┌───今日の注目の人───────────────────────┐
作家・五木寛之氏の幸福論
『致知』2012年12月号
特集「大人の幸福論」より
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◆免疫学の世界的権威だった多田富雄さんと生前にお話をした時、
医学は3年で一変する。3年前の教科書は通用しないくらいの
勢いでどんどん進歩しているとおっしゃっていました。
そんな時代に古い知識でくどくど言ってても仕方がない。
もっと動的に物事を見なければダメだし、
幸福論にしても永遠の幸福論なんてないんです。
◆コップに残った水を、まだ3割も残っていると考えるか、
もう3割しか残っていないと考えるかという話があるでしょう。
そしてまだ3割も残っていると考えるほうが
ポジティブでいいんだと。
だけど、あと3割しか残っていないという現実を
きちっと勇気を持って見定めることも大事です。
◆喜び上手というのはとても大事です。
だけど同時に悲しみ上手も大事なんです。
◆ちゃんと悲しむということは、
笑うことと同じように大事なことなんです。
ただ笑うだけじゃ無意味ですよ。涙も流さないとダメ。
◆フランクルは強制収容所の中で、一日に一回ジョークを言って、
お互いに笑おうと決意してそれを実践したといいます。
それはとても大事なことです。
しかし、人の見ていないところで彼がどれだけ涙を流していたか。
そこを見逃してはダメです。
喜ぶことも、悲しむことも、両方大事なんです。
回復困難と言われ続けてきた
意識障碍の患者さんを
独自に開発したプログラムによって
劇的に回復へと導いている紙屋克子さん。
看護の心と技術を駆使し、
医師からも見放された人たちの人生に
希望の光を灯している紙屋さんの
インタビュー記事の一部をご紹介します。
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「患者さんのベッドサイドに立つ資格」
紙屋克子(筑波大学名誉教授)
『致知』2012年11月号
特集「一念、道を拓く」より
└─────────────────────────────────┘
卒業後はまだ新しい領域だった脳神経外科を選びました。
半年くらい過ぎたある日、私は経管流動食
(意識障碍などで口から食事のできない患者さんに
管を通して胃に栄養食を入れる)
を取り替えるために病室を順番に回っていました。
最後の部屋に入ると、脳腫瘍の術後、
意識が回復しない27歳の患者さんのベッドサイドに、
私と同年代の若い奥さんが3歳の女の子を抱き、
5歳の男の子の手を引いて立っていました。
私が作業を終えたちょうどその時、その人が
「こんなのは治してもらったことになりません!」
と、本当に激しい口調でおっしゃったのです。
私はご家族の悲痛な叫びを初めて聞き、
大変な衝撃を受けました。
その当時は、意識に障碍のある人の命を維持することにも
大変な努力が必要だったものですから、
一所懸命頑張っていた仕事に対して、
そんなことを言われるとは思いもよりませんでした。
「確かに命は助けてもらった。
でも他人である看護師さんと妻の私を区別できないこの人、
二人の子供が“お父さん”と呼んでいるのに応えないこの人を、
家族の一員として受け入れて、私たちはこれから
どんな人生を歩んでいったらいいんですか」って……。
脳腫瘍を摘出して命を助けたのは医師です。
でも彼女にとっての「治る」という意味は、
自分のところに夫が帰ってくることであり、
二人の子供に父親が帰ってくることだったのです。
私たち専門職が考える治療のゴールと、
ご家族の考える健康のゴールには
随分大きなギャップがあるのだと気づかされました。
その時、私は初めて看護本来の役割は何か。
何をすべき人間として、医師とは異なる資格を持って
患者さんのベッドサイドに立っているのかと考えたのです。
すると、彼女の発言の中にヒントがあって、
命を助けたのが医師ならば、
看護師の役割はこの家族のもとに夫と父親を帰すこと。
仕事をしたり学校に行ったり、
そういう役割を持つ存在として、
その人を社会と家族のもとに帰すのが
看護の仕事だと思い至ったのです。
http://drumscotom.blog29.fc2.com/blog-entry-928.html
【こころの薬30】 中村久子の生き方
暗いニュースばかり流されて、
自分の責任でもないのに、つらい境遇におかれていると感じている方が、
さらに、これから日を追って増えてくるかもしれません。
そこで年頭にあたって、すこしでも元気が出るように
中村久子さんの強い強い生き方をご紹介しようと思います。
ちょっと長くなりますが、最後までお付き合いくだされば幸いです。
ある ある ある
みんな ある
さわやかな 秋の朝
これは中村久子さんが40歳のときに書いた詩の一節です。
「ある ある ある」とは、何が「ある」というのでしょうか?
