのために」と思った時に、
希望が生まれてくるし、その希望を持つことによって
免疫力が高まり、生きる力が湧いてくるのではないかと思います。
(『致知』2010年4月号「致知随想」より)
昭和五年、二十六歳という若さで世を去った
童謡詩人がいました。
山口県・仙崎の地で生まれ育った金子みすゞです。
いまでこそ広く知られていますが、
その名は世間から長い間忘れ去られていました。
みすゞの名を初めて知ったのは、
小四の頃から志していた童謡詩人になるべく、
早稲田大学に通っている時のことでした。
ある日、通学時に読みふけっていた『日本童謡集』の中に、
有名な詩人に紛れて、聞いたことのない
童謡詩人の名前が目に留まりました。
読んだ瞬間、それまで味わったことのない
衝撃を受けたのです。
他の三百数十篇の詩が一瞬にして
頭から消え去るかのようでした。
朝焼け小焼けだ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう。
浜の喜びの一方で、目に見えない海の悲しみがある。
この詩は私の眼差しをいっぺんに変えてしまったのです。
世の中は常に二つに一つだというメッセージが、
この「大漁」という、わずか十行の詩の中に、
明確に収められていたのです。
この詩人の作品をもっと読みたい――。
その日、私は授業にも行かず、古本屋街を訪ね歩きました。
しかし、どこを探しても一向に見つかりません。
三十篇の詩と出合うことができたのは、
それから四年後のことでした。
他にもみすゞが遺した三冊の手帳が
あることは知りながらも、
手掛かりはまったくない状態です。
私は頭の片隅に常に金子みすゞを住まわせ、
思いを飛ばし続けました。必ず見つかると信じて。
結局、みすゞ探しの旅は、
初めての出会いから十六年の歳月を要しました。
手帳は、東京に住む弟さんが大切に保管していたのです。
本当のところ三十篇でも十分だと思っていました。
それだけに喜びもひとしおです。
さらに驚くことに初対面の私に、
手帳を貸してくださると弟さんが言ってくれたのです。
もし、この手帳がなくなれば、
金子みすゞは、完全に消えてしまう。
そう思うと、私は気が気ではありません。
寝る時は常に枕元に置き、外出する時は、家族に預け、
何かあれば必ず手帳だけは持って逃げなさいと
言い含めていました。
その一方で、私はほんの一行すら読むことが
できないでいました。
ページを開こうものなら壊れてしまうほど
手帳が劣化していたのです。
高揚感とは裏腹にもどかしさが募りました。
一週間後、弟さんから一通の手紙が届きました。
私がある賞を取ったことが新聞に掲載され、
それをたまたまご覧になったのです。
あなたの作品から、姉ととてもよく似た感性を
持っていることが伝わってきて、安堵しています、
とありました。早速受話器を掴み、
お礼かたがた、事情をお伝えしました。
壊れてもいいからぜひ見てください。
それが答えでした。
まず丁寧にコピーをとってから、
収められてある詩を数えはじめました。
短い創作期間の中で、遺した詩の数は
実に五百十二篇にも及んでいたのです。
その晩、私は一睡もできませんでした。
寝転がって読んでいたつもりが、
いつの間にか正座している自分がそこにいました。
明け方、興奮覚めやらぬ私を突き動かしたのは、
これは自分だけのものにしてはいけない、との思いでした。
すぐに全集の出版を思い描いた私は、
大手の出版社に次々と掛け合いました。
しかし、売れないものは出せないと、
ほとんど相手にされずじまい。
中には、何篇かを選んでみてはどうか
という話もありました。
しかし、私の思いは微塵も揺らぎませんでした。
一人の人間がその一生をかけて残した作品です。
五百十二篇の中には一篇たりとも
無用なものはないと固く信じていたのです。
自費での出版しか道がないかと思い至った時、
ジュラ出版局という小さな出版社と出合いました。
当時の編集長が「活字にすれば五十年残る」と、
詩に込められた価値をみごとに見抜かれたのです。
これで道が開けました。
それから四半世紀を経て、金子みすゞの詩は
世界十か国に訳されて親しまれるようになりました。
中国四川省で起きた大地震の後、
孤児となった子どもたちの心のケアとして
使われたのはみすゞの詩でした。
前のローマ法王もみすゞの詩にふれ、
涙をこぼされたといいます。
なぜこれほどまでに、みすゞの詩は人の心を動かすのでしょうか。
みすゞが書く詩には嫌な言葉がひとつもありません。
深い優しさと明るさが特徴です。
