精神鑑定書は「宮崎勤・麻原彰晃・植松聖」をどう描いたか
2020/8/4(火) 6:01配信 現代ビジネス
映画監督・作家の森達也氏が3月19日、死刑判決直後の植松聖と面会した。2016年、入所中の知的障害者19人が殺害されたあの事件の深層とは何か?
第1回はこちら:相模原障害者殺傷事件とは何だったのか? 「普通の人」植松聖との会話
植松をめぐる二つの鑑定書
「精神鑑定においては、その人物の生育歴の調査と分析がとても大きな意味を持っています。犯行に至る性格や動機の形成がどうだったか、法廷でこれを解き明かすためには、絶対に不可欠な要素だから」と吉岡は言った。
「ところが宮崎勤の責任能力を認めた鑑定書では、両親や、(実家の)敷地内にあった印刷所の従業員の聴き取り調査すら行われていない。その部分は警察が短くまとめた調書の引き写しですよ。宮崎本人に対しては、いきなり犯行時の心境を聞いている。こんなの、専門家の鑑定と言えないよ」
そう言いきってしばらく沈黙してから吉岡は、「植松の鑑定書はいくつあったかな」とつぶやくように言った。
「ひとつだっけ?」
「二つです」と僕は答える。
裁判所が選任した大澤達哉医師による鑑定は犯行時の植松について、「パーソナリティ障害及び大麻使用障害・大麻中毒」と診断した。ただし大麻使用による犯行への影響については、「なかったか、あったとしてもその行動に影響を与えないほど小さかった」と結論づけている。
もうひとつは弁護人が私的に依頼した工藤行夫医師による鑑定で、こちらは「動因逸脱症候群を伴う大麻精神病であり」「本件犯行はその発想から実行に至るまで」「(大麻精神病の)影響が深く関与し、それなくしてはなしえなかったと考えられる」と断言している。つまり大澤鑑定は責任能力を認めているが、工藤鑑定は認めていない、ということになる。
「最終的に採用された鑑定は責任能力を認めているほうだよね」
「もちろんそうです」
植松の幼少時代については、鑑定だけではなく裁判でも、ほとんど話題にならなかった。両親も法廷に出廷していない。もちろん加害者の家族を追い詰めることに対しては慎重であらねばならないが、裁判の過程で、被告人の成育歴にこれほど触れないことは、普通ならありえない。
宮崎の鑑定書の杜撰さ
「(宮崎勤を)多重人格と診断した鑑定書には、精神科医とのやりとりを、たぶんこっそり録音して、速記で起こした文書も添付していた。『いい天気だね』『昨夜は何を食べたの』とか、他愛もない会話をしながら、宮崎の受け答えの奇妙なところや思考の偏りなどもきちんと指摘している。ところが、裁判所が判決に採用した鑑定書のほうには、そうした記録すら付属されていない。鑑定人は生育歴をきちんと調べていないから、なぜ彼がそんな奇妙な反応をするのか、原因を調べてみようとすら発想しなかった、としか思えない」
「つまり疑問や追求がないということ?」
「まったくない。極論すれば、責任能力を認めるという結論になっても、僕はいいと思うんですよ。でも、そのためには論理的な道筋が必要でしょ。それがないまま、責任能力はあったという結論だけが示されている。助手の大学院生あたりに書かせたんじゃないか、と思いたくなるくらいに杜撰だった。20から30ページくらいしかなかったんじゃないかな。その薄さに驚いた」
「三つの鑑定の中ではいちばん内容が乏しくて、実際に量が圧倒的に少なくて、そして杜撰だった。でも裁判所はその鑑定を採用した」
「それが唯一責任能力を認めていたからね」
そう言ってから吉岡は小さく肩をすくめる。吐息もついたかもしれない。でもよくわからない。なぜならこのインタビューはZOOMで行われている。マイクは微かなつぶやきや吐息を拾ってくれない。これから何を質問しようかと考える僕に、「麻原の裁判ってどうだったかな」と吉岡が質問してきた。「鑑定は一回だけやったように記憶しているけれど、あれは責任能力についての鑑定だっけ」
