それにしても鈍い台風ですね。 毎日のように予想がずれて、何がなんやら分からない。
今の国会と同じようにワケが分からない。 但し首相とその周辺が言うには、「私たちの主張を理解してくれない国民の皆様こそ、ワケが分かりません」 なんだろうよ。
『閑人生生』 (朝日文庫)
***
<2008年7月~8月まで>
失われる生活能力
本来の使い方でない使い方をしたり、誤った使い方をしたときに起こるのだが、近年はひとたび事故が起こると、利用者よりも製造者や管理者の注意義務が大きく取り上げられ、「もっと安全に」の大合唱である。 (中略) こうして私たち消費者は自ら注意を払って危険を避けることを忘れがちになり、大人も子どもも、ある主の生活能力を失ってゆくのは必至だろう。
生活に伴う危険を自ら注意して避ける代わりに、あくまで危険ゼロを求める社会は、排除の論理と呼応する。不潔を排除し、障害者や高齢者や犯罪者を排除し、危険な道具を排除し、万一事故が起きれば、責任を負うべき者を見つけ出す。こうして百パーセントの安全と快適を要求することが市民の権利と化した社会が失ってゆくのは、故意と不可抗力の境目を見極める理性であり、人生に起こりうる不幸を不幸として受け止める人間固有の能力である。 (p155)
死は自分のものではない
生きてさえおればいいこともあるというのが必ずしも真でないことぐらい、現代人ならば誰でも知っている。また何より、自殺願望者が求めているのは、どこまでも死であって、生ではない。 (p157)
死はけっして自分のものでなく、つねに人の死であるに過ぎない。また生物としての人間は、死期の近い人を除けば、自らの死をけっして予想しないとも言われる。してみれば自殺者はたんに「いま」や「明日」を見限るのであり、生を見限るのではないと言えよう。 (p158)
暑苦しいサミット 危機感が、私たちの意識を変える
産業界は長年、消費者のニーズをつくりだすことに血道をあげてきたが、本来ニーズは消費者の暮らしが生み出すものである。 (中略) いまだに経済成長以外の選択肢をもたない政治や、大量消費にしがみつく産業界の目が覚めるのは、いつか。 (p161)
年々薄れていく、一斉行動への抵抗感
今回の携帯電話の発売も、あえて予約販売をしないというあからさまな手法で、いつそう易々と行列はつくり出されたのだが、企業側からみれば、笑いがとまらないほどの操りやすい消費者ということになろう。
価値観の多様化がほんとうであれば、一つの商品に殺到するような現象は起こりにくいはずだが、実際にはその逆であることを見ると、私たちは近年、知らず知らずのうちにメディア広告に身を任せすぎてはいないだろうか。仕事に追われすぎ、一つ一つの消費について、時間をかけて熟考するような余裕がない私たちのこころと脳味噌へ、いつの間にか企業とメディアが入り込んできているという自覚はあるだろうか。 (p163~164)
政治家の厚塗り敬語
政治家たちは昔から、とくに国会では丁寧な言葉を心がけてきた歴史があるが、それは相手への敬意と同時に、国政という公のものへの敬意だったように思う。ひるがえって今日永田町にあふれる異様にバカ丁寧な言葉は、そうは聞こえない。テレビを通じて、国民を意識しているというふうにも聞こえない。
そもそも国民は政治化にへりくだってもらう謂われはないし、政治家にしても選挙区の支持者を除く一般国民に対してそんな義理はないからである。 (p170~171)
いまや政治家の一部は、誰のために、どこへ向かって、何を話しているのか、自分でも分からないようなあいまいさを生きているということだ。 (p171)
安倍晋三が「自分のために、自分へ向かって、自分の話しをしている」というのだけは、分かる。
欲望を制限できない
この欲望は、自分にとって合理的と思われる選択をさせるものだから、たいがい欲望の顔はしていない。それどころか誰もがいっぱしの言葉を身につけた現代では、理性的な顔をして現れることすら多く、そのためますますそうと気づかれない。こうして個人生活のレベルでも、国家間のレベルでも、欲望は制限するものではなく、主張し、実現したほうが勝ちという時代になりつつある。