一方、実生活はといえば、
特に結婚後は放蕩無頼な夫との生活の中、
常に暗い陰が付きまといました。
最期は親権を楯に一人娘を奪おうとした夫に抗するため、
自らの命を絶って守り抜いたのです。
きっと彼女は言葉の力をよく知っていたのだと思います。
書き手の最大の読者は自分。
となれば苦しい時ほど、自分が嬉しくなることを
書き綴ろうとしたのです。
子供でも分かる言葉で書かれた詩は、
幼稚園児から百歳まで読め、
さらに人生が深まれば深まるほど
深く読み込むことができるのです。
私は、お経や『聖書』などを書き残した人と同じように、
金子みすゞは生きる上で一番大切なことを
書き残すためにこの世に存在したのではないかと
考えています。
童謡詩人・金子みすゞの詩を発信し続けていくこと、
これが天から与えられた私の大切な使命だと思っています。
中山美穂、杏里、平原綾香の『Jupiter』など、
作詞家として数々のヒット曲を手掛けてこられた、
吉元由美さん。その数は実に1000曲以上にも上ります。
┌───今日の注目記事───────────────────────┐
「ジャンプする時は深くしゃがむこと」
吉元由美(作詞家・作家)
『致知』2013年2月号
連載「第一線で活躍する女性」より
└─────────────────────────────────┘
私は子供の頃から、人はなんのために生きるんだろうと
ずっと考えていました。
そして人にはそれぞれ才能があって、
それを活かして生きることが幸せに繋がるのだろうと。
だから自分にも絶対なんらかの才能があるって信じていたんです。
そういう意味では信じる力は強かったのですが(笑)、
中学、高校、大学でもこれといった才能を
見つけられませんでした。
いよいよ就職活動となった時、
自分自身が一番生かされる道はなんなのか
分からなかったんですね。
そこで知り合いが通っていた、算命占星術の
高尾義政先生をお訪ねしたんです。
受けようとしている業種をいくつか出した時、
「あなたはものを表現するお仕事が合っています」
と、広告代理店を第一志望にするよう
言ってくださったんです。
そして
「二十四歳で本当の仕事に出合います」
「二十六歳で一人暮らしをしてください」
「三十歳で自分の会社を持ってください」
と。
【記者:そんな先のことまで】
私、就職先も決まっていない大学生ですよ。
「ええ!?」って驚きましたが、もしも私に
そういう運気があるならそれにかけてみようと、
広告代理店に入りました。
そこでクリエイティブの先輩に
「作詞家になったら」と言われ、
「どうしたらなれますか」と聞いたら
「勉強すればいいんじゃない?」って。
その日から仕事が終わったら
ピューッと家に帰って猛勉強しました(笑)。
【記者:どういう勉強をなさったのですか?】
既にある歌に違う歌詞をつけるとか、
私は写経と呼んでいるのですが、
本を大量に読んでいいなと思った表現を
何度もひたすらノートに書いていくと(笑)。
そういうことを二年間やり続けました。
ただその間、突然の異動で
総務部の配属になった時期がありました。
すぐに高尾先生のところに行って
「私は総務部とは合いません。
辞めてアルバイトをしながら
詞の勉強をしようと思います」
と言うと、先生はこうおっしゃいました。
「辞めてはいけません。
ジャンプする時はしゃがみますよね。
いましっかりしゃがんでください。
自分の好きなことばかりやって、
いい運を掴もうというのは甘いです。
嫌なこともやってください」
この言葉はいまでもちょっと辛いなと思う時、
思い出しますよね。
高尾先生からこの言葉をいただいていなかったら
傲慢な生き方をしていたかもしれないし、
忍耐力も持てず、作詞家にもなれなかったかもしれません。
http://kukkuri.blog58.fc2.com/blog-entry-1137.html
【ウズベキスタン】
ウズベキスタン共和国は、中央アジアに位置している。
国境を二回越えないと海に出られないという、世界的にも珍しい二重内陸国である。
1991年、ソビエト連邦の解体とともに独立。
平均月収は日本円にして、およそ2万5千円だという。
この国で最も有名な建物、それがナヴォイ劇場。
中央アジアで最も格式の高い劇場として知られている。
実はこの劇場に、日本が愛され続ける秘密が隠されていた。
1945年、日本は敗戦。
ソ連は多くの日本人を捕虜にし、当時ソ連の一部だったウズベキスタンの強制労働所に送り込んだ。
そこで日本軍捕虜たちを待っていたのは…