それは彼女の生き方と大きく関係しているのです。
中村久子さんは、わずか4歳のときに両手両足を切断し、
7歳で父親を失い貧乏の中で、「ない、ない、ない」ずくしの生活を余儀なくされます。
しかし20歳で、見世物小屋の住み込み芸人となって
国の援助を1円たりとも受けずに、明るくたくましく生き抜いた方です。
晩年、その生き方に感銘する人が増え
まわりから「先生」と呼ばれ、天皇陛下に拝謁するような存在になります。
1968年に72歳で亡くなられたのですが、没後40年、
いまとなっては、彼女について知る人は少ないようです。

(↑裁縫をする中村久子。「だるま娘」の芸名で見世物小屋で裁縫する姿を見せていた)
中村久子(以下敬称略)は、明治30年に岐阜高山の畳職人の長女として生まれた。
両親は裕福ではなくても、結婚11年ぶりにさずかった久子を可愛がって育てたという。
ところが3歳のとき、突発性脱疽にかかり、命を守るために4歳で両手両足を切断。
7歳のとき、久子を必死で守ってきた父が病死。母の実家で育てられることになる。
しかし両手両足がないために小学校入学もままならない。
生活のために再婚した母あやは、
「何か一生食べていけるものを身につけてやらねば」と決心する。
(以下は黒瀬昇次郎「中村久子の生涯」春秋社1989刊より、一部引用)
母あやは11歳になった久子に、着物の「ほどきもの」を言いつけた。
「どうやってほどくんですか?」途方にくれて母に聞いても、
「自分で考えてやりなさい」ととりつくしまがない。
「人間は働くために生まれてくる。できないとは何事か」と。
一本の留め糸を切るのにも気の遠くなるほどの時間に、久子はかんしゃくを起こす。
しかし母は容赦なく「やればできる」とハサミを指のないまるい手にのせた。
悪戦苦闘が何日もつづいて、ついに口にくわえたハサミで留め糸をパチンと切った。
「わあ、切れた!」涙が頬を流れた。
一人で「ほどきもの」ができる。大きな喜びだった。
自分の力の発見であった。
すると母は、
「女の子はお針がいちばん大事じゃ。なんとか、あんたも針がもてたらいいのに」
「そうだ、私の大事なお人形に着物をぬって着せてあげたい!」
お針を口で使う稽古をしようと、久子の心がはずんだ。
針の穴に糸をどう通すか、運針、結び玉をどうむすぶか、久子の工夫は毎日つづく。
「手なし、足なしに何ができるものか」周囲の心ないひやかしにも、決して屈しなかった。
そしてとうとうつばでベトベトになった小さな着物を縫いあげた。
それから7年、18歳の久子は、女物の袷(あわせ)を2日足らずでしあげるようになり
編み物は一日に毛糸8オンスは楽勝となっていたのだ。

(↑久子が縫った人形の前で。写真はいずれも黒瀬昇次郎「中村久子の生涯」から)
両手両足がないのに器用に裁縫をこなす久子に、
当時の見世物小屋の興行師たちが目をつけた。
そして久子20歳のとき、小屋住み込みの芸人となる。
久子の芸は、好奇の目で集まった客の前で、
裁縫する姿や切り紙細工を見せることだった。
いまならスカウトだが、当時は前金で年季をしばる身売りだ。
後妻となった母、そして前夫の子という自分の立場を考えての、
自立するためのやむをえない決断であったろう。
当時(大正3年頃)でも、生活困窮者や身体障害者には
「扶助料」という国家の最低保障があった。
しかし久子は受給を拒んだ。
「お上の扶助料が将来の自立のための資金になるのならいいが、
自立の見通しもたっていないままズルズルいただくなら、甘えから抜け出せなくなる」
なんとか自分の力で生きてみせる!と心に決めたと、後に出版した自伝に書いている。
親戚には警察署長もいれば教員もいて猛反対をしたが、自立の意思は堅かった。
「だるま娘」という芸名で、見世物小屋の芸人生活が始まると、
客の野次にポッと頬を赤らめ、どことなく品のある芸に人気が出て、
全国や台湾満州まで巡業するようになる。
そして24歳、身売りの年季が明ける年に大きな出来事が3つおこる。
ひとつは母あやの死去であり、
ひとつは、婦人雑誌の懸賞「前半生を語る」に応募、
一座が寝静まってから、口にくわえたペンで書いた原稿用紙80枚が一等当選する。
久子が見世物小屋の賎(いや)しい芸人ではなかったことを示すエピソードのひとつだ。
そして、このことが晩年の久子を大きく変えることになる。
さらにひとつは結婚である。
相手は何かとお世話をしてくれた実直な男、中谷雄三だった。
しかし雄三とは3年で死別するが、二人の子どもをもうける。
年季が空け自由の身になった久子は「久子一座」を率いたり、
他の興行師と組んで、2人の子どもに高等教育をするため46歳まで全国巡業をつづける。
その間に、前記の雄三の他に結婚を3回するが、病死、離婚で別れ、
9歳年下の中村敏雄と4度目の結婚、生涯を共にする。
46歳で芸人をやめた久子は、一等入選「半生記」の縁から、講演依頼が次第に増えて
夫の敏雄と次女の富子におんぶされながら全国を回るようになる。
「宿命に勝つ」「生きる力を求めて」「私の越えて来た道」を出版。
ヘレンケラーとも3度会談、
「日本のヘレンケラー、不自由を知らぬ明朗で強い二児の母」
「不具の女が口でつくった人形に感激の涙」などと大きく報道された。
以来、ラジオ番組で厚生大臣や宗教家などと対談したり活動の場が広がっていく。
65歳のときに、身体障害者の模範として厚生大臣賞受賞。
そして宮中に参内し天皇陛下からお言葉を賜る。
宮中参内のときの思い出を、久子はこう話している。
「若いときに扶助料というお金をいただかなくてほんとうに良かった、
としみじみ思いました。
そのお金いただいてもし使っていたら、天皇皇后両陛下の前に出ましても、
お顔をまともに仰ぐことはできなかったと思います。
”いただかんでよかった”
(たとえ世間から見下されるような)見世物小屋の住人でも、
働かしてもらったことは大きな幸せだった」と。
1968年72歳のとき脳溢血で倒れ自宅で死去。
両手両足がなくても、国の補助をうけず、明るくたくましく生き抜いた生涯であった。
健常者のわれわれ、
もって瞑すべしとはこのことでしょうか?
