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あるタカムラーの墓碑銘

高村薫さんの作品とキャラクターたちをとことん愛し、こよなく愛してくっちゃべります
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『閑人生生』 (朝日文庫) の覚え書・5

2015-07-15 23:51:38 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
それにしても鈍い台風ですね。 毎日のように予想がずれて、何がなんやら分からない。
今の国会と同じようにワケが分からない。 但し首相とその周辺が言うには、「私たちの主張を理解してくれない国民の皆様こそ、ワケが分かりません」 なんだろうよ。

『閑人生生』 (朝日文庫)

***

<2008年7月~8月まで>

失われる生活能力

本来の使い方でない使い方をしたり、誤った使い方をしたときに起こるのだが、近年はひとたび事故が起こると、利用者よりも製造者や管理者の注意義務が大きく取り上げられ、「もっと安全に」の大合唱である。 (中略) こうして私たち消費者は自ら注意を払って危険を避けることを忘れがちになり、大人も子どもも、ある主の生活能力を失ってゆくのは必至だろう。
生活に伴う危険を自ら注意して避ける代わりに、あくまで危険ゼロを求める社会は、排除の論理と呼応する。不潔を排除し、障害者や高齢者や犯罪者を排除し、危険な道具を排除し、万一事故が起きれば、責任を負うべき者を見つけ出す。こうして百パーセントの安全と快適を要求することが市民の権利と化した社会が失ってゆくのは、故意と不可抗力の境目を見極める理性であり、人生に起こりうる不幸を不幸として受け止める人間固有の能力である。
 (p155)


死は自分のものではない

生きてさえおればいいこともあるというのが必ずしも真でないことぐらい、現代人ならば誰でも知っている。また何より、自殺願望者が求めているのは、どこまでも死であって、生ではない。 (p157)

死はけっして自分のものでなく、つねに人の死であるに過ぎない。また生物としての人間は、死期の近い人を除けば、自らの死をけっして予想しないとも言われる。してみれば自殺者はたんに「いま」や「明日」を見限るのであり、生を見限るのではないと言えよう。 (p158)


暑苦しいサミット 危機感が、私たちの意識を変える

産業界は長年、消費者のニーズをつくりだすことに血道をあげてきたが、本来ニーズは消費者の暮らしが生み出すものである。 (中略) いまだに経済成長以外の選択肢をもたない政治や、大量消費にしがみつく産業界の目が覚めるのは、いつか。 (p161)


年々薄れていく、一斉行動への抵抗感

今回の携帯電話の発売も、あえて予約販売をしないというあからさまな手法で、いつそう易々と行列はつくり出されたのだが、企業側からみれば、笑いがとまらないほどの操りやすい消費者ということになろう。
価値観の多様化がほんとうであれば、一つの商品に殺到するような現象は起こりにくいはずだが、実際にはその逆であることを見ると、私たちは近年、知らず知らずのうちにメディア広告に身を任せすぎてはいないだろうか。仕事に追われすぎ、一つ一つの消費について、時間をかけて熟考するような余裕がない私たちのこころと脳味噌へ、いつの間にか企業とメディアが入り込んできているという自覚はあるだろうか。
 (p163~164)


政治家の厚塗り敬語 

政治家たちは昔から、とくに国会では丁寧な言葉を心がけてきた歴史があるが、それは相手への敬意と同時に、国政という公のものへの敬意だったように思う。ひるがえって今日永田町にあふれる異様にバカ丁寧な言葉は、そうは聞こえない。テレビを通じて、国民を意識しているというふうにも聞こえない。
そもそも国民は政治化にへりくだってもらう謂われはないし、政治家にしても選挙区の支持者を除く一般国民に対してそんな義理はないからである。
 (p170~171)

いまや政治家の一部は、誰のために、どこへ向かって、何を話しているのか、自分でも分からないようなあいまいさを生きているということだ。 (p171)

安倍晋三が「自分のために、自分へ向かって、自分の話しをしている」というのだけは、分かる。


欲望を制限できない

この欲望は、自分にとって合理的と思われる選択をさせるものだから、たいがい欲望の顔はしていない。それどころか誰もがいっぱしの言葉を身につけた現代では、理性的な顔をして現れることすら多く、そのためますますそうと気づかれない。こうして個人生活のレベルでも、国家間のレベルでも、欲望は制限するものではなく、主張し、実現したほうが勝ちという時代になりつつある。
欲望の制限が難しい時代とは、多数間での利害の調整が難しい時代ということである。
 (p172~173)


この恐ろしいほどバラバラな世界

目的の商品毎に情報を収集することが、もっとも合理的な消費行動とみなされるようになった結果、ほんとうはもっとほかの選択肢がありえることを、私たちはあえて考えなくなったように思う。
これは、情報量の多さが正確さを、利便性が合理性を保証しているという幻想を、もう誰も幻想と思わなくなったことを意味している。またさらに、靴なら靴、バッグならバッグというふうに情報が一つ一つ切り離され、互いに関連を失い、全体を失うということも意味している。政治から消費生活まで、「合理的な」私たちは実はおそろしいほどのバラバラ感のなかで生きているということだ。
 (p176~177)

少しずつつながっているかもしれない物事を、こうして共通点のないバラバラの情報がただ並んでいるだけの状況に置き、関連を失わせてすべてを等価にすれば、無用な比較や、優劣の判断を強いられることもない。合理性を生きる私たちは、目的の事柄以外の事柄にわずらわされることを、嫌うのである。
こうして私たちは、自分の好みと都合を基準に小さな生活のまとまりをつくり、生きている。いったん外へ目を向けると、自分がどんな時代を生きているのか分からなくなるので、ますます自分を全体から切り離すすべを磨く。本来、物事はほかの物事と参照され、全体と参照されて初めて意味をもつようになる。バラバラの個別の物事は、そのままでは世界のなかに居場所をもたないということであるが、ひょっとしたら私たちは、この不安定きわまりない時代と世界を見ないよう、あえて情報を断片にしているのだろうか? 世界を眺めても危機ばかりだし、まともに考え始めたら生きてゆけない気分になるから?
 (p178)


『閑人生生』 (朝日文庫) の覚え書・4

2015-07-05 20:55:43 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
間が空きましたね、申し訳ございません。

『閑人生生』 (朝日文庫)