ソ連軍
「お前たちは捕虜として、この場所に劇場を造るんだ!」
日本人捕虜たちに与えられた労働は、劇場の建築。
しかし、毎日6時に起床し、へとへとになるまで作業を続け、まともな休日もなかった。
さらに、食事も粗末。
半分腐ったジャガイモや、骨ばかりの羊の肉。小麦と水だけということもあった。
日本人捕虜A
「隊長、これ以上無理ですよ。みんな倒れてしまいます」
日本人捕虜B(隊長)
「我々は今まで戦争で多くの街を破壊してきた。今度は誰かの為に、新しいものをつくろう。いいか。日本人としての誇りを持って、この場所に世界一の劇場を造ってみせよう!」
日本人としての誇り。
戦争に敗れはしたが、その誇りだけは失わない。
彼らはひたすら働いた。
しばらくすると、地元の子供がパンや果物などを差し入れてくれるようになった。
そんなある日…
ウズベク人の女の子
「何これ…」
いつもの場所に置かれた手作りのおもちゃ。
強制労働で疲れ切った身体にもかかわらず、日本人は受けた恩に対して、精一杯の感謝を伝えようとした。
しかし…。
日本人捕虜C
「おい、大丈夫か!おい!」
日本人捕虜D
「桜が見たいなぁ…」
日本人捕虜C
「おい!しっかりしろ!」
栄養失調と過労で、毎日誰かが倒れ、帰らぬ人となっていく。
日本人捕虜たちの体力・気力は、すでに限界を超えていた。
そして2年の月日が流れ…
ナヴォイ劇場が完成。
威風堂々とした外観、美しい模様や繊細な彫刻、苛酷な労働条件の中、館内の細部の装飾にまで、こだわり抜かれていた。
関わった日本人捕虜は500人。
しかしそのうち、79人が建設途中で亡くなった。
日本人捕虜B(隊長)
「あいつらにも完成した劇場を見せてやりたかったな…」
……時は過ぎ、完成から20年後の1966年。
ウズベキスタンをマグニチュード8の大地震が襲った。
街の建物は崩壊、辺り一面がれきの山に。
しかし、そこでウズベキスタンの人々は、ひとつの奇跡を目の当たりにする。
それは……
変わらぬ姿で凜と立つ、ナヴォイ劇場。
ウズベク人
「あの苛酷な状況でも日本人たちは…」
日本人たちの仕事に彼らは敬意を表した。
そして1991年。
ソ連が崩壊し、独立国家となった時には、この劇場に日本人たちの功績を称えるプレートを掲げた。
その際、カリモフ初代大統領は、「彼らは恩人だ。間違っても捕虜などと書くな」と指示したという。
プレートに記された「日本国民」という文字に、そんな思いが込められている。
あの強制労働で亡くなっていった日本人たちは、ウズベキスタンの地に眠っている。
そんな、故郷に帰ることのできなかった彼らのために、墓地の周りには、多くの桜の木が…。
ウズベキスタンの女性は、生まれてきた子供にこう教えるという。
「日本人は、戦いに敗れても誇りを失うことなく、まじめに働いて立派な仕事をしたのよ。あなたも日本人のようになりなさい」
悲劇の中でも、素晴らしい仕事を成し遂げた日本人。
その精神は、今も遠く離れたウズベキスタンの地で生きている。
※スタジオトークで白駒妃登美さん曰く……
現在、ウズベキスタン国内にある13箇所の日本人墓地は、すべて地元の人々が管理してくれているそうです。
実は、ソ連に支配されていた時代に、ソ連政府はウズベキスタンに対し、「日本人墓地を更地にしろ」という命令を発したのですが、ウズベキスタンの人たちは、「ここには日本人が眠っています。そんなことはできません」と断固として断って、お墓を守り通してくれたそうです。
第二次世界大戦で、
ソ連の捕虜になった日本人に強制労働として、
劇場の建設が課せられた。
長時間の労働に加え、
食事には腐ったものが出てくるなど劣悪な環境であった。
実際に作業に関わった500人のうち、
79人もの日本人が亡くなっている。
しかし、強制労働にもかかわらず妥協のない姿勢で建設に携わり、
細部の彫刻にまでこだわるなど完璧な出来であった。
1966年4月26日にタシュケントを襲った大地震では、
78,000棟の建物が倒壊したにもかかわらず、
ナヴォイ劇場は無傷であった。
<エピソード>
引用先:Wikipedid
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A4%E5%8A%87%E5%A0%B4
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
「いまがその時、その時がいま」
外尾悦郎(サグラダ・ファミリア主任彫刻家)
『致知』2012年12月号 特集「大人の幸福論」より
