あるタカムラーの墓碑銘

高村薫さんの作品とキャラクターたちをとことん愛し、こよなく愛してくっちゃべります
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「女の尻で潰したブドウにマーテルをぶっかけて食ったのも忘れられんな」 (文庫版下巻p204)

2007-07-25 00:12:30 | 神の火(新版) 再読日記
2007年2月17日(土)の新版『神の火』 (新潮文庫) は、下巻p186からp272まで読了。

今回のタイトルは、ボリスの台詞。過去の島田先生もそれにお付き合いしたって・・・!? いやあぁぁぁ~! そんなもの食べられるのか!?

今回分は非常に辛く、苦しい・・・。でも、やらなきゃ。逃げられない。


【今回のツボ】

・ボリスと島田先生のやり取り・その2 ハロルドさんと島田先生のギスギスした対話と違い、棘はあっても温かい、毒はあっても効き目がないような(笑)会話なのは、お互いにある一線まで心を許せていたからだろうなあ、と思う。

・良ちゃんと島田先生のご対面。 ・・・としか、言葉が濁せない。 

・山村勝則と島田先生の対話。 「何で!?」と思われるかもしれませんが、今回の再読でここの山村さんに同情してしまった・・・。「高村さんはどんなキャラクターにも愛情を注いでいる」といわれる所以が、ここにも現れているということでしょうか。

・島田先生を救助した際の日野の大将の行為。 いや、人工呼吸をしたり、顔を叩くのは分かるんですよ。早く意識を取り戻さないと、命に関わることだから。だけど、何で瞼を吸う!? そんなに目玉に執着してるのか!?
(実際は先生の閉じた瞼を目にして、眠らないように吸ったという、無意識の行為だと思うが)

・島田先生と日野の大将の音海偵察。 たった二人でここまで徹底してやれるってのは、二人のあらゆる能力が常人より遥かに高いということだ。まったく凄いとしか言いようがない。


【『神の火』 スパイ講座】

フィルムの現像は、これもスパイ教育の必須科目だった。 (文庫版下巻p253)・・・たしか森村泰昌さんの『空想主義的芸術家宣言』(岩波書店)だったかなあ、高村薫作品について述べられていた部分がありました。(もちろん、扮装(?)も。のけぞること請合う「合田雄一郎」の写真と、「合田雄一郎論」が語られておりますよ・・・)
その中に、この島田先生のフィルムの現像をする場面が取り上げられていて、手順の描写が正確なのに驚いた、というような内容が記されてました。


【今回の名文・名台詞・名場面】

★そして島田は、なすすべのないソヴィエト社会主義の敗北を感じ、ほんとうに冷戦構造が崩れていくという実感を持った。冷戦に代わる新たなパワーゲームの幕開けと主役の交代の、まさに狭間に自分や山村や江口が呑み込まれていく、という実感を持った。すでに新たな幕は開いており、時代はまさに変わろうとしているのだ、と。
自分や江口が生きてきた時代の最後のときが迫っている、と島田は心底納得した。これは、過去に引きずられた最後の旅なのだ。
 (文庫版下巻p195)

旧ソ連が崩壊あるいは解体した頃、私は大学生でした。西洋史の講義もとっていたので、担当教授がかなり熱心に詳しく説明されていたのを思い出します。専門の時代や地域やテーマが違えども、不動と思われていた巨大な存在が瓦解していく事実を目の当たりにして心を動かされないのでは、「歴史」を選んだ学者・専門職に就いた人間としては、失格ではなかろうか。

★すべての科学技術は本来、その運用に当たって完全という言葉は使えない人間の所産に過ぎないが、いったん壊れたが最後、周辺地域が死滅するような技術の恩恵を、人間はどれほど受けてきたというのか。原子力は、人間にどれほど必要な代物だったというのか、そう思い至ると、島田は回復不能の懐疑の闇に陥った。 (文庫版下巻p199)

元技術者としてこのように考えること自体、島田先生の変化がここでも分かるというもの。ここは先生の思考を借りた、高村さんの思考でもあるようにも思えますね。

★「ボリス! パーヴェルは裏切り者じゃない! 日本の原発を見たかっただけだ! 日本へ原発を見に来ただけだ! 信じてやってくれ! その子を国へ連れて帰ってやってくれ! 故郷へ埋めてやってくれ! 死の灰の降った土にその子を埋めたら、そこからきっと花が咲く! 血の花が咲く!」 (文庫版下巻p208)

引き裂かれてしまった良ちゃんへの、島田先生の魂の叫び。前回分で「花が咲く」と期待した良ちゃんの才能は、ついに身もつけず、開花することもなく、死という名の新たな種になり、血の花を咲かすことになるのか・・・。

余談ながら、私がイメージする良ちゃんの花は、向日葵です。ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの映画「ひまわり」のイメージも刷り込まれてしまっているのかもしれませんが。(女が男の消息を訪ねて一面のひまわり畑で再会した時は、男には妻がいたという場面。「ソ連=ひまわり」という非常に単純な図式・笑) それを差し引いても、良ちゃんには大輪の向日葵のように笑っていてほしいと思うので・・・(別に小輪の向日葵でもいいんですけど) 太陽に真っすぐ向かい、追いかけ、逃げることない健気な姿が、良ちゃんに重なるの。



というわけで、イメージ画像を挿入してみました。私のパソコンに最初から入っていたものです。

★ハロルドが最後まで隠し、ボリスも言葉を逸らせ、江口も婉曲に臭わせはした決定的な事柄が一つあった。あと数時間、あるいは数十時間のうちに、十中八九この海で命を落とすことになる男がそこにいた。どうしても目を逸らすことが出来ずに、島田は山村の姿を見つめた。国家の巨大な利害が絡み合う迷路を、ここまで来て遂に渡ることの出来なかった老人一人は、島田には他人ではなかった。山村は未来の江口であり、自分なのだ。 (文庫版下巻p212)

ここと、次に挙げた部分で、私は山村さんに同情してしまった。当人も薄々分かっているんだろうけれど、もう何ていっていいのか、かわいそうでかわいそうで仕方なくって・・・。

★つい数日前まで、東京の議員会館と国会を往復して、あっちで檄を飛ばし、こっちで論陣を張り、マスコミに噛みついていた山村勝則という政治家は、山村の一部ではあったが、あくまで一部だったのだと島田はつくづく考えた。戦前あるいは戦中に左翼思想に目覚めた青年は、やがて現実の体制の毒針に刺されて分裂し、社会理念を掲げる理論家の顔、党を支える裏の顔、政治家としての表の顔を持ったが、そのどれもが一部であって、山村という個人はきっとそのどれでもなかったのだろう、と。 (文庫版下巻p212)

ある政治家の公と私、表と裏。政党は違えど、『新リア王』 (新潮社) の「政治家」福澤榮という人間のある一面は、この辺りまで遡ってくるのかなあ。

★狂気や聡明さや、なにがしかの決意など一切をぶち込んだ坩堝のような漆黒の目は、島田の言葉を拒み、驚きや疑念や当惑といった揺れを呑み込んだ。日野は毛布か出してきた手を伸ばし、島田の瞼を撫でた。「この目が見るもんは俺も見てやる」と日野は呟く。 (文庫版下巻p225~226)

良ちゃんを失って、ようやく日野の大将を見据えることが出来るようになった島田先生。それにしても大将の「島田浩二の目玉二つ」への執念は、凄いですねえ。

★装備。その言葉一つで、昨夜から生まれかけていた胎児は産み落とされたのだった。島田は、おぼろげに自分でも想像していた新生児を目の当たりにして震撼した。
音海原発へ行く。計画を立て、しかるべき装備を整えて行くのだ。事柄の生産性や正当性、価値、社会性、値段、一切何もなく、ただ行くのだ。音海原発へ。
 (文庫版下巻p226)

良ちゃんの死と日野の大将の言葉が結びついて、島田先生から生まれたもの。

★原子力が二十世紀の知恵か。日野の特異な記憶力に驚きつつ、「原爆と原発は違う」と言葉を返した。日野は「被曝する側にとっては同じや」とそっけない返事をした。 (文庫版下巻p234~235)

グサリときます。ホンマに日野の大将の言うとおり。身体が破壊され、死に至らしめることは、どちらも同じ。

★「俺は、人間というのは知恵つけた分だけ不幸になると思うとるさかい、良には、女の一人や二人抱いてから、もういっぺん考えろて言うた。……もしそのとき、あれが被曝しとることを知ってたとしても、応えは同じや。言うても無駄やったかも知れへんが」
そうだ、周囲が何を説明し、引き止めようとしても無駄だったことだろう。良はキエフの病院から逃げたときに、すでに物事を冷静に見つめる心の余裕を失っていたのだと、島田も今は考えるのだった。チェルノブイリの四号炉で傷ついた精神は二度と元に戻らず、被曝した身体だけでなく、理性を越えた恐怖が若い精神を痛め続けたのだと。良は原発を恐れ、原子炉の火を恐れ、恐れるものへ突っ込んでいこうとした。良を音海へ駆り立てたのは、病んだ精神の妄想や強迫観念だったに違いない。そう思うと、ひどく憐れだった。
 (文庫版下巻p235~236)

・・・とてもそんなふうには見えなかったわよ、良ちゃん・・・。

★日野はその目を戻して島田の顔に据え直すと、「お前こそ、音海へ何をしに行くんや」と尋ねてきた。
「自分の造ってきたものを見に」
「見てどないするんや」
「人間の知恵のあさはかさを思い知るさ」
 (文庫版下巻p236)

ここまで転回しますか、島田先生・・・。

★懐かしさではなく、ただ、自分が戻るべきところへ戻ったという感じだった。四半世紀前、自分はここで何かを落とし、音海と日野草介から去って、江口彰彦の懐へ入っていった。その前の時点へ、もっと違った人生の可能性がいくつもあった時点へ、俺はやっと戻ってきたのだと、そのとき島田は感じたのだった。知らぬ間に口許が緩み、涙腺が緩んだが、ボートを磯へ着けるためにボートフックを伸ばしていた日野には、見られずにすんだ。 (文庫版下巻p239)

島田浩二という男・その28。陳腐な言葉を借りれば「心のふるさと」というのでしょうか。私にとっての「心のふるさと」は、やっぱり高校生まで住んでいた家になりますかねえ。

★原子力は二十世紀の知恵か。その問いに、胸を張ってイエスと答えられなくなったときに、この自分の人生の終点が来たというのは、偶然にしても、よかったと島田は思った。少なくとも人間の知恵の過信や傲慢を捨てることが出来ただけ、迷いに迷ってやっと誠実さという小さな果実に手が届いただけ、自分はよかったのだと思った。 (文庫版下巻p247)

島田浩二という男・その29。それに気づくために、たくさんの犠牲を払い、たくさんのものを失いましたけどね・・・。


「客は僕らだけだから、一緒に入りませんか?」 (文庫版下巻p131)

2007-06-27 00:43:53 | 神の火(新版) 再読日記
もう、今さら言い訳はすまい。

2007年2月16日(金)の新版『神の火』 (新潮文庫) は、下巻p127からp186まで読了。

今回は全ての島田浩二さんファンを仰天、悶絶させた台詞から。
以前も述べましたが、適材適所というべきか、「このキャラクターにはこの台詞がふさわしい」というのがあって、今回のタイトルに選んだ台詞も、島田先生以外のキャラクターは決して言わないだろう台詞ですね。そう、島田先生だから許せるんです。許せるんですが・・・。
川端さん! ズルイよー、ひどいよー、先生とお風呂入るなんてー!

そういう私が「先生にお誘い受けたら入るのか?」といえば・・・エステ通って肌を磨き、ダイエットしてそれなりの体型になり、恥ずかしいのでバスタオル巻いて湯船に浸かっていいのであれば、喜んでご一緒します。すっぽんぽんで入る度胸は、さすがにない(笑) ・・・この時点で川端さんに負けてるやん、私・・・。


【今回のツボ】

・島田先生と川端さんの露天風呂入浴。  ネタバレ。 だけどね・・・和やかにお風呂に入っているこの時にはね・・・良ちゃんはね・・・危篤状態で苦しんでいたんだよね・・・。 

・コース3とコース4。 どちらか選べというのなら、マッサージしてもらってゆったり出来るコース4がいいな。

・江口さんと島田先生の対話。 ここで初めて江口さんが「どうしてスパイになったのか。(先生を)スパイにさせたのか」が判明。ここの対話も好き。

・船を操縦しながら、心で良ちゃんに語りかけている島田先生。 この場面は個人的には、『レディ・ジョーカー』 (毎日新聞社) で合田さんがヴァイオリンを弾きながら、心で半田さんに語りかけている場面に匹敵する名場面だと思います。
分からない方は、こちら をご覧あれ。


【今回の音楽】

「王将」・・・ 今は亡き村田英雄さんの名曲。改めて歌詞を見たら、日野の大将にふさわしくありませんか?
「津軽海峡冬景色」・・・ 石川さゆりさんの名曲。文庫の表記ではこうなってますが、正しくは「津軽海峡・冬景色」。改めて歌詞を見てみると、「風の音が胸をゆする 泣けとばかりに」の部分が、これからの展開に重なってしまう・・・。


【宮津・天橋立地どりスポット】
今夏の地どり、3泊4日コースの場合1日費やしていいと思っている宮津と天橋立。2泊3日の場合でも、せめて半日・・・無理かなあ。順不同であっても、行ける限りは行きたいです。

・聖ヨハネ天主堂(カトリック宮津教会)・・・ここでもはずせないのが、教会ですね。島田家も宮津に来た折には、寄っていたそうな。 

・島崎公園・・・島田誠二郎さんが幼い島田先生を連れてきたり、また木村商会ご一行が滞在した高級割烹旅館が、この付近にあります。

・文珠堂、廻旋橋、小天橋、大天橋、天橋立、文珠山の展望遊園地(天橋立ビューランド)・・・木村商会ご一行の観光コース。季節は違えど、辿りたい。

・由良川・・・宮津-舞鶴間に流れる川。百人一首に選ばれている 「由良の門を 渡る舟人 梶を絶え 行方も知らぬ 恋の道かな」 にも、詠われていますね。(「由良」の場所は諸説ありますが)
個人的には、この和歌は加納さんの置かれている情況にふさわしいと思うので(特に「行方も知らぬ 恋の道かな」の部分)、加納さんに捧げたい(笑)


【『神の火』 スパイ講座】

「情報というものは、一に蓄積、二に分析、三に雪だるまだもの」 (文庫版下巻p158)・・・私はスパイではないので当然ですが、「雪だるま」の意味がどうにもこうにも良く分からない・・・。どなたか教えて下さいな。


【今回の名文・名台詞・名場面】

★「父親が残した財産を、あんたは何やと思うてはりますんや」と言い出した。「よう聞きなはれや。誠二郎くんは、生前よう言うてましたんや。息子は自分のあとに金しか残すことの出来ない人生を選んだんやて。どういう意味か私にはよう分かりませんが、そやから息子には出来るだけの金を残してやりたい、親族にむしり取られんようにしっかり見てやってほしい、て私は頼まれましたんや。いくら死んだ後のことやと言うても、何ですねん、これは」 (文庫版下巻p138)

亡き父・誠二郎さんの遺産三億五千万+αを、先妻・沢口由紀子に一億、日野草介に五千万と遊覧船、川端美奈子に五千万、良ちゃんに一億五千万を、島田先生の死後に分配するという遺言状を見た、弁護士・中川晴雄さんの説教。誠二郎さんとは長い付き合いだった弁護士なので、こう言いたくなるのも当然。
しかし先生は別の意味で衝撃受けてます。「自分のあとに金しか残すことの出来ない人生を選んだ」息子が、その通りに行動していることを、誠二郎さんに見抜かれているから。
そりゃあ息子としてはショックでしょうが、父親もこんな息子を持ったら、かなわんもんと思いますよ、先生?