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<2008年4月~6月まで>

「後期後継者」とは何か ユダヤ人隔離を思い出す

医療の高度化や延命装置の進化を手放しで歓迎するわけではないし、生命につきものの寿命を直視する理性は持ちたいと思うが、社会全体で高齢者や障害者を支える近代の福祉国家の理念を捨てるような勇気はない。また、労働力にならない人間を貶めるような空気にも耐える自信もない。これは、生死より大事な人間の尊厳の問題である。国民皆保険制度と言うなら、本来は消費税で解決すべきところ、国は面倒な税制改革を先送りし、代わりに国民の選別に手をつけた。これこそ、この後期高齢者医療制度が、先進国のどこにも例がない所以である。 (p127)


道路財源の論理矛盾と、政治家の超論理発言

「自衛隊のいるところが非戦闘地域だ」という政治家の国会答弁をなつかしく思い出す。これはA=非Aの論理矛盾ではなく、「超論理」というやつで、まさに論理を超えているゆえに論理による反論を受け付けなかったのだった。 (p135)

なんでもありの超論理では許されない成文として言葉が提示されたとき、そこではAと非Aは必ず排除しあい、好きだけど嫌い、といった奥深い対立はけっして起こらないのである。 (p136)

今日、政治家とは法律の言葉のもつそうした厳密さを生理的に嫌い、欲望に任せて整合性のない法律もどきを乱発することを、屁とも思わない人種のことを言う。 (p136)


携帯に代わるものとは

こうして携帯電話がなければ何もできない生活能力の低さと同居し、生活機能の多くを担っているゆえに入り込んでくる悪意や犯罪とも同居しながら、不安は技術で解決できると信じ込む、こんな携帯生活は、もはや合理性以前の何かだろう。一つの道具に過ぎないものが、それなしには生活が成り立たないまでに万能になることを異様と思わないのは、いくら道具に特殊の感情をもつ国民性とはいえ、ふつうの神経でない。 (p151~152)

道具一つに、刺激的名までも機能と便利さを求め、ほかには何も要らないというのは、要は、明日を信じていないということである。 (p152)


『閑人生生』 (朝日文庫) の覚え書・3

2015-06-21 23:10:44 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
あの事件の後、ある日退社したら、目の前でブルーシートを片付けたりする人たちがいて、それから警察の特殊な車が走り去ったので、容疑者を伴っての現場検証が行われていたと知りました。

これは結構、衝撃を受けましたよ。刑事さんたちに囲まれていたとはいえ、ほんの十数メートルの距離に容疑者がいるということに。
ニュースで見るのは「客観的」で済むのだけど、実際に目の当たりにするのは、「客観的」では済まない。

「合田さんたちも、こんなことやっているのか」なんて思えるようになったのは、最近ですね・・・。

『閑人生生』 (朝日文庫)

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<2008年1月~3月まで>

異様な医療の現実

医学部のあり方を含めた制度全体の改革が必要なのは当然ながら、制度崩壊のもっと大きな原因は、人の命を救う技術化の一方で、いったいどこまでの治療が必要なのかという社会的コンセンサスが欠如している点にあると思う。 (p85)


不毛なガソリン国会

一飯に、政治や行政や企業などの非個人が「必要な○○」というときには用心をしたほうがよい。なぜなら、そこでは「誰にとって」という必要の主体と、その主体にとって必要だと判断している第二の主体が、あいまいに重ねられているからである。 (p88~89)

必要と不要は必ず相対であり、「必要な」と言うためには、事前に必要と不要を分ける作業がなければならない。そして、そこにももちろん分ける主体がいる。なぜなら要・不要を分けるのは、自然の法則や、あらかじめ社会や集団が要・不要を定めている法律や規則を除けば、判断する主体の経験や利害や好みの問題だからである。 (p89~90)


「豊かさ」に潜むもの

考えてみれば日々の惣菜まで、遠い中国の工場で単価を下げるところまで下げさせて安価な商品を作らせる、こんな私たちの食生活のほうが、おかしくはないか。厖大な輸送コストをかけても、まだ手づくりより安いということ自体、異様ではないか。また、私たちは安全・安心を当然の権利のように主張するが、今日この国にあふれている食品の多くは、むしろ安全性を確保できないレベルまで安価になりすぎているのではないか。 (p92)


不注意では済まない

ヒューマンエラーは、時と場所を選ばない。 (p100)


私が裁判員だったら

日本もアメリカも、十分な司法制度を整えながら、司法の判断がかくも異なるのは、要は一つの事件をあくまで中立の司法の目で見るか、社会正義の目で見るかの差である。 (p105)


『閑人生生』 (朝日文庫) の覚え書・2

2015-06-18 23:44:41 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
本日退社したら、新聞記者がたむろしていて何事かと思う間もなく、「ああ、例の裁判か・・・」とすぐ思い当たった。

3年前の6月、会社の近くで通り魔殺人事件があり、もしかしたら1日違えば、時間さえあえば、殺されていたのは私かもしれない・・・という想像が、今も生まれては消え、消えては生まれていく。
会社に行くとき、出るときにいつも通る道なので、痛みと恐怖が時折り私の中で、渦を巻く。
これはきっと、生を終えるときまで続くことだろう。

『閑人生生』 (朝日文庫)

文庫の下段にその週に起こった出来事が簡潔に記されているので、「こんなこともあったなあ」と振り返ることができます。

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<2007年11月~12月まで>

若い世代の車離れ

十九世紀の終わりに初めて自動車が登場したとき、人びとが興奮したのは馬車に代わる便利さよりも、そのスピードだったと言われている。スピードは、それを体感する人間の心身と直結する。 (p50)


食べ物のありがたみを再考する

自戒をこめて言えば、昨今の食品偽装をめぐる私たちの反応には、食べるものへのありがたみ失われたことが根底にあるように思う。食とは本来、豊作や不作があり、ときには米の一粒が貴重だという感覚の上にあるものである。牛や豚も大型魚も、骨以外のほとんどの部位は食べられるのに、肉と身しか食べない無神経が牛肉百パーセントの信仰を生み、消費者が神様だという傲慢が、過剰な安全信仰を生む。
安全を叫ぶ前に、この国の農業・漁業・畜産業をほんとうに大事にするほうが先である。食は生きるためにあるのであり、安全や鮮度は、与えられた恵みの範囲で折り合いをつけるべきものだと大真面目に思う。
 (p53)


事件や事故のたびに、自問していることが多い

彼ら当事者たちが常識に反して事態を放置し、平然として責任を認めないのはなぜか。これはひょっとしたら、保身や無責任の以前に、そもそも原因と結果を結びつける思考回路のない頭というのがあるのかもしれないと、ふと考えた。
製品の汚染や記録の不備という事実の認識と、それがもたらす事態の予見は、実はべつの次元のことであるのかもしれない、と。
 (p58~59)