*お時間のある方、
冒頭の詩の全文と
「中村久子の生涯」の著者、黒瀬昇次郎氏について…
「ある ある ある」
さわやかな
秋の朝
「タオル取ってちょうだい」
「おーい」と答える
良人がある
「はーい」とゆう
娘がおる
歯をみがく
義歯の取り外し
かおを洗う
短いけれど
指のない
まるい
つよい手が
何でもしてくれる
断端に骨のない
やわらかい腕もある
何でもしてくれる
短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな
秋の朝
「私の越えて来た道」1955刊より
かつて来日したヘレン・ケラーが対面後、
「私より不幸で、私より偉大な人」と口にした
彼女の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。
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「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」
中村久子
『致知』2012年11月号
特集「総リード」より
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その少女の足に突然の激痛が走ったのは3歳の冬である。
病院での診断は突発性脱疽。肉が焼け骨が腐る難病で、
切断しないと命が危ないという。
診断通りだった。
それから間もなく、少女の左手が5本の指をつけたまま、
手首からボロっともげ落ちた。
悲嘆の底で両親は手術を決意する。
少女は両腕を肘の関節から、両足を膝の関節から切り落とされた。
少女は達磨娘と言われるようになった。
少女7歳の時に父が死亡。
そして9歳になった頃、
それまで少女を舐めるように可愛がっていた母が一変する。
猛烈な訓練を始めるのだ。
手足のない少女に着物を与え、
「ほどいてみよ」
「鋏の使い方を考えよ」
「針に糸を通してみよ」。
できないとご飯を食べさせてもらえない。
少女は必死だった。
小刀を口にくわえて鉛筆を削る。
口で字を書く。
歯と唇を動かし肘から先がない腕に挟んだ針に糸を通す。
その糸を舌でクルッと回し玉結びにする。
文字通りの血が滲む努力。
それができるようになったのは12歳の終わり頃だった。
ある時、近所の幼友達に人形の着物を縫ってやった。
その着物は唾でベトベトだった。
それでも幼友達は大喜びだったが、
その母親は「汚い」と川に放り捨てた。
それを聞いた少女は、
「いつかは濡れていない着物を縫ってみせる」と奮い立った。
少女が濡れていない単衣一枚を仕立て上げたのは、15歳の時だった。
この一念が、その後の少女の人生を拓く基になったのである。
その人の名は中村久子。
後年、彼女はこう述べている。
「両手両足を切り落とされたこの体こそが、
人間としてどう生きるかを教えてくれた
最高最大の先生であった」
そしてこう断言する。
「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」
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┃
┃□□□ 致知出版社社長・藤尾秀昭の「小さな人生論」
┃□□□
┃□□□ 2012/8/15 致知出版社( 毎月15日配信)
┃
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┌──┬──────────────────────────────
│121 │8月15日――「先縁尊重」に生きる
└──┴──────────────────────────────
『致知』はこの9月1日発行の10月号で創刊34周年になります。
創刊からこの雑誌の編集に携わってきた者としては
随分と長い道のりを歩いてきたという実感があります。
この34年、
それぞれの一道を拓いてきた人たちに折に触れ、
させていただいた質問があります。
それは
「人生で大事なものは何か」
という質問です。
たくさんの人たちの答えを一語に集約すると、
「先縁尊重」
という言葉に表現できると思います。
原点の人を忘れないで、大事にするということです。
例えばAさんからBさんを紹介され、
Bさんと大変親しくなり、Aさんを忘れてしまう。
あげくは無視したり、不義理をする。
そういう原点の人を大事にしない人は
運命から見放されてしまう、ということです。
私の知っている経営者にこういう方がいます。
その人は丁稚奉公に入った店の主人から、
ある日突然、理不尽に解雇されたにもかかわらず、
毎年正月に、
その元主人の家に年始の挨拶に行くことを欠かさなかった、といいます。
普通なら恨みに思っても不思議はないところですが、
自分がこうして曲がりなりにも商いをやっているのは、
その元主人が自分に仕事を教えてくれたおかげだという原点を
忘れなかったのです。
この人はまさに先縁尊重を実践した人です。
この人の会社が創業44年、なおも隆盛しているのは、
この精神と無縁ではないと思います。
先縁の原点は親です。
親がいなければ、私たちは誰1人この世に存在していません。
その親を大事にしない人は、やはり運命が発展していきません。
親は、いわば根っこですね。
根っこに水をやらなければ、あらゆる植物は枯れてしまいます。
