あるタカムラーの墓碑銘

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「洗濯機で洗えるものと洗えないものがあるのは、ご存じ?」 「知るもんかね」 (文庫版上巻p324)

2007-03-22 00:31:27 | 神の火(新版) 再読日記
2007年2月9日(金)の新版『神の火』 (新潮文庫) は、p304からp348まで読了。

今回は、島田先生と江口さんの会話。主婦同士の会話か、姑が嫁に言いそうな台詞ですよ、先生(笑) 離婚して独り者になった時に、背広やネクタイ、シルクのシャツなどを洗濯機で洗ったことがあるんじゃなかろうか?

【主な登場人物】

ボリス・ニコラーイェヴィッチ・シードロフ 表向きは日本のソヴィエト大使館の一等書記官、実はKGB職員(現実でも、このパターンは多いんだとか)。島田先生にスパイの技術を仕込んだ人。この人も旧版と新版で、かなり違う。 新旧ネタバレ。 旧版では出番はただ一度きり、「交換劇」の時です。キャラクター設定も旧版と新版で、高村作品としては「非常に珍しい」違いが見られる。新版のボリスは「ストレート」。旧版のボリスは・・・「あってはならない性向」に苦しめられ、島田先生に言い寄ったことも!(ガーン・・・!) ご安心を、先生は丁重にお断りしました。 


【今回のツボ】
・良ちゃんからの手紙・その2 淡々とした味わいが良いんです。

・ボリスと島田先生のやり取り・その1 スパイ時代の島田先生が解ります。

・江口さんと島田先生の対話。 この二人の対話は、その度ごとに見どころ・読みどころなんですが、今回はタイトルに挙げたくらい、特に面白いと思ってね。 


【今回の音楽】
ブラームスのピアノ五重奏曲・・・江口さんの睡眠薬代わり。聴いたことはありませんが・・・眠くなる曲なのか?


【今回の書籍】
今回は、まるで世界文学全集のラインナップのよう。

『Dubliners』・・・前回も出ましたが、今回も出ましたので。島田先生が思い出したのは、「恩寵」というタイトルです。

チェーホフの桜の園・・・江口さんが読んでいた本。

チェーホフを一冊、フロベールを一冊、モーリヤックを一冊・・・江口さんが旅行カバンに詰めるつもりの書籍の一覧。作品名は出てきませんが、あれこれ想像してみるのも楽しいかもしれません。

漱石を一冊。『それから』か『こころ』。鴎外も一冊。それから、Ulysses……。Un ete dans le Sahara……。ロマン・ロランは長すぎるかな。フォークナーを一冊。スタインベックも……。・・・同じく、島田先生バージョン。他の高村作品にも登場する作家名が多いですね。蛇足を承知で、『Ulysses』はジェイムズ・ジョイス。『Un ete dans le Sahara』はネットで調べてみましたら『サハラの夏』というタイトルで、作者はウジェーヌ・フロマンタン。
(「e」の上に「´」のある字で入力したら、文字化けしてしまいました。普通の「e」にしています)

ハンス・カロッサのルーマニア日記・・・良ちゃんが読んだ本。

チェーザレ・パヴェーゼの月とかがり火・・・良ちゃんが読んだ本。


【『神の火』 スパイ講座】

謀略というのは、それ自体タマネギみたいなものだと、かつて江口は言ったのだった。人の目に触れない裏庭でこっそり植えられて育つ毒入りのタマネギは、策謀を巡らす為政者たちの指先で、一枚一枚皮を剥がされて、、敵の庭に投げ入れられる。 (文庫版上巻p309)・・・江口さん、上手いこと言いますね。「タマネギ=情報」と置き換えても、解りやすいかもしれません。

スパイと名のつく人間は写真撮影も腕のうちで、こんな写真は撮るはずがない。 (文庫版上巻p332)・・・「こんな写真」とは、傷をつけたマイクロフィルムのこと。島田先生、チェックが厳しいです。


【今回の名文・名台詞・名場面】
念のため、( )カッコ付は原文ロシア語です。

★剥がされ捨てられていく皮の一枚一枚はそれぞれどんな意味を持ちうるのか、その皮の一枚になる者はどう生きればいいのか、などと島田は今さらながら考えずにおれなかった。タマネギはタマネギでしかないといっても、皮一枚の細胞一つでも、与えられた時間と能力の範囲でたえず増殖し続けるように、この自分も、自分のものと言える微々たる尊厳を持ち続けなくてどうする。自分の意思でこの手足を動かさなくてどうする。 (文庫版上巻p310)