これはC型肝炎訴訟と、公的年金の記録漏れについてです。


謝罪の言葉の軽さ

責任者たちが、公に向かって「ご心配、ご迷惑をおかけしまして」と言うのには、新しい日本語の慣用句が出来たかと思うほどだった。もちろん、そんな文言に誠意を感じ取るほど、私たちの日本語感覚は麻痺していない。
誰も本心から出たとは受け取らない形式だけの謝罪の言葉か、こうしてメディアにあふれ、「謝罪」の形になる。一昔前なら、多方面にふりかかる責任の追及を案じて、そう簡単に自らの非を認めることはなかった企業や政治家の変質を、逆に痛感させられるが、それにしてもこの謝罪の言葉の軽さはどうだ。
 (p70)

言い換えれば、保障や賠償など、取るべき実がある場合は、言い方一つで痛み分けも、逆利用も可能だということになろうか。 (p71)

謝罪の言葉は、ときには喪失感を怒りに変換できることを被害者に教えるスイッチになる。かといって、加害者も謝る以外にすべがないのであり、言葉がその力と限界を試されるのはこういうときだろう。しかし、今日ではそうした謝罪の言葉も粘り強さを失い、拍子抜けするほどあっさりと吐き出される。 (p72)


『閑人生生』 (朝日文庫) の覚え書・1

2015-06-17 22:50:14 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
この6月は皆川博子さんの『トマト・ゲーム』と『双頭のバビロン』の文庫が上旬と下旬に発売され、読書が楽しみ。
ですが、皆川作品は読み手の精神や思考を混乱させるものが多いので、連続して読むのは心身ともに良くないと、今までの経験から分かっている。

その頭を休ませるインターバルとして、何を読もうか・・・と積読本を探したら、これが出てきました。

『閑人生生』 (朝日文庫)

「AERA」で「平成雑記帳」として掲載されたエッセイの、2007年8月~2009年7月までの分。
読み始めてびっくりした。 始まった時期が、今の首相が突然「ぼくちゃん、体調悪いから首相辞めちゃうね」(←実際こんな発言してないけど、ニュアンスとしては正しいと思う)だったから。

約2年前に『作家的時評集2000-2007』 (朝日文庫) の覚え書 を実施したので、今回もそれに倣って少しずつ、私の琴線に触れたところ、引っかかった部分などを十数回に分け、覚え書としてアップします。

これも前回述べましたが、個人的な意見としては、高村さんのご意見全てを肯定してるわけではありませんし、「それ、ちょっと違うんでは・・・」と感じた部分もあります。
受け止め方・感じ方は読み手次第ですから、その点はお含みおきください。

それにしても正直なところ、付箋紙貼った部分が多すぎて、引用をどうしようかと悩んでます~。
「1エッセイにつき、1つの引用」を原則にしないと入力大変だわ・・・。

***

<2007年8月~10月まで>

三年に一度の夏の風物詩

この九ヵ月、強行採決が乱発される国会には、さすがに危機感があった。強行採決などは、一つの政権のここぞという局面で一回やれば十分である。
それを十数回も連発するというのは、手間のかかる法案の審議など、初めからかたちばかりということだろう。政治もここまできたというより、少し恐怖も覚えた。
 (p14~15)

のっけから今の国会の最終的なあり方もありえそうな内容を描いた文章で、ビックリですよ。法案変わっても、やることなすこと最後は同じ、というわけか? それでは困るんですよ。「自分のための政治、自分のための法案」なんて、くそくらえ!


身体で記憶し続ける、六十二年前の夏

このことは、人の記憶がたぶんにつくられたものであることの証であるが、つくられたものと分かっていても、身体の一部であり続けるようなきおくがあることの証でもある。またそれは、戦争や災害といった身体の経験が、身体でしか記憶できないということの証でもあろう。 (p21)


地球は「美しい星」か

思うに、繁栄の権利とは、末来より「いま」を取る権利である。 (p27)


敬老の日とはなんだろう

敬老の日のうさんくささよ! (p29)

長寿は祝うべきことだろうか。病気や事故で早死にする生命もあるなかで、一つの生命が七十過ぎまで生きたということ自体は慶事に違いないが、集団の確率という意味ではそれはたんなる幸運に過ぎないのだから、祝うべきは長寿ではなく幸運のほうだろう。また自らの幸運を祝うのなら、不幸にして短命だった命への感謝もなければ釣り合うまい。 (p31)


「想定」という幻想

科学技術の分野で何かを想定するとき、物理法則に基づいた計算と、実験や観測で得られたデータが基礎になるが、その計算や実験は、人間があらかじめ条件を設定することで成立する。言い換えれば、どんな条件を入力するかによって結果が変わるということであり、そこで行われる「想定」は、決して唯一でも絶対でもないということである。 (p32~33)


確かな絶望が刺激する

食べてゆけないかもしれないという不安と、今日食べるものがない絶望は違う。病気になったらどうしようという不安と、現に病気を患いながら医者にかかれない絶望は違う。これほど経済と社会制度が発達した先進国で、こんな絶望はそもそも生まれてはならないはずだが、現にあちこちで生まれていることを、社会はもう少し恐れるほうがよい。
なぜなら、今日食べるものがない一人の絶望は、私たちの漠とした不安な気分を刺激しながら、深く静かに広がってゆくだろうからである。それなりの努力と困難を経なければならない希望より、不安のほうがはるかに広がりやすい。
 (p38)


『四人組がいた。』 読了しました。

2014-08-16 22:27:47 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記




何の写真? とお思いでしょうが、買った書店で書店員さんが、売上カードを抜き忘れたみたいなのです。
滅多にこういうものは手元に残らないし、写真に収めました。

『四人組がいた。』、十二の連作短編集。
書籍になっていない連作短編シリーズは、完・未完も含めて結構ありますから(<七係シリーズ>も連作短編シリーズと言ってよいでしょう)、それを考慮しても「初」と銘打ってもいいのでは、と思います。

巻末の初出一覧見ても、第1作が2008年。
第6作と第7作で間があいてるのは、『新 冷血』の「サンデー毎日」連載を挟んでいたから、と分かりますね。

第1作を当初読んだ時は、ビックリしたことを思い出します。
書籍では「ユーモア小説」と決めつけて(?)いるけれど、その前に「ブラック」をつけて「ブラックユーモア小説」とすべきじゃないのかしらん?
あるいは、「ユーモア小説だけど、薄気味悪い」だの、「薄気味悪いけど、ユーモア小説」。

そう、第1作読んだ時はゾッとしたもんです。その不気味さに。
それ以降も「そういうオチなの!?」と読み手の意表をついてくる。

今回通して読むと、忘れていた物語が結構あって、逆に新鮮な気持ちで読めました。


あとは個人的希望を述べれば・・・約10年後の文庫化には、「ユンホ(ユノ)」の名前を入れてあげてくださいね(苦笑)


『作家的時評集2000-2007』 (朝日文庫) の覚え書・12

2013-09-10 23:18:58 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
これで最後です。
2007年9月まで、つまり現首相が初めて首相を務めたときに、突然辞任を表明したときまで。なかなかよいタイミングですな。

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<2007年>

なんとなく改憲?