└─────────────────────────────────┘
【記者:スペインへ移住されてから今年で34年目になるそうですね】
はい。私自身の気持ちとしては昔から何も変わっていませんが、
ただはっきり言えるのは、34年もあそこで
仕事ができるとは一度も思わなかったということ。
いつもいつも「これが最後の仕事だ」と思って取り組んできました。
【記者:いまだにそうなのですか】
はい。私は長らくサグラダ・ファミリアの職員ではなく、
一回一回、契約で仕事をする請負の彫刻家でした。
教会を納得させる作品ができなければ
契約を切られる可能性がある。
命懸けという言葉は悲壮感があって
あまり好きではありませんが、
でも私自身としては常に命懸け。
というのも命懸けでなければ面白い仕事はできないからです。
ただ本来は生きているということ自体、
命懸けだと思うんです。
戦争の真っただ中で明日の命も知れない人が、
いま自分は生きていると感じる。
病で余命を宣告された人が、
きょうこの瞬間に最も生きていると感じる。
つまり、死に近い人ほど生きていることを
強く感じるわけで、要は死んでもこの仕事を
やり遂げる覚悟があるかどうかだと思うんです。
この34年間、思い返せばいろいろなことがありましたが、
私がいつも自分自身に言い聞かせてきた言葉がありましてね。
「いまがその時、その時がいま」
というんですが、本当にやりたいと思っていることが
いつか来るだろう、その瞬間に大事な時が来るだろうと
思っていても、いま真剣に目の前のことを
やらない人には決して訪れない。
憧れているその瞬間こそ、実はいまであり、
だからこそ常に真剣に、命懸けで生きなければ
いけないと思うんです。
┌─────────────────────────────────┐
「天命追求型の生き方、目標達成型の生き方」
白駒妃登美(結婚コンサルタント・マゼンダスタッフ)
『致知』2012年3月号 特集「常に前進」より
└─────────────────────────────────┘
この時、発病前に読んだ話を思い出しました。
人間の生き方には西洋の成功哲学に代表される
「目標達成型」とは別に「天命追求型」があるというのです。
天命追求型とは将来の目標に縛られることなく、
自分の周囲の人の笑顔を何よりも優先しながら、
いま、自分の置かれた環境でベストを尽くす。
それを続けていくと、天命に運ばれ、
いつしか自分では予想もしなかった高みに
到達するという考え方です。
そこでは、自分の夢だけを叶えるfor meより、
周囲に喜びや笑顔を与えるfor youの精神、
つまり志が優先されます。
私は天命追求型、目標達成型という視点で
歴史を捉えたことはありませんでしたが、
これからお話しするように、
天命追求型はまさに日本人が歴史の中で培った
素晴らしい生き方であることに、
闘病を通してようやく気づいたのです。
* *
天命追求型に生きた歴史上の人物といえば、
豊臣秀吉はその好例でしょう。
秀吉は徳川家康、織田信長と比べて大きく違う点があります。
家康や信長が殿様を父に持つのに対し、
秀吉は農家に生まれたことです。
農民の子の秀吉が最初から天下統一を夢見たでしょうか。
通説によると、秀吉は
「侍になるために織田家の門を叩いた」
ということになっていますから、
おそらく若き日の秀吉は、
天下を取るなど考えてもいなかったに違いありません。
しかし、秀吉の人生はその夢を遙かに超えてしまうのです。
ご存じのとおり、秀吉は最初、信長に
“小者”という雑用係の立場で仕えました。
雑用係は、もちろん侍の身分ではありません。
けれども、信長が秀吉を雇い入れた時、
きっと秀吉は、農民の自分に
目をかけてもらえたことに胸を躍らせ、
心から感謝したのではないでしょうか。
だからこそ、たとえ雑用係の仕事にも
自分でできる工夫を施したのだと思います。
寒い日の朝、信長の草履を懐に入れて
温めてから出した話は有名ですが、
草履一つ出すにも喜んでもらえるようアイデアを加えたのです。
やがて足軽となってからも信長を喜ばせたい
という思いは変わらず、一層の信頼を得て侍に、
さらに侍大将、近江国・長浜城の城持ち大名へと登り詰めるのです。
私のことを振り返ると、目標達成に突っ走っていた時は、
確かに夢は叶いました。
受験勉強、就職活動、子育て、
すべてにビジョンを描き目標を立ててやってきました。
しかし、見方を変えれば夢しか叶わなかったのです。
夢を超えた現実はやってきませんでした。
