花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

狙われる私たちの郷土 ~美しきかな水の国~ 18

2018年02月03日 08時12分23秒 | 美しき水の国

こんにちは。上の動画は「美しき日本」にて放送された室生寺です。お借りしてまいりました。合掌

動画でも確認できますが,室生寺には,観音さまが居られます。中村さんと云う御方ですが,日頃は地元で農業に従事され,室生寺に奉仕される正真正銘の観音さまです。今現在は,御隠居されたと云う話を伺いました。いくら何万遍と御経やお題目を唱えていても悟ることは出来ないことを中村さんと云う観世音菩薩の化身を観てそう感じました。お釈迦さまが偶像崇拝を禁じた理由です。

これは,私の勝手気ままな自論でもありますが,日常生活の場でしか人は悟りを得ることは出来ないと日々感じながら生活をしています。もっと言えば,仏教の究極の目的とはそこにこそ存在しているとさえ考えております。さらに,私たち人は,既に悟りを得ているからこそ生まれて来ることが出来たのだとも思っています。あとはその人がどう云う生き方をして行くか,心に坐します神と人が合一出来るかが重要な気がしているのです。古神道で言うところの神人合一であります。つまり,惟神(かんながら・カムナガラ)です。その為に,態々,それぞれ違った魂を持つこの世と云うごちゃ混ぜの世界で体験しているのではないでしょうか。

室生寺には数え切れないくらい参拝せて頂いて来ましたが,はじめて室生寺に行った時の思い出が懐かしく感じます。最初は,桜井市の長谷寺さんから秋篠寺に行く予定で計画を立てていましたが,なんと,不思議な事に到着したのが室生寺だったのであります。しかも,私自身,室生寺のある場所に行くまで,まだ秋篠寺にいるものだと錯覚していたのです。あれはなんだったのか?今でも不思議な思いがしています。桜井市の長谷寺から宇陀市の室生寺までは車を結構走らせなければ行けるところではありません。

しかも,室生寺は山間の中に御鎮座されています。正直,どうやって長谷寺から室生寺まで行ったのか憶えていないのです。車で移動したのは間違いがないのですが,道中の記憶が完全に消されてしまっています。あのような感覚は,私もはじめての体験だったのですが,室生寺に到着し,境内のある場所にてその理由と申しますか,何故,室生寺に来たのかが解かりました。もっと言えば,解かると云うか肝に落ちると言った方が良いかも知れません。つまり,自分自身にしか判らないことがあると云うことなのです。したがいまして,理由は他言無用なので書けませんが,あのような事が本当にあるのだと思い知らされた日でもあったのでした。

火の神さまと水の神さまを祀り,太陽信仰の重要な祭祀場であり,神秘に満ちた室生の里にひっそりと鎮座される室生寺は古から伝わる神仏習合のとても素晴らしい寺院です。「故きを温ねて新しきを知る」古きを訪ねて新しきを知るにはとても良いところです。

わたしも沢山,室生寺さんで学ばせて頂いて来ました。

もっと,自分を見つめなさい。自分自身を尊びなさい。自分の心に正直でありなさいと教えて頂きました。

そして,転んでも良いから。間違っても良いから。失敗しても良いから生きて行きなさいと言う事でした。

今日の狙われる私たちの郷土~美しきかな水の国~18は「水の神への感謝参詣 女人高野室生寺 編」です。

以下の記事は「2016.10.1」に掲載したものです。

 

こんにちは。水の神への感謝参詣も残すところ今日の女人高野の室生寺と伊勢神宮のみとなりました。そして今月10月24日は,私も崇敬させて頂いている一社でもあります玉置神社の例大祭が斎行されます。玉置神社は,縄文以前から祭祀場として存在していた古神道の聖地中の聖地です。神社神道としての玉置神社は,今から2000年ちょっと前の創建ですからまだ若いと云えます。

しかし,祭祀と云う視点からですと1万年・2万年以上も前からの超古神道の祭祀場であります。私がブツブツと申し上げるよりも機会があれば一度,玉置神社さんへ参拝されて見て下さい。御神木や古神道の形式が残る白山社も御鎮座されております。

さて,室生龍穴神社での参詣を終えて,次に向かった先が女人高野で名高い室生寺です。ここ室生寺にはもう数えきれないほど参拝させて頂いておりますが,いつ来ても良い気が充満しているところです。思えば,初めて室生寺さんへ参拝させて頂いたきっかけは,以前にも記事で書かせて頂いた「女人高野 室生寺と十一面観世音菩薩」ことからですが,本当に縁と云うものは不思議で言葉では説明が出来ないほどの実情や影響をもたらすものだなと思っています。これも原因と結果と云う因果応報なのでしょう。

ならば,やはり善良な因果を積んだ方が自分にとっては最善です。たとえば,悪いことをすると罰が当たる。言葉では誰でも理解が出来ることだろうと思います。しかし,その悪いことの罰がいつ・どこで・どうなるのかを理解できる人はいないのではないでしょうか。つまり,内容と時間差があるが故に,関係付けることが出来ないのです。ですが,ふとした瞬間やこれまでの行いを省みたとき「なるほど」と感じることは出来ると想っています。したがって,悪い奴が得することはあっても徳を得ることはありません。

生きていると何が善良なのかが難しく感じることも確かに多く存在しますが,ひとつの判断としては良心に付き従うことだはないかと感じています。この良心については,いろいろな方がいろいろな所で御考えを述べられていたりしていますから,自分との価値判断が違うと感じるかもしれません。しかし,考えて見れば,生まれた場所も育った環境も全く違うのですから良心の価値判断が人それぞれ違うのも当然と云えば当然のような気もします。つまり,正解を探そうとするような価値判断は,相手と思想上で競い合っているに過ぎないのではないかと云うことです。正しい良心,誤っている良心だと決めつけると結局は社会と云う集合体の中では窮屈な思いを自分がしてしまいます。ましてや,自分の良心は正しいと断言できる人ほど何か怪しい気配すら感じてしまいます。

室生寺に参拝させて頂くたびに毎回,心底感心することがあります。それは,室生寺で奉仕されている方々の参拝者に対する態度です。本当に素晴らしいものがあります。どうすれば参拝者に喜んでもらえるか。室生寺に来て良かったと感じて貰う為にはどうすれば良いかを良心に基づいて奉仕されている感じが毎回参拝させて頂いて感じることができます。いつでも私たち参拝者をとても温かく迎えてくれます。「おかえりなさい。」「また帰ってきたや。約束やで。」この言葉は,室生寺に奉仕されている職員の方が参拝に来られる人に掛けられる行きと帰りの挨拶です。上の写真は,本堂から五重塔に続く参道を撮影させて頂いたものです。拝

女人高野 室生寺 公式ホームページ:http://www.murouji.or.jp/


 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。

又,人はそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

そしてまた日本人の本当の性質を再び伝えて行きます。

そのことが日本を取り戻し,日本人としての誇りを取り戻す真の意味だと考えます。

観世音菩薩とともに。花咲 あさひ 拝



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