トラカリコン!

「虎・借り・コン!」。虎の威を借りた狐。虎の威を借りて吠える狐が私…。虎が何であるかは、本人にもわからない。

コメントをお願いいたします。

矢部宏治著「日本人はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」を読んだ方からの、憲法改正についてのコメントをお待ちしています。 コメント受付用記事 のアドレス http://blog.goo.ne.jp/kanra-toriko/e/a08c500525a4ba2e568012c53edbaa6f

行政組織の改編は最強?(大阪都構想)

2015-05-16 11:04:55 | 政治や経済
大阪都構想の住民投票が明日だ。
不思議なのは、大阪市を廃止して行政組織を東京都に近づけることがそんなに影響力大なのか、ということ。

「大阪市」という行政組織が有ろうが無かろうが、皇居・国会議事堂・首相官邸・官庁街・議員会館があれば大阪府は東京都よりも栄える、それだけじゃないんでしょうかねえ。
東京都民は、そういった施設から生じる「トリクルダウン」の流れの元の方にいる。

東京への一極集中をこのまま加速していくのか(例えば北陸新幹線もそうだ)。
経済的発展・首都直下地震・日米同盟の軍事面の強化の結果の防衛力強化の必要性など、考えの切り口はたくさんあるのに。


大阪のことはろくに知らない私ですが。小競り合いばかりに連勝したとしても、戦に勝てなければまたは戦に不戦敗していれば、得るものはないも同然だと思う。
ましてや、戦の相手の力を借りて小競り合いの相手を倒し続けることなんて、共食いに過ぎない。

専門家とは誰か(「アンプラグド 冷蔵庫が導く仏の境地」追記)

2015-05-16 11:04:38 | 政治や経済
読んだ雑誌に載っていたので、ご縁と思って書く。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(・・・)一昨年の夏、彼女はこう書いている。
<私が電気を購入する関西電力の原発依存度は約5割だった。もし全ての関電ユーザーが消費電力を半減すれば、その時点で原発は不要だ>(7月11日)
(・・・)
 だが、記者のコラムを読んで感動した読者が節電をマネしたら脱原発が可能なのだろうか。
       (「週刊新潮」 5月21日菖蒲月増大号 p.29)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


なるほど。ネットの反応は、あのコラムそのものだけでなく、2013年の文章が刺激になっていたのかも。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「原発を減らしたいのであれば、彼女がやっていることはまったく無意味です」
 とは、国際環境経済研究所の澤昭裕所長だ。
「なぜなら、今の消費電力を5割減らせたとして、経済合理性を考えたときに残る発電所は(再稼動している場合)原発しかありません。電気代が高騰してもいいと言うのなら火力でもいいのでしょうが、国民負担を考えた場合、電力会社が最初に動かさざるを得ないのは原発だということを忘れてはなりません」
 そして、冷蔵庫の電源を切ってしまうのもおかしな話なのだ。
「冷蔵庫を使わないということは食品を腐らないうちに食べるということ。それには今よりこまめに食材が市場に供給されなくてはいけません。これは莫大な物流コストがかかり、”一次エネルギー”が増大することを意味します。一次エネルギーとは石油、石炭、原子力などです。無駄遣いをやめ、自然に帰る生活をしましょうというだけなら悪くはない。しかし、個人の振る舞いによって脱原発を実現できるかのように報じることは、論理の飛躍以外の何ものでもありません」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



議論する気なんてないのね。

澤所長はNHKの討論番組(2対2か3対3で原発を議論してた)で見たことがある。すごく身の程知らずなのに書いてしまうが、物足りなかった。だが、上の引用が冴えないのは、澤所長ではなく編集した新潮の人の構成の仕方「のせいだと思う・・・。稲垣編集員は考えなし」という主旨の記事にしたい、という意図はわかる。稲垣編集員のコラムも澤所長のコメントも、ただ不毛なだけだ。