では、秀吉はなぜ夢を超えることができたのでしょうか。
想像するに、秀吉は最初から天下取りなど考えず、
いつも“いま、ここ”に全力投球する生き方を
貫いたからだと思います。
自分の身の回りの人たちに
喜んでもらえることを精一杯やっていった。
その結果、周囲の応援を得て次々と人生の扉が開き、
天下人へと運ばれていったのではないでしょうか。
まさに天命追求型の人生だったのです。
┌───随想ベストセレクション───────────────────┐
「息子の名前がつく村 ~ナカタアツヒト村~」
中田武仁(国連ボランティア終身名誉大使)
『致知』2008年9月号 致知随想より
└─────────────────────────────────┘
平成4年になって間もなく、大阪大学を卒業し、
外資系のコンサルティング会社に
就職が決まった息子の厚仁(あつひと)から、
1年間休職し、国連ボランティアとして
カンボジアに行きたい、という決意を打ち明けられた。
カンボジアは長い内戦をようやく抜け出し、
国連の暫定統治機構のもとで
平成5年5月の総選挙実施が決まった。
人々に選挙の意義を説き、
選挙人登録や投開票の実務を行う選挙監視員。
それが厚仁が志願したボランティアの
任務の内容だったのである。
厚仁の決意は私にとって嬉しいことであった。
商社勤めの私の赴任先であるポーランドで、
厚仁は小学校時代を過ごした。
いろいろな国の子どもたちと交わり、
アウシュビッツ収容所を見学したことも契機となって、
世界中の人間が平和に暮らすには
どうすればいいのかを考えるようになった。
世界市民。
その意識を持つことの大切さを
厚仁はつかみ取っていったようである。
1年間のアメリカの大学留学も
その確信を深めさせたようだった。
国連ボランティアは、
厚仁のそれまでの生き方の結晶なのだ、と感じた。
だが、現地の政情は安定には程遠い。
ポル・ポト派が政府と対立し、選挙に反対していた。
息子を危険な土地に送り出す不安。
私には厚仁より長く生きてきた世間知がある。
そのことを話し、それらを考慮した上の決意かを問うた。
厚仁の首肯(うなず)きにためらいはなかった。
私は厚仁の情熱に素直に感動した。
カンボジアに赴いた厚仁の担当地区は、
政府に反対するポル・ポト派の拠点、コンポントム州だった。
自ら手を挙げたのだという。
私は厚仁の志の強さを頼もしく感じた。
厚仁の任務があと1か月ほどで終わろうとする
平成5年4月8日、私は出張先で
信じたくない知らせを受けた。
厚仁は車で移動中、何者かの銃撃を受け、
射殺されたのだ。
現地に飛んだ私は、厚仁がどんなに
現地の人びとに信頼されていたかを知った。
厚仁の真っ直ぐな情熱は、
そのまま人びとの胸に届いていた。
カンボジア佛教の総本山と尊崇されている寺院で、
厚仁は荼毘(だび)に付された。
煙がのぼっていく空を見上げた時、
厚仁は崇高な存在になったのだと感じた。
私は決意した。
長年勤めた商社を辞め、
ボランティアに専心することにしたのだ。
そんな私を国連はボランティア名誉大使に任じた。
そういう私の姿は厚仁の遺志を引き継いだ、
と映るようである。
確かに厚仁の死がきっかけにはなった。
だが、それは私がいつかはやろうとしていたことなのだ。
厚仁のように、私もまた自分の思いを貫いて
生きようと思ったのだ。
私はボランティアを励まして
延べ世界50数か国を飛び回った。
それは岩のような現実を素手で
削り剥がすに似た日々だった。
ボランティア活動をする人々に接していると、
そこに厚仁を見ることができた。
それが何よりの悦びだった。
厚仁が射殺された場所は人家もない原野なのだが、
カンボジアの各地から三々五々その地に人が集まり、
人口約1000人の村ができた。
その村を人々はアツ村と呼んでいる、と噂に聞いた。
アツはカンボジアでの厚仁の呼び名だった。
人々は厚仁を忘れずにいてくれるのだ、と思った。
ところが、もっと驚いた。
その村の行政上の正式名称が
ナカタアツヒト村ということを知ったのだ。
このアツ村が壊滅の危機に瀕したことがある。
洪水で村が呑み込まれてしまったのだ。
私は「アツヒト村を救おう」と呼びかけ、
集まった四百万円を被災した人びとの
食糧や衣服の足しにしてくれるように贈った。
ところが、アツヒト村の人々の答えは私の想像を絶した。
カンボジアの悲劇は人材がなかったことが原因で、
これからは何よりも教育が重要だ、
ついてはこの400万円を学校建設に充てたい、
というのである。
こうして学校ができた。
