「命の選別」論の危うさ 生きる権利踏みにじる 中島岳志
論壇時評 中日新聞 2020年8月1日
コロナ禍で医療崩壊を起こしたイタリア、スペイン、アメリカなどで、「トリアージ」という言葉が盛んに語られた。集中治療室や人工呼吸器の総量が限定される中、すべての患者を救うことが出来ない場合、「命の選別」をどう考えるのかが問題になったのである。優先的に治療されるべきなのは誰なのか。高齢者から順に治療を断念せざるを得ないのか。そんなことが、繰り返し論じられた。
■れいわ元候補の発言
日本では、れいわ新選組の公認候補として昨年の参議院選挙を戦った大西つねきの発言が問題になった。大西は配信動画で次のように語った。「生命、選別しないと駄目だと思いますよ。はっきり言いますけど、何でかっていうと、その選択が政治なんですよ。その選択をするんであれば、もちろん高齢の方から逝ってもらうしかないです」
この発言をめぐって、同じれいわ新選組に所属する参議院議員・木村英子から、厳しい異議が提示された。木村は重度の障がいを抱えており、大型の車いすを使用している。彼女は「大西つねき氏の『命の選別』発言について」(参議院議員木村英子オフィシャルサイト7月15日)の中で、「施設にいた頃の私のトラウマを思いだし、背筋がぞっとし」たという。
木村は幼い頃から「『殺されるかもしれない』という避けがたい恐怖」を抱いてきたと言う。「命の選別」が政治の決定に委ねられるとしたら、「常時介護の必要な重度障害者の私は真っ先に選別の対象になるでしょう」。同じ所属政党の候補者が語る「命の選別」論を、木村は「暴言」と批判する。そして、この発言が大西個人に還元される問題ではなく、社会全体の問題であると論じている。
木村が的確に指摘するように、「命の選別」論は、障がい者の生きる権利を踏みにじる暴論へと容易に転化する。そのグロテスクな表出が、二〇一六年に起きた相模原障害者施設殺傷事件だろう。
雨宮処凛(かりん)は『相模原事件・裁判傍聴記 「役に立ちたい」と「障害者ヘイト」のあいだ』(太田出版)の中で、植松聖死刑囚の危険な論理に迫る。
植松は、日本政府が財政難にあえぐ中、障がい者への福祉政策への予算配分に疑問を呈する。社会福祉の充実によって政府の借金が膨大になり、大地震などが起きたときの政策に支障が生じることを懸念する。彼は国の将来を憂い、危機感を募らせていた。そして、徐々に肥大化させたのが、障がい者を「命の選別」の対象とする独善的な「正義感」だったのである。
雨宮が指摘するのは、行き過ぎた競争による自己責任社会が、多くの人を追い詰めている現状である。「この20年以上、生産性が高く、役に立つ自分を全方向にプレゼンし続けなければ生きる価値がないという強迫観念に、多くの人が苛(さいな)まれている」。その結果、少しでも守られて楽をしていると見える人をバッシングする風潮が蔓延(まんえん)している。
雨宮は、植松が抱いた「『役に立たないといけない』というヒリヒリした感覚」に対して、「どこかとても、わかるのだ」と言う。生産性の高さが求められ、その尺度によって個人の価値が計られる競争社会では、会社や組織、社会に「役に立つこと」が自己の存在意義と直結してしまう。雨宮が脱却すべきだと考えるのは、「役に立つこと」と「生きる価値」を結びつける思考様式そのものだ。
■自己の現在を過信
人間は弱い存在だ。いつ難病にかかるかわからない。交通事故に遭って、生活が一変してしまうことだってある。日常の中には、様々(さまざま)なリスクが潜んでいる。人間は普遍的に有限で、脆弱(ぜいじゃく)な存在だ。そんな大前提を忘れ、自己の現在を特権化した過信こそが、命の選別論である。
私たちは皆、赤子だったことを忘却している。お腹(なか)がすけば泣くしかなかった自己の無力を忘れている。誰かに支えられ、助けられなければ、今の私は存在しない。この存在の根源的弱さに向き合えることが、本質的な強さである。
医療崩壊という極限状況においては、治療可能性などの医師の所見をもとに判断するしかない。状況は具体的かつ千差万別であり、絶対的な「正解」など存在しない。この例外状態を日常に敷衍(ふえん)し、命に「値札」をつける行為は断じて許されない。命の尊厳のあり方が問われている。 (なかじま・たけし=東京工業大教授)
◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です