親を大事にするというのは、根っこに水をやるのと同じです。
「父母の恩の有無厚薄を問わない。
父母即恩である」
と西晋一郎先生はいっています。
まさに、至言です。
この覚悟のもとに立つ時、人生に真の主体が立つのだと思います。
そして、その親の恩をさらにさかのぼってゆくと、
国というものに行きつきます。
この国のあることによって、
私たちの祖先はその生命を維持継承してきたのです。
即ち、国恩です。
国恩あることによって、私たちはいまここに、生きています。
最近はこの“国の恩”ということを意識する人が少なくなりました。
そういう国民は発展しないと思います。
いま日本に確たるものがなく、
漂流しているがごとき感があることと、
国恩という言葉も意識も薄れていることとは無縁ではないと思います。
幕末明治の人、山岡鉄舟にこういう言葉があります。
人は至誠をもって、四恩の鴻徳(こうとく)を奉答し、
誠をもって、私を殺して万機に接すれば
天下敵なきものにして、これが即ち武士道である
武士道とは人間道、人生道といい変えてもいいでしょう。
四恩とは国とか親とか主君とか先祖とか天の恩。
鴻徳とは計り知れないほど大きいということ。
即ち、そういう目に見えない四恩に答え、
私心なく、自分のやるべき仕事を誠を尽くし
全力をもってやりきれば、天下に敵がなくなる、ということです。
これは何も武士だけに限りません。
一般の人も含めて、かつての日本人が共通して持っていた価値観です。
こういう思いこそ、
日本を日本たらしめているものの根底にあったものです。
ローマはローマたらしめているものを守ろうとする意識が薄れて滅びたといいます。
私たちは後世に対して
日本を日本たらしめているものを守っていかねばなりません。
8月15日、日本敗戦の日。
この原点を忘れず、
りりしい国づくりに微力を尽くしていきたいものです。
通信制の学校でありながら、
歴史教育、道徳教育を通して日本人の誇りを植え付け、
問題行動を起こす生徒たちを更生させていった
熊本県の勇志国際行動学校の野田将晴校長。
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
歴史教育で生徒たちを変えていった
野田将晴氏の名言
『致知』2012年8月号
特集「知命と立命」より
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●日本人としての誇りを取り戻すことさえできたら、
人間としての誇りも自分に対する自信も取り戻せる。
そこから夢や希望が湧いてくる。
人を愛することもできるようになる。
この7年間で私はそれを確信しました。
●教育は国家百年の大計であるといわれます。
若者の姿を見れば日本の将来が見えてくるという意味で、
私は校長に就任して極めて深刻な危機感を
持たざるを得ませんでした。
私が感じた現代高校生のイメージは「幼い」の一語でしたね。
いい替えれば極端に自己中心的なんです。
これこそまさに戦後の人権教育のツケだという思いを強くしました。
●私は教育に携わってまだ8年目ですが、
いろいろな世界が広がってきました。
その中で一つ確信を得たのは、
教育の本質とは祖国の尊い歴史と文化を
次世代に語り継ぐ営みだということでした。
生徒と教師が祖国への誇りを取り戻せば、
いまマスコミを騒がせる問題の多くは
解決できるのではないでしょうか。
●教育者は、先ず自らを常に鍛錬する姿勢が求められるし、
その姿勢があって始めて生徒に対して指導する資格がある。
生徒に志を持てと指導する以上、
教師自らが高い志を持っていなければならない。
使い古された言葉ですが「教師は聖職者」です。
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
「後輩の仕事観を変えた27歳の説教」
横田尚哉(ファンクショナル・アプローチ代表)
『仕事力入門』より
http://www.chichi.co.jp/book/shigotoryoku_nyuumon.html
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就職活動で苦労して会社に入ったものの、
理想と現実のギャップにぶち当たり、
外れくじを引いたように感じている人も多いかもしれません。
しかし本来仕事には、当たりも外れもありません。
当時はつまらなくて仕方がないと思っていたはずの仕事が、
後にその人の大きなベースとなるようなことが
往々にしてあるのです。
私が入社して四年半が経ち、二十七歳になった時のこと。
広島に技術部門が新設され、私は大阪本社から転勤を命じられました。
その広島の勤務地に、新卒で入社してきた
後輩のエンジニアがいました。
他の同期は東京や大阪本社に配属され、
彼一人だけがぽつんと広島にいる。
周りの先輩とは年が離れていて普段話せる人もいない。
季節は夏を迎えていましたが、
彼は毎日つまらなさそうな顔をして
図面と向き合っていました。
私はそんな彼に「いま何の仕事をしてる?」と声を掛けました。
すると彼は
「横田さん、私もう、ずっとこんな雑務ですよ。
同期は東京で打ち合わせに参加したとか、
自分の資料がプレゼンに使われたとか、
楽しそうに話してる。
自分はアルバイトにでもできるような
