花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

生きることが辛く苦しい人へ。再掲載

2019年09月03日 11時16分06秒 | 祭祀と和の国

上の動画は,古神道と日本人 ~共存と共生~

 

以下の記事は,再掲載したものです。

こんにちは。

がんばって!と言っても,最早そんな言葉は通用しないほど何かに傷ついてしまったり,人が誰も信用できないくらいまで落ち込んでしている人もいらっしゃると思います。ですが,どうかそんな時にでも心の燈火だけは消さないでいて下さい。種火でも良いので心の燈火を消さないで戴きたいのです。人のことを棚に上げて,こんなことを書かせていただく立場ではありませんが,清く生きよう・正しく生きよう・美しく生きよう・正義が絶対と考えれば考える程,わたしは真理から遠ざかってしまう気がするのです。

これは,とても誤解を招く言い方かも知れません。清く正しく美しく生きることがどうして真理から遠ざかってしまうのだと言われれば返す言葉は,わたしにはありません。しかし,これらの言葉の本当の意味は違ったところにあるのではないかと考えています。たとえば,清らかな水だけを呑んでいては,濁を呑み合わせることが出来ません。清濁併せ呑むと云う言葉が示す通り両方を知ることで本当の清らかさが判るのではないでしょうか。蓮の花も然り,綺麗な蓮の花を咲かせるためには濁水が必要で在るようにです。

わたしたちが想い悩むことが自分の私利私欲のことであるならば,その想い悩みは消え失せることはないようにも感じています。なぜならば,たとえその問題に答えが見つかり,解決できたとしても人間は,さらなる欲を抱き,迷い込んでしまうからであります。人はなぜ生まれ,なぜ生きるのか?これは人生最大のテーマだとも思います。なかなか答えを見つけ出すこともできません。辛く,自分だけの力ではどうすることも出来ない困難な事に直面すると,正直な話し,つい他人と自分を比較してしまうこともあります。

そう云った意味においては,わたしも同じであります。ただ目の前のことに全力で取り組んでいても,心のどこかで自分はなぜ生まれて来たのか?どうして生きているのかを心神と自問自答している日々でありました。しかし,もしかすると私たち人が生まれ,生きる本当の目的と云うものは人を養うことにあるのではないかと感じるようになって行ったのです。更に,人を養うと云うことは凄いことなんだと云うことも理解出来ました。人を養うと言っても,例えば,親や家族の生活を養うと云うことだけではありません。

自分のことだけではなく,誰かの為に,何かの為にと云う気持ちです。

そう自問自答しているといつの間にか人は強く成長できるのだと云うことも解かりました。わたしの場合,その一念で毎日生きて居られるようなものです。たぶん,自分の事だけを考えて生きて来たら,今の自分は居なかったと思っています。ただ,それも自分の事だけを考えて来た結果に過ぎず,自分の事だけを考えて来たことで得られたのだとも思っています。たとえば,お釈迦さまが悟りをひらいたと云われる話しに,苦行が悟りをもたらしたと云う説が一般的ですが,わたしの感じるままに言わせてもらえば,これは全く違います。お釈迦さまが悟りを啓くことが出来たのは,貧しい女性による慈悲「思いやり」であります。苦行ではないのです。

人の優しさ,思いやりに触れた瞬間にお釈迦さまは悟りを啓くことが出来たのです。肉体を酷使させるような厳しい諸々の修行が悟りを啓かせたのではありません。これが後世になって,お釈迦さまの悟りは苦行によるものだと云う解釈が定説となってしまったのです。こうのようなことを書くと,なら山伏や禅僧の修行は間違いなのか?と言われるかも知れませんが,山伏や禅僧の修行は,そもそも意味合いが異なります。山伏「修験道」や禅僧がする修行は「同体思想」「同根思想」と云う内観に通じるものであります。

今日も纏まりのない記事になってしまい恐縮ですが,どうか自分自身を必要以上に傷つけることだけはしないで戴きたいのです。他人と比較しても迷いの淵に落ちるだけです。山に篭り,滝に打たれを繰り返していても手にしようとしているものは手に出来ません。人を養うと云うことが,この世での最高の慈悲であります。人の為に,何かの為に生きているからこそ人は成長できるように思います。これが本当の修行であるとも感じています。今,生きることが辛く苦しいと感じていても変わる時は一瞬で変わります。

心神を忘れずに居れば,なにがあっても絶対に大丈夫です。

心神とともに。

花咲あさひ 拝



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