「責任能力ではなくて訴訟能力です」と僕は即答した。ここは大事なところだ。逮捕時の麻原は取り調べや弁護人との面会の際も普通に受け答えしていた。破防法弁明という特別な手続きの際には、見事なスピーチまで披露している。犯行時の精神は問題にされていない。
6人の精神科医の見立て
ただしその後、一審途中で麻原の精神は崩壊した。つまり訴訟当事者としての能力を喪失した。一審判決公判で同じ動作を反復するだけの麻原を見て、さらにその後に多くの人に取材したことで、僕はそう確信している。控訴する意思を確認するどころか被告人とまったくコミュニケーションがとれない二審弁護団は、精神鑑定を実施するための公判停止申立書を裁判所に提出するが、これを却下されたため、独自に6人の精神科医に依頼して鑑定を実施する(正式な鑑定ではないため効力はない)。
1人目は元北里大学医学部精神科助教授の中島節夫医師。「器資性脳疾患の疑いが濃厚」との見解を示しながら中島は、「詐病の可能性も否定できないが、詐病と判断するにも正式な精神鑑定が必要だ」と主張した。
2人目の医師の名前や所属は公表されていないが、彼もまた、「拘禁反応によって昏迷状態にある」として、「訴訟能力はない」と結論づけた。
3人目は筑波大学大学院人間総合科学研究科の中谷陽二教授。彼もやはり、「拘禁反応が慢性化・固定化している」可能性が高いとして、「訴訟能力は欠如している」状態との意見書を提出した。
4人目は関西学院大学教授の野田正彰。「公判当初は訴訟能力に問題はなかったものの、現在、意志能力があるとは考えられず、一時的ではあろうが訴訟能力はないとみなすべきである」として、「半年内の治療で軽快ないし治癒する可能性が高い」と野田は主張した。
5人目は金沢大学名誉教授でかつては東京都立松沢病院院長だった秋元波留夫。この時点で100歳を迎える現役最長老の精神科医だった秋元もまた、被告の訴訟能力については明確にこれを否定した。
6人目は、かつて東京拘置所の医務部精神科医として勤務し、その後東京医科歯科大学犯罪心理学科や上智大学心理学科教授などを務めた小木貞孝(加賀乙彦)。彼もまた、被告は「原始反応性の昏迷状態にあり、はっきりとした拘禁反応の状態を示していて、言語による意志の疎通は不可能であり、訴訟能力はない」とした。
麻原の精神状態についての見立ては、当然ながら6人それぞれで微妙に違う。しかし訴訟能力については、全員が明確に「失われている」と結論づけた。
読んで絶望した鑑定書
この意見書を提出したうえで二審弁護団は裁判所に正式な鑑定を要望し、ようやく裁判所は東京都内のクリニックに勤務する西山詮医師に鑑定を依頼した。
その西山による鑑定書はA4判用紙で全88ページ。吉岡が言うように、家族歴と本人歴、現病歴がまずは記述される。つまり資料編。そしてその後に、現在症、説明と考察、鑑定主文が続く。僕がこの鑑定書を入手したとき、麻原の判決はまだ確定していない。つまりこの鑑定書が事態を大きく左右する可能性は高い。そう思いながら読んだ。そして読み終えて絶望した。あきれた。茫然とした。
その理由をいくつか挙げる。まずは資料編。平成9年4月24日の第34回公判において、麻原は以下のように発言した。
「地下鉄サリン事件は、弟子たちが起こしたものであるとしても、あくまでも、一袋200グラムのなかの10グラムぐらいのものが、10キロに散布されたものであり、本質的には傷害であるということがポイントであると言えます。(中略)で、これは、ディプロマット、検察