★「海を眺めて物思いに耽るのは非生産的だと分かっているから、漁師も船乗りもそんなことはしない。海については、彼らのほうが正しいですよ」 (文庫版下巻p153)

それは「仕事」に選んだ人と、そうでない人の差だと思いますよ、先生? 江口さんは海が好き、船が好きなんですから。以下を読めば分かります。

★「君は船が好きなんで、商売が好きなんじゃないよ」 (文庫版下巻p156)

★「僕がそんなものを買ったら、絶対に仕事をしなくなる。船は、僕を腑抜けにするんだ。それだけは禁断の果実だ」 (文庫版下巻p156)

上記二つの引用。江口さんが船好きだというエピソード、島田誠二郎さんの発言と江口さん自身の発言。出来るものなら太平洋横断とか、世界一周とかをやりたかったんでしょうかねえ? もちろん先生をお供にして(笑)

★「あなた、なぜソヴィエトのスパイになったんです」
「そういう時代だった、というのが一つ。私という個人の性向がたまたま向いていた、というのが一つ。めぐり合わせが一つ」
「そういうことじゃなくて、あなた自身の動機は」
「日本国の人間として、自分に出来ることをしただけだよ」
「どういうことです……?」
「私の年代はね、皇国日本という強烈な国家意識をもって育ったんだ。小さいころ、外国へ行くたびに私は自分を日本国の人間だと意識もしたし、周りもそうだった。これは当たり前のことだよ。ハロルドが自分を合衆国の人間だというのと同じことだ。だから、敗戦のとき、私はこれで新しい日本国が出来るぞと小躍りしたもんだ。軍人も戦争も大嫌いだったからさ……。ところが、五年待って十年待って、あれれ……だ。国民主権というが、国民の選んだ政治家が、外国から金貰って言うなりになっている国がどこにある。労働団体も社会主義政党も同じ。冷戦構造なんか言い訳にならない。日本人が自分の国と意識するに足る主権を持ってこなかったのは、全部日本人の責任だ。自分で考えず、自腹を切らず、責任も取らず、自分の懐だけ肥やすような国民に、自分の国が持てるはずがない。だから、私は日本人の商人として、自分のやるべきことを決めたのさ。まず人頼みはしないこと。情報は自分で取ること。自分の頭で考え、自分の行動は自分で決めること。借金は必ず返すこと。迷惑をかけた相手には必ず償うこと。これが、始まり」
 (文庫版下巻p157~158)

長い引用になりましたが、これがスパイ《ロラン》江口彰彦の誕生のいきさつ。かなり重要な部分だと思うので、端折りませんでした。

★「対価は必ず支払わなければならないものだからね。しかし、私はいつも、今はまだない日本国の人間として支払ってきた。取るに足らないことだと君は思うかもしれないが、私にとっては何ものにもかえがたい快感なのだよ。たかがスパイでも、日本国の江口彰彦を名乗るというのは……」
「その快感は、あなたがよく言う〈空洞〉を埋めるのに役立ちましたか?」
「〈空洞〉はどこまでも個人の問題。私は今、すべての個人が持たなければならない自分の国の話をしている。理性であれ感情であれ、〈空洞〉であれ、それを持つ個人は同時に家族を持ち、社会を持ち、国を持つ……そういう話だ」
 (文庫版下巻p159)

スパイとしての江口さんの最低限の矜持が、見え隠れしてますね。しかしそれでも、何度読んでも煙に巻いているかのような感覚がするのは、江口さんの語りが理解出来ていないせいかもしれない。理解することと共感することは、別問題ではありますが。

★「君をなぜ、引っ張り込んだということかね?」
「ええ」
「私はこの二十年、君がいつそれを尋ねるだろうとずっと待っていたんだが」
江口は声をかみ殺して肩が揺れるほど笑った後、「君はね、私が見つけた土地だった」と言った。
「この舞鶴にね、草一本生えない、誰も手をつけない土地が一つ、あったと思えばいい。いや……、あの日野草介がひとり、裸足で踏み荒らして遊んでたっけ」
「その土地に地質改良を施して、作物を植えたわけですか」
「まあ、そういうことだ」
「あまり、思いどおりにいかなかったでしょう?」
「いや、いや。実り過ぎて、私の方が困る結果になったさ。他人に目をつけられて、狙われて……。防戦のために、儲けた分以上の出費を強いられた。商売の読み違えだね、これは」
 (文庫版下巻p160)

そりゃあ、島田先生はとっても美味しい「土地」でしょう! 手をかければかけるほど、期待に応えてくれますからね。
ここは見方を変えたら、「愛の告白」でも取れますね・・・。目をつけたと思ったら、違う人間に先を越されていたという、恨み言にも聞こえる(笑)
旧版『神の火』 では、土壇場の土壇場で、とんでもない告白をやってのけ、読み手をのけぞらせた江口さんではありますが、ここではかなりオブラートに包んで、分かりにくくしているのかも。

★江口は、個人の問題と国の問題を切り離して語ったが、実際の人間の行動はそんなふうに割り切れるものではない。島田がどうしても良を取り返さなければという思いに駆られるのと同じように、江口は島田を《北》には渡さないと無条件に決めたのだ。自分の値打ちを省みて、島田はそういう結論を出した。 (文庫版下巻p160~161)

島田先生も自覚しているから、性質が悪い(笑)

★それでも江口は、個人の問題は決して人には漏らさないのだった。ただ、今になって何となく分かるのは、どうやら子供が欲しかったらしいということだけだ。しかし、決して自分の口でそうと言うことはない。島田は、ひょっとしたら、自分がその子供だったのかなとおぼろげに感じることはあったが、そういった話が江口との間で話題になることは、永久にないことはたしかだった。 (文庫版下巻p161)

いや、その通り「江口さんの子供」でしょ? 「スパイ・島田浩二」の生みの親であり、育ての親であるのだから。優秀なのに、今になって反旗を翻すようなことをしている「息子」を持ってしまった「父親」としては、たまったもんではないでしょうが、ね。

実父ではないけれど、育ててくれた誠二郎さん。スパイとして育てた江口さん。二人の「父」とのそれぞれの繋がりによって、今日の島田浩二という人間が形成されたのかと思うと、やるせなくなりますね。

★パーヴェル。少しくらい、物は食ってるかい? 食ってないんだろうな。君はけっこう我の強いところがある。嫌だと思ったら、口をこじあけられても食べな利かん坊だ。そして、そうだな……。頭がよくて、自分の頭で物を考えることが出来るから、忠誠心は今ひとつだろう。君はロボットじゃないということだ。江口は君を兵士だと言ったが、君は、前線で戦況を自分の目と頭で判断して、こうと思ったら上官の命令にも従わない平氏だ。危険文士。どうだ、当たってるだろう? いや、そんなことは小さなことだね。 (文庫版下巻p165)

★……そうだ、僕は君の手紙を読んでいて思ったんだが、君はきっとたくさんのことを腹に溜めたまま、外に出すことを許されないできたんだろう。不満とか、懐疑とか、憤怒だけではない。嬉しいとか楽しいとかいった普通の感情もだ。健康の不安や、君が置かれた状況のせいで、そんなふうになったのだろうと思う。僕も表向きは少し似ているが、僕の場合は、感情の中身がもともとほとんどなかっただけで、本質的には君とは違う。君はほんとうに生身で、その生身がうちに溜まった毒素を放出出来ないまま腐っていくのを、僕は目の当たりにしているような気がした。こんな言い方をして申し訳ない。しかし、君は溢れるほど中身がいっぱい詰まった生身の人間で、もう長い間、閉じ込められていたのだけれど、病気を治したら、きっと花が咲くと思うのだ。才能や感情や意欲や希望や、ありとあらゆるものが君の中から溢れ出すときが来ると思う……。君の十年後は小説家だぞ、きっと。 (文庫版下巻p166)

★ばかなことを行ってるひまがあったら、原子炉の話をしろって? 僕はいつでも話はするつもりだった。知りたいことは何でも教えてあげたかった。しかし、あれやこれやで、遂に時間が取れなかったね。君もとうとう音海発電所は見ずじまいだ……。
……そうそう、僕は今、若狭の海にいる。音海はすぐそこだ。君がほんとうに音海へ行くつもりだったのかどうか、僕は今でも半信半疑だ。出来る、出来ないは別にして、行ってどうするつもりだったのか、僕は君の口をこじあけてでも聞いておくべきだった。どうしてかって? 君の考えていることは、どんなことでも知りたいと思うだけだ。ほかに、考えたいと思うようなこともないし、僕は今、こうしている間も、君のこと以外に何を考えたらいいのかさっぱり分からない……。
 (文庫版下巻p166~167)

島田先生が良ちゃんの本名パーヴェルへ語りかけたことを、取り上げました。
先生から見た良ちゃんの姿・性格は、なかなか興味深い。・・・的確に言い当てているかどうかは、良ちゃんに問いたださないと分かりませんが(笑) そして良ちゃんを介して、先生自身の姿・性格も映し出しているという二重構造にもなっています。再三記してますが、良ちゃんによって、島田先生は変わることが出来たんですよね。

この辺りを再読すると、初めて読んだ時よりも物悲しさが漂って仕方ない。良ちゃんを待ち受けている運命を、既に知っている状態でないと・・・。「花が咲く」との言葉で、良ちゃんの可能性に賭けている先生の思いも・・・。

ここは上記にも記してますが、合田さんの「半田さん3連発」に匹敵する場面。共通点は、「何か別のことをやりながら、相手に語りかけ、自らの姿も省みていること」。

★「腹くくらなあかんときは、腹くくるもんやで、浩二」 (文庫版下巻p176)

数々の修羅場をくぐり抜けてきた男の言葉は、重い。

★この大胆さはどこから来るのだろう。人生にあいているという大穴から来るのか。自分とはまた違った空疎から来るのか。日野のそれが、死の恐怖さえ呑み込むほどの穴だというのなら、自分の穴より大きいということなのだろうか。 (文庫版下巻p182)

未だに日野の大将のことを理解しきれていない島田先生。今は良ちゃんのことでいっぱいいっぱいだものね。


「ひらべったい魚、きのう食べた」 「あれは、アジの開きよ、加奈ちゃん」 (文庫版下巻p83)

2007-05-04 21:32:16 | 神の火(新版) 再読日記
2007年2月15日(木)の新版『神の火』 (新潮文庫) は、下巻p58からp127まで読了。

今回は微笑ましい川端さん親子の会話をタイトルに選びました。

【今回のツボ】

・日野の大将の狂気と執着。 徐々に明かされていく大将の内面。上巻では島田先生は気づいてませんでしたが、ここでやっと原因が「島田浩二」にあると自覚。

・コース3とコース4。 新版『神の火』で、ある意味で最大の謎と目されているこれをはずすわけにはいきません。全6コースあるのですが、公にされているのは、コース3とコース4。

コース3・・・シャワーを浴びた後、素っ裸でベッドに入り、シャンパンで乾杯し、特上の葉巻を味わい、ブリニ(蕎麦粉で作ったパンケーキのようなもの、らしい)の上にキャビアとサワークリームをのせて食べる。

コース4・・・風呂に入った後、お酒を飲みながら(今回はマーテルのXO)、マッサージ師に身体をほぐしてもらう。
当初、私が付き合ってもいいと公言したのは、このコース4。マッサージ、気持ちよさそうなんだもん。お酒は飲めないので、お茶で和む(笑)

残りの1、2、5、6コースはどんなものなのか、考えても答えはないし、想像もつかないのですが、知りたいと思うのも致し方なし。しかし江口さんと島田先生だからなあ・・・。この二人の「何がどうした状態」が最もリラックスできるのかが、さっぱり分かりません。

・八〇ホン氏。 木村商会を辞める島田先生の後任の人。本名不明。声が大きいという川端さんの嘆きを聞いて、先生が名付けた。 

・ハロルドさんの変装。 灰色のカツラ、作業着の上下にジャンパーまではいいとしても、雪駄って! 天下のCIA職員が、そこまでやらなきゃならんとは・・・。

【今回の書籍】

船舶運行の教習書・・・父・誠二郎さんの形見のクルーザーを貰うので、木村商会の倉庫から探し出した本。出版社名・題名、ともに不明。


【『神の火』 スパイ講座】

「何かを実行するとき、一〇〇パーセント成功するという保証がない限り、私たちは呼びの策を講じておくのが普通です」 (文庫版下巻p104)・・・CIAに属するハロルドさんの、スパイとしては当然過ぎる発言。

スパイは、兵士のように一つの体制に縛られる義務や献身という観念はもたない (文庫版下巻p126)・・・かつてはそんなスパイだった島田先生。良ちゃんに出会い、関わってからは「義務や献身」に目覚め、そういう点ではスパイ失格。人間としては合格。


【今回の名文・名台詞・名場面】

★先祖か。自分の場合、母清子のご先祖は何だったのか。名も知らぬロシア人の父の先祖は何だったのか。それぞれの、それなりに人並みだったはずの三十億個の遺伝子が、卵子と精子の一瞬の結合でかけ合わさった結果がこれだと思えば、生まれてこなくてもよかったという長年の思いに輪をかけるだけのことだった。一方、無数の偶然の一つで生まれてきたこの人生の一つを、こんなふうにしか使えなかったのは唯、己の責任だと思えば、それは死ぬまで逃れられない問題なのだった。なぜ、手を染めたのか。なぜ、手を退かなかったのか。なぜ、告白しなかったのか。なぜ、自首しなかったのか。 (文庫版下巻p63~64)

★島田は待ち続けた。それは、一刻一刻近づいてくる希望の時間でもあったし、諦めへの準備の時間でもあったが、そのうち、自分自身の心臓が生きて心拍を刻むのを味わう時間になった。愛しいと思ったこともない自分の心臓が、そうして無神経なまでに刻々と脈打つのを聞いていると、それがいつか止まるというのは、自分にとって受けいれがたい不条理なことのように思え、恐怖を感じた。たしかほんの一日前、いろいろな覚悟が出来たと思ったはずだが、あれはただ希望のなさのすり替えだったか。この心臓が止まるという不条理を受け入れるためにはまだ、通り過ぎなければならない段階がいくつもあるに違いなかった。短絡することなく、自暴自棄になることなく、理解し、納得し、克服し、感謝する、という過程を経るために人は八十年もの寿命を与えられているのなら、それを半分の長さでやるというのは生半可なことではなかった。
どのくらいの時間があれば、自分にはそういうことが可能なのだろう。そして、何をどのように考えていけば、可能なのだろう。懺悔? 告解? 祈り?
 (文庫版下巻p65~66)

島田浩二という男・その26と27。どちらも長い引用になりましたが、ここははずせないと思ったので。

★良が手紙に書いていた五冊の本が、この中のどこかに入っているに違いない。そのバックパックの布地を、島田はしばらく自分の指先で撫で続けた。一つの命に対する責任というより愛しさ、決意というより懇願の塊が、どことも言えない自分の身体じゅうから噴き出してくると、ほとんど押し潰されるような思いで畳にひれ伏すしかなかった。 (文庫版下巻p69)

新版『神の火』で、島田浩二さんの最も好きな場面はどこか?」と問われたら、私は迷わずここを挙げる。
「ひれ伏す」という表現で、まずやられた。それに先生にとっては「バックパック=良ちゃん」、つまりこれが手元に残った良ちゃんの命そのものだから・・・。「命は地球より重い」と言われますが(最近はそれを軽んじる事件が多々発生してますが)、良ちゃんの命を背負った先生が、その重さに比例して地球にのめりこむように「ひれ伏す」姿に心打たれ、胸が締めつけられるのです。
そんな島田先生が、私は大好きだ~! (雄叫び)

★「代理というのはなんです」 (中略)
「戦後、この国で政治をやってきた者は、みな、何者かの代理ですやろ。天照大御神の代理の代理、GHQの代理、農家や業界の代理、道路が欲しい市町村の代理、ワシントンの代理、モスクワの代理、北京の代理。代理でない日本国の政治家は、ひとりもおらしまへん。敗戦の負債を払う代わりに代理国家になり下がったんやさかい、仕方おまへんな」 (文庫版下巻p76)

島田先生と山村さんの会話。『晴子情歌』 『新リア王』 (ともに新潮社) を読んだら、こういう部分を素通り出来なくなりますね。

★Дорогой друг Павел (親愛なるパーヴェル)
君の顔がぼくの頭から消える日はない。君に会えるという思いがゆらぐ日もない。
君に会えたら、ぼくは原子力の話をしよう。
ぼくは必ず君を迎えに行くから、君はそのとき、ぼくにこの小説の話をしてくれ。
君のことを考えたら、ぼくは眠れなくなる。
 (文庫版下巻p78~79)

島田先生はこれを「伝言」と言いましたが、これを「伝言」というのか!? そう思っているのが先生だけというのが・・・言葉なくしますわ。ホンマに、ホンマに、あなたって人は~!