(1) 澤所長が考える経済合理性の内容は、私にはたぶん納得できないものだ。
経済合理性を判断するには、原発の発電コストが確定しなければならないはず。今回の事故のコスト(ついでに、東電だけが負担しているわけではない)はまだわかならないし、通常の廃炉コスト・放射性廃棄物の処理コストも未定。その他、損害賠償額や避難経路の確保など、見積もるべき項目は多い。
電気代の高騰や国民負担については、新エネルギー政策をおろそかにしてきた政府の不作為に怒りを感じる。原油価格が上がったらあきらめて原発を使うしかない、という道に追い込もうとしている。
また、経済合理性という言葉には、原発を廃止することでの電力会社の経営の悪化(原発が資産じゃなくなるんだもんね)への恐れも込めているのかも。それなら「原発の是非」ではなく「電力会社の経営問題」として検討しなければならない。

(2) 個々人の政治的ではない行動が政策に直接結びつかないのは、この場合は議論の構成要素ではない。
例えば、高齢者介護において、自分なりのアイディアを実践してみるのはどうか? 支え合うグループ作りとか、地域通貨を介したボランティア制度作りとか。その段階で「個人の振る舞いによって」国の高齢者介護制度を変えることが「できるかのように報じることは、論理の飛躍以外の何ものでもありません」と批判するのは、的外れ。
やってみて「いけそう」と思った段階で国などの制度の変更を提案するのは、まっとうなやり方だと私は思うのだ。

(3) この場合、意見を求められるべき専門家とは誰か?
国際環境経済というのは経済学なのだろうか。そういう人に、個人が冷蔵庫を使わない食生活に踏み切った場合の社会の対応について尋ねるのは、妥当なのだろうか。
電気が生活の隅々まで支える(電子書籍なんて電気がなければ本すら読めない)環境を進めてきたのだから、社会もそれに対応して変えられている。その状況を所与として扱うにもほどがある。なんたって、この状況が何世紀も続いてきたわけではない。
電気の使い方を変えるという共通の認識ができたら、社会の仕組みをそれに応じて変えなければならないのは当たり前だ。地産地消・食材の保存方の工夫などが考えられる(話がそれるが。子供の頃に食べていたトマトはとてもおいしかった。今は1年中売られているが、あんな味の物はない。生産と流通のどういう変化の影響なのだろうか)。また、食料の大量廃棄など、電力の無制限の利用が助長しているのではないか?
電気の利用量をゼロにするのではない。だが、このまま考えなしに電気に依存する度合いを高めるのはいけない、と私は思う(先進国の1人当たりの生活用使用電力量の統計なんて、あるかなあ。見てみたい)。

(4) 本筋からずれるが。
電力会社への依存度合いもマイナンバーもそうだが、各自に選択の余地を残して欲しい。自分で判断したい。電力は大規模逓減の法則などが関わってくるなら、1世帯当たりの使用量ではなく世帯数つまり人口を増やす方法もあると思う。つまり、出生数や移民数の増加です。長くなるからここでやめる。
統一してコストを削減すべきという考えは、お金の節約にはなるがそれだけだ(コスト減=雇用減という場合もあるし)。「無駄」がない社会なんておかしい。


・・・ほんとに憂鬱なのは。日本に対し「原発を輸出しないで」というデモがトルコで行われている、という情報だ。
日本国内の反原発・脱原発運動のことが「サヨクの反政府運動」といった言葉で揶揄されるのを見かけるが、原発が社会の構造を変えてしまうのは現実。日本の現状に詳しいトルコ人がいて「トルコに原発はいらない」と判断しても、無理はない。そういう道もあると思う。
発電のコスト計算ひとつとっても、原発は科学や工学の問題ではない。政治だ。国内の政治がこんなに遠い(得票数も世論の動向も政治に影響力を失っている)。外国の人と気が合っていても、間に政府が入るとこじれるのかもなあ。

原発の話はまだまだ知らないことが多いし、長くなるので書くのを避けてる。安保法制とか憲法改正とか、気にし続けなければならないことが多すぎて困る。政府は有権者に情報や時間を与えてじっくりと考えさせる気持ちはないのだ、と思う。詐欺の手法と同じなのがひどい。


週刊誌vs.朝日新聞というお馴染みの騒ぎの枠に入れないで、もっと真面目に考えてもらえないだろうか。意見が異なる同士の実ある議論より、相対的弱者を攻撃する不毛な文章を載せたいのかね?
・・・いや、買って来た家人が悪いのか。読まなきゃよかった。