「事業仕分け」の結果について、ノーベル賞受賞者を含む理系学者が異議を表明した。細かな点(削減の余地と判定されたのは官僚の既得権だったりする場合があった。また、スパコンについては、説明担当者がその意義を内在化しておらず討論ができなかったという、省内での詰め方の不足の問題。大金を投入するからにはもっと親身になる習慣をつけないと)はあるが。大筋ではこの異議が受け入れられるのだろう。経済政策の前段階という面もあるし。日本の知の没落阻止として、他にも多方面(ほんっとに多方面)が支持するだろうし。
国内に飢えた人がいるのに、予算を研究や開発に回すのは正当か? アポロが盛んに打ち上げられていた頃のアメリカでさえ、こういう議論はあったと昔読んだ(『アメリカ合州国』。「合衆国」の間違いではないです)。でも、日本人は頑張って支えるだろう。なんとなく、そう思う。「1位を目指した結果、なんとか3位はとれた」っていうのもさほど批判されないだろう。頑張ったけど及ばず、それもok。また頑張ろうってことで。いいよ、飢え死にとかしないで済む程度なら。高度な医療も世話する家族がいない年代なら受けられなくてもいいんだ。少なくとも、私はそう思うだろう。くれぐれもくれぐれも、無駄遣いはしないでね!
理系の特にこういった分野と、文系の扱いの差を思う。
倒産と唐様で書く三代目・・・だっけ? 文系の、教養部門ってこの「唐様」として扱われる。湯川博士はノーベル物理学賞をとったけど漢文もなかなかのものだ・・・と文「理」両道が更に尊敬の念をかきたてたものだけど、今はどうだろう?
文系では、法学・経済学・(実用的な)語学(・教師の修士号必須化が唱えられている教育学)はともかく。「教養」寄りの他分野はどうなんでしょうか。
IT化はコスト削減になるけど、パソコン1台より会社員1人の方が消費を拡大するから巡り巡って経済状況を改善できるのでは? 医療技術は進歩するけど人間のあり方とのバランスは? ・・・とか。ブログなどで素人によって表明される「感覚」とか「感想」とかではなくて、四方八方から深く深く検討する作業には、何千年の人類の知の蓄積は役に立たないのか?
もし文系の予算が理系に回ることになっても、広く一般社会ではこの度のような「それはやばいんじゃないの?」という声は湧かないだろうなあ。
偏見どころか空想や妄想もあるかもしれないけど。法学は、裁判員制度が必要なほどずれているそうだし、経済系の仕事をする弁護士なら国際的な教育を受けないとやっていけない時代が来るんじゃないでしょうか。経済学は、実用的なのか今すでに疑問だし。(実用的な)語学は、芯になる他の分野がないと頭打ちになりそうだし。こういった分野の文系学問の質や量の現状はムラがありそうだ。
他の、実用的でない文系学問はこれらの基盤であって、それなりに役割があると思っているんだけど。
5年ぶりくらいに入った書店で平積みされた本をながめて、驚いた。
このブログには本について詳しく書かかないつもりだし、ちょっと立ち読みしただけなので書くのも気がとがめますけど。
上野千鶴子を批判的に書いた章をざっと。彼女が、父への私怨のために社会学をやってきた(こういう表現ではないですが、こんな感じ。手元にないのに、すみません)、と明言していることをあげて呆れ返ったというのだ。上野千鶴子は古いのを1冊・新しいのを1冊・他は鼎談の抜粋や雑誌などのインタビューくらいしか読んでいない私ですが。社会学とは何かということについては講義を受けたし何度か考えたことがある。
父への私怨がスタート地点って、社会学では王道の1つでは?
例えば父の家庭内暴君ぶりに恨みが募って、子の親殺し。あるいは、家出や放蕩。または、ひたすら忍従。選択肢はいろいろあるけれど。「この家庭の状況や自分の違和感はなぜもたらされているのか?」と客観的に考えてもっと客観的になり歴史や心理や多くの分野をも調べて分析する。自分の家に限らないと気付いて改善策や理論もたててみたり。そういう克服もある。
これが、家庭でなくて社会でのことならば。テロや革命ではなくて、最も穏便な順応でもなくて、社会学などの学問(マルクスは経済学に新分野を作り、トクヴィルは政治学他に貢献)に向かう。それが政治や法などに吸収されたり淘汰されたり発展したりするものでは? 世界も生き物みたいなものだし。
ま・・・。あの本は、一方的なドッジボール(ドラマ「結婚できない男」の夏川結衣の終盤のせりふ参照)であって、批判された人達は反応しないだろう。
ただ。大学の教官の著作だったから驚いた。大学の教官というか学問というものは、現状の社会や知識や学問について少なからず改善や改良の必要性を確信しているからこそ研究が行われるものだと思ってきたけど、それはあくまで私の感覚だったの?
教養面の強い分野の文系の高等教育は、日本では戦前に、お金儲けはできないけど自分は敢えて選んだんだ、文句ある?という気概を持った男子(女子は高等教育を施されない率高し)を集めたという。彼らの世代は滅びつつあるが、その影響大な人達は先細りかもしれないけど次世代にもいて、どちらなのかと無理矢理いえば私もその部類(自分自身の能力の低さはともかく。実用性の低い教養というものにも価値を感じるから)だ。
こういう感覚って、徐々に消滅するものなんだろう。ある世代の消滅時点までではなくて。しかし、不景気が続くと衰退は激化。切り詰められるから(私は高度経済成長期の生まれ)。気が付くと消えているんだ、きっと。
外国はどうなんだろう。10年ほど前、アメリカのHP(だったかな?)の女性CEOに大学で中世史と哲学を専攻したという経歴があって驚いた。他にも、実用性低そうな学問履歴がある人達の例(ちょっと前のオックスフォード大出身者とか)は浮かぶけど、なんとなく記憶があるだけだ。曖昧。だから日本と外国を比べるのはやめておく。
実験設備はいらないし。町にも図書館がある。だから、その気があれば独学でも成果は得られるかもしれないのが、こういった分野の強み(マルクスなんて図書館で研究していたんそうだし)。でも、就職に有利ではないと思われる。だめだよねえ。
この種の分野の予算確保を主張する説得力ある理屈は、私には浮かばない。それでも、未練がましく考えるのを繰り返すんだろうなあ。思考回路が、壊れたレコード状態に陥っているかも。
大学の教官などの、当事者はどうしているんだろう。