島田浩二という男・その19。簡単に言えば、高村薫さん版「一寸の虫にも五分の魂」の概要になるのでしょうか。こうやって自分を励まし鼓舞する先生が、とても愛しい。

★ソヴィエトは、社会資本も法体系も経済基盤も整っていない社会主義国家の壁を、ペレストロイカというペンキで塗り直している最中だが、そこに長年住んできた者にはペレストロイカも屁のようなものでしかない。当惑と疑心暗鬼がうずまき、誰もが保身のための策謀に走る中で、希望のなさから絶望へ転げ落ちていく者もいる。 (文庫版上巻p317)

ちょうど「ペレストロイカ」だの「グラスノスチ」だのというロシア語が、日本になだれ込んで、流行語にまでなった時代なんですよね。そういう大きな変化、変動が起こりつつある国や時期に生きている人々は、その「時代」についていけるのか、適応できるのか、あるいは流されるままなのか、あらゆることに対応することが出来ないのか。変化って、怖いものなんだなあ・・・。

★「僕も江口も、アメリカに身売りはしません。江口は根っから、アメリカのピューリタニズムとフロンティア精神が性に合わない人だし、僕は江口の金魚の糞だから」
「江口は、君がハンドルのきかない車になったと言ってた」
「そんなことはない。車は、運転する者がいないとただの屑鉄だ。江口が運転する気がある限り、僕という車は動く。そういうふうに作られてきたんです」
「ふむ」とボリスは鼻を鳴らし、力なく笑った。「人間という車は、なかなか運転手の言う通りには動かんものさ。言う通りに動くのは機械だ」
 (文庫版上巻p318)

島田浩二という男・その20、並びに島田先生とボリスの対話・その1。それでなくても、いやでも某大臣の失言を思い出してしまってイヤなんですが・・・。
「江口さんあっての先生」という事実が、先生自身の発言で改めて判明。

★社会主義体制は、人間の活動を機械のように統制することで、人間らしい生活が保証された社会を実現しようとし、今まさに挫折しつつある。統制する側のボリスが『言う通りに動くのは機械だ』と言い出すに及んでは、理想そのものが持っていた矛盾を認める以前の、責任の放棄でもあった。とすれば、たとえば《言う通りに動く機械》になるべく国家的に組織され訓練され、初めから人間の魂を空っぽにしてきたスパイという人種こそ、社会主義国家の矛盾を唯一、矛盾でなく具現した存在だったのかもしれない。そして、そのスパイたちは、社会主義国家の挫折とともに挫折し、近い将来、国家の崩壊とともに消えるのだ。 (文庫版上巻p318)

東西冷戦が一応の終結をみた時点で、スパイという職業は閑職になり、冒険・スパイ小説作家たちもネタを失ったと言われておりますが、現実はそう簡単には変わりませんね(苦笑)

★「ボリス。……崩壊するものは崩壊する。そして、新しい時代に生き残っていく者がある。国が消えるわけではないんだから、あなたは一国民として少しアルコールを控えさえすれば、それが出来る。年金も入る。しかし、江口や僕は出来ない。江口と僕は、自分の国を捨てて、今のこの時代でしか使い物にならない機械に、望んで成ろうとした人間だから」
「(ろくでもない祖国)……」
「江口はこの三十年、口を開いたら『時代は変わる』と言ってきた。新しい時代が来る日を自分の目で見ることはないのを知っているから、彼はそう言うんです。自分の目で見ることのない夢を語るのは自由ですから。江口も僕も裏切り者だとあなたは言うが、僕たちはそういうふうに自分を作り上げてきて、それがあなたの役に立ってきた時代があった。それがもう終わるということです」
「(ひどい時代)……」
「壊れかけている体制に、僕らのコントロールは出来ない。僕自身、現にこの二年、あなたの役には立っていない。双方の価値が下がったところで、もう僕と江口をうっちゃって欲しい。アメリカに身売りはしませんから」
 (文庫版上巻p318~319)