雑務ばっかりさせられて……。
もっと技術屋的な仕事がしたいです」
と言って不貞腐れていました。
私は「あぁ、そうか」と返事をして、もう一度、
「おまえがいまやっているのはどういう仕事なの。
その図面の縮尺は何分の一?」と聞きました。
すると彼は「えっ、ちょっと待ってくださいよ」と言って、
端っこに書いてある縮尺の数値を読もうとした。
「おまえ、数字を見ないと分からないのか。
半年間もずっとその図面の作業をしてきて、
いまだにそれを見ないと分からないのか。
半年間勿体ないことしてるよなぁ。
一つの図面を散々見続ける経験なんて滅多にできんことやで。
どんな図面がきても、これは何分の一の縮尺だと
パッと見て言える。それが技術屋の仕事というもんや。
おまえは朝から晩までそれだけをしていて、
なんで覚えられんのや」
私の言葉を聞いて、彼は初めてハッとした表情を浮かべ、
「自分はこの半年間、雑務としか思いませんでした」
と言いました。
「おまえの先輩が雑務としてこの仕事を与えたか、
経験として与えたかは分からない。
いずれにせよ、おまえはそれを経験にはしなかった。
この半年間ただ“消費”をしただけで、
“投資”にはなっていない。
図面を見ただけで、縮尺も何も瞬時にして分かる。
その技術は教科書にも書いていなければ、
学校の先生も教えてくれない。
これは経験でしか得られないものなんや。
おまえはその経験の場を与えられてる。
おまえはすごく恵まれてる。
同期の人間なんかより、おまえのほうがずっと恵まれてる。
それをおまえは分かってないだけや」
彼はこのことがあってから、目の色を変え、
嬉々として自分の仕事に励むようになりました。
二十代は夢や理想が人一倍強いため、
会社や上司に文句を言いたくなることも多いかもしれない。
でもそれは自分の知っている、
ごく狭い世界の話であることが多いのです。
広島にいた彼は、いま自分が置かれている環境で
できることは何だろう、ここにいる特権とは何だろうと
考えたこともなく、無益な日々を送っていた。
しかしここから何を学んでいこうかという気持ちや、
何かを得てやろうという思いさえあれば、
誰もが充実した日々を過ごせるはずなのです。
修行は毎日同じことの繰り返し
体調と精神面も最高の状態で出発しても
なぜか噛み合わない場合もある
そんな時は、いい意味で開き直って
姿勢を正し、呼吸を整える
すると、自然に精神が集中して、いつもの流れになってくる
逆に、調子が悪いということに執らわれていると
呼吸が乱れ、集中出来ず
どんどん歩みが遅くなり、体力を消耗してしまう
山の行も里の行も基本は同じ
迷ったら、基本にかえれ
塩沼亮潤(しおぬま りょうじゅん) 慈眼寺住職
昭和43年宮城県生まれ。61年東北高校卒業。
62年吉野山金峯山寺で出家得度。平成3年大峯百日回峰行満行。
11年吉野・金峯山寺1300年の歴史で2人目となる大峯千日回峰行を果たす。
12年四無行満行。18年八千枚大護摩供満行。
現在、仙台市秋保・慈眼寺住職。大峯千日回峰行大行満大阿闍梨
「この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、
日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられない。
彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がない。
驚くほど名誉心の強い人々で、他の何ものよりも名誉を重んじる。
大部分の人々は貧しいが、武士も、そういう人々も
貧しいことを不名誉とは思わない……」
1549(天文18)年、キリスト教布教のために日本にやってきた
フランシスコ・ザビエルが、本国に送った手紙である。
それから300年、江戸末期から明治にかけて
たくさんの外国人が日本を訪れ、
日本と日本人についての感想を残している。
イギリス人女性旅行家で紀行作家のイザベラ・バードは
1878(明治11)年5月に来日、東北や北海道を旅行し、
こう書いた。
「ヨーロッパの国の多くや、所によってはわが国でも、
女性が外国の衣装で一人旅をすれば現実の危険はないとしても、
無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりするものだが、
私は一度たりとも無礼な目に遭わなかったし、
法外な料金をふっかけられたこともない」
1856(安政3)年、通商条約を結ぶために来日した
ハリス提督は、その日記にこう記している。
「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。
一見したところ、富者も貧者もない。
これが人民の本当の幸福の姿というものだろう。
私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、
この人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、
疑わしくなる。
私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く
日本において見出す。
生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、
現在の日本の顕著な姿であるように思われる」