★二人で断崖のてっぺんから下を眺めながら、日野が島田を見、島田が日野を見た目はともに、虚空への誘惑に効しがたいといった異様なものだったのだ。その虚空は、子供には名付ける言葉がなかったが、今はそれが、虚無の中の虚無というべきものだったと島田は感じるのだった。互いにそれぞれのレベルで抱えていた子供なりの虚無が、断崖の上で奇妙に呼応したというところだ、と。 (文庫版下巻p87)

ネタバレ。 この二人の歴史って、「断崖で始まり、断崖で終わった」のですね・・・。 

★江口は「虚礼廃止でいこう」と応えた。「私たちはこれから、自分の望むように生き、望むように振る舞うんだ。そうすれば、もっと楽になる」
「望むものが食い違ったら?」
「私の教育が至らなかったと諦めるさ」
 (文庫版下巻p97)

コース3終了後(・・・)の江口さんと島田先生の会話。この時点では、未だに江口さんは先生が変化しつつあると、気づいていないような・・・。でも、気づいているんだろうなあ。それをおくびにも出さない、相手に気づかせないのが、江口さんなんだからなあ。そして父親のようであり、母親のようでもある江口さん。

★一つ何かが決まると、一つ道が開けたように、少し気分が軽くなる。 (文庫版下巻p109)

本当ですね。私も一つ記事を完成させるたびに、少し気分が軽くなりますよ(笑)

★「それにしても何やなあ……。島田先生というダシがのうなったら、わしとあんたも並んで歩きにくうなるな、川端さん」「何でですの」「わし、変態やと思われる」「熱々よりましですわ」 (文庫版下巻p114)

堀田さんと川端さんのこの会話、好きなもので挙げてみました。

それではまとめて、日野の大将と島田先生の場面のピックアップ。かなり多いです。

★「アホや、お前は」
「どこが、どうアホなんだ」
「小さい頃から、お前はいつも森羅万象について考えとったやないか。その結果がこれかい。何も残さないで消えてしまうことが出来へんのが物質やて言うたん、お前やぞ。お前は消えたつもりでも、同量の残骸が周りに残っとるわ、このやろう」
「スルメ噛みながら、何を言うか」
「お前がどこへ消えても、たとえば俺の中にお前があけた穴はそのままや」
「俺があけた穴って、何だ……」
「穴は穴や。今でも分からん穴……」
 (文庫版下巻p121)

★「一緒にいても、ちっともおもろいことない。話も合わへん。どこまでも感覚が違う。そやのに俺は、年がら年中お前につきまとってた。お前のその目がきれいできれいで、それ見てたかっただけや。小学校になったら、今度はその目、いっぺん突き刺したいと思うようになって、その一心や。中学になったら、今度は食うてみたいと思うようになってよ。ほんまの話やぞ。で、俺は自分の頭がおかしいんやと悟った。これが俺の穴。手に入らんもんを目の前にしている、いう解決不可能な穴や。……分かるか?」
「そうか、そういえばお前は魚の目玉が好きだったな」
「おかげで頭がようなった」
「盆の祭りの日に会ったときも、そんなことを考えたのか?」
「ちらりとな。……そやそや、俺はこいつの目玉が食いたかったんやてな」
 (文庫版下巻p121~122)

★「死んだらやるよ、二つとも」
「ほんまか」
今まであらぬ方向を向いてスルメを齧っていた日野が、いつの間にかこちらを見つめていた。ベランダから差し込む戸外の薄明かりを浴びたその眼球は、ただ黒御影石のようで、とくに感情もない虚ろな穴だった。しかし、口先と頭の中身に断絶があることは分かったが、日野が何を考えているのかは島田には分からなかったし、読み取る忍耐もなかった。
 (文庫版下巻p122)

★「何じゃい!」と日野は振り向いた。今しがたと打って変わった目の色は、名付けようもない感情の海で、島田には受け止めることの出来ない異様なうごめきに満ちていた。それを見ながら、島田は一瞬のうちにさまざまなことを考えたが、続いて出てきた日野の言葉はしかし、島田の感慨も寄せつけない鉛の響きになっていた。
「お前の目玉二つは俺のもんや」
 (文庫版下巻p123)

★酔っているから、考えられる。つい数分前、得体の知れない日野の目を眺めながら一瞬のうちに考えたのは、かつて自分が日野の喜びにまるで関心を払わなかったこと、山も海も輝いてはいたがその輝きを人と共有したことは一度もなかったこと、いつも一緒だった日野が自分の目を見ていたのすら気づかなかったこと、などだった。そして、そうした自分の無関心が日野の繊細な神経を逆撫でしてきたのかも知れないということも、今ごろようやく考えたのだった。 (文庫版下巻p124~125)

★しかし、かつては日野が見入ったのが、カレイの脊椎の数を一つ二つと数える子供そのものではなく、その目だったというのなら、日野はその目の空疎さにも気づいたことだろう。それがきれいであろうが何だろうが、空疎に魅せられた者の胸には空疎の穴があく。空疎は手に入れるものではなく、阻まれるものであり、どんなに望んでも近づけないのは人の目玉と同じなのだ。 (文庫版下巻p125)

★一度も人の目など見てこなかった自分に、日野の人格の内側など見えるはずがない。今ごろほんの少し目が開かれたとしても、もう何もならない。
俺は空っぽ。お前は狂ってる。どちらも他人の目には見えない形で、三十数年そんなふうだったのか。すり合わせるすべがないと直観で察した故の穴なら、俺にもあいている。
 (文庫版下巻p125)

日野草介と島田浩二。かつては「幼なじみ」と呼ばれた関係も、大人の男になった今、初めて見えてくることがたくさんあって、先生は消化しきれないようです。すり合わない部分にも気づいていながら、奥底では同じようなものを見、同じような想いを抱き、それでも同じように相容れない、二人の複雑で不可解な関係。

★スパイをやめた自分が、生まれた初めて望んだ義務の味はわずかに甘美だった。一切の疑いも迷いを入らず、一切の対価もない、この薄ぼんやりとした美味が自由の味なのか。 (文庫版下巻p126)

日野の大将が嵐のように島田先生の心をかき乱したとしても、既に先生の心は、良ちゃんを想う気持ちでいっぱい。大将、報われません(苦笑)


「和洋折衷」(略)「へえ、あんパンみたいなもんやな」「そんなに甘くない」 (文庫版下巻p48)

2007-04-21 23:10:00 | 神の火(新版) 再読日記
2007年2月14日(水)の新版『神の火』 (新潮文庫) は、下巻の最初からp58まで読了。

今回のタイトルは迷ったんですが、こちらに決めました。カムフラージュでパチンコやっている島田先生が、隣のおっちゃんに声をかけられ「どこの人や」と訊ねられた後の会話。
・・・確かに先生は自身で言っているように「甘くない」けれど、「おいしい」のですよ? それに気づいてますか、先生?

ちなみに迷ったのは、島田先生がカムフラージュで観に行ったポ×ノ映画の三本立てのタイトル(爆) しかも先生、わざわざ声に出してるし~。声に出すのだけはやめて!
タイトルに選ばなかった理由は、迷惑TBがいっぱい来そうだったから(苦笑) ところでこんなタイトルのポ×ノ映画、本当にあったんだろうか?


【今回のツボ】

・江口さんの「手」の表現・その2。コンサートホールという公衆の面前、並びに外事警察の目の前で、あんなことするのが江口さんらしい。

・世間知らずな島田先生。 ぼんぼん育ちもここまでいくと、ツッコミどころ満載ですな。【今回の名文・名台詞・名場面】で挙げるわけにもいかないので、ここで箇条書き。恥ずかしいので(←意味不明)、色も変えず太字にもしてません。

 ソープランドというのは、風呂に入ったついでに女性にマッサージをしてもらうところだという自分の認識が間違っていたと知り、へえと思う。 (下巻p19)

・・・今どきこんなウブな男性がいるんだろうかと思いたくなるが、島田先生ならしょうがないよなあ、とも思えるのですよね。おまけに「洞察力の欠如」と反省しているし(苦笑)

 (ソープランドの<天使>サユリちゃんについて、隣に座ったおっちゃんと先生の会話)
「そんなかわいこちゃん、宣伝用のモデルやさかい」
「そうだと思った」 
「ひどいのになったら、風呂三十分、着替え十分、本番五分や」
「五分じゃ、ちょっとな……」 (下巻p20)

「そうなのか・・・」と私が感心してどうするの(爆) いや、こんな業界の習慣(?)は知らないから・・・。私も先生と同様にウブですし・・・(←嘘つけ!)

 ソープランドは清潔そうだし、得体の知れない女を拾うよりよほどいいなと思ったりした。 (下巻p20)

先生ってば何を思ってるんですか~!? 「得体の知れない女」だけはやめてー! 男ならいいから!(爆) ・・・いいの?(自問) いいの!(自答) 但し「得体の知れない男」はダメ!
・・・自分で何を入力してるのか、分からなくなってきた・・・。

・島田先生のカムフラージュ行動とその代償。スリ・痴漢に遭遇するわ、近づいてきたダミーの女に欲情するわ、白髪が増えてパニック状態になり、白髪染めをする羽目になるわ、ハロルドさんと取っ組み合いするわと、ちっともいいことありません。


【今回の音楽】

モーツァルトのアリア集・・・ザ・シンフォニー・ホールで江口さんと島田先生が鑑賞した演目。
「Vorrei spiegarvi,oh Dio」は決定的な曲名はないようなので、ここではそのまま「おお主よ、わたしは告白したい」のタイトルでいきましょう。「Ah,conte,partite,correte~」も、同じ曲の歌詞らしい。
デスピーナは「コシ・ファン・トゥッテ(またはコジ・ファン・トゥッテ。日本語表記がこの2種類あります)」のヒロイン。
ドンナ・アンナは「ドン・ジョヴァンニ」で、主人公に父親の騎士長を殺され、復讐を誓うヒロイン。「Non mi dir,bell'idol mio」のタイトルも、「言わないで、愛しいあなた」とここではしておきます。
ツェルリーナは同じく「ドン・ジョヴァンニ」で、婚約者がいるにもかかわらず、主人公の毒牙にかかりそうになった若い娘。そして小悪魔だ(笑)
スザンナは「フィガロの結婚」のヒロイン。


【今回の書籍】

ロシア語の勉強のためにチェーホフやゴーゴリを読み、ドイツ語でゲーテを、フランス語でデカルトを・・・島田先生が学生時代で自主的に学んだと思われる語学の勉強に選んだ本。あのデカルトを原文で読むという時点で、次元とスケールが違うわ(苦笑)


【『神の火』 スパイ講座】
カムフラージュ行動に入った島田先生の「スパイ」としての姿が見られるので、なかなか面白い。江口さんの教育も素晴らしい(・・・と褒めていいのかどうか)

偽装という意味では、酒の飲めない人間に酒の色をした水を飲ませるより、本物の酒を飲ませて死ぬ思いをさせる方が完璧だ (文庫版下巻p17)・・・「酒」でたとえるのが、酒豪の高村さんらしいなあ、と(笑)

《スパイを作るのも、殺すのも金と女》 (文庫版下巻p22)・・・と、島田先生は江口さんは厳しく躾られました。ぼんぼん育ちの先生はお金に不自由してないし、欲もないから大丈夫。イリーナのことはまだ引きずってますね。これは仕方ないですね。

ほとんど自然に働いた制御機能のようなもので、長年の勘が、《ミスはするな》《いざというときに備えろ》と信号を発しているのだった。すでにカムフラージュの工作に入っている今、どんなミスも出来ないし、もしもの場合に備えて、一瞬の判断力や行動力を損なわないよう、精神的な余裕と安定を保っておくことが第一だった。 (文庫版下巻p23)・・・カムフラージュ行動の難しさと心構えが現れている部分。カムフラージュと悟られないようにしないといけないし、それだけに普通に自然体でいないとダメだということですね。

体調の変化は、ちょっとしたものでも不安につながる。不安は、予想外の発想や行動を生む。 (文庫版下巻p30)・・・これは「スパイ」に限ったことではなくて、世間一般でもその通りなんですけどね。

科学技術の時代に生きているスパイが実は、縁起担ぎや、虫の知らせといった非科学的な気分に驚くほどの打撃を受け、パニックに陥る。江口はそれを『良心の呵責の代償行為だ』と一蹴し、ボリスは『アルコールで補える程度の、初歩的課題だ』と笑った。 (文庫版下巻p32)・・・良ちゃんに渡すヘミングウェイの本を、わずかな時間であっても置き忘れてしまった島田先生が狼狽した時のこと。こんなにもうろたえた先生は、人間らしくてとてもいい。

そうした旅で歴史の感覚を身につけ、時代の動きを肌で知り、語学に磨きをかけ、未来のスパイは育ったのだ。
ついでに、東西の枠組が主義の対立ではなく、国家という体制の対立でしかないこと、民族主義や貧困の火種も、大量破壊兵器の危険も、人権の抑圧もすべて封じ込めて、大国がそれぞれ臭いものに蓋をしたのが鉄のカーテンだ、といった与太話を吹き込まれながら。
 (文庫版下巻p35)・・・江口さんの施した、島田先生へへのスパイ教育。「スパイを育てよう」というよりは、「自分好みの男に育てよう」という一面の方が強く感じられるのは、私だけではあるまい。だから「光源氏(=江口さん)と紫の上(=先生)」と揶揄されてしまうんですわ。


【今回の名文・名台詞・名場面】
念のため、( )カッコ付は原文ロシア語です。

★江口は、頬杖をついた左手の指先で軽やかにとんとんと拍子を取りながら、空疎な笑みを舞台に投げ続けていた。その間、珍しいことに、いつの間にか空気のように、空いている右手を伸ばしてきたかと思うと、それを島田の手に重ね、軽く握った。
「(私たちはイタリアへ行くのさ、絶対に)」
 (文庫版下巻p9)

一瞬の隙をついての江口さんのこの行動! 何て官能的なんだろう。下品で無意味なラヴシーンやベッドシーンより、よっほど官能を刺激する。

★ウィングに立って拍手を送る江口の優雅な手つきに優るものはなかった。ほとんど聴いていなかったくせに、いつでも、どんな演技でも出来る男だ。タマネギの皮を剥いても剥いても出てくるのはダンディズムの極致で、誰もが文句なしに魅了される。 (文庫版下巻p10)

上巻p309で「謀略というのは、それ自体タマネギみたいなものだ」と教え込んだ江口さん自身が、「タマネギ」だったというお話。・・・違う? というのは、「タマネギ」は最初の皮を剥けば真っ白い。そのまま剥いていこうとすると、ツーンとした匂いで目や鼻に刺激を与えられ、素直に剥かせてくれない。厚みのある皮もあれば、薄くまとわりつくような皮もある。またそのまま食べても辛味がおいしいという人もいるし、調理次第・味付け次第で甘さも出るし、美味しさも異なる。一筋縄ではいかないところが、江口彰彦という人物とそっくりだなあ、と感じたわけです。
島田先生が江口さんと手が切れないのも、その変幻自在の食材を味わいたいからなのかなあ・・・なんて思ったりも。

★「この国では、己の選挙と利権のために政治家は存在するのだと納得するのに、三十年かかっただけだよ。政治がここまで無力に堕するとは、さすがに想像出来なかった。もうたくさんだ」 (文庫版下巻p12)

外事警察に問われた江口さんの返答。これをそのまま受け止めていいものか、聞き流すべきか。発言者が江口さんだから、余計に判断に苦しみます。嘘は言ってないが、本当のことも言ってない・・・ってとこでしょうか。

★『世界じゅうの悲しい歌がみんな美しい旋律をもっているのは不思議なことです』と手紙に書いていた良のことを、いや、パーヴェル・アレクセーイェヴィッチのことを思い出し、「そうだね。そして、美しい歌がみな悲しいのは、なぜだろう」と独りごちながら、島田はタクシーを拾えるホテルの車寄せへ歩いた。 (文庫版下巻p16)