島田浩二という男・その21、並びに島田先生とボリスの対話・その2。・・・対話というより、ボリスは独り言のようなボヤキみたいですが。
長い引用になりましたが、ここまで雄弁に語る先生も珍しいと思いまして。奥の深い発言が連発。それに、高村さんの思考も見え隠れしているようにも感じられました。

★崩壊は崩壊、別れは別れだと自分に呟く。体制が作った人間関係だからというのではなく、ただ、ボリスという個人との人間関係を維持する心の余裕が、もう自分にはないのだと思った。 (文庫版上巻p322)

島田浩二という男・その22。綱渡り状態の上に、良ちゃんの命も抱え込んだ先生には、国家に保証されているボリスを顧みる余裕、全くなし。

★そうして一人に還った自分がまた空白だというフィールスの諦観は、一点を除いて、江口のそれに似ていないこともなかった。素朴なフィールスの空白は人生をそれなりにまっとうした後の獏とした海のような空白だが、江口の場合は、初めから何ひとつ形も中身もなく、何ひとつまっとうすることもなかった空白だ。 (文庫版上巻p323)

島田先生から見た江口彰彦さんという人物は、私にとっては本当に興味深い対象です。「先生の目を通した江口さん」ではありますが、全てではない。全てを知り尽くしていないから、惹かれるのかもしれません。
ちなみに、フィールスは『桜の園』に出てくる登場人物らしい。私は未読。お芝居も観たことないなあ。

★「君は?」
「僕は……これまで出来なかったことをします。まず、恋。それから、しばらく漁師をやって……、その後は修道院かな」
「何という無為だろうね……。君を、そんな人生しか考えられない男に育ててしまったのかな、私は」
江口は微苦笑を浮かべ、島田も笑みを返した。
「あなたのおかげで、物欲のない人間にはなりました。末は修道院しかない」
 (文庫版上巻p326~327)

江口さんと島田先生の会話。・・・先生って、合田さんの希望と加納さんの人生を混ぜ合わせたような余生(?)を送りたいのか・・・。
「恋」と「漁師」は、合田さん。(第一次産業・第二次産業の求人広告、取っておいてたから) 「修道院」は、単行本版<合田シリーズ>の加納さんを勝手にイメージ。(「聖人」ではなかったけれど、「聖人」だと思っていたのは、合田さんだけではないはずですから!)
「単行本版」と断り書きしたのは、文庫版とは別物の<合田シリーズ>と解釈していいだろう、と考えるからです。

★そうして数え始めると、残された人生の伴侶にする本を数冊選ぶという行為が、いかに無謀で困難な行為であるかにあらためて気づかされ、愕然となった。いや、数冊の本を選び取るという行為は、残りのすべての本を捨てていくことが困難なのではなく、選び取った本の数冊に自分の人生を託すという意味で、残り時間が限られたものであることを意識することが困難なのだった。それをしなければならないときが来たよと、江口は暗に島田に言ったのだった。 (文庫版上巻p333)

いろいろと考えてしまう、考えたくなる部分ですね。
我が身に置き換えてみますと、「数冊」ということは高村作品全部は無理ということですか? それは辛い選択だなあ・・・。どの作品読んでも飽きることがないので、選ぶというなら全書籍なのですが。困ったなあ・・・(悶々) 五十冊(!)なら、選びきれるかもしれない・・・無理かな(苦笑) やっぱり百冊かな?(←どうやって持ち運ぶつもりなんだか)

★簡潔な言葉で淡々と記されていく一日一日の戦争の情景は、皮肉なことに未曾有の静けさと美しさで満ちていた記憶がある。物を食ったり寝たりするのと等しい人間の営みとして、言葉を記すことを選ぶ人間は、たとえ戦場にあっても、常に第三者のようにすべてを眺め、省察することが出来る人種だ。厭世的で、空虚で、己の内省に溺れることで、世界の痛苦を忘れる人種だ、というふうなことを当時の島田は醒めた頭で考えたのだった。 (文庫版上巻p335~336)

良ちゃんの手紙に書かれていたハンス・カロッサの『ルーマニア日記』を、島田先生もドイツ語の勉強(!)のために読んだことがあるそう。読んだ当時のことを思い出した島田先生の感慨。
これは、高村さんが考える「作家とはどうあるべきか」という一例でもあるように思えます。


次で上巻を終わらせます。がんばろうっと 
桜が咲いたら、『李歐』 (講談社文庫) を読みたいんですよ。もちろん、再読日記もやりたいので。



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