憲法を改正するというのなら、何よりまず、衆参両選挙区の一票の格差を是正するのが先だろう。とくに参議院の一票の格差を放置したままの国会に、憲法改正の発議をする資格があるとは思わない。 (p408)

「違憲」という判断が下されて終わり、というのではなく、「何とかしなさい」という勧告もやっと最近出ましたからね。


そもそも憲法改正は自民党結党以来の悲願だが、私たちの悲願ではない。自民党の悲願の原点には、敗戦後の独立回復の過程で、戦勝国による天皇の戦争責任追及を回避するために、心ならずも受け入れた憲法だという思いがあると言われる。しかし国民は、とにかく素直に平和憲法を喜んだのであり、政権与党として尊重すべきは、国民が六十年も憲法を享受してきた事実のほうだろう。 (p408)


「公」の姿、「民」の顔

大多数の人びとは、乏しい年金から月々の利用料を工面して介護サービスを受けながら、自分が商品であることの不安と悲哀に耐えるほかない。これがこの国で老いるということである。これを福祉と呼ぶ政治に、誰の老後も託したくはないと思う。 (p411)


それにしても、いったい私たちはどういう国に住んでいるのだろうか。納めたはずの公的年金の記録がずさんにも失われ、誰もが逃げられない甥や身体の不自由が営利企業の商売に化ける。これはひとえに「公」と「民」のあるべき区別が失われているということである。
周知のとおり、私たちが納めた年金保険料は天下り官僚を養うために使われ、高級マンション並みの職員住宅の建設に使われ、無駄な保養施設の建設に使われてきた。その一方で肝心の年金記録はおざなりにされ、まともに管理すらされてこなかったのだが、この社会保険庁の姿は、この国の「公」の何たるかを表して余りある。
では、「民」はどうか。郵便制度をはじめ医療、大学、そして介護など、本来は「公」であるべき性格のものが、改革の名のもとに「公」から放り出され、いまや「民」の顔をしているのだが、この「民」は国民ではなく民間企業である。ここでも本来の「民」、すなわち国民はほとんど置き去りである。
 (p411~412)



救いがたい政治の劣化――安部首相辞任

振り返れば、安倍晋三とは何者だったか。安倍晋太郎の息子、岸信介の孫という以上の何があったか。父晋太郎の死によって地盤を継いだ二世議員が、小泉政権で官房副長官に抜擢され、拉致問題で北朝鮮を強硬に非難して国民の人気を博したころには、せいぜい「未來の有望株」というところではなかったか。そういう人物が閣僚経験さえないまま、圧倒的な小泉政権の大衆人気に味をしめた自民党政治家たちに担がれ、ある日突然、総理総裁の座に就いたというだけのことではなかったか。 (p429)


総裁就任の前後に出版された『美しい国へ』なる著書にあったのは、信じがたいほど上っ面の、理念以前の子どもの意見表明であり、生きた政治家としての手腕や力を彷彿とさせるような記述は一つもなかったのではなかったか。日本古来の伝統と愛国心に依拠しておれば自ずと道は開けるというのでは、保守政治家でさえ務まるはずがない。 (p429)

2006年に、論理も懐疑もない保守の危うさ――安部晋三著『美しい国へ』を読む というタイトルで、高村さんは感想を述べられているので、お読みください。


***

長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございます。 お疲れさまでした。
2000~2007年の過去をざっと振り返りましたが、なーんにも問題解決してないですね。停滞したまま且つ悪いまま。入力していたら、腹立ってきたことが幾度もありました。


同系統の本は他にもありますから、来年は、高村薫・藤原健 作家と新聞記者の対話  閑人生生 平成雑記帳2007-2009  続 閑人生生 平成雑記帳2009-2011 のどれかを読む予定。


『作家的時評集2000-2007』 (朝日文庫) の覚え書・11

2013-09-09 22:22:58 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
新連載「土の記」の雑感は、この覚え書が完成してからやりますね。次回で終わらせますので。

紹介し忘れてましたが、yukiさんのブログ 「DAYDREAM」 で、<合田雄一郎 あだ名企画> が催されています。 (yukiさん、遅くなってごめんなさい~)

誰もが一度は考えた(と思われる)合田さんのあだ名。 あなたもここで発表してみませんか? 無記名でもOK(な、はずです)


gooメールの無料版が来年3月上旬で使えなくなるので、あちらこちらの無料メールアドレスを検討中です。 有料版を利用する気はさらさらない(苦笑)
プライヴェートなお友だちのメールアドレスもgooなので、非常に困ってる・・・。 どれがいいんだろう?

Yahooだけは登録したくないんだよね。
ネットを始めた頃に登録したことがあるが、翌日までに迷惑メールがわんさか入っていた。
なんで? 登録しただけで、誰にも知らせてないのになんで迷惑メールがくるの? しかも大半の件名が「バイ●グラ」・・・。
これは怖い、と即座に退会。「ヤフーは迷惑メールが多い・恐らく情報を洩らしている(だろう)」というイメージが定着したので、利用したくないの。

今年いっぱいまでは今のままgooを利用して、年明けから新しいメールアドレスを取得します。

***

<2007年>

大人たちがいう学力とは

端的に、大人たちがいう学力とは、産業経済の生産力に直結するような力を指すのである。
さてしかし、社会の要請でころころ変わるようなものを学力と呼んでいいものだろうか。むしろ、変化の激しい時代や社会に押し流されることなく、人間の幸福を第一に考え、ときには時代に抗する知性を持つ力を学力というべきだろう。
 (p383)


学問に効率や成果が求められる結果、研究者たちは論文の捏造も辞さず、学会はそれを止める力をもたない。さらに、産業の要請と結びつくために、一つの分野が果てしなく細分化しており、個々の研究者たちはもはや全体を見渡すことすら不可能なのである。先端科学がいま、こういう状況にあることを見抜くのが知性であり、学力なのである。 (p383~384)


「負担」を嫌う心象

ものの値段とは「負担」である。価格破壊と効率化の洗脳を受けた私たちは、つまるところ「負担」を嫌うようになったと言うこともできる。 (p391)