1890(明治23)年来日のドイツ人宣教師の記録。
「私は全ての持ち物を、ささやかなお金も含めて、
鍵を掛けずにおいておいたが、
一度たりともなくなったことはなかった」
フランスの詩人ポール・クローデルは
1921~27(大正10~昭和2)年まで駐日大使を務めたが、
第二次大戦で日本の敗色が色濃くなった
1943(昭和18)年、パリで言った。
「日本は貧しい。しかし、高貴だ。
世界でどうしても生き残ってほしい民族をあげるとしたら、
それは日本人だ」
私たちの祖先は勤勉・正直・親切・謙虚・素直・感謝といった徳目を規範に、
幾世紀も暮らしてきた人たちであった。
外国の人たちの証言はそのことを明らかにする。
さて昨今は……隔世の感、と言わざるを得ない。
この日本人の美質を取り戻し、後生に渡さなければならない。
私たち一人ひとりがこの美質を涵養し、発揮した時、
日本は真に豊かな国となる。
富国有徳とはこのことである。
先覚者安岡正篤師の言が思い起こされる。
「人々が己れ一人を無力なもの、ごまめの歯ぎしりと思わず、
如何に自分の存在が些細なものであっても、
それは悉く人々、社会に関連していることを体認して、
まず自らを良くし、また自らの周囲を良くし、
荒涼たる世間の砂漠の一隅に緑のオアシスをつくることである。
家庭に良い家風をつくり、
職場に良い気風をつくれないような人間が集まって、
どうして幸福な人類を実現できましょうか」
富国有徳への道は一己より始まることを、
私たちは忘れてはならない。
「紙芝居は我が命」
杉浦貞(プロ街頭紙芝居師)
『致知』2012年10月号
致知随想より
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まだ誰もいない公園を背に、
よく音のとおる拍子木を打ちながら街を回る。
二十分もすれば、子供たちが公園に集まり出す。
子供たちが自らの感覚で小さい子は前、
大きい子は後ろの順で座りだせば、
いよいよ街頭紙芝居の始まりだ。
街頭紙芝居は、マンガ一巻、続き物の物語一巻、
最後にとんちクイズ十問が出て、
正解者は水飴券がもらえるという決まりで行われる。
もっとも紙芝居はただ子供たちを喜ばせればよいと
いうものではない。
例えば水飴券は一週間後にしか使えないため、
その間子供たちには我慢することを教えている。
また、クイズでの「ハイ」の返事は、
私の目を見てしないとやり直しをさせている。
元気な返事が子供たちの自立心を育て、
友達関係を良好に築く原点となるのだ。
私はプロの街頭紙芝居師としてこの道三十二年、
毎週十二か所以上、年間六百回以上紙芝居を
上演することを生活のためのノルマとしてきた。
しかも駄菓子の値段を三十二年間、
一度も値上げすることなく一律五十円を守り続けているのだ。
だが最盛期だった昭和三十年代に
紙芝居師が全国に五万人いたのもいまは昔。
現在、紙芝居で生計を立てているプロの街頭紙芝居師は
八十一歳になる私一人のみだが、
二百年の歴史を持つ紙芝居という、
日本独自の文化を担っているという気負いはない。
むしろいまの仕事は我が天分であり、
楽しくてやめられないというのが本音だ。
初めて街頭紙芝居を見たのは二十歳の時だった。
石川県羽咋市という田舎から身一つで大阪に出てきた私は、
その日も日雇いの仕事を終え、
大道芸が並ぶ盛り場をあてもなく歩いていた。
ふと広場の片隅に年配の老人が子供や婦人たちを集めて
何かをしているのに気がついた。
聞けば紙芝居屋といって、いっぱしの職業だという。
肉体労働だけが生きる道だと考えていた自分には、
口先一つで生活ができると知った時の
驚きと感動はいまも忘れられない。
紙芝居師を志したのは勤めていた会社が
倒産する一年前、四十八歳の時だった。
すでに紙芝居師は街からほとんど姿を消していたが、
かつて二十歳の時に大阪で偶然出会っていた
紙芝居への潜在意識に火がついたのだ。
最初は祝祭日に知人から道具一式を借り、
家から遠く離れた公園で見よう見まねで上演した。
当時紙芝居師は乞食の一つ上と蔑視され、
家族は私が近所で紙芝居を演ずることを嫌がったからだ。
そんな最中に会社が倒産。
過去二度倒産の憂き目を味わった私にとって
新たな職探しは気が重く、
その反動からかますます紙芝居にのめり込んだ。
だが失業保険が切れる頃になると、
家族の強い反対もあって焦りが募り、
職探しで紙芝居を一週間ほど休んだことがあった。
すると街で私を見つけた子供たちが
しきりに紙芝居をせがんでくる。
いつの間にか、子供たちとの間に仲間意識が芽生えていたのだ。
私の紙芝居を待つ子供たちがいる――。
この瞬間、腹が決まった。
「明日必ず行くから待っとれ!」。
紙芝居屋として生きていこうという
強烈な人生の決断が生まれたのだ。
しかし現実は厳しい。
私の収入が減ったため、妻はパートに、
そして子供二人は高校生になると
バイトに出ざるを得なくなった。
将来への不安が常につきまとい、
それまでの温かい家庭の雰囲気は消え、
殺伐とした空気が漂うようになった。
さらに追い討ちをかけるように、
紙芝居に子供が集まらなくなってきた。
いま思えば紙芝居がマンネリ化していたのだが、
それでも雨さえ降らなければ
毎日、毎日公園へと夢中で出掛けていった。
一月下旬、その日は朝から雪だったが、
午後から急に晴れ間が差すとすぐに街中へ飛び出す。