ほんとですね・・・。「悲しい歌は美しい旋律をもっている」 「美しい歌は悲しい」 どちらも真実。

★たんに自分という男が、子供のころから肉体を含めた他者に真の興味をもたなかったということだ。しかし、今は違う。
きっと少し違うはずだ、と島田は自分に呟いてみた。スクリーンの中で痩せた腰を揺すっている女だろうが、ソープランドの女だろうが、人間だったら誰でも抱けるような気がし、抱きたいような気もした。
 (文庫版下巻p22)

島田浩二という男・その23。「少し違う」どころか、「大幅に違う」でしょうが! 「人間だったら誰でも」って! あなたって人は、あなたって人は、あなたって人は~! でも、好きなの。不潔な感じがしないから。

★ここにあるのはいったい何だ、と島田は考えてみる。精神の疲労。希望のなさ。若さという空疎。中年という疲労。女という絶望。男という堕落。主義も体制もない、生活する人間という現実。その中に座っている自分はしかし、唾棄し続けたはずの体制の幻にひそかに手足をつながれて、隣で反吐を吐くサラリーマンをはじめ、ここにたたずむ全員から疎外された何者かだった。 (文庫版下巻p37)

島田浩二という男・その24。
ここは高村さんはどうしても書きたかった部分だろうと思う。そして、三角公園でたむろしている人たちを、これほど的確・見事に描写しきっている点は、脱帽するしかない。だって当時も今も、そんな感じなんだもん。役者は違えど、同じお芝居を繰り返し上演しているかのよう。



キザも身のうちやなあ (文庫版上巻p388)

2007-04-08 23:03:48 | 神の火(新版) 再読日記
「近日中」って、一体いつまでをさすのだろうか。

2007年2月13日(火)の新版『神の火』 (新潮文庫) は、p348から最後まで読了。つまり上巻読了。

そろそろ「笑える」部分がなくなってきました。その部分を探し出すのに、時間を費やす羽目に陥っています。
今回は苦し紛れに堀田さんの台詞を選ぶ。ネクタイ忘れた島田先生が、ハンカチを花型に絞ってジャケットの胸ポケットに差したのを、見ての発言。こんな行為が恥ずかしげもなくサラッと出来るのが先生なのであり、教育授けた江口さんのおかげということですね。


【主な登場人物】

柳瀬裕司 柳瀬律子の兄。つまり日野の大将の義兄。・・・そうか、これも「義兄弟」なのか。 ネタバレ。 この人が《トロイ》。 


【今回のツボ】

・日野草介の過去 大将も壮絶な半生を送っています。 

・パーヴェル・アレクセーイェヴィッチ・イェルギン 良ちゃんの本名。今回も確認しつつ入力。

・島田先生と日野の大将の語らい・その1とその2 今までもそういうシーンは出てましたが、今回分は特にグッとくるので。

・良ちゃんからの手紙・その3 一日一日をいとおしむように生きている良ちゃん・・・。

【今回の音楽】

『インターナショナル』・・・日野の大将も島田先生も歌える。どんな歌か、私は知りません。聴いたら分かるのかな? そういえば ロジェ・マルタン・デュガール 『チボー家の人々』 (白水社) で、ジャック・チボーがある組織に入った時期の描写がありましたが、そこで歌われていたのが、これか?


【今回の書籍】

ヘミングウェイのA Moveable Feast・・・良ちゃんが読みたくて、大将に丸善へ買いに行ってもらった本。「移動祝祭日」というタイトル。岩波書店から出てましたが、現在品切れ状態。復刊の際には、文庫で出して欲しいものです。あるいは新訳か新刊で。


【『神の火』 スパイ講座】

洗顔や歯磨きや排便といった行為は、感情の奔出を防ぐ一番の特効薬だ、と江口は言った。感情に溺れそうになったら、一にトイレ、二に歯磨き。それでも治まらなければ、最後は遊園地のジェットコースター。 (文庫版上巻p392)・・・「用を済ませた直後が、人間の脳が一番空っぽになる瞬間だ」という話を聞いたことがあります。私も仕事中にトイレに行く前は、「あとであれをしないと・・・」と懸案しているのですが、トイレを後にしたらすっかり忘れていた・・・という経験が、たまにあったりします(苦笑) ところで、ジェットコースターに乗っている島田先生が、どうしても想像できない~!! ・・・私だけ?


【今回の名文・名台詞・名場面】

★「やくざというのは、もてるのかも知れません」 (文庫版上巻p351)

島田先生の台詞。この「やくざ」というのは、もちろん日野の大将。・・・これは一般論か? それとも、もてない男のひがみか?

★「ほんまのところ、あの人は私らとは違う世界を見てはるような気がするんです……。バクチもケンカもやりはるけど、目はずっと遠いところを見ているような……」 (文庫版上巻p357)

日野の大将をずっと見つめてきた川端さんの台詞。見ているだけのことは、ありますね。

★「お前やったら、俺の言うこと、分かるやろ。紙の上の理想やのうて、一つの主義が体制になったら、どんなもんかというのは。一人の人間を、どないに変えてしまうもんかというのは」
分かると思う。そう言いたかったが、言えるものではなかった。
 (文庫版上巻p371)

これから日野の大将の口から語られる過去の、前フリ。それを知った後にこの発言に戻っていくと、重いものを感じます。

★「可愛いのは事実やったが、それだけや。犬や猫と一緒。俺の人生にあいてる大穴を埋めるようなもんやとは思わんかった」
「人生の大穴ってなんだ……」
「なんや知らん。とにかくあいとるんや。十代のころから、山ひとつ削って土砂全部放り込んでも埋まらん穴やと思うとった。人間ひとり好いた惚れたでどないかなるんやったら、律子に対して、もうちょっと違った亭主になれたんやないかと思う」
日野の口からそういう抽象的な話が出ると、ほんとうに意外な感じがした。江口の空洞、島田自身の空洞。日野が言う大穴とは、それと似たようなものなのかと戸惑う。
 (文庫版上巻p373~374)

日野の大将の「大穴」=「空洞」は、これ以降にも出てきます。その大穴をあけた原因・・・張本人が戸惑っているのが、何とも言えませんが。

★「ああ。大した命やないけど、柳瀬に借りたもんは、生きて返さなあかん。あの柳瀬には、俺は借りがあるんや。あいつは、人を死なせたらあかんと思うから、《超安全》な原発を造らなあかんて言うとった男や。大型計算機一つにつられて、騙されて《北》へ行って、結局軍事用の核施設の研究はようやらんと、とんでもない資料一つ持ち出して帰ってきてしまいよった男や。理想の霞食うて生きとったから、洗濯機もない生活しとったくせに、このやくざの俺に《プラハの春》の話をしてくれた。俺が柳瀬に借りたんは、小さい希望一つや。人間には理想というものがある。人間は、理想を持つことが出来る動物や、という希望一つ……」
ああ、この男は自分にも言えないことを話している。理想は、自分が遂にもてなかったものの一つだ。その話を、こいつはしている……。そんなことを思いながら、島田は幼なじみの顔を見ていたのだった。
 (文庫版上巻p385)

冷血・島田先生に比べて、ずっと温かい血の通った人間・日野の大将。思わずじーんとしてしまう、大将の台詞です。

★「とはいうても」と日野は言う。「理想いうのは中身のしっかり詰まった心身に育つもんやろ。大穴空いている俺の人生には、ちょっとな……。それでも、人間いうのが理想を持つこと出来る動物やと知っただけで、俺は目から鱗が落ちるいうか……、ほんまにちょっと楽になったんや。律子も、薬漬けになる前は、きっと理想を持っとったんやと思うたら、俺は崇めとうなる」
「崇める……か」
「ああ。仏さんになったからやのうて」
 (文庫版上巻p385~386)

ここの日野の大将の心情は、ちょっと辛いものがありますね・・・。

★「そういえば、良も理想を感じさせる子だ……」
「お前もそう思うたか。そうや、良はほんまに《今》を理想で生きとった。……理想だけでな。理想がなかったら、生きてられへん状況やった」
 (文庫版上巻p386)

良ちゃんの理想は現実よりも、辛くて重くて苦しくて悲しくて哀しくてやるせない理想だ。・・・あかん、自分で入力しておいて、ちょっと苦しくなってきた。

★日野は理想について語ったが、それは十年前に死んだ理想だったのかも知れない。この自分を前に、理想の死骸の話をしていたのかも知れない。 (文庫版上巻p387)

それはそれで辛いものがありますが、律子さんを失ったばかりの日野の大将に乗り越えろというのも、酷なもの。

(前略) 『これで何を買うか決める楽しみはなくなりましたが、新しい本がもうすぐ手に入ると思うと、ぼくは今夜は眠れないかも知れません。
新しい本を読んだら、どんなふうだったか、また書きます。おやすみなさい』
 (文庫版上巻p392)

島田先生へ書き送った、良ちゃんの最後の手紙。本好きな人間なら、良ちゃんの心情はうるうるもんです。「好きな作家の新刊発売日前夜の気持ち」といえば、当たらずと言えども遠からじ?

★日野は、柳瀬裕司という男から、人間は理想を持つことが出来るという希望一つを貰ったという。この俺は、良から、人間は献身ということが出来るという希望一つを貰ったのだ。自分が食べるより、良に食べさせてやりたいと思う。犬一匹可愛いと思ったことのない人間が、ほんとうにそんなことを考えるようになったのだ。罪滅ぼし半分、痛恨半分。 (文庫版上巻p400)

良ちゃんによって変化していく島田先生が、はっきりと判る部分。
これは「親」の発想ですね。それも「母親」が「子供」に向ける愛情です。私も幼い頃、何度も母に同じことを聞かされました。「あんたがたくさん美味しいものを食べるのを見るのは、嬉しいもんやねんで」と・・・。
(だけど未だに言われる。だから太る・笑)

なぜ「母親」と限定したのかといいますと、私の父からは、一度もそんなことを言われたことがないからです。私の父は、子供が食べているものを欲しがる人。この卑しい性分の父のせいで、ホンマに何度泣かされたことか・・・。「アイスクリームを「一口だけちょうだい」事件」とか、「お正月の「桜玉をええとこから食べるな」事件」とか、挙げればキリがない。
まあ、こんな我が家の方が特殊なのでしょうけれど(苦笑) 普通の「父親」の方々は、どうなのでしょう。自分の子供に対して、島田先生のようなことを思うのでしょうか?


次回から下巻に入ります。


「洗濯機で洗えるものと洗えないものがあるのは、ご存じ?」 「知るもんかね」 (文庫版上巻p324)

2007-03-22 00:31:27 | 神の火(新版) 再読日記
2007年2月9日(金)の新版『神の火』 (新潮文庫) は、p304からp348まで読了。

今回は、島田先生と江口さんの会話。主婦同士の会話か、姑が嫁に言いそうな台詞ですよ、先生(笑) 離婚して独り者になった時に、背広やネクタイ、シルクのシャツなどを洗濯機で洗ったことがあるんじゃなかろうか?

【主な登場人物】

ボリス・ニコラーイェヴィッチ・シードロフ 表向きは日本のソヴィエト大使館の一等書記官、実はKGB職員(現実でも、このパターンは多いんだとか)。島田先生にスパイの技術を仕込んだ人。この人も旧版と新版で、かなり違う。 新旧ネタバレ。 旧版では出番はただ一度きり、「交換劇」の時です。キャラクター設定も旧版と新版で、高村作品としては「非常に珍しい」違いが見られる。新版のボリスは「ストレート」。旧版のボリスは・・・「あってはならない性向」に苦しめられ、島田先生に言い寄ったことも!(ガーン・・・!) ご安心を、先生は丁重にお断りしました。 


【今回のツボ】
・良ちゃんからの手紙・その2 淡々とした味わいが良いんです。

・ボリスと島田先生のやり取り・その1 スパイ時代の島田先生が解ります。

・江口さんと島田先生の対話。 この二人の対話は、その度ごとに見どころ・読みどころなんですが、今回はタイトルに挙げたくらい、特に面白いと思ってね。 


【今回の音楽】
ブラームスのピアノ五重奏曲・・・江口さんの睡眠薬代わり。聴いたことはありませんが・・・眠くなる曲なのか?


【今回の書籍】
今回は、まるで世界文学全集のラインナップのよう。

『Dubliners』・・・前回も出ましたが、今回も出ましたので。島田先生が思い出したのは、「恩寵」というタイトルです。

チェーホフの桜の園・・・江口さんが読んでいた本。

チェーホフを一冊、フロベールを一冊、モーリヤックを一冊・・・江口さんが旅行カバンに詰めるつもりの書籍の一覧。作品名は出てきませんが、あれこれ想像してみるのも楽しいかもしれません。

漱石を一冊。『それから』か『こころ』。鴎外も一冊。それから、Ulysses……。Un ete dans le Sahara……。ロマン・ロランは長すぎるかな。フォークナーを一冊。スタインベックも……。・・・同じく、島田先生バージョン。他の高村作品にも登場する作家名が多いですね。蛇足を承知で、『Ulysses』はジェイムズ・ジョイス。『Un ete dans le Sahara』はネットで調べてみましたら『サハラの夏』というタイトルで、作者はウジェーヌ・フロマンタン。
(「e」の上に「´」のある字で入力したら、文字化けしてしまいました。普通の「e」にしています)

ハンス・カロッサのルーマニア日記・・・良ちゃんが読んだ本。

チェーザレ・パヴェーゼの月とかがり火・・・良ちゃんが読んだ本。


【『神の火』 スパイ講座】

謀略というのは、それ自体タマネギみたいなものだと、かつて江口は言ったのだった。人の目に触れない裏庭でこっそり植えられて育つ毒入りのタマネギは、策謀を巡らす為政者たちの指先で、一枚一枚皮を剥がされて、、敵の庭に投げ入れられる。 (文庫版上巻p309)・・・江口さん、上手いこと言いますね。「タマネギ=情報」と置き換えても、解りやすいかもしれません。

スパイと名のつく人間は写真撮影も腕のうちで、こんな写真は撮るはずがない。 (文庫版上巻p332)・・・「こんな写真」とは、傷をつけたマイクロフィルムのこと。島田先生、チェックが厳しいです。


【今回の名文・名台詞・名場面】
念のため、( )カッコ付は原文ロシア語です。

★剥がされ捨てられていく皮の一枚一枚はそれぞれどんな意味を持ちうるのか、その皮の一枚になる者はどう生きればいいのか、などと島田は今さらながら考えずにおれなかった。タマネギはタマネギでしかないといっても、皮一枚の細胞一つでも、与えられた時間と能力の範囲でたえず増殖し続けるように、この自分も、自分のものと言える微々たる尊厳を持ち続けなくてどうする。自分の意思でこの手足を動かさなくてどうする。 (文庫版上巻p310)

島田浩二という男・その19。簡単に言えば、高村薫さん版「一寸の虫にも五分の魂」の概要になるのでしょうか。こうやって自分を励まし鼓舞する先生が、とても愛しい。

★ソヴィエトは、社会資本も法体系も経済基盤も整っていない社会主義国家の壁を、ペレストロイカというペンキで塗り直している最中だが、そこに長年住んできた者にはペレストロイカも屁のようなものでしかない。当惑と疑心暗鬼がうずまき、誰もが保身のための策謀に走る中で、希望のなさから絶望へ転げ落ちていく者もいる。 (文庫版上巻p317)

ちょうど「ペレストロイカ」だの「グラスノスチ」だのというロシア語が、日本になだれ込んで、流行語にまでなった時代なんですよね。そういう大きな変化、変動が起こりつつある国や時期に生きている人々は、その「時代」についていけるのか、適応できるのか、あるいは流されるままなのか、あらゆることに対応することが出来ないのか。変化って、怖いものなんだなあ・・・。

★「僕も江口も、アメリカに身売りはしません。江口は根っから、アメリカのピューリタニズムとフロンティア精神が性に合わない人だし、僕は江口の金魚の糞だから」
「江口は、君がハンドルのきかない車になったと言ってた」
「そんなことはない。車は、運転する者がいないとただの屑鉄だ。江口が運転する気がある限り、僕という車は動く。そういうふうに作られてきたんです」
「ふむ」とボリスは鼻を鳴らし、力なく笑った。「人間という車は、なかなか運転手の言う通りには動かんものさ。言う通りに動くのは機械だ」
 (文庫版上巻p318)

