特殊相対論、ホーキング放射、ダークマター、ブラックホールなど

・時間について特殊相対論からの考察
・プランクスケールの原始ブラックホールがダークマターの正体であるという主張
 

「MN図の唯一性定理」

2022-12-12 04:41:19 | 日記

さて前のページでは
『K’系の観測者が「静止していたのは当方の系であって、動いていたのがK系の方だ」と自分の主観的な観測状況をいくら主張しても時間遅れの測定結果には何の影響も与えません。

「K’系の観測者の主張を取り入れて描かれたMN図=K’系をY軸に採用して描かれたMN図」によれば「時間が遅れるのはK系である」とそういう事になります。

しかしながら上記の観測事実が示す結果は「時間遅れが発生しているのはK’系である」という事でした。

従ってこの場合「K’系の観測者の主張を取り入れて描かれたMN図=K’系をY軸に採用して描かれたMN図」では上記の時間遅れの状況を説明しない為、「K’系の観測者が主張するMN図は現実によって却下される」という事になります。』
という事を指摘しました。



これはつまり「目の前にある現実に対応するMN図はただ一つだけである」という主張になります。

それに対して特殊相対論の通常の解釈ではK系をY軸に採用したMN図とK’系をY軸に採用したMN図の両方を「どちらも現実に対応したものである」としています。

しかしながら前ページで指摘した様に「2つのMN図のうち一つは現実によって却下される」のであります。

それでこの状況を指して「MN図の唯一性定理」と命名します。



この定理によってたとえば「条件を決めて時間遅れの測定を行ったら確かに時間遅れが確認できた」とします。

その場合に「その状況を説明するMN図は一つしか存在せず、それ以外のMN図は全て現実によって却下される」という事を「MN図の唯一性定理」は示しています。

そうしてその定理は「相対運動している観測者は、お互いが相手の時計が遅れている事を確認する、という事はありえない」という事の別の形での表現でもあります。

つまり「片方が相手の時計が遅れている事を観測した」ならば「もう一方は相手の時計が進んでいる事を観測する」のです。

こうして「二人の相対運動している観測者は、一つの現実を共有する事になる」のであります。



さてそれでは何故 相対論の解釈で「相対運動している観測者は、お互いが相手の時計が遅れている事を確認する」としているのでしょうか?

その理論的な根拠はどこにあるのでしょうか?

それは相対論の前提(=仮定)の一つに「全ての慣性系で同じ形で物理法則が成立する」と言うものがあります。

そうしてそれを解釈して「全ての慣性系は平等である=優先される慣性系はない」としているのです。(注1)

この解釈が「相対運動している観測者は、お互いが相手の時計が遅れている事を確認する」を生み出しています。

そうしてそれ以外のどこにも「相対運動している観測者は、お互いが相手の時計が遅れている事を確認する」を支持する「理論的な根拠はない」のです。



さてそれでは「相対運動している観測者は、お互いが相手の時計が遅れている事を確認する」を支持する実験結果は得られているのでしょうか?

いいえそのような実験結果はどこにも見当たりません。

実験によってそのような事実を検証する事は出来ていません。(注2)




さてそれでは「MN図の唯一性定理」の理論的な根拠はどこにあるのでしょうか?

それは前のページで示した思考実験の結果にあります。

その思考実験ではK系とK’系の観測者は一つの現実について同意し「一方の時間が遅れている」ならば「もう一方の時間は進んでいる」に同意するのです。



次に「MN図の唯一性定理」の実験的な根拠はどこにあるのでしょうか?

それは地球に飛び込んでくるミュー粒子の観測結果に求める事が出来ます。

実験事実は「地球を真ん中において右と左から飛び込んでくるミュー粒子の寿命の延びは全く同じである」と観測されます。

これはつまり「真ん中の地球が静止している」のであって「動いているのは右と左から飛び込んできているミュー粒子である」という事を示しています。

つまり「そのような状態を表すMN図が一つだけ成立している」のであって、それ以外のMN図が成立している余地はない、という事を示しています。



しかしながらこの場合、特殊相対論によれば「想定できるMN図は3つある」という事になります。

観測する主体が3つ考えられるからですね。

1番目は上記で示した「地球が静止している=地球をY軸にとるMN図」です。

2番目と3番目は左右のミュー粒子を観測主体としたもので、それぞれのミュー粒子の言い分、「止まっているのは自分である」に従って描かれた、「ミュー粒子をY軸に取るMN図」です。



たとえば「右側のミュー粒子が静止しているというMN図」は右側のミュー粒子の言い分に基づくものですが、その場合は「右側のミュー粒子の寿命は左側のミュー粒子の寿命よりも明らかに短くなる」と言う事になります。

それでそのような結論は現実の測定状況とはまるで一致しなくなり、従って現実によってそのMN図は却下される、とそういう事になります。



次に左側のミュー粒子の言い分を聞く事もできますが、そうすると今度は「左側のミュー粒子の寿命が右側のミュー粒子の寿命よりも明らかに短くなる」と言う事になります。

つまり「ミュー粒子を観測主体としたMN図=ミュー粒子系をY軸に取るMN図」は観測事実によって二つとも却下される事になるのです。



さて、このようにして比較検討しますと特殊相対論の時間の遅れに対する一般的な解釈=「相対運動している観測者は、お互いが相手の時計が遅れている事を確認する」よりも「MN図の唯一性定理」の方に軍配が上がる事になる、と状況はそういう次第であります。



注1:従ってK系とK’系はどちらの観測者も「自分が静止している」と主張でき、その結果はK系とK’系をY軸に設定した2つのMN図の誕生となります。

そうして『特殊相対論はその2つを同時に「現実である」と認める』と解釈する事になっているのが業界の一般常識であります。


注2:実験による観測で時間遅れが観測できる、と言う事実は「観測者の時間に対して測定対象の時計が遅れていた」という事実を示しています。

つまり測定対象から言えば「観測者の時計は進んでいた」のです。

その様にとらえるのが「論理的な思考」と言うのものでしょう。

もしこの時に「観測者の時間が測定対象の時間と同じ様に遅れていた」ならば「観測者は測定対象の時計の遅れは観測できない」=「測定対象の時計は遅れていない」と結論を出すことになります。

そうしてそれ以外の結論はありえません。

それが「論理的思考」=「この宇宙の摂理」と言うものです。

それゆえに「お互いに相手の時計が遅れている事を同時に観測できる」という主張は「物理的な主張」とは思えず「オカルトの主張とほぼ同列のたぐいの主張である」としか当方には思えないのであります。

PS:相対論の事など 記事一覧

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