小池都知事の会見は、キャッチフレーズ連発で原辰徳監督らも映像で参加。吉村大阪府知事のそれは、学校や職場の「運動」(スポーツじゃない方)を連想させる。
こういうものなのかな。
都知事は「買い物は3日に1回で」と歯切れよく言った。だが、買い物に行く頻度を減らした分、店内滞在時間が延びる。たいした差はないのでは。毎日発表される感染者数などのデータ・・・数字の推移を追う職業の方々、耐えられますか。新規の被検査者と退院前の被検査者の検査結果は分けて把握したい。基本、カタカナ英語なのはなぜ?
府知事の呼びかけに応じて、大阪府民は多数の雨合羽を医療機関で使う防護服の代替品として役所に送った。それを笑顔で報告する知事だが、雨合羽はもちろん防護服に劣るし(つまり医療機関などの着用者にとっては危険性が高まる)マスクと違って入手可能なのだから、なければ買えばいいんじゃないでしょうか。
う〜ん・・・「指示が誤っているから」ではないな・・・
「政治家は人を感覚的に従わせるのが仕事なのかな」と感じさせる会見が不安なのだ。どぎつい言い方をすれが、「人を扇動するのが仕事なのかな」。
では、2012年からコロナウィルス前までの安倍首相の会見や演説はどうだったか。
とにかく、事情が違った。
その違いとは、これまでの事態では多くの国民が傍観者でいられたこと(その無関心さ、困るんだけど)。法の制定や解釈変更・議員や閣僚や官僚の不祥事・災害・拉致事件・米軍基地・原発・東京2020・もりかけ・改元・米中露との関係・TPP・・・
今回のように、国内の誰もが当事者であり行動変容とやらを要請される、という事態はなかった。首相としては、当事者でない大多数の国民に「何も気にせずに私に任しておけば大丈夫(菅長官語だと「全く問題にはあたらない」)」と感じさせるだけで良かった。
そう、「有権者はこの件に無関心であれ、そして次の選挙で与党に投票せよ」、伝えることはそれで十分だったのだ。7年以上、それだけだった。そうか。首相は「扇動者」ではなかったのだ。
そんな首相には、コロナウィルス対策について語ることは難しい。多くの無関心な人達相手に「興味を持たず、任しとけ」と伝えるのと、多くの当事者達相手に「用心しろ、生活を変えろ」と伝えるのとでは、難易度も根本もまるで違う。
そもそも、コロナ禍についてきちんと語れるような人だったら、7年以上もの間あれほど内容のない発言を繰り返すなんて、生理的にできなかったろう。
(あ、「働き方改革」があったっけ。しかし、あれは実態は職場次第だったのでは・・・私の考え、無理があるかな?)
再び、都知事と府知事のこと。
都知事の操作力(?)は、都知事選後しばらくの間ものすごかった。有権者・都議会議員・国会議員が恥ずかしいくらいに踊った踊った。
府知事については実感できない東京都民の私。ただ、多くの視聴者を日弁連への手続きに駆り立てた橋下氏(この人の肩書きは何だろう)の直系だ。
こんな2人が、「コロナ禍対策に取り組む政治家」として、今、存在感を持っている。
私は、こういう政治家にはリーダーになってもらいたくなかった。
やるべきか否かが疑わしいことを、雰囲気でやりたくないからだ。感覚や勢いではなく、道理に合っているかどうかで決めたい。
誰かにとって大事な何かをやってもらう場合には、その人が落ち着いてちゃんと納得してやってもらえるように。その人が後悔しないで済むように。そういう状態で決断してもらえるように、配慮したい。
政治家というのは、人々に彼ら彼女らの意思でないことを強いる場合さえあるのだけれど。それは本当に必要なときにだけに限ろうとする人がいい。
それぞれ違うはずの多数の人々が同じ方向に進むことに胸騒ぎを感じるような小心さ、かな。「畏怖」か。
過去の教訓はあるし。
ブラッド・ピッドのゾンビ映画でいう、10番目の人物の意見を潰しているかもしれないし。
都知事も府知事も、人を従わせることそのものを楽しまないでくれますように。
そして心身ともに健康で、健全な判断を積み重ねてくれますように。