島田浩二という男・その20、並びに島田先生とボリスの対話・その1。それでなくても、いやでも某大臣の失言を思い出してしまってイヤなんですが・・・。
「江口さんあっての先生」という事実が、先生自身の発言で改めて判明。

★社会主義体制は、人間の活動を機械のように統制することで、人間らしい生活が保証された社会を実現しようとし、今まさに挫折しつつある。統制する側のボリスが『言う通りに動くのは機械だ』と言い出すに及んでは、理想そのものが持っていた矛盾を認める以前の、責任の放棄でもあった。とすれば、たとえば《言う通りに動く機械》になるべく国家的に組織され訓練され、初めから人間の魂を空っぽにしてきたスパイという人種こそ、社会主義国家の矛盾を唯一、矛盾でなく具現した存在だったのかもしれない。そして、そのスパイたちは、社会主義国家の挫折とともに挫折し、近い将来、国家の崩壊とともに消えるのだ。 (文庫版上巻p318)

東西冷戦が一応の終結をみた時点で、スパイという職業は閑職になり、冒険・スパイ小説作家たちもネタを失ったと言われておりますが、現実はそう簡単には変わりませんね(苦笑)

★「ボリス。……崩壊するものは崩壊する。そして、新しい時代に生き残っていく者がある。国が消えるわけではないんだから、あなたは一国民として少しアルコールを控えさえすれば、それが出来る。年金も入る。しかし、江口や僕は出来ない。江口と僕は、自分の国を捨てて、今のこの時代でしか使い物にならない機械に、望んで成ろうとした人間だから」
「(ろくでもない祖国)……」
「江口はこの三十年、口を開いたら『時代は変わる』と言ってきた。新しい時代が来る日を自分の目で見ることはないのを知っているから、彼はそう言うんです。自分の目で見ることのない夢を語るのは自由ですから。江口も僕も裏切り者だとあなたは言うが、僕たちはそういうふうに自分を作り上げてきて、それがあなたの役に立ってきた時代があった。それがもう終わるということです」
「(ひどい時代)……」
「壊れかけている体制に、僕らのコントロールは出来ない。僕自身、現にこの二年、あなたの役には立っていない。双方の価値が下がったところで、もう僕と江口をうっちゃって欲しい。アメリカに身売りはしませんから」
 (文庫版上巻p318~319)

島田浩二という男・その21、並びに島田先生とボリスの対話・その2。・・・対話というより、ボリスは独り言のようなボヤキみたいですが。
長い引用になりましたが、ここまで雄弁に語る先生も珍しいと思いまして。奥の深い発言が連発。それに、高村さんの思考も見え隠れしているようにも感じられました。

★崩壊は崩壊、別れは別れだと自分に呟く。体制が作った人間関係だからというのではなく、ただ、ボリスという個人との人間関係を維持する心の余裕が、もう自分にはないのだと思った。 (文庫版上巻p322)

島田浩二という男・その22。綱渡り状態の上に、良ちゃんの命も抱え込んだ先生には、国家に保証されているボリスを顧みる余裕、全くなし。

★そうして一人に還った自分がまた空白だというフィールスの諦観は、一点を除いて、江口のそれに似ていないこともなかった。素朴なフィールスの空白は人生をそれなりにまっとうした後の獏とした海のような空白だが、江口の場合は、初めから何ひとつ形も中身もなく、何ひとつまっとうすることもなかった空白だ。 (文庫版上巻p323)

島田先生から見た江口彰彦さんという人物は、私にとっては本当に興味深い対象です。「先生の目を通した江口さん」ではありますが、全てではない。全てを知り尽くしていないから、惹かれるのかもしれません。
ちなみに、フィールスは『桜の園』に出てくる登場人物らしい。私は未読。お芝居も観たことないなあ。

★「君は?」
「僕は……これまで出来なかったことをします。まず、恋。それから、しばらく漁師をやって……、その後は修道院かな」
「何という無為だろうね……。君を、そんな人生しか考えられない男に育ててしまったのかな、私は」
江口は微苦笑を浮かべ、島田も笑みを返した。
「あなたのおかげで、物欲のない人間にはなりました。末は修道院しかない」
 (文庫版上巻p326~327)

江口さんと島田先生の会話。・・・先生って、合田さんの希望と加納さんの人生を混ぜ合わせたような余生(?)を送りたいのか・・・。
「恋」と「漁師」は、合田さん。(第一次産業・第二次産業の求人広告、取っておいてたから) 「修道院」は、単行本版<合田シリーズ>の加納さんを勝手にイメージ。(「聖人」ではなかったけれど、「聖人」だと思っていたのは、合田さんだけではないはずですから!)
「単行本版」と断り書きしたのは、文庫版とは別物の<合田シリーズ>と解釈していいだろう、と考えるからです。

★そうして数え始めると、残された人生の伴侶にする本を数冊選ぶという行為が、いかに無謀で困難な行為であるかにあらためて気づかされ、愕然となった。いや、数冊の本を選び取るという行為は、残りのすべての本を捨てていくことが困難なのではなく、選び取った本の数冊に自分の人生を託すという意味で、残り時間が限られたものであることを意識することが困難なのだった。それをしなければならないときが来たよと、江口は暗に島田に言ったのだった。 (文庫版上巻p333)

いろいろと考えてしまう、考えたくなる部分ですね。
我が身に置き換えてみますと、「数冊」ということは高村作品全部は無理ということですか? それは辛い選択だなあ・・・。どの作品読んでも飽きることがないので、選ぶというなら全書籍なのですが。困ったなあ・・・(悶々) 五十冊(!)なら、選びきれるかもしれない・・・無理かな(苦笑) やっぱり百冊かな?(←どうやって持ち運ぶつもりなんだか)

★簡潔な言葉で淡々と記されていく一日一日の戦争の情景は、皮肉なことに未曾有の静けさと美しさで満ちていた記憶がある。物を食ったり寝たりするのと等しい人間の営みとして、言葉を記すことを選ぶ人間は、たとえ戦場にあっても、常に第三者のようにすべてを眺め、省察することが出来る人種だ。厭世的で、空虚で、己の内省に溺れることで、世界の痛苦を忘れる人種だ、というふうなことを当時の島田は醒めた頭で考えたのだった。 (文庫版上巻p335~336)

良ちゃんの手紙に書かれていたハンス・カロッサの『ルーマニア日記』を、島田先生もドイツ語の勉強(!)のために読んだことがあるそう。読んだ当時のことを思い出した島田先生の感慨。
これは、高村さんが考える「作家とはどうあるべきか」という一例でもあるように思えます。


次で上巻を終わらせます。がんばろうっと 
桜が咲いたら、『李歐』 (講談社文庫) を読みたいんですよ。もちろん、再読日記もやりたいので。


科学技術関係の古本なんか、豚のエサにもならない (文庫版上巻p291)

2007-03-11 23:25:25 | 神の火(新版) 再読日記
2007年2月8日(木)の新版『神の火』 (新潮文庫) は、p251からp304まで読了。

今回読了分には、あまり笑える部分がなかったような・・・。で、取り上げたのが島田先生の台詞。
木村商会の1階書店、私は飽きないと思う。外国の文字が読めなくたって、専門書ばかりだって、「書籍」ということだけで、退屈しないと思うから。「本好き」って、そういうもんだと信じてる。


【主な登場人物】

ハロルド CIA職員。東洋系アメリカ人。私見だが、『リヴィエラを撃て』 (新潮社)に登場するCIA職員の《伝書鳩》ことケリー・マッカンとは、きっと反りが合わないだろうと思う。


【今回のツボ】
江口さんの「手」の表現・その1。 官能的なのよね。島田先生になりたいと思うくらい(笑)

島田先生と良ちゃんの触れ合い。 これはグッとくるのよね・・・。

良ちゃんからの手紙・その1 これもグッとくるのよ・・・。


【今回の書籍】
ホーマー・・・決してホームランのことではない。伝説の古代ギリシアの詩人・ホメロスの英語読み(Homer)。『イーリアス』『オデュッセイア』の叙事詩の作者と目される。「トロイの木馬」のエピソードが組み込まれているので、ハロルドさんはそれをほのめかしたわけです。

『Dubliners』・・・良ちゃんが読んだ、ジェイムズ・ジョイスの本。日本では『ダブリン(の)市民』の題で刊行されてます。(出版社によって、「の」の有無があります)
『神の火』 屈指と言っていい、良ちゃんのあの名言を導き出した作品は、「死者たち」といい、『ダブリン(の)市民』の最後に収められています。
参考にならないでしょうが、読んだ私の感想・雑感は、こちらの別ブログ にあります。読み返してみたら、至極まともな当たり障りのない内容になってますね・・・。


【『神の火』 スパイ講座】

おそらく訪れることはないだろう日々を、訪れると信じることで自分の精神を救う。かつて島田に教えたとおりの自己暗示の芸当を、江口は実践しているのだった。 (文庫版上巻p264)・・・師匠・江口さんの「自己暗示のかけ方」の見本。

ワイシャツの下でずきずき疼いている火傷も、これは他人の痛みだと自己暗示をかければ、耐えられない苦痛ではなくなるのだ。 (文庫版上巻p266)・・・師匠・江口さんに教わった「自己暗示のかけ方」の見本。

『一部分だけの裏切りというのはあり得ないんだよ。妻を愛しているスパイ、親を慈しむスパイ、親友を持っているスパイ。そんなものは言葉の正しい意味で、あり得ないのだ』 (文庫版上巻p304)・・・江口さんが島田先生に教え込んだことの一つ。その内容が事実だったとはっきりと分かるのは、クライマックスですね、先生・・・。


【今回の名文・名台詞・名場面】

★江口の痩せた指は、見かけよりは柔らかいのだった。その柔らかい指に触れられながら、島田は渦巻き続ける痛みと折り合いをつけながら、ぼんやりと考えていた。ほんとうは、自分はひとり風呂場に横たわっているべきだったのだ、と。ひとりで寒さや痛みにさらされ、ひとりで自分の後始末をし、ひとりで横になるべきだった。たまたま、動く力もない間に江口が現れたために、されるままになっただけで、これは自分が頼んだことではないのだ。しかし、何かしらいつも、こうして江口の籠の鳥になり、自分を指図してきたその指で、赤子のように介護され、このように江口の懐に帰ることになるのは、いったいなぜなのか。自分が頼んだことではないが、こうして横たわっているのは、結局、自分が望んだということなのだろうか。 (文庫版上巻p253)

いやーん、この江口さんの指~! 指の動き~! それに結局は安心して身を任せている島田先生~! 『神の火』上巻中、屈指の官能度の高い場面。ここの江口さんの無意識に醸し出している色気を感じられない方は、まだまだくちばしの青いヒヨコね!
これでは「江口と島田=光源氏と紫の上」という説が出ても仕方がないか・・・。

★「ほら静かに。鎮静剤が効かなくなる……」
魔物のような江口の手がのびてきて、魔術をかけるように島田の布団を撫でた。
 (文庫版上巻p255)

江口さんのこの手の描写! 「魔物」の手で、「魔術」をかけるのか! ツボにはまる表現だ。

★九三パーセントの濃縮ウランも原爆も、己の魂の空洞の深さに比べれば何ほどのものかといった、江口の氷のような無表情だった。やせ我慢ではない、これが江口の真実の顔だった。どんな非道も危険も、空洞に響く物音の一つでしかなく、それに耳を傾けながら、空洞の深さを測って《いや、まだまだ深いぞ》と己に呟くのだ。 (文庫版上巻p255)

重要キーワード「空洞」、江口さん編。江口さんが見せる「空洞」は、島田先生にしか見せていないということを、気付いているのだろうか。

★今に至っても何かを隠している江口の傍らで、この俺は眠るのかと自問しながら、鎮静剤が一度に効いてきて、眠りの闇に引きずり込まれた。 (文庫版上巻p264)

ここの島田先生の自問は好きだなあ~。江口さんへの愛憎が見え隠れしているのを感じるから。

★「ご心配かけてすみません」と島田は頭を下げながら、落花生の殻むきで余計な雑念を払った。自分という人間は、一人の男の善意を感じる心はあるが、腹の底に沁みることはない。そんなことを、あらためて考えたりしただけだった。 (文庫版上巻p269)

島田浩二という男・その17。「冷血」と自分で言うだけはある(苦笑) もう、仕方ないわね~。あなたはそういう人なんだから。

★「僕は絶対に自白はしません」
いかにもそっけない返事に島田は思わずかっとなったが、出てきたのは、意に反して穏やかな言葉だった。「そんな言葉は、誰にも保証出来ない。人間は、《絶対に》という言葉は使ってはならない生き物なのだよ。人間が造った原子炉と同じだ……」
 (文庫版上巻p276)

・・・ごめんなさい、島田先生。私も《絶対に》という言葉、頻繁に使用しているような・・・。気をつけます。
だけどどうみても、息子を諭す父親のようですね、先生・・・。

★傍らの若者から伝わってくる何かの気配が、噴き出す激昂を削いでしまうのだった。その気配は、まるで終点がすでにそこまで来ているような沈静、体温の希薄さであり、そんなものがこの世のどこにあるかといえば、端的に死の床だった。この若者に、未来の命がないという直観は、具体的な根拠もないまま、ひたひたと島田を押し包み続けた。 (文庫版上巻p276)

良ちゃんの醸し出す何かの「気配」を、的確に嗅ぎ取る島田先生。・・・不吉。

★「僕は鳥が好きです」と良が言う。 (中略)
見れば、確かに容態が悪いとしか思えない蒼白な顔には、しかし、ただ放心の色しかなかった。あの作りものの笑みさえない。薄桃色のペリカン二羽を眺めているのか、彼岸を仰ぐように清々として静かなその目が、なぜかイリーナの目になり、柳瀬律子の目になり、さらに江口彰彦の目に重なる。
空洞の目だ、と島田は思った。終幕しかない短い舞台を見ているような思いに捕らわれながら、島田は言葉にならない深い虚脱感に陥った。
 (文庫版上巻p278)

重要キーワード「空洞」、良ちゃん編。

★「良。そんな話を僕にして、僕が黙って君を音海に行かせるはずがないだろう……」
「嘘をついている時間はないと、あなたが言った」
「僕も日野も、君を音海には行かせない。問答無用だ。理屈以前の問題だ」
「事故も、戦争も、テロも、理屈以前に起こる」
 (文庫版上巻p279)

島田先生と良ちゃんの会話。良ちゃんの激しい物言いは、今は先生には理解できないけれど、良ちゃんの確固たる信念には深い情念が込められていたんですよ・・・。

★「きっと、消しゴムがたくさんいると思うから。漢字、間違えるし……」と、良は照れくさそうに言い訳をした。一行で事足りる連絡用の手紙のために、書いては消し、書いては消し、するつもりだろうか。いったいこんなときに、君はなぜそこまで、生きることに誠実でいられるのかと思いながら、島田の胸はいっそう重苦しくなった。 (文庫版上巻p283)

んもー、良ちゃんてば、良ちゃんてば、良ちゃんてば~! 何ていじらしいの! ギュギュッと抱きしめて、頭なでなでしたくなっちゃうわよ~!