しかし、目指す市営団地の広場には
雪が積もり誰も集まらない。
いたたまれない気持ちでその場を去ろうとした時、
一人の女の子が自転車置き場の隅からそっと現れた。
私の顔をじっと見つめ、
「おっちゃん、水飴ちょうだい」
と百円玉を差し出してきた。
私は自分が惨めでしょうがなかったが
しぶしぶ水飴をつくった。
そしてもう一本水飴を求めたその子に
「おっちゃん、ご飯食べられるんか」と言われた時には、
私のさもしい心が見透かされてしまったように感じ、
逃げるようにその場を後にした。
その子のことが頭から離れぬままに
十日ほど過ぎただろうか。
ふと自分は心のどこかで子供たち相手の商売を
馬鹿にしていたことに気がついた。
お菓子を買ってくれるのは大人ではなく子供たちなのだ。
自分たちの仲間だと思って対等な気持ちで
水飴を買ってくれる子供たちは、
私の生活の神様なのだ。
そう閃いた瞬間、心が晴れ晴れとして気持ちが
どんどん前向きになるのを感じた。
そして子供たちが喜んでくれることだけを
四六時中考え続けるようになって、
俄然紙芝居が面白くなってきた。
それからは「村田兆治物語」など
意欲的に新しい紙芝居の題材にも取り組んだ。
今年二月には新作「応答せよはやぶさ」を持って、
毎月一週間、東北三県の復興支援ボランティア紙芝居を実践し、
老人や子供たちに諦めない心の大切さと
生きる勇気や感動を伝えている。
きょうも街のいつもの広場や公園で
拍子木を合図に私の紙芝居が始まる。
辛いことは幾度もあったが、
紙芝居師としての自負心や楽しさと、
溢れる感性を武器にその時その時の道を切り開いてきた。
プロ紙芝居師とは、子供たちとの友情を創造し、
深め合える神聖な職業だ。
そして仕事を通じて人格を磨き高め、
紙芝居道の確立に命を燃やすことが私の生きる道なのである。
往復48キロ、高低差1300メートル以上の山道を
1日16時間かけて、1000日間、
9年の歳月をかけて4万8千キロを歩く修行
「大峯千日回峰行」(おおみねせんにちかいほうぎょう)。
吉野・金峯山寺の1300年の歴史で、
2人しか成功したことがない荒行を見事満行した
塩沼亮潤大阿闍梨(だいあじゃり)。
┌───今日の注目の人───────────────────────┐
「人生生涯小僧の心 ~後篇~」
塩沼亮潤(大阿闍梨・慈眼寺住職)
『致知』2007年12月号
「読者の集い」より
└─────────────────────────────────┘
【……昨日の内容】
いまでも一番苦しかったと思うのは、
10日間高熱と下痢が止まらず、体が10キロ以上痩せた時です。
495日目、とうとう一時間ほど寝坊をしてしまいました。
高熱の中ふらふらになりながら滝に入り、
着替えをしてなりふり構わず山に向かいました。
しかしついに力尽きて、両の手に水を持ったまま、
地面に体を打ちつけました。
「ここで終わりか」
その瞬間、耳に響いた言葉がありました。
【……本日はココから】
「どんなに苦しくても、砂を噛むような思いをして
立派になって帰ってこい」
高校を出て仙台から出発する前、母に言われた言葉でした。
私が幼い頃から母は心臓病を患い、貧しくとも自分を育ててくれた。
私が中学校の時離婚し、女手一つで祖母と私を養ってくれた。
自分が18歳になった時、行に行くその日、
「こっちのことは心配するな」と言い、
「おまえの帰る場所はない」と私の食器をすべてゴミ箱に投げ捨て、
気丈に送り出してくれた。様々な思い出が数分の間にかけめぐります。
体はボロボロ、高熱が出る。
その時点でいつもの2時間は遅れておりました。
でもそこから死に物狂いで走り続けて、
山頂に到着したのはいつもと変わらぬ午前8時半。
体から湯気が出ておりました。
私はどんなに辛くても人の同情を買うような行者では
行者失格だと言い聞かせ、人前では毅然としていました。
山中ですれ違う人からはみな「元気そうやねぇ」と言われました。
その舞台裏は誰も知りません。
でもそれでいいのです。
誰に見られるということを意識せず、野に咲く一輪の花の如く、
御仏に対して清く正しくありたい。
苦しみの向こうには何があるのだろうと思っていましたが、
そこにあったものは、感謝の心ただ一つでした。
ついに明日で満行という日を迎えた時、9年間を振り返って、
行きたくないなと思った日は一日たりともありませんでした。
これが私が神仏に守られた一番の理由だと思います。
もしこの身体に限界がないのならば、永遠に行が続いてほしい。
紙切れ一枚で「大阿闍梨」という称号をいただくよりも、
いまの心のまま、最後の一息まで「人生生涯小僧の心」で
ありたいと思いました。
1300年の歴史の中で2人目という偉業を成した凄い人がいます。
その偉業・人物とは・・・
奈良県吉野山の金峯山寺蔵王堂から、大峯山までの
往復48キロ、高低差1300m以上の山道を16時間かけて一日で往復し、
9年の歳月をかけて48,000キロを歩くという厳しい千日回峰行を満行。
さらにその翌年には、「断食、断水、不眠、不臥」を9日間続けるという、
四無行を満行。
という、超人的修行を満行した凄い人物とは、
仙台市の慈眼寺住職:塩沼亮潤氏です。
千日回峰行には、ただ一つの厳しい掟があります。
いったん入行したら高熱が出ても、足の骨を折ろうとも、
途中で止めることは絶対に許されません。