欲望の制限が難しい時代とは、多数間での利害の調整が難しい時代ということである。 (p172~173)
この恐ろしいほどバラバラな世界
目的の商品毎に情報を収集することが、もっとも合理的な消費行動とみなされるようになった結果、ほんとうはもっとほかの選択肢がありえることを、私たちはあえて考えなくなったように思う。
これは、情報量の多さが正確さを、利便性が合理性を保証しているという幻想を、もう誰も幻想と思わなくなったことを意味している。またさらに、靴なら靴、バッグならバッグというふうに情報が一つ一つ切り離され、互いに関連を失い、全体を失うということも意味している。政治から消費生活まで、「合理的な」私たちは実はおそろしいほどのバラバラ感のなかで生きているということだ。 (p176~177)
少しずつつながっているかもしれない物事を、こうして共通点のないバラバラの情報がただ並んでいるだけの状況に置き、関連を失わせてすべてを等価にすれば、無用な比較や、優劣の判断を強いられることもない。合理性を生きる私たちは、目的の事柄以外の事柄にわずらわされることを、嫌うのである。
こうして私たちは、自分の好みと都合を基準に小さな生活のまとまりをつくり、生きている。いったん外へ目を向けると、自分がどんな時代を生きているのか分からなくなるので、ますます自分を全体から切り離すすべを磨く。本来、物事はほかの物事と参照され、全体と参照されて初めて意味をもつようになる。バラバラの個別の物事は、そのままでは世界のなかに居場所をもたないということであるが、ひょっとしたら私たちは、この不安定きわまりない時代と世界を見ないよう、あえて情報を断片にしているのだろうか? 世界を眺めても危機ばかりだし、まともに考え始めたら生きてゆけない気分になるから? (p178)
今の国会と同じようにワケが分からない。 但し首相とその周辺が言うには、「私たちの主張を理解してくれない国民の皆様こそ、ワケが分かりません」 なんだろうよ。
『閑人生生』 (朝日文庫)
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<2008年7月~8月まで>
失われる生活能力
本来の使い方でない使い方をしたり、誤った使い方をしたときに起こるのだが、近年はひとたび事故が起こると、利用者よりも製造者や管理者の注意義務が大きく取り上げられ、「もっと安全に」の大合唱である。 (中略) こうして私たち消費者は自ら注意を払って危険を避けることを忘れがちになり、大人も子どもも、ある主の生活能力を失ってゆくのは必至だろう。
生活に伴う危険を自ら注意して避ける代わりに、あくまで危険ゼロを求める社会は、排除の論理と呼応する。不潔を排除し、障害者や高齢者や犯罪者を排除し、危険な道具を排除し、万一事故が起きれば、責任を負うべき者を見つけ出す。こうして百パーセントの安全と快適を要求することが市民の権利と化した社会が失ってゆくのは、故意と不可抗力の境目を見極める理性であり、人生に起こりうる不幸を不幸として受け止める人間固有の能力である。 (p155)
死は自分のものではない
生きてさえおればいいこともあるというのが必ずしも真でないことぐらい、現代人ならば誰でも知っている。また何より、自殺願望者が求めているのは、どこまでも死であって、生ではない。 (p157)
死はけっして自分のものでなく、つねに人の死であるに過ぎない。また生物としての人間は、死期の近い人を除けば、自らの死をけっして予想しないとも言われる。してみれば自殺者はたんに「いま」や「明日」を見限るのであり、生を見限るのではないと言えよう。 (p158)
暑苦しいサミット 危機感が、私たちの意識を変える