★自分が何をしているのか判断出来ないほど、島田はうろたえていたのだった。はっきりした理由もないまま、大事なものが一つ、永久に失われてしまったという予感に襲われ続け、足が震えた。 (文庫版上巻p283~284)

島田浩二という男・その18。一見、「完璧」に見える男性が「うろたえる」という行為をした場合、「かわいい」と感じるか、「何やってんの」と呆れるかのどちらかだろう。島田先生の場合は、私は「かわいい」と感じますけどね~。下巻にも、うろたえる先生の場面が何度が出てきますが、どれもこれも「かわいい」んです♪

★小説の中では、それは悲しい歌だということですが、世界じゅうの悲しい歌がみんな美しい旋律をもっているのは不思議なことです。 (文庫版上巻p287)

良ちゃんといえばこの一文! と誰が思う名文。これに付け加えるべきものは何もないが、「オクリムの乙女」という曲を一度は聴いてみたいものです。

★友人は、バクチをしている間は口をききません。ぼくもそうです。勝つか負けるかだけを考えている純粋な時間は、人間の精神に許された自由の一つだと感じます。 (文庫版上巻p288)

これも良ちゃんの手紙から。友人というのは、日野の大将のこと。賭けごとに没頭している状態というのは、相当な集中力を要し、「無」に近づくんだろうなあ、と思います。・・・賭けごとの経験ないから、推測するだけですが。
そういえば、『レディ・ジョーカー』 (毎日新聞社)でも何度も出てくる競馬場の場面の描写は、鬼気迫るものがありましたね~。


島倉千代子そっくりの別嬪やさかい、行く行くは玉の輿やで (文庫版上巻p242)

2007-02-27 23:42:29 | 神の火(新版) 再読日記
2007年2月7日(水)の新版『神の火』 (新潮文庫) は、p201からp251まで読了。

今回のタイトルとほぼ無関係な話ですが、大阪市のゴミ収集車のテーマ曲(♪タリラ リンラン タラ リランリン タララリン ラリラン~♪ ・・・ってやつだ)は、島倉千代子さんの「小鳥が来る街」という曲。


【今回のツボ】
スパイの暗号名とその由来
・《トロイ》の正体は後ほど分かるのでここでは挙げません。ギリシア神話のトロイア戦争の「トロイの木馬」から来ていることはお解かりですね。迷惑な話ですが、某コンピュータ・ウイルスの名前にもつけられていますので、むしろそちらの方で知っているという方が多いかも。

・《ロラン》・・・江口彰彦さんの暗号名。「ROLAN」。最初は「ローランの詩」から名付けられたのか? と思いましたが、下巻に島田先生が船に乗る描写で「ロラン」というのが出てきたので、これが由来だと判明。
こちらのサイトさんに詳しく説明されております。
確かにコントローラーの役目を負う江口さんに、ふさわしい暗号名だ。

・《ゼノン》・・・島田浩二さんの暗号名。原子力工学博士だった先生には、これもふさわしい暗号名でしょう。「XENON」は「キセノン」とも呼ばれます。
『新リア王』 (新潮社) を書籍で初めて読んだ時に出てきた「ゼノン」は、古代ギリシアの哲学者のことなんですね。「何で島田先生の暗号名が出てくるの?」と思ったのはそういうわけなんですよ、Sさん・・・ご指摘ありがとうございました。(ここでお礼を申し上げることをお許し下さい)
こちらのサイトさんでキセノンの「元素周期表」の詳しい成分表を眺めていたら、「島田先生って人間じゃないなあ」・・・と思いました(爆) 何だ、このマイナス値は!

梅田のターミナルにある百貨店 梅田には百貨店が現在3店舗(大丸、阪急、阪神)ありますが、ズバリ「阪急百貨店」でしょう!
一昨年から昨年にかけての某ファンドの絡みで、関西に激震が走った「阪急・阪神の統合問題」で初めて知ったという方も多いでしょうが、この二つの百貨店は昔から「食の阪神、衣類の阪急」と言われています(順不同)
阪神の地下の食料品売場は、確かに凄い。その気になれば、試食だけでおなか一杯になり、一食分浮くかもしれませんよ?(笑)
ということで、島田先生が良ちゃんの衣類を買い揃えたのは、阪急百貨店が妥当。

「敵」にボコボコにされる島田浩二さん・その2 理由は前回と一緒。いじめられている島田先生はツボなんです。


【今回の書籍】
『ワールド・サイエンス』・・・木村社長が日本版を販売しようとしている、アメリカの一般向け科学雑誌。


【『神の火』 スパイ講座】

かつて島田は江口に、スパイは言葉が少ないほうがいいと教わった。スパイの言葉は騙すための言葉であり、一つ話すと、それを裏切るためにもう一つ話さなければならない。そうして際限なく続く虚言の連鎖は、やがて自分自身を食い荒らし始め、空虚に至るから、どうせなら『言葉は少なく、少なく』と江口は言ったのだった。 (文庫版上巻p210)・・・江口さんが島田先生に教えたことの一つ。その反動なのか、先生はさまざまな思考、たくさんの思案を巡らしているようですね。
「スパイの言葉は騙すための言葉」に、重い衝撃、そして納得。「スパイ」でピンとこない方は、「セールスマン」や「セールスレディ」や「ホスト」や「ホステス」や「タラ○」や「コマ○」や「結婚詐欺師」などに代えてみれば、何となく雰囲気が掴めるかもしれません。よく喋るという行為は、相手に反論を与えず、納得させ、言い含めるための手段でもあり、自分をも騙す行為になるからか? 「言葉少ない方が信頼に足る」と世間一般で言われるのは、そのせいか。

島田はかつて、江口に《自白は死だ》と叩きこまれた。楽になるために自白したスパイを待っているのは死しかない。だから、自白だけはするな、と教えられたのだった。訪れることのない救いが訪れると、自己暗示のかけることの出来る者だけが、自分の精神を救うのだとも、江口は言った。どちらかといえば、島田はそうした自己暗示の芸当が出来る方で、江口は《だから、君はスパイに向いているのだ》と言ったのだ。 (文庫版上巻p250)・・・江口さんに見初められ、もとい見込まれ、分析され、教え込まれたスパイの何たるか。肯定的な自己暗示は、日常生活でも役立ちそうですね。
参考までに、島田先生がかけた自己暗示が、前後しますが、これ↓です。

『羊が一匹、羊が二匹……』 (文庫版上巻p250)・・・苦痛を軽くするための島田さんの自己暗示。・・・笑っていいのか迷うところ。


【今回の名文・名台詞・名場面】

★この若者の口から漏れてくる言葉はみな、奇妙に即物的で透明だった。疑念に揺らいでいるが、敵意が感じられない。論理の道筋をつけるための正当な疑問だけとを機械のように発する若者の頭が今、何を思っているのか、島田には理解も及ばなかった。敵意や悪意といった瑣末な感情が一切ないのは分かるが、それがなぜなのか、分からなかった。 (文庫版上巻p203~204)

それが良ちゃんの言葉のマジックというものですよ、島田先生?
当たり前のことですが「言葉」は大切なんだってこと、高村作品では何度でも再確認させられます。

★良の心のうちを、島田は心底掴みかねたが、所詮は他人同士、互いに立ち入れない壁を越えて、通じ合うのは言葉しかないことを思えば、良がこうして真剣に物を語るのは、人間としての一番の誠実さなのかも知れなかった。 (文庫版上巻p210)

この直後に、【スパイ講座】で取り上げた「島田はかつて~」が続きます。
一個人として話をした良ちゃんと、一個人として受け止めた島田先生。初めて信頼関係が結ばれた瞬間なのかもしれません。

★自分という人間は、事態がこんなふうに動き出しても、最終的には、どこか一歩退いて傍観しているようなところがある。舞鶴から飛んで帰ってきたのに、事態を目に収めたあとは、だからどうだという一歩手前でこうして止まっている。 (文庫版上巻p210~211)

島田浩二という男・その13。元スパイの悲しい性なのか。あるいは根っからそういう性分なのか。

★この俺に明日はあるのか。明日という日は多分来るだろうが、仮に来なくても仕方ない明日だろう。十数年間の盗みの日々に訣別して二年、永遠に明日が保証される人生に戻ったと誤解したわけではあるまいに、こののんびりムードはいったい何なのだ。
己の死さえ人ごとのように傍観しかねない自分という人間の少々異様な精神、自分という人間を含めて世界そのものに距離を置くその在り方に、根本的な問題があることを島田は常に知っていた。子供のころから、それとなく分かっていたぐらいだ。しかし、なぜだか分からないが、この良も似たようなところがあるにもかかわらず、良は少なくとも、明日も分からない人生を生き延びることで、それなりに刻々と命を感じさせる。ほんの一日足らず一緒にいただけで、いやというほど伝わってきた一つの命に触発されて、島田は今、余計な思案をし始めたのだった。この俺に明日はあるのか、明日にどういう意味があるのか、と。
 (文庫版上巻p221~222)

島田浩二という男・その14。そして自身と良ちゃんを比べて、違いに愕然とする先生。

★「(寝るとき、いつも、このまま二度と目が覚めないかも知れないと思う。今、何でもいいからしたいのです)……」 (文庫版上巻p224)

悲しい歌ならぬ、悲しく切ない言葉ですよ、良ちゃん・・・(うるうる)
( )付なのは、良ちゃんがロシア語で喋っているからです。入力しようかどうか、さんざん迷いました。ヒマな時に入力しようか? 一文字ずつ入力するのは、変換が大変なんだけど・・・。
だけどロシア語の読み方は訊かないで。私も知りませんから。
もしも『神の火』を読んだ影響で、「ロシア文学専攻した」、「第二外国語でロシア語選んだ」という方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えて下さいませ!

★そうだ。良も自分も、今、しておかなければならないのだ。保身であれ、手続きであれ、脱線であれ、明日がどうなるか分からない人間は。 (文庫版上巻p224~225)

上記の良ちゃんの言葉を受けての、島田先生の決意。ここでも良ちゃんの存在に触発されていますよ(笑) そうか・・・やっぱりなあ。下巻で島田先生が「○み○とした○○」の要因の一つは、良ちゃんが発した数々の言葉が蓄積して、肥料になって、発芽した結果なんですね・・・。

★世界の原子力プラントは、戦争や破壊活動を想定して造られてはいない。平和が永久に続くという架空の条件なしには、決して造ることの出来なかったものだった。一トンぐらいの弾頭をもつ普通のミサイル一発で、格納容器はおろか圧力容器も破壊される。そんなことは分かりきったことだが、そんな心配をするひまがあったら、戦争をしないよう努力する方がいい。島田はそう話したが、自分でも歯切れの悪い物言いだと思った。普通の人間が素朴に考えることを、為政者も技術者もメーカーも決して考えないのはなぜか、弁解する言葉はなかった。 (文庫版上巻p232)

★元技術者の一人として、ほかにどう応えようがあるだろう。多重防護のシステムがここまで完璧に作られてきたのは、裏を返せば、現実には《絶対》ということなどあり得ないからだった。破断事故など、計算上ではあり得ないことになっているが、とくに蒸気発生器の一次側細管を流れる一次冷却水の挙動特性や細管自体の強度など、計算のためのデータの取り方の次元ですでに、《絶対》だとは言えない部分があるのを、島田は知っていた。いわば、原子力プラントというのは、そうした不安要素の一つ一つを、何重もの防護で覆っているのだ。 (文庫版上巻p233)

★ミサイル一発が命中したら原子炉は壊れると、こともなげに言った良の言葉が、島田の胸を抉り続けていた。この地球が平和だと誰が言ったのか。軍事衛星が飛び交う地球の未来を、どこの誰が信じたというのか。自分の流してきた先端技術が軍事転用されているのを知りつつ、ミサイルを売買するような世界に貸したその手で、島田は原子炉を造ってきたのだった。そのことを、良にも自分自身にも説明する言葉はなかった。 (文庫版上巻p233)

上記3つの引用。良ちゃんの「過激な問いかけ」に、空しい言葉で応じつつも疑念を膨らませていく島田先生。
これで思い出したのは、何年か前に流されていたニュース。「某国の原子力発電所で、テロ対策の訓練が行われた」というものでした。即座に『神の火』 を思い浮かべましたよ・・・。それでなくても原子力発電に関する(悪い)ニュースは、この作品を自然と思い出してしまうんですが・・・。

★鍵をかけながら、遂に少し涙が出た。自分で盗んだ火を、今ごろになって恐れ始めるとは。三十九年の人生の最後になって、巨大な矛盾と不可能をかかえこんだ己の魂の、あまりの脆さにうろたえるばかりだった。 (文庫版上巻p233~234)

島田浩二という男・その15。再三言ってますが、良ちゃんの存在と発言内容が、非常に大きい。そうでなきゃ、こんなにも苦悩する先生ではなかったはずだ。

★自分という男は、何をもってしても補うことの出来ない自分の罪を、当時も物で補おうとしたし、今もこうして人に物を買い与えることで何かを補おうとしている。 (文庫版上巻p236)

島田浩二という男・その16。「当時=離婚した女性」、「今=良ちゃん」です。
「当時」の方は、言葉は悪いが免罪符のように「物を買ってごまかす」という行為。行動はするけど、情がこもっていない。それを自覚している先生は、がんじがらめになっていたんだろうなあ。
「今」は、違うよね? ・・・多分ね?

★「島田先生に買うてもろうたんか? よしよし、こいつは舞鶴に帰ったら腐るほど金のある男やさかい、せいぜい何でも買うてもらえ。この先生はな、金でしか、人とのつながりが持たれへん可哀相な男なんや」 (文庫版上巻p237)

日野の大将が良ちゃんに向かって言った、島田先生評。さすがに幼馴染み、一片の甘さも容赦もない。

★「お前、江口に何て言われて、そういう道に入ったんや……? 目が青かったら、国を売る人間になるしかないとでも言われたんか」
国を売る人間。島田が一瞬唖然とするうちに、続けて日野は吐き捨てた。「極道の方がまだましや。そのうち俺が、性根叩き直したるさかい」
 (文庫版上巻p241)

さらに追い討ちかける、大将の言葉。島田先生も絶句です。まあ、大将が怒っている理由は、後に判明するのですが・・・。


「何のバクチ」 「丁半。手ホンビキ。オイチョカブ」 (文庫版上巻p183)

2007-02-18 17:05:50 | 神の火(新版) 再読日記
2007年2月6日(火)の新版『神の火』 (新潮文庫) は、p133からp201まで読了。

今回のタイトル。「笑える」というよりは「何で?」という感じが強い、良ちゃんの台詞。日野の大将が相手だからいいけど、手ホンビキの相手が某組長だったら大変ですよ(笑) ○ス○ムや○Pを要求されたらどうするの!? ・・・と思いましたが、良ちゃんなら逆に某組長を縛り上げてしまいそうです。(その理由は下記のどこかにあります)


【主な登場人物】

王さん 十三にある中華料理店《王府》の主人。読んでると王さんの料理が食べたくなる。


【今回のツボ】
「敵」にボコボコにされる島田浩二さん・その1 私がSというわけでもないのだが、いじめられている島田先生が、何となく良いんです(笑) はっきり言って、好き♪ 何か文句あるー!?(←開き直り)

島田誠二郎さんの遺産 推定で 三億円前後 だそうです(下巻では確定して、約四億円くらいに増えていた) そのうちの一億を別れた妻に渡そう とした島田先生。私が「離婚したい高村キャラクター」と言い張ったわけが、これでお解かりでしょ? ああ、こんな冷血であっても慰謝料だけはしっかり払ってくれる男性、どこかにいないかな~(←いるわけない)


【『神の火』 スパイ講座】

軽口を叩いて緊張を紛らし、集中力を維持するのも、どこかでそれなりの訓練を受けた人間だということを窺わせた。 (文庫版上巻p184)・・・これは良ちゃんと会話をした際に、島田先生が感じたこと。

モスクワにあるУДН(注:ウーデーエヌ。パトリシア・ルムンバ記念民族友好大学のこと)の一部の優秀な学生は、КГБ(注:カーゲーベー。KGBのこと)の特殊工作員養成コースで訓練を受ける。組織のエリートはМГИМО(注:ムギモー。モスクワ国立国際関係大学のこと)の出身だが、ルムンバの方は暗殺やテロ専門の工作員になる。入国時、入管当局に拘留されて間もなく、政治難民の認定を受けた理由の一部は、この辺だったのだろう。もちろん、外国語がこんなに達者な理由も。特殊訓練を受ける学生は、一カ月で一つの外国語を習得すると聞いたことがある。 (文庫版上巻p200~201)・・・良ちゃんの経歴を聞いて、驚き呆れた島田先生、並びに読み手の私(たち)。そりゃバクチの勝負に負けても、腕力と技で勝てるわ・・・。


【今回の名文・名台詞・名場面】

★時代は変わる。必ず変わる。そう囁く江口の声が彼方で谺し、脳裏に反響した。
時代は変わる。必ず変わる。核抑止力の基本に立って、原子力技術の公平な分配によって一時の平和を生み、やがて時代が変わるのを待つだけだと江口はかつて説いたのだった。原子力技術と江口が言ったのは、一部の制御技術やその計算システムのことであり、間違いなく軍事転用が目的であることを、島田は初めから知っていた。江口の誘惑に応じたのは、思想信条のためでも、核抑止力を信じたためでもなかったが、ならば、なぜ自分はそんなことをしたのか。
 (文庫版上巻p136)