名前はナカタアツヒト小学校。
いまでは中学校、幼稚園も併設され、
近隣9か村から600人余の子どもたちが通学してきている。
やがては時の流れが物事を風化させ、
厚仁が忘れられる時もくるだろう。
だが、忘れられようとなんだろうと、
厚仁の信じたもの、追い求めたものは残り続けるのだ。
これは厚仁がその短い生涯をかけて
教えてくれたものである。
厚仁の死から15年が過ぎた。
ひと区切りついた思いが私にはある。
楽隠居を決め込むつもりはない。
国連は改めて私を国連ボランティア終身名誉大使に任じた。
この称号にふさわしいボランティア活動を、
これからも貫く決意だ。
15年前、あれが最後の別れになったのだが、
一時休暇で帰国しカンボジアに戻る厚仁に、
私はこう言ったのだ。
「父さんもベストを尽くす。厚仁もベストを尽くせ」
ベストを尽くす。
これは息子と私の約束なのだ。
厚仁の短い生涯が、人間は崇高で信じるに足り、
人生はベストを尽くすに足ることを教えてくれるのである。
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「アメリカのある家計調査記録より」
『致知』2004年12月号 特集「徳をつくる」より
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こういう話を聞いて慄然としたことがある。
アメリカの家計調査広告に残る記録である。
ジュークは1720年ニューヨーク州に生まれた。
怠惰な無頼漢であった。
1877年の調査では、彼の家計は
六代を経る中で約1200人の怠け者、背徳漢、漁色、
貧窮、病弱、知的障害、精神病者、犯罪者がうまれた。
この間300人が嬰児期に死亡、
440人が病的な行為で肉体的に破滅、
前科者は130人で、60が窃盗、7人が殺人。
手に職をつけたのはわずか20人だった。
ジュークと同年代に生まれたJ・エソワードは
代表的清教徒で神学者。
1900年に彼の家計は1394人を数えた。
そのうち3人が大学総長、65人が大学教授および学校長、
100人以上、公職に就いた80人の中には副大統領が一人、
上院議員が3人、ほかに知事、下院議員、市長、公使などがいる。
15の鉄道、多数の銀行、保険会社、産業会社などが
この家系の人びとによって運営されていた。
1人の人間の徳の有無がいかに大きな影響を及ぼすか。
私たちは肝に銘じなければならない。
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
「おかげさま」と「身から出たサビ」
山中伸弥(ノーベル医学・生理学賞受賞者)
『夢を実現する発想法』(致知出版社)より
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この頃(中学生)、特に忘れられない思い出があります。
教育大学の学生さんが教育実習に来た時のことです。
彼は柔道三段という腕前でした。
その人と練習で組み合うと、いとも簡単に投げられる。
受け身を取って一本にされるのは悔しいので、
私はちゃんと受け身を取らずに最後まで粘り、
変な手の付き方をしてしまった。
そのために、腕がボキッと折れてしまったのです。
実習の先生としてみれば、大変なことです。
部活動をしている最中に、生徒の腕を自分のせいで
折ってしまったのですから。
その日の夜、慌てたように先生から電話がありました。
電話を取ったのは母ですが、そばで聞いていると、
先生は受話器の向こう側で平謝りをしている様子でした。
しかし母はその時、こう答えたのです。
「いやいや先生、気にしないでください。
うちの息子の転び方が悪かったんだと思います。
怪我したのはうちの息子のせいです。
明日からも気にせず、いろんな子を投げ飛ばしてください」
その時の態度は、わが親ながら立派だと感じたものです。
母親からはあまり教えられたことはありませんが、
その出来事以来、私はいつも次のことを心掛けるようにしています。
何か悪いことが起こった時は「身から出たサビ」。
つまり自分のせいだと考える。
先生に投げられた時、自分がちゃんと受け身さえしておけば
怪我をしなかった。
そのために三か月ほど柔道ができなくなりましたが、
それも身から出たサビなのだと。
逆に、いいことが起こった時は「おかげさま」と思う。
確かに、自分が努力をしたためにうまくいくことはありますが、
実はその割合は少なくて、周りの人の助けがあって
初めて物事はうまくいくものなのだと思います。