止める時は腰の短刀で腹を切るか、
腰に巻いている死出紐で首をくくるかという命がけの行です。
弊社から発刊された「人生生涯小僧のこころ」には、
39度5分を超える高熱や、足や膝などの肉体的苦痛、
そして、次々に襲ってくる自然の驚異に立ち向かいながら、
時には死と背中合わせの体験の中から、様々な気づきが紹介されています。
「行をするのではなく、行をさせていただくという気持ちで
大自然を受け入れ、一体となって『謙虚』『素直』と
心で唱えながら歩くことにより、怪我や痛みがなくなっていった」
「あと一日で満行というその夜、なかなか寝付かれぬ中、
吉野山に小僧として入山した19歳の頃を思い出し、
明日満行を果たし、『大行満大阿闍梨』という称号をいただくよりも、
『人生生涯小僧のこころ』であるほうがもっと素晴らしいことだと思い
平穏な心で満行することができた」
など、過酷な行を通じて、自然への畏敬と感謝、
そして周りの人々への感謝の思いが【行日誌】に記されており、
いろんな言葉に触れる中で、尊い説法を聞いているような感覚を覚えました。
弊社ホームページで本日(27日)から
「塩沼亮潤大阿闍梨の今週のことば 」が連載スタートしました。
小僧のこころを持ち続けながら、里の行に励まれる塩沼亮潤氏の日常のお姿と、
心に響く言葉に出会っていただけたらと・・・
http://www.chichi.co.jp/essay/shionuma/quotation1.html
背中のかみさま |
菅原里佳さんの、心に響く言葉より… その日はとても暑くて、買い物に出かけてショッピングセンターにつくと、 店内も蒸し暑くて、あわてて6ヶ月の息子のシャツをぬがせようとしたけれど、 いつも通り、息子は泣きわめき、なかなかうまくいかずあせっていた。 いつもいつも息子は泣いていて、よその赤ちゃんと比べても仕方ないけど、私も落ち込んでいた。 夫も長期出張で、たった一人の子育て。 はじめての子育ては、ツライことばかりに思えた。 切ない気持とあせる気持で必死にぬがせようとする私の後ろから、 「がんばれがんばれ、お母さん。 僕は今しゃべれないし、何もできないけど、すぐに大きくなって、お母さんのお手伝いをするから、 今は僕をよろしくね」 という声が…。 ふりかえると、優しい笑顔でにっこりしながら去っていくおばあさんの姿。 涙が出てしまい、お礼も言えなくて。 でも、何か救われた気がして、その日から、子育てでツライ時、1人で落ちこみそうな時は、 あの「背中のかみさま」の声を思い出してみる。 笑える。 背すじがしゃんとする。 私はまだ大丈夫。 ありがとう、「背中のかみさま」 また、会いたいです。 “北海道札幌市 菅原里佳”(39歳) 『思わず泣けるいい話』河出書房新社 昨今、育児ノイローゼと言う言葉をよく聞く。 核家族がすすみ、まわりに相談する人も、 手伝いをしてくれる親族もいない母親が増えたことも原因の一つだ。 ソニー創業者の井深大氏は、 「育児くらい崇高で素晴らしい仕事はない」と言った。 まさに、その通りだが、同時に育児くらい大変な仕事もない。 体力を使い、エネルギーも使い尽くす、ある程度若くなければできない仕事でもある。 育児を終えた人は、「あの頃は、二度と戻ってこない至福の時間だった」、と思うことがある。 子供が、何の疑いもなく、全力で親のもとに飛び込んでくる瞬間。 手をつないでくれる瞬間。 抱っこして、という瞬間。 生涯に二度とない最高のプレゼントをくれるからこそ、親は頑張れる。 小さな子供は… 今は、なにもできないけど、いつか必ず親を助けてくれる。 |
オヒョイさん |
医師の鎌田實氏の心に響く言葉より… |
あいつはいいヤツだ |
萩本欽一氏の心に響く言葉より… 僕のところから出て、何かをつかんだ子というのはみんな、受け取り方、 つまり気持ちの持ち方がいいの。 だからやっぱりすべては性格だよ。 オーディションではみんなうまく演技して、何とか受かろうとする。 そこは一生懸命努力したやつが受かるの。 だけど、努力して受かったやつがそのまま芸能界でやっていけるかっていうと、そうではない。 芸能界ではうまいからって使われることはほとんどないよ。 昔は実力の世界なんて言われてたけど、もう古い言葉。 今は性格なの。 だから、僕が教えてるのは、 「演技は努力しなくていい。性格を努力しろ」って。 僕は長いことテレビやってて、「あいつはうまいから使おう」なんて話、聞いたことない。 一番使われるのは、「あいつはいいヤツだから使おう」っていう、この言葉が多いんですもん。 だとすると、演技なんかより性格を磨いたほうがいいよ。 『ユーモアで行こう!』KKロングセラーズ 性格がいい人は、人から可愛がられる。 可愛げのある人だ。 可愛げがなければ、上から引き立てられることはない。 これは、芸能界に限らず、実業の世界、スポーツの世界でも同じだ。 上司や、社長、監督から引きがなければ、どんなに技術があろうと、 実力があろうと、上に行くことはできない。 可愛げのある人は、素直な人、気遣いのできる人、人の喜ぶことをするのが好きな人だ。 その逆の、自分のことだけしか考えない自己中心的な人は、 可愛げがなくて、性格が悪い、ということだ。 多くの人は、頭を磨くことに汲々(きゅうきゅう)として、性格を磨くことを忘れている。 「あいつはいいヤツだ」、と言われる人でありたい。 |