★十五年間考えてきたが答えが出ない。腹の一番奥深くに刺さったその問いは、こうして腐敗ガスを発し続け、夢であれ正気であれ、意識をかき乱してくるのだった。あれほど恐怖の毎日だったのに、それでも泥棒を辞めなかったのは、いったいなぜなのか。なぜ、罠だと知っていて、こんなところまで足を運ぶのか。なぜ、今でも江口に近づき、ぷらとんに近づくのか。何ひとつ、自分を納得させる理由は見つからない。確かなのは、終わりにしなければならない、盗んだ火は返さなければならないということだけだが、それとて義務感の一種に過ぎなかった。 (文庫版上巻p137)

★島田は何を待っているのでもなかった。江口のように、時代が変わるのを待っているのではなかった。時代が変わろうが変わるまいが、昔から何一つ待つものを持たなかった独りの人間が、今はただ、義務感だけを拠りどころにして己の命を永らえている、この欺瞞。そして義務感さえも、あわよくば逃れられるのではないかとしばしば思うほどに頼りない、このおぞましさ。 (文庫版上巻p137)

上記の3つの引用は、拷問を受けている時の島田先生の思考です。何かもう・・・言葉がないなあ。いくら考えても、何度考えても、「答えが出ない」というのは、技術畑で仕事をしてきた先生にとっては、意外と辛いことなのかもしれません。「理屈じゃない」とか「理由がなくて」とか、そんなものじゃないのよ、と言っても、きっと割り切れない想いを抱いて、通用しないんだろうなあ(苦笑)

★そうして泣いた女が演技をしたのだとは今も思わないが、「さびしい」と泣くことぐらい、世界中の女がすることだろう。初対面であれ、目の前で女に泣かれ、抱きつかれて、突き放す男もいないだろう。個人的な感情など生まれるひまさえなく、島田は女を抱いた。女が何をさびしいというのか、あらためて訝ってみることもなかった。人並みの欲情は備わっているが、自分の心を砕くほど他人に興味を持てない冷血に生まれついた男が、見ず知らずの女の白磁の肌を舐め、女は女で人形のように足を開いて、見ず知らずの男の胸を舐めたのだった。思えば、生理的な条件反射がもたらした快感のほかに、何があっただろう。 (文庫版上巻p138~139)

20代の島田先生、初ベッドシーン。しかしちっとも色っぽくも官能的でもない。島田先生が冷めているせいか、「生々しい」という言葉がピッタリだ。

★紹興酒の湯気ごしに、日野はこちらを覗き込んでいた。目が合った。日野の目は、これが刃物の鋭さを取り外した生の姿なのか、ただ自分の理解の及ばない世界を食い入るように見つめる子供の不安や当惑を感じさせた。他人が何を考えているのか、世界はなぜこんなふうなのか、何とか理解したいという真剣な思いが、その黒い眼球の中から溢れ出している、誰であれ他者に対する愛情が溢れ出している、と島田は思う。自分と違うのは、この他者を見る目の切実さだ。 (文庫版上巻p147)

島田先生の知らなかった、日野の大将の一面。大将にはあって、先生にはない部分。

★島田はどんなときでも、ちゃんとものを食い、ほどよく火の通った青菜の滋味を美味いと感じることは出来た。物が喉を通らないという時期は、もう十年前に過ぎていた。たとえ死刑囚になっても、直前まできちんと物を食える自信はあった。自分の歯で一回また一回と物を噛む行為は、島田にとっては心臓の鼓動と同じであり、自分が生きているという感覚と直に結びついていた。生きていること、すなわち考えることであり、計算機のプロセッサがプログラムを一語一語処理していくように、島田は物を食うのだった。 (文庫版上巻p149)

島田浩二という男・その9。それを差し引いても、この部分は深い深い・・・。「生きていること、すなわち考えること」・・・哲学の命題や思想ずはりそのものでしょ!

★「俺もずっと一人やが、食うもんはしっかり食うとる。人間は、食生活が乱れたら頭もおかしなるんや」 (文庫版上巻p151)

日野の大将の台詞。そうですよね・・・まったくその通りです。心に刻んでおこう。

★この世界に、君自身の命と引き換えにするほどの価値のあるものはない、と叫びたかった。なぜ、見ず知らずの若者一人を前に自分がそんなことを思うのか、自分でも分からなかったが、要するに良の、今のこのありさま、この目つき、この表情を見て、そう思わない者がいるとしたら、それは人間ではないだろう。島田はそう思うことで、かろうじて自分を納得させた。 (文庫版上巻p155)

★なぜか、自分の足に絡みついてきた《北》の手先たちのことはろくに打撃にもならず、ほとんど縁もゆかりもないはずの他人の運命の方が気にかかるというのは、実は不思議な感覚だった。おそらく、そこにはほんの少しの自虐趣味、空っぽの自分を埋める何ものかをみつけた喜び、人のことを思うという行為の甘美さといったものもあったのかも知れない。そんなことを考えるのも、この冷血な自分に、純粋な献身の気持ちがあろうはずがないと思うからだったが、しかし、そんなふうに自分を茶化してみても、それだけでは説明出来ない一抹の切なさ、胸苦しい苛立ち、かすかな動悸などを感じ続けている自分を、やはり不思議に思った。 (文庫版上巻p156~157)

島田浩二という男・その10と11。
上記二つの引用は、自身を「冷血」と言っている島田先生が、初めて他人に対して見せた感情の揺れ動きを自覚した場面。つまり人間らしくなってきたことってこと?
最初の頃は良ちゃんのことを「若造」なんて言っていたのに(苦笑) 良ちゃんのことを考えていて、二度ほど地下鉄を乗り過ごして悪態ついてたのにね。劇的な変化だ。
特に「切なさ」「胸苦しい」「動機」とあれば、そこから導かれる回答は「愛情」だと思いますけれど、先生?

★「これも愚痴やないですけど、話をしたいと思う人間て、なかなかおらへんもんですよ」 (文庫版上巻p171)

ベティさんの台詞。ベティさんは島田先生に対して、技術者としても元同僚としても、尊敬に近い感情を抱いているんでしょうね。

★「せめて、政治家が絡んでないことを祈ってますわ。原子力は、政治の道具にだけはなったらいかんと思いますし……。」 (中略)
島田には応える言葉はなかった。原子力を政治の道具にしてはならないという、当たり前の道理が通らない現実世界の裏を見ないですむものなら、君はその方がいい。ずっとそのままでいてくれと思いながら、島田は笑みだけ返した。 (文庫版上巻p172) 

ベティさんは純粋な技術者なんだなあ・・・。島田先生には欠けたものをずっと持ち続けていることが分かるから、余計に辛い先生です。

★自分は、まだ何かに執着があるのか。この人生を少しでも愛しいと思っているのか。一カ月前ならおぞましさに鳥肌が立っていただろうことを、ちらりと考えて、島田は自分がたしかに少し変わり始めているのだと思った。島田の場合、変化は希望だった。希望へ向かう死というのもあるのだと、自分に言い聞かせてみる。 (文庫版上巻p173)

島田浩二という男・その12。「変化は希望」と思いつつも、「希望へ向かう死」とはねえ・・・。こういうネガティヴなところが、いかにも先生らしいのですが。

★「君、NHKのアナウンサーになれるよ」
「あなたは、МТЦ(エムテーツェー。モスクワテレビセンター)のアナウンサー」
 (文庫版上巻p184)

島田先生と良ちゃんのこの会話、「好き」という方が多いと思うので、サービス♪(笑)

★さっきまで貧血でろくに立つことも出来なかった男が、今はどれほど気分が良くなったというのだろう。もう作り笑いもせず、唇を固く結び、フロントガラスを見つめているその顔からそのとき感じたのは、狡知や悪意とはほど遠い、なにがしかの切実さと生真面目さだけだった。島田の緊張が、憤激にならずに済んだのはそのせいだ。 (文庫版上巻p199~200)

真摯な言葉と表情を見せる良ちゃんに、惹かれずにはいられない島田先生。


帰っても寝るしかない男のヤモメは会社のヤモリや (文庫版上巻p63)

2007-02-12 23:19:26 | 神の火(新版) 再読日記
2007年2月5日(月)の新版『神の火』 (新潮文庫) は、p62からp133まで読了。

今回の「ちょっと笑える」タイトルは、またまた木村社長。これも一種のオヤジギャグか?


【主な登場人物】
《ボリス》は今回名前だけなので、本人が登場した回で紹介します。

柳瀬律子 日野の大将の別れた妻。戸籍は抜いたけど、大将は「別れた」とは思っていないだろう。
山村勝則 京都府代表の衆議院議員。野党国会対策委員長。


【今回のツボ】

・島田先生のファッションセンスとポリシー ここまで徹底したお洒落な高村男性キャラクターはおるまい。父・誠二郎さんと江口さんの「教育」のおかげでしょう。

・シモーヌ・シニョレ 江口さんの理想のフランス女優。若い頃から熟女の頃までの写真があります。「知的美人」という言葉が、ふさわしいかな?


【今回の音楽】

ラ・マルセイエーズ・・・江口さんの鼻歌・その1。フランス革命時に作られたものが、そのままフランス国歌になったというエピソードは、蛇足ですね。

『アイーダ』の序曲・・・江口さんの鼻歌・その2。ヴェルディのオペラ。


【今回の書籍】

《最新外科医療技術カラー図説》・・・前回行方不明になった高価な医学書。

【『神の火』 スパイ講座】

女ひとり、落とすのは簡単だが、まず、好意をもたれなければならない。 (文庫版上巻p125)・・・これ、誰だと思います? よりにもよって島田先生なんですよ・・・。今までそうやって、何十人の女性(二桁は確実だろう)を落としてきたんだ~!(嫉妬) まあ、島田先生だから許しますが(笑) 今回はこれをタイトルにしようかと迷ったくらい。


【今回の名文・名台詞・名場面】

★「ひとりの人間を《分かる》ほど、俺は頭、良うない。好きか嫌いか、それだけや。なんでか分からんが、おまえは好きや。そやからこうして会うとるんやが……。江口は気に入らん」 (文庫版上巻p67)

日野の大将の台詞。うんうん、好き嫌いに理由は要りませんよね。だけど島田先生の反応はそっけない。幼馴染みとはいえ、空白の二十年の歳月は長すぎますから・・・。

★日野は、「飲もう」と言う。湯水のように注いだスコッチが、グラスから溢れた。それを無造作に口に運ぶ男の頬に、一筋の深い皺があった。そこに潜んだ年月などを想ったわけではないが、その顔を押し包む静けさは独特のものがあった。荒くれた物言いはたんに、日野が住んできた世界のお仕着せに過ぎない。 (中略) では、この男の目は、ほんとうはどこに向いているのか、島田は心の底から計りかねた。 (文庫版上巻p72)

乱暴(?)な喋り方でついつい見逃してしまいがちな、日野の大将の一面。最初、二度目に読んだ時は、すっかり見逃していましたが、三度目か四度目の再読で「あら?」と気付きました。本当の大将の姿に。そういう部分も、取り上げていく予定。

★昔から、自分を動かす誘惑には寛大な方だったが、誘惑に陥る自分自身を観察して面白がるもう一人の自分がいるのだ。歯を磨きながら、島田は鏡の中の男に「そうだろう?」と尋ねる。 (文庫版上巻p85)

島田浩二という男・その4。いや~、前回の子供時代に鏡をじっと見ている癖がありましたが・・・もはや何も言うまい。

★よほどの場合でない限り、そういうくだけた恰好はしない習慣が身についていた。多分、身嗜みには気をつかう方だろう。お洒落というのではないが、父と江口の感化で目を肥やされたために、着るものは上等のウールか、リネンかシルクと決めていた。 (文庫版上巻p85)

島田浩二という男・その5。
ここを読んで、前言を修正。「結婚して、離婚したい高村キャラクター」ではなく、「結婚しなくてもいいから、とにかく離婚はしたい高村キャラクター」に変更(←なんちゅー身勝手な!)
着るものにあまりに無頓着な男性も困りますが、「嫁」の立場からすれば、お金がかかって仕方ないぞ~!(笑) 家で気軽に洗濯出来ないようなものばかりでは、最低週2回はクリーニング屋さんに来てもらわないと・・・(←えらく現実的) 何よりバーゲン品なんて買いそうにないし、気に入ったら迷わず定価でポン! と買ってしまいそう。いくら稼ぎがあってもねえ。お金、かかるかかるかかる・・・(延々)

★「いろいろと難しいね、世間は」
「島田さんも、そんなこと考えはることあるんですか」
「考えた結果が、この人生だ」
「僕は、考えた結果がこのネクタイや」
 (文庫版上巻p87)

島田先生とベティさんの会話。ほのぼのしてて、好き♪

★いずれ自分の名前が出てくるのは予想していたが、それが現実になった今、さて、俺はこれからどうするのか。
逃亡か。自首か。それとも自分で自分の始末をつけるか。
そんなことをつらつら考える端から、島田は笑い出してしまった。自分の道を自分で決められるぐらいなら、ここまで来ることはなかっただろう。一挙手一投足を操られてここまで来た自分に、何の意思も自由もないのは分かっていて、だからこんなところにぼんやり座っているのだった。じっとしていたら、然るべきところが然るべき手を出してきて、俺の手足を引っ張ってくれるのだ。さあ、あっちへ行け、こっちへ来い、と。
しかし、そうして笑った後、〈そんなばかな〉という小さな反動が来て、島田は深い放心の穴に落ち込んだ。
 (文庫版上巻p92~93)

島田浩二という男・その6。この人には主体性がないのか!? と勘繰りたくなる部分ですね。でもいいの、これで。だってみんな先生をほうっとけないんだもん! ほうっとけない何かが、先生にあるってことだもん!

★島田は昔から、自分の手で触れ、目で確かめることの出来るもの以外は、受け入れることが出来ない性分だった。 (中略) 《ベティさん》が「限りなく解剖学的偏執に近い鏡」と名付けた島田の目は、数千倍の顕微鏡のように、微細な溶接の傷や腐食や変形を見つけたし、その度に計算をやり直し、パラメータを入れ替えるのを苦痛とも思わなかった。島田の目は、どこまでも実証と分析の目だった。事実は見るものであり、島田は、推測する前に観ずにはおれない目を持って生まれたのだった。(文庫版上巻p98~99)

島田浩二という男・その7。これは高村さんにも当てはまることでしょう。「百聞は一見に如かず」を文字通り実践しているのですね。

★「君にはもちろん関係のない話だ。だから、話さなかった。私の恥だからね」
まさに恥だった。原発をテロの対象にするような話に乗ったこと。そこまで落ちぶれたこと。こみ入った裏の事情はあったのだろうが、そうした愚劣きわまる話を断れなかったこと。それら、すべてが恥だった。
あなたの誇りはどうした。理想はどうした。あなたの恥は俺の恥なのだと自分に呟きながら、島田は茫然と江口の顔を凝視した。
 (文庫版上巻p104)

江口さんの明かした秘密に、島田先生怒り沸騰。しかし品が良いですから、怒り方も物静かですね。見習いたいものだ(笑)

★そういう男の物言いは、確かにあの江口のものだった。皮肉と誇りと自嘲がない混ぜになって、どこまでも本当の姿を隠そうとする。一口、二口呷るブランデーが、さらに本当の顔を遠ざける。揺すぶり倒したい衝動を起こさせる、あの江口の顔だった。
この顔にさえ出会わなければ、自分は本来、感情の爆発ということを知らないで一生を終えるタイプの人間だったのだと、ふと考えた。だが、激しい爆発に対しては、それを押さえつける理性もそれなりに鍛えられてきた。
島田は、苦くなったブランデーを無言で噛みしめた。江口は、そ知らぬ顔で自分のグラスを揺すっていた。この二年の年月が、刻々とあやふやな靄になって消えていくのを感じた。その一方で、本当に消さなければならなかったのものは、何ひとつ消えていないのだとあらためて思い知らされた。
 (文庫版上巻p106~107)

長い引用になりました。ここは島田先生が江口さんに対して抱いている確執と葛藤がはっきりと現れているところだと思ったので、見過ごせない部分なのです。

★「いったいいつから、君はそんなに不用意に動くようになったのだ。君はどこにいようが、この世界の人間であることに変わりはない。その面をさらしていい相手を決めるのは、この私だ。いいかね?」 (文庫版上巻p113~114)