産業界は長年、消費者のニーズをつくりだすことに血道をあげてきたが、本来ニーズは消費者の暮らしが生み出すものである。 (中略) いまだに経済成長以外の選択肢をもたない政治や、大量消費にしがみつく産業界の目が覚めるのは、いつか。 (p161)
年々薄れていく、一斉行動への抵抗感
今回の携帯電話の発売も、あえて予約販売をしないというあからさまな手法で、いつそう易々と行列はつくり出されたのだが、企業側からみれば、笑いがとまらないほどの操りやすい消費者ということになろう。
価値観の多様化がほんとうであれば、一つの商品に殺到するような現象は起こりにくいはずだが、実際にはその逆であることを見ると、私たちは近年、知らず知らずのうちにメディア広告に身を任せすぎてはいないだろうか。仕事に追われすぎ、一つ一つの消費について、時間をかけて熟考するような余裕がない私たちのこころと脳味噌へ、いつの間にか企業とメディアが入り込んできているという自覚はあるだろうか。 (p163~164)
政治家の厚塗り敬語
政治家たちは昔から、とくに国会では丁寧な言葉を心がけてきた歴史があるが、それは相手への敬意と同時に、国政という公のものへの敬意だったように思う。ひるがえって今日永田町にあふれる異様にバカ丁寧な言葉は、そうは聞こえない。テレビを通じて、国民を意識しているというふうにも聞こえない。
そもそも国民は政治化にへりくだってもらう謂われはないし、政治家にしても選挙区の支持者を除く一般国民に対してそんな義理はないからである。 (p170~171)
いまや政治家の一部は、誰のために、どこへ向かって、何を話しているのか、自分でも分からないようなあいまいさを生きているということだ。 (p171)
安倍晋三が「自分のために、自分へ向かって、自分の話しをしている」というのだけは、分かる。
欲望を制限できない
この欲望は、自分にとって合理的と思われる選択をさせるものだから、たいがい欲望の顔はしていない。それどころか誰もがいっぱしの言葉を身につけた現代では、理性的な顔をして現れることすら多く、そのためますますそうと気づかれない。こうして個人生活のレベルでも、国家間のレベルでも、欲望は制限するものではなく、主張し、実現したほうが勝ちという時代になりつつある。
欲望の制限が難しい時代とは、多数間での利害の調整が難しい時代ということである。 (p172~173)
この恐ろしいほどバラバラな世界
目的の商品毎に情報を収集することが、もっとも合理的な消費行動とみなされるようになった結果、ほんとうはもっとほかの選択肢がありえることを、私たちはあえて考えなくなったように思う。
これは、情報量の多さが正確さを、利便性が合理性を保証しているという幻想を、もう誰も幻想と思わなくなったことを意味している。またさらに、靴なら靴、バッグならバッグというふうに情報が一つ一つ切り離され、互いに関連を失い、全体を失うということも意味している。政治から消費生活まで、「合理的な」私たちは実はおそろしいほどのバラバラ感のなかで生きているということだ。 (p176~177)
少しずつつながっているかもしれない物事を、こうして共通点のないバラバラの情報がただ並んでいるだけの状況に置き、関連を失わせてすべてを等価にすれば、無用な比較や、優劣の判断を強いられることもない。合理性を生きる私たちは、目的の事柄以外の事柄にわずらわされることを、嫌うのである。
こうして私たちは、自分の好みと都合を基準に小さな生活のまとまりをつくり、生きている。いったん外へ目を向けると、自分がどんな時代を生きているのか分からなくなるので、ますます自分を全体から切り離すすべを磨く。本来、物事はほかの物事と参照され、全体と参照されて初めて意味をもつようになる。バラバラの個別の物事は、そのままでは世界のなかに居場所をもたないということであるが、ひょっとしたら私たちは、この不安定きわまりない時代と世界を見ないよう、あえて情報を断片にしているのだろうか? 世界を眺めても危機ばかりだし、まともに考え始めたら生きてゆけない気分になるから? (p178)