負担を嫌う心象は、いびつな安価への欲望だけでなく、モラルの崩壊も生んでゆく。  (中略)  いまや企業は、市場競争の激化という御旗の下で、異様なほどあっけらかんと不正を働く。 (p391~392)


自由の制限とは、すなわち「負担」である。安値の追求にも限度があり、自由の保証には、保証のためのコストやモラルの負担がいる。 (p392)


原子力利用の資格あるか

問題は、維持管理と運転に関わる人間のミスである。「人間の技術に安全はない」という理性と「それでも原発の事故は絶対に起こしてはならない」という現実に立って、原子炉には何重もの安全装置が備えられている。にもかかわらず、定期検査を欺き、データを改竄し、臨界事故まで隠していたとなると、人はもはやシステムが想定している以上に、出来が悪い生き物だと考えるほかはない。
そして、人間の出来が悪いのであればなおさら、国と電力会社はミスが起きるたびにシステムを見直し、改善に改善を重ねて安全を確保すべきところ、それすらも怠り、隠蔽し続けてきたのである。今日の事態は、日本人は原子力を利用する資格がないと言ってもよいほど深刻であると、まずは言いたい。
 (p395)


今日の原発関係者の質の崩壊は、「臨界事故を隠蔽する」という発想に如実に表れている。技術者であれば、検査中に制御棒が脱落するような事態に直面したとき、まずは原子炉の構造上の不具合を疑って青ざめるべきだろう。臨界事故など、まさに会社の体面や保身以前の恐怖であるべきだろう。そうでなかったというのなら、これは会社や業界の体質以前の問題で、そもそも原子炉がどんなものかが分かっていないのだと言わざるを得ない。核分裂の制御ができない状態がいったい何を意味するのか、分かっていない人びとが、マニュアルを頼りにスイッチを入れたり切ったりしているのが原発の現状だとしたら、これ以上の悪夢はない。 (p396)

最後の一文で思い出すのが、一時期よく流れていた、北朝鮮の「スイッチを入れたり切ったりしている」映像。


『作家的時評集2000-2007』 (朝日文庫) の覚え書・10

2013-09-08 23:39:49 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
東京さえよければ他地域はどうでもいい、ともとれる発言を、仮にも一国の首相が言い放つとはね・・・。
2020年まで、どうにかなるとは到底思えないし。
どうにかするにしても、最終的には被災地を隔離して切り捨てればいい、と思ってるんじゃないか? と疑ってしまう。

NHKの力の入れようも、異常なほど気持ち悪いしな。番組変更して特番組むほどのものか? これこそ「偏向」だろう。他のニュースも流してくれよ。

オリンピックを呼ぶお金があるならば、他に使い道があるはずだろうにね。
そのために消費税を上げるんかい。無駄遣いを止めるのが先だろうに。
男と政府・官僚にはそういう発想がないんだよね。「お金がないなら借りればいいじゃない」 「お金がないなら他人を騙して(又は脅して、あるいは殺して)取ればいいじゃない」 「お金がないなら税金を増やせばいいじゃない」という発想。
「お金がないなら我慢しよう」 「お金がないなら無駄遣いはやめよう」という感覚が欠如してる。

そもそも、どうしてそこまで福島第一原発に肩入れするのか、まず理解不能。
満身創痍でボロボロで欠陥だらけの施設に、何の思い入れがあるのか。
汚染水が「うつくしま、ふくしま」を徹底的に汚すかのよう。

まるで太平洋戦争末期の泥沼、やけくそ状態を髣髴とさせるわ。
福島第一原発を元のように戻せば復興は完了、とでも無理矢理信じているみたい。
「大日本帝国は神国だから最後には勝つ」と何の根拠もないままに言い放ち、信じさせたように。
とっととやめていれば、少しは傷が浅かったかもしれないのに。

「退くのは恥」と考えるのは自由だが、強制はしないで欲しい。

***

<2006年>

成熟を欠いた自己完結

今日の社会はこの現状を「格差社会」と言い、「自己責任」と言い、システムの是非を問うこともなく、思考を停止する。思考が社会に向かって開かれる代わりに現状のなかで閉じてしまったとき、残るのは気分と感情を喚起する言動だけである。 (p287)


かくして記憶は分断され、広く世界を俯瞰する言葉を失い、経験的な蓄積や修正も行われなくなって、「いま」は常に「いま」のまま放り出される。 (p287)


感情は自らを検証しない。自らを相対化せず、したがって社会的存在という安住の地ももたない。一人ひとりの思考の蓄積と検証を欠いた「いま」は、こうしてただ上書きと更新を繰り返され、うつろってゆくのであるが、さて、ひとたび強風が吹けば、こんな「いま」はひとたまりもない。 (p287~288)


剥げ落ちる共同の彼方に――「言葉」をなくした彷徨える日本人へ

今という時代は、その共通の基礎がもうありません。共通の基礎というのは「言葉」です。たとえば、今は語彙が非常に少なくなっているために、これまで言い表すことの出来ていたものが表現できないという事態が起こっています。
 (p298)


当然のことながら、論理の構造が現代とに術世紀までのものとはだいぶん変わってしまって、二十世紀の構造を持った言葉の論理が通用しない。二十世紀までの日本語は、複雑にものごとは複雑な言葉で複雑なものとして表現してきたわけですが、これからの世代の人は複雑な言葉の構造を持たないために、複雑なものがもとから存在しない。これまで何百年もかけて積み上げてきた私たちの言葉の構造、言語構造というのはすなわち論理であり、頭の中身そのものですから、それが消えてしまうということはまったく違う人類が生まれるということです。
これは、いいとか悪いとかの話ではないし、昔は良かったのに今はこうだという話では決してない。そうではなくて、まったく違う精神構造を持った人間が現れているということなのです。
 (p298~299)


成熟した文明社会を築くためには、やはり言葉が重要だと思います。言葉の機能が失われると、社会的な広がりが実感できない。世界がどんな姿をしているか、自分は何を感じ、何を望むのか。それを捉えるのは言葉だからです。言葉で捉える過程がなければ、人間はただ刺激に反応するだけの動物的存在に成り下がってしまいます。 (p314)


外交というのは戦略ですが、戦略はまさに言葉です。テレビゲームでいう戦略は反射神経の問題で、敵が現れたら倒すだけのことですが、外交はそんな条件反射の世界ではない。国民の生命と財産を守るために、世界中の国々が頭と言葉で戦うことなのです。 (p314)


文化の面も同様で、今日本から画期的な経済理論や社会学理論が出てこないでしょう。学力の面でも日本は確実に立ち行かなくなっているのですが、これも言葉の文化を維持して育てる土壌が失われたからだろうと思います。そして、言葉の蓄積を守る土壌がないところには新たな蓄積も生まれませんから、知識はさらに失われるほかありません。 (p314)


私は物書きですから、小説を書くことしかできませんが、私にとって言葉は他者と向き合う手段です。言葉を介して自分とは何か、世界とは何かを知りたい。それが大きな共同と言う枠組みのなかで生きていることの実践です。だから私は書き続けているのだと思いますね。 (p315)


わかりやすさに騙されない

この前、言われちゃいました。「村さんの書く小説は難しい」って。私は社会の観察者だと思っています。社会は複雑で、いろんなものが錯綜している。そのことを複雑なまま書き記しているからでしょうか。
でも、社会は単純化して書けないものです。だから、物事をスパッと断定調で語る人は信用できません。
 (p364)


観察者は周りだけでなく自分も客観視しないといけないから、社会と自分の距離をつかめる。政治のことを「わかんないしぃ」「関係ないしぃ」とか言わなくなるわけです。 (p364)


観察者になると、社会を俯瞰する力もつきます。 (p365)



『作家的時評集2000-2007』 (朝日文庫) の覚え書・9

2013-09-06 23:06:49 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
高村薫さんの新連載が始まる前に終わりませんでしたね、これ。はっはっは~(笑うしかない)

「新潮」 2013年10月号 は仕事帰りに、99%の確率で置いてあるだろうと思われる書店で、且つあまり人がいそうにない穴場の書店(←失礼)で買いました。
案の定、1冊だけありました。

「新潮」だけは、これからここで買おうかな。次回は12月号ですね。(隔月連載? それともたまたま今回だけ?)

ところで、久しぶりに買った「新潮」ですが、少々厚みが薄くなりましたか?

じっくり味わって読むのはこの土日に。明日も仕事なので・・・。


さて、以知子さんのブログ 「picaresca」 でアンケート第2弾が始まりました。 興味のある方、どうぞ♪ 第1弾の結果も出てますよ。

***

<2005年>

私たちは「被害者」を消費していないか

企業も、あるいは国や私たち生活者も、少し先のことを考えて、いま何をどうすべきかという発想ができなくなっており、それがいまや日本人の体質になりかけているように思います。  (中略)  「なんとかいまもやり過ごせばいい」。こうした先送りはみな、自分だけよければいい、先のことは知らないということであり、まさに「公共」が失われているということでしょう。そして、その結果「安心」が失われているのです。 (p226)


一人ひとりがほんの少し「考える」ということをやればよいのですが、それが難しい。  (中略)  こうして、どんどん社会が小さくなり、ますます何が起こっているのか見えなくなり、結果的に考えても分からないから考えるのをやめる。上は国から下は個人まで、大人も子どもも、自分の頭でものを考えるのをやめた大衆社会が、ここにあります。 (p232~233)


あなたの怒りが政治を動かす

選挙は現代の政治制度の大事な要素の一つであるが、政治そのものではない。また、選挙は政治家を誕生させる劇場であるが、政治のほんとうの舞台は選挙劇場のあとに開幕する。選挙はあくまで政治の前座にすぎないのである。 (p242)


あなたの怒りが政治的能動になるためには情緒を乗り越える必要があるし、再生はただ「ぶっ壊す」ことではない。政治は個々のパフォーマンスではない。政党が担う周到なシステムの世界であることを頭に叩き込んで、明日の政治を選んで欲しい。 (p244~245)


『作家的時評集2000-2007』 (朝日文庫) の覚え書・9

2013-09-03 21:30:46 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
「超タイムショック」見てたら、

   『リヴィエラを撃て』 『マークスの山』の作者は?

という問題が出てきた。
回答者4人で一斉に答える形式だったが、正解したのはロザンの宇治原くんのみ。 さすがです。

高村薫さんに関する問題に回答したのは「超タイムショック」では(私が知る限り)2回目ですな、宇治原くん。
証拠はこちらをご覧あれ。 (これは大変失礼な問題でしたが)

「超タイムショック」の問題制作陣が、高村さんを好きなの? 偶然なの?

・・・で、この記事を作成中に、宇治原くんvs宮崎美子さんの対戦で

  イギリスのファストフード「フィッシュ アンド ○○○○」?

の問題が・・・。これもたまたまなのか?
『リヴィエラを撃て』を読んでいたら分かりますね。 もちろん二人とも正解でした。

***

<2005年>

自らを縛るメディア

最低限の公共サービスとして考えられるのは、天気予報、災害・事故情報、選挙情報、官報、国会中継ぐらいだろう。これらは無料でよい。逆にほかのほとんどの情報や娯楽は、媒体に関わらず有料であるほうがよい。なぜなら、自由は有料でなければ保証されないからであり、現代の消費者が一番大事にするのは、情報の自由度だからである。中立も偏向も自由。商売も自由。信憑性や品位の有無も自由。自由でさえあれば、あとは消費者が選択する。 (p205~206)


自由とは何も背負わないことであり、世論に迎合しないことである。 (p206)


「公共」の歯止め失われ

こうした事故の多発は、企業社会全般から「これをやったらお終い」という「公共」の歯止めが失われたことを示している。また、企業経営のあるべき収益構造のバランスが見失われていることも示している。たとえば、JR西日本では、経営目標の第一が「稼ぐ」だったそうで、公共交通機関としての安全対策を後回しにした結果、甚大な事故を起こして巨額の損失を出したのであるが、これは企業経営として明らかに落第である。 (p217)


『作家的時評集2000-2007』 (朝日文庫) の覚え書・8

2013-09-01 17:35:31 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
「京美人」とは何ぞや。
『黄金を抱いて翔べ』を読んだ皆さまは、女装したモモ(子)さんをそのように評する幸田さんに、一再ならず首を傾げたことと思われます。
あまりに漠然としすぎてるし、「美人」の二文字に惑わされるのですよね。

小学館のPR誌 「本の窓」 2013年6月号 に酒井順子さんの連載「裏から見た日本」がありまして、そこに答えらしきものが載っていたので、引用させていただきます。

京都の人に話を聞くと、「京美人というのは、服装、化粧、しぐさ、土地のイメージ等でつくられる、いわば人工美の極致。元の顔が美人という人は、意外と少ない」ということ。


人工美の極致。 これでストーンと腑に落ちました。


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<2004年>

物書きは今、何をしているか

仏教ではあるがまま、何にもとらわれない境地を目指すため、考える自分を捨て、言葉を捨てよといいます。  (中略)  言葉にならないものを言葉にする。その矛盾とギリギリの緊張感のところに仏教はあるのです。
しかし、情報化社会ではそんな緊張感は生まれません。物書きは複雑で曖昧なことを正確に、さらに全体像を伝えたいのですが、今、言葉の本来の機能は顧みられない。小泉首相が「感動した」というように、漠然とした気分を伝えるだけでよしとされる状況です。
 (p190)


語彙は確実に少なく、言葉は短くなっています。言葉の減少は、世界を捉えることの放棄だと思います。  (中略)  さらに、言葉への無頓着は、見えているものをより正確に見ようとする営みさえ衰退させます。 (p190)


小説家は、最大限の神経を使って言葉を送り出し、目に見えないものを捉えようとする。単語一つで物事を片づけられないために闘っているのです。 (p191)


現代の言葉は、意味ではなく語感というブラックボックスになりつつあります。  (中略)  ラップに近いと言われる一部の小説も、表現したいのは「ある気分」ではないでしょうか。 (p191)


物書きは今、ちまたの情報化社会の言葉と戦っています。ほとんど道化ですが、それはてらいではなく、ここ数年の本心なのです。 (p191)


老いへの失意や無念

しかしながら物書きは、こうした自らのうちなる経験をこそ糧にする生きものなのだろう。うちひしがれるより先に、ともかく表現することによって衝撃を消化し、排泄しようと試みるのだろう。 (p196~197)


この国が高齢者を有望な消費市場として礼賛し始めたのは八〇年代だったが、わが世の春を楽しむシルバー世代というのが絵空事である一方、ひたすら沈思黙考する老境というのもまたうさん臭いこと甚だしい。さらには、しっかりと確立した個人としての老境というのも、おおかたは世間の戯言である。 (p197)


ある人はいみじくも『レディ・ジョーカー』の登場人物の顔がみな似通っていると言ったものだが、いったい生活者としての人間に、老いも若きも豊かな個人の顔はあるか。無数の平凡の集まりとしての社会を、小説は表現するすべを持っているか。
小説は平凡を非凡に変えるものではあるが、なにがしかの岐路に立っていた十一年前のわたくしが拾ったのは、平凡の極みという奇貨だったのかもしれない。
 (p197~198)


これは朝日新聞の読書面で、『レディ・ジョーカー』のことを振り返られた際のエッセイです。
上記に引用はしてませんが、これを読んでから『LJ』を読むと、物井清三の人物像がより理解しやすいかと思われます。


『作家的時評集2000-2007』 (朝日文庫) の覚え書・7

2013-08-31 21:28:20 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
今夜の 「美の巨人」 は、丹下健三の「東京カテドラル聖マリア大聖堂」です。
『リヴィエラを撃て』(手島さんと《エルキン》の邂逅)、 『レディ・ジョーカー』(杉原氏の密葬)に出てきますので、興味のある方、ぜひご覧くださいね~。

私は建物の中には入ったことはないんです。 静かな怒りに震える手島さんがエルキンと喋ったサンクチュアリは拝見できましたが。
過去記事の 東京カテドラル聖マリア大聖堂・4 をご覧あれ。


間が空きましたね。

やっと入手できた 「ときめきトゥナイト 真壁俊の事情」 にどっぷり浸っていたのも事実ですが(真壁くーん )、2003年の部分も読み返していたのです。

だって、付箋紙がついてなかった・・・。

んなアホな、ともう一回ざっと目を通すハメに。

で、気づいたのは、高村さんの小泉氏に対する怒りの凄まじさに、私が耐え切れなかったのかもしれません。
分かりすぎて辛いというか・・・。

2003年は本数が少ないのもありますが、この年に限らず、小泉氏に向けられた怒りはまだまだあるので(苦笑)、2004年に入ります。


***

<2004年>

自衛隊イラク派遣を問う

あれかこれかの政治判断はその上に立って初めて成立するものであるし、法的な証拠がなければ責任の所在も明らかになるものではない。
そんな基本的な一歩が初めに迂回されたまま、自衛隊員に向かって「危険を覚悟して」と言い放つ国は、もとより国の体をなしていない。およそ軍隊の活動は大儀と名誉があって成り立つものであろうし、大儀を裏付けるのは法律だからである。
 (p160~161)


このままでは憲法との整合性を疑われ、国民の共感もないまま、遺書を書いてイラクに派遣される自衛隊員があまりに気の毒である。政治家こそ、遺書を書け。 (p161)


「あれかこれか」ではなく、第三の道を――イラク派兵が問うもの

小泉首相の施政方針演説がありましたが、まずは冒頭の孟子の引用に驚きました。日本国憲法前文には「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって」と書かれています。これはふつうの日本人の身体にしみついている感覚だと思うのですが、その私たちに向かって、「天の将に大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしむ」というのですから、耳を疑いました。先日からイラクへの自衛隊派遣の必要を訴える際に憲法前文の三、四段を引用し始めた首相ですが、同じ前文の一段は読んでおられないのだろうか。政治家ですから、どんな引用も援用もご自由ですが、「天の大任」とはあまりにひどい。
なるほど、こういう発想や政治観がこれまでのいろいろな行動や発言に繋がっているのだろうという気がしました。首相の国政運営の丸投げや、国会の答弁とは言えない答弁がいったいどこから来るのか、これまで私は個人の資質という以外の納得できる理由を見いだせないでいたのですが、妙に腑に落ちたというところです。おそらくご自身には、詭弁を弄してやろうとか、騙そうとか惑わそうというご意思はなくて、まさに「天の大任」という意識なのでしょう。
 (p162~163)


ごくふつうのひとりの人間に立ち返ったとき、あなたはひとりの日本人として、同じ日本人の自衛隊員を死なせたいか。昨年の総選挙の前から、私は折々に小文を通して問うてきました。死なせたいかというのは、ひどく情緒的な問いですが、どんな高尚な判断も思考も、まずは素朴な、個人の身体的な感情や直感から始まると思うからです。 (p165)


現場にいて実感することですが、いま日本人は活字を「読める」人と「読めない」人にはっきりと分かれていく傾向にあるような気がしてなりません。同じ言葉でも、たとえば男女の感情生活ならばごく少ない語彙の話し言葉で事足りるでしょうが、世界の仕組みを語る言葉、政治を語る言葉はそうはいきませんし、やはりその場合の基本は書き言葉だろうと思います。 (p173)