江口さんの台詞。スパイとして指示を守りきれないのは、もはや失格。いくら辞めたと言っても、実績も知識もある島田さんですから、引く手あまたでしょうしねえ・・・。江口さんの忠告もその意味では真っ当です。

★「思想は品位をともなうものだということを、少しは学んだことだろうよ」 (文庫版上巻p117)

江口さんの台詞。某国の某大臣に捧げたくなりますね(苦笑)

★江口の言葉は、島田の耳をしめつけ、胸をしめつけ、腹に沈んで、いつものようにただ、重く冷えていった。こうして、また何人かの人間が間もなく消えていくのだろう。その日の話を聞きながら、それはまた将来の自分の運命でもあることを思っている自分の中に、どれほどの真剣な反省、恐怖、意思、熱意があるか。悲しいほど空っぽだと島田は思った。 (文庫版上巻p119)

島田浩二という男・その8。「江口彰彦」という男が、どこまでもいつまでも、島田先生に影響を与え続けていることか・・・。


「経理に顔は要らんでしょう」 「君は要らんでも僕は要る」 (文庫版上巻p44)

2007-02-11 17:02:13 | 神の火(新版) 再読日記
2007年2月3日(土)の新版『神の火』 (新潮文庫) は、プロローグからp61まで読了。

今回の再読日記のタイトルも、「ちょっと笑えるところ」と思える部分をピックアップしていく予定。(下巻のあそことあそことあそこは、そういう部分が見つかるかどうか分かりませんが)
今回は島田先生と木村社長の会話。私も仕事で帳簿つけたりしてるので、島田先生のお言葉は非常にありがたく心強い(笑)

今回は普通の「ネタバレ」の他に、「新旧ネタバレ」と称して、旧版と新版の違いをちょこっと記述している部分があります。どちらも隠し字にしてありますが、ご注意下さい。


【主な登場人物】
主要人物四人の紹介は、こちらでしましたので今回はパス。それ以外の登場人物の名前と簡単な紹介。一度紹介した人物は二度はしません。

島田誠二郎 島田先生の父・・・なんですけど(ごにょごにょ) 島田海運の創業者で、江口さんの親友。
島田清子 島田先生の母。既に鬼籍。ネタバレ。 高村作品では、他の男に走る女性の名前は「きよこ」というのが定番なのか? 
島田勲 誠二郎さんの弟。島田海運の代表取締役。
小坂雅彦 というよりは、《ベティさん》というニックネームの方がむちゃくちゃ有名(笑) 本名のフルネーム、忘れますよね。もちろんベテイ・ブープからついた愛称なのは、いわずもがな。その顔に似ず(←失礼な)、なかなか優秀な音海原子力発電所の原子炉主任技術者。しかし高村さんは、こういう「キャラクターもの」がお好きなのですね。
イリーナ 島田先生が、かつてウィーンで知り合った旧ソヴィエト連邦の女性。島田先生の初めての女。新旧ネタバレ。 この人は旧版と新版で、かなり違う。旧版では生きてる(と思われる)し、しかも島田先生の子供まで産んでいる!(ガーン・・・!) 
木村 島田先生の現在の勤務先「木村商会」の社長。下の名前は出てない。
堀田 《木村商会》の従業員でシルバーセンター人材派遣の紹介で勤めている。下の名前は出てない。この人が「島田先生」と呼ぶので、タカムラーさんたちの島田浩二さんの愛称は、これになったものと思われる。
川端美奈子 「木村商会」の新しい経理担当。夫とは死別し、五歳の娘が一人いる。


【今回のツボ】
・プロローグ 現時点での高村薫全作品で、『神の火』の幕開けが一番好きです。良ちゃんが海に浮かぶ船を万感の想いで見つめ、その船に島田先生が乗っているという、場面の切り替えが好きなんです。(ああ、上手く表現出来ない)

・ギリシャ神話に出てくる火の話 島田先生が子供の時に、江口さんが語った。個人的な話ですが、私がギリシア神話を初めて読んだ頃のエピソードの一つが、このプロメテウスの神話でした。

どういう神話なのか、江口さんに代わって簡単に説明。(細かい部分は諸説がありますが)
大神・ゼウスは人間に火を与えるとロクなことがないと思い、与えませんでした。寒さに凍える人間たちを見かねたプロメテウスは、太陽神(アポロンかヘリオス)の操る天を駆ける馬車から火を盗み取り、人間たちに与えます。こうして人間たちは豊かな生活を送ることになったのでした。怒ったゼウスはプロメテウスをコーカサス山に縛りつけ、大鷲に肝臓を食わせるという罰を与えました。肝臓は一日で元通りに戻り(←ホンマかいな?)、プロメテウスは大鷲に肝臓をついばまれるという地獄の責め苦は半永久的に続きました。解放されたのは、所用でプロメテウスを訪ねたヘラクレスが、大鷲を射抜いた時でした。

余談ながら、プロメテウスの名前の意味は「先に考える者」。それから派生し「プロローグ」の語源になっています。また、プロメテウスの弟の名前は「エピメテウス」で「後に考える者」。そこから派生したのが「エピローグ」という言葉。そのオリュンポスの神々がエピメテウスに与えた人間の女性が、「パンドラ」。あらゆる災いを詰め込み、唯一残ったのが《希望》だった、という「パンドラの箱」で有名ですね。
(すみません、ギリシア神話が好きなもので、ついつい長くなって・・・)


【今回の書籍】
キケロ、ヴェルギリウス、ルクレティウス、リヴィウス、セネカ、タキトゥス、フェルナン・ブローデル、エリアーデ・・・全て人名。江口さんが青少年時代の島田先生に読ませたり、講義したり、一緒に読んだりしたもの。
キケロからタキトゥスまでは、古代ローマ時代の人々(さらに細かく時代が分類されるが、やってられない・笑)。
ブローデルはその古代ローマ時代をテーマに著した『地中海』が有名な、20世紀のフランスの歴史学者。
エリアーデは20世紀のルーマニアの宗教学者・宗教史家。『新リア王』 (新潮社)にも出ていたような・・・? 違ったかな?
結論、江口さんは島田先生に徹底的に「歴史」を叩き込ませたわけですね。

《アメリカン・サイエンス》・・・木村商会が取次ぎをしている雑誌。

「放射能汚染測定とシミュレーション技術の応用」・・・良ちゃんが木村商会の一階の書店で立ち読みしていた本。「何のこっちゃ」と、それを聞いた堀田さんの台詞と同じことを思った読み手も多いはず(笑)


【舞鶴地どりスポット】
今夏の舞鶴地どりに備えて、極めて個人的なメモ。舞鶴といっても、「西舞鶴」と「東舞鶴」に大きく分かれるみたいです。

・西舞鶴の聖クレメント教会・・・やはり高村作品にははずせないのが、教会ですね。
・京口の「霞月」・・・島田家がしょっちゅう利用。江口さんの常宿もここ。これからも頻繁に登場。
・田辺城跡、南田辺、舞鶴公園・・・島田先生の実家は、この付近にあるらしい。散策したいですね。
・城屋の雨引神社・・・揚松明の神事は、ここで行われます。子供の頃の島田先生が江口さんと二度目に会ったのが、この祭りの日。金太郎飴、今も売ってるんでしょうか?


【『神の火』 スパイ講座】
なんちゅー見出し(笑) いや、面白いだろうと思いまして、取り上げてみようと。視点を変えて見てみれば、意外と普通の常識的なことを述べているようにも思えるから不思議だ(苦笑) 将来スパイになろうと思っている人には、参考になるかも!?(←冗談だってば)

『目立つことをしてはいけない』 (文庫版上巻p11)・・・これは良ちゃんが叩き込まれた基本の一つ。

『好感をもたれるよう振る舞うこと』 (文庫版上巻p11)・・・同じく良ちゃんが叩き込まれた基本の一つ。


【今回の名文・名台詞・名場面】
今回はオープニングということもあって、主要登場人物の描写がなかなか面白いんです。

★男はときどき船の夢を見る。三年半前に自分をこの国に運んできた船。いつか迎えにくるかもしれない船。どこから来てどこへ行くのかもしれない船。
あの船はどこへ行くのだろう。あの雲の海を行く船は……。
 (文庫版上巻p12)

いきなりネタバレ。 ここで下巻のあの場面を思い浮かべた方も多いのでは? 「いつか迎えにくるかもしれない船。どこから来てどこへ行くのかもしれない船。」なんて、伏線そのもの。しかも良ちゃんが見ている船に乗っているのは、島田先生。ある意味で良ちゃんを「導く」のが島田先生であり、また良ちゃんに導かれるのが島田先生なのだから・・・。  「この場面が好き」と上記に書いたのは、良ちゃんの真摯な眼差しに惹かれたからでもあります。

★多重防護のシステムは、人間工学の部分を除いてほぼ完成の域に達しているが、一〇〇パーセント確実なものなどこの世にはない。事故は百万分の一の確率であっても、起こったら最後なのだから、関係者の心配は真っ当なものだった。故障もテロも、事故は事故だ。 (文庫版上巻p19)

ベティさんの話を聞いた島田さん。またまたネタバレ。 下巻のクライマックスのテーマが、ここで述べられてる~!  再読すると、こういう発見があって楽しいですね。

★「時代は変わります。必ず変わります」 (文庫版上巻p21)

江口さんの口癖。これからも島田先生の回想シーンで何度も出てきます。

★今そこにあるのは、島田には直視に耐えない顔だった。しかし、目を逸らせたところで、その顔とともに会った自分の人生が消えるわけでもない。江口の顔一つを目の当たりにしながら、島田は自分の腹から沸騰水が噴き出すのではないかと思ったが、実際には、熱流束は蒸気の泡でいっぱいの状態だった。噴き出すべきものが噴き出さない。溜まり続ける熱の逃げ場がない。原子炉の炉心では、その泡が飽和状態になるとき、逆に一気に流体抵抗がなくなって、沸騰水の驀進が起こるときがある。 (文庫版上巻p22~23)

江口さんを目の当たりにした時の島田さんの心の動き。「専門用語」がこれでもか、と出てきますが(苦笑)、専門用語の文字の羅列を見ただけで、苫田先生の「怒り」が感じ取れるでしょ? 島田先生も原子力発電に関する技術・知識に関しては、重要文化財クラスですからね。ネタバレ。 (そうでなきゃ、その「知識」を欲しがる他国から狙われることもなかろう) 

★そういえば、白の盛装はいつでも、江口彰彦に一番相応しい姿ではあった。長年の知己の弔いの日に、こんなふうに晴々と白を着ることの出来る人間が、ほかにいるだろうか。 (文庫版上巻p23)

ダンディ・江口!(笑) いやいや、こういうのが似合う人、厭味にならない人のことを「ダンディ」というのですよ。この江口さんに張り合えそうなのは、李歐くらいかなー?

★あっちの屋台を覗き、こっちの屋台を覗き、江口は風狂な紳士風情でさも楽しそうに歩いていたが、島田は江口が本来、そうしたものに一切興味がないことは知っていた。人目を欺き、己を欺き、どんな姿でも演じられるが何ひとつ心から楽しんだことはない。楽しむのは、何ものも受け入れない己の魂の完璧な空洞であり、そこに響く俗世の交響楽を江口は聴いているだけだった。しかも、究極の退屈しのぎのために。 (文庫版上巻p25)

「老獪」という言葉は、江口さんのためにあるのかと思わずにはいられません。語彙力がないので(泣)、他にどんな言葉が当てはまるやら・・・。
さて、『神の火』 の重要なキーワードの一つが出てきましたね。「空洞」。

★江口の白いスーツの肩に、松明の明かりが映っていた。二年前に会ったときより、いくらか小さくなった肩だ。その上で、腐りかけた夢と陰謀が燃やされている、と島田は思った。 (文庫版上巻p26)

島田先生が江口さんに抱く感情は、「愛憎」という言葉では片付けられないものがあるんですが・・・この時は結構高いマイナス値だったんでしょうね。表現に容赦がない(笑)

★「何かが起こっている、どこかで罠が仕掛けられているのだと思った方がいいね……」
「そういうことなら、二人分の墓を用意しておきましょう。僕とおなたの」
「どうせ口にするなら、もう少し気のきいた軽口でないと、君の品格が落ちるよ」
「スパイに品格があるとは知りませんでした」
「君のような、あるいは私のような人間が持ちえる最低限の品格だ」
「もう言いません」
「それがいい」
 (文庫版上巻p27)

江口さんと島田先生の会話。江口さんに太刀打ちするには、まだまだ青い島田先生。一方、「育ての親」である江口さんにしたら、島田先生の物言いは我慢ならんのでしょうけど(苦笑)

★日野も、冬の肌をもつ男だ。 (文庫版上巻p34)

ここの一文で、私は大将に惚れたっ! こんな短い文章で、こんな短い名詞で、これほどまでの官能を感じさせるなんて! 「冬の肌」という表現が艶かしい! しかも女でなくて、男なんだもん!

★母の胎内は人間が生まれるための容器に過ぎず、生まれたと同時に人間は、一人になり、一人で死ぬ。長い間、島田はそういう死生観を持っていたのだった。 (文庫版上巻p36)

母がロシア人の宣教師と密通し、生まれたのが島田先生。複雑な出生からこんな死生観を持っても、仕方ないのかもしれませんが・・・。寂しくない?

★島田は学校で「あいのこ」と呼ばれても平気で、むしろ、鏡の前で自分の碧眼を眺めるのが好きだった。不思議な色を飽きることなく眺め続け、夢想に耽った。自分という一個の生きものが、どうしてこのようにここにあるのか、これからどのような人間になるのか、そうしたことを一人で考え続けた子供には、父も母も、自分を除くすべての人間が他者だったのだ。 (文庫版上巻p36)

(子供時代の)島田先生、ナルシスト!?(ガーン!) ・・・いや、気を取り直して。こんなのが許されるのは、島田先生くらいだ、うんうん。自分の瞳を眺めて、哲学めいたことを考えているのだから。この時点で、そのまま大人になったんだなあと分かってしまいますね。

★これまで、夢でうなされることはあったが、白昼に立ち戻ってくることはなかった過去のひと節が、昨夜に続いて二度までも現れるのは、自分の中で何かがひび割れた証拠だった。島田はそういう物の考え方をする人間だった。では、どこにひびが入ったのかというと、島田は機器を点検する技術者の目でしばらく自分の腹を探り回し、ひび割れたのはまず、感情の蓋だろうと結論を出した。昨日、江口の来訪と同時にひび割れ、恐怖が漏れ出したのだ。痛恨や後悔の念にも増して、やってくるのはいつも、恐怖だった。 (文庫版上巻p38)

島田浩二という男・その1。

★「マキャベリズム的誇大妄想型マゾヒズムですよ」 (文庫版上巻p40)

島田先生の抱える煩悶を、ベティさんならこのひと言で済ますだろうな・・・と、島田先生が思っただけのこと。なかなか秀逸な表現だ。

★自分の人生を思うとき、島田は常に自分の腹で燃える火を連想した。この十数年、自分の腹の炉心がいつ壊れるかと見つめ続けてきた。危険の兆候はそれとなく分かるが、対処方法の選択と判断が難しい。これは原子炉でも同じだった。計測器のはじき出す数値を判断し、いくつもある対処方法のうち、どれが最適かを見極めるのが、技術者の仕事だ。自分も技術者の端くれであったのだから、選択も判断も自分で行わなければならなかった。この炉心はいずれ崩壊することは分かっているが、それを見極めるのは自分であって、江口ではなかった。壊れているなら、安全に止めて見せる。自分が盗んだ火は自分で消し、神に返すのだ。 (文庫版上巻p40)

島田浩二という男・その2。

★似たようなダンボールを見つけるたびに梯子に登ってみた。素手が汚れるのも気にならず、時間が経つのも忘れていた。木村が「五百万やで」と言ったからではない。人間と世間の臭いがない、物言わぬ貨物だけの空間で、神経が休まるのを感じたのだった。 (文庫版上巻p59)

島田浩二という男・その3。これも「人間のいない土地」『黄金を抱いて翔べ』の幸田弘之さん)の、バリエーションの一種かもしれませんね。