明治期に新しい日本語が作られていくひとつのきっかけとなったのは海外小説の翻訳ですが、同じく明治期に活発になった言論によって、以前に比べ格段に語彙や文章の幅が広がり、複雑な表現や倫理など、いろいろなものを表現できる非常に大きなキャパシティをもつようになりました。そうして近代の日本人を支えたのが二十世紀の言論であり、小説や詩歌や、はたまた政治の言葉だったと思います。それがいま、間違いなく収縮しています。ここ十年ほどの変わりよう、風船が縮んでいくスピードの速さは、物書きの現場にいるとよく分かります。 (p173~174)


『作家的時評集2000-2007』 (朝日文庫) の覚え書・6

2013-08-26 22:47:57 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
本日8/26(月)の産経新聞夕刊より、「虎視 高村薫が聞く」が始まりました。
タイトル通り、高村さんがインタビュアーとして対談するようですね。

明日以降、ネットで読めないかなあ。 読めるとしたら、MSN産経ニュースwest の可能性が高いと思うんだけど・・・。 ダメかなあ。 無理かなあ。

***

<2001年>

二〇〇一年九月十一日――そのとき、作家は何を見たか

言論、あるいは政治の言葉が非常に単純になり、価値の単一化の傾向があります。その象徴が小泉首相です。
こういう状況では、あえて理性的にならないと危険です。それぞれの立場があっていいけれど、それぞれが自分の考え方を譲らないこと。少数派になったからこそ、余計にそう思いますね。
 (p112~113)


そういう大国の論理のなかで、今回のテロ事件も考えるべきです。今アメリカが叩いているのは、かつてアメリカが武器を供与して育てた連中です。米ソ冷戦時代の落とし子が、大国の武器で戦うという、おかしなことになっています。 (p113~114)


武器を作っている企業は、実際に使ってもらわないと威力が分からない、次の武器開発につなげられない、だから戦争がなくなると困るという独特のジレンマ(?)があるようですね。 あまり理解したくない商売ではありますが。


続いて、2002年。 


<2002年>

遠くにありて思うこと

あらゆる距離感の喪失は、結果的に〈微妙なもの〉〈見えないもの〉〈深く見つめるべきもの〉を失わせ、感性と想像力の貧困を招いているのだと思う。たとえば感動などというものは本来、一個の精神が己の経験と自負を乗り越える一大事のはずだが、一国の首相が臆面もなく「感動した!」とのたまう今日である。世界や他者への微妙な距離を失ったとき、人はかくも鈍感で傲慢になる。 (p120)


二十一世紀の地方の価値

地方の価値は、本来の風土や地勢の保全からしか生まれない。都会が持たないものは、それしかないからである。 (p122)


現代人の時間感覚

地球温暖化も核兵器も、巨額の財政赤字も、都合の悪い過去や未來を見ないことで許容され続ける。国も企業も個人も、当面の利益確保に走り、長期の展望は持たない。今日明日の生活への関心は高いが、人が老いで死ぬ時間には関心がない。
有限の存在ゆえに、永遠や理想を求め続けてきた人間の時間がある。それを忘れた現代は、まるで無謀な疾走に入ったかのようである。
 (p126)


次回から2003年に入ります。


『作家的時評集2000-2007』 (朝日文庫) の覚え書・5

2013-08-25 00:45:39 | 中編・短編作品、随筆etc 再読日記
今読んでいる本に、「モモ(桃)の花言葉」がいきなり出てきて、ちょっとのけぞりました。

「気だてのよさ、チャーミング、恋の奴隷」

ですってよ。

前者2つはいいですよ。モモさん(モモ子さん)に合う言葉だから。

だけどさあ・・・「恋の奴隷」ってさあ・・・ 幸田さん、そんな手荒な真似はしないと思うけど。 モモさんがMならともかく。

小心者なので(←私が)、あえて小さな文字で呟きました。

***

<2001年>

宰相小泉の空虚なる語法

「分かりやすい」と言われる小泉流語法の基本的な特徴はこのように「簡潔」「断定」「すり替え」「繰り返し」の四つであるが、元になるのはやはり言葉の簡潔だろうと思う。文節の短い、簡潔な言葉は論旨を単純化する。簡潔は「断定」を生みがちであり、簡潔にはいかない複雑で微妙な事柄については「繰り返し」や「すり替え」が起こり、最後は曖昧なままに置かれる。 (p96~97)


何がおかしいんですか。
そう言われたら、わたくしとしては「何もおかしくない」と答えるほかない。しかし続いてこう思うだろう。この人とはまともな議論にならない、と。議論にならない理由は、つまるところ単純すぎて話の接ぎ穂のない小泉首相の言葉のせいであり、単純すぎて論議を深めようのない発言の中身のせいである。
 (p102)


小泉首相の語法は、その単純すぎる論理と断定によって、種々の議論を拒否しがちな語法であることが分かる。人を指さし、演台を叩いての派手な絶叫も、語法が単純であるからこそ可能なのであり、絶叫はやはり議論を拒絶する。 (p104)


語法は個人の単なる癖ではなく、物事を語るスタイルでもない。個人の意思が言葉になって姿をあらわす、まさにその過程であり、骨組みであり、思考そのものでもある。政治が言葉であると言われる所以もそこにあって、語法はそのまま政治であり、政治家である。 (p106~107)


「文藝春秋」に掲載されたこの「宰相小泉の空虚なる語法」は、この文庫の中でも白眉だと思う。 この約20ページだけでも、読んで欲しいものです。

小泉氏の発言は挙げませんでしたが、
「相手の質問に対して、自分の意見を突き通すだけ。それが質問の回答だ(と本人だけが思っている)。その回答が理解できない質問者こそ、おかしいのだ(と本人だけが思っている)」
というパターンがほとんど。
だからよくよく読めば「おかしい」のはどちらなのか、はっきりします。


赤川次郎さんがエッセイを連載している 岩波書店の「図書」 で、小泉氏はクラシックが好きだったから、時々同じコンサートで見かけたと書いてありました。
小泉氏が客席に現れると、他のお客さんに絶大な拍手で迎えられることが多く、喜悦満面で応じていたのですが、ある時いつものように意気揚々と入場した途端、ブーイングが巻き起こり、表情を一変させて着席したことがあったそうです。
クラシックファンを敵に回すような、あるいは一国のトップとして恥ずかしいと思わせる言動があったんでしょうかね?
(プレスリーの物真似をさらしたことくらいしか思い浮かばない私もどうかと思うが・苦笑)


今の大阪市長が大阪府知事に就任した頃、「小泉式の語法に似てるなあ」と感じた人はゴマンといたのでは。あえて手本として見習ったのか、元々の職業で培った語法なのかは分かりませんが。
「簡潔」「断定」「すり替え」「繰り返し」は、そのまま大阪市長の特徴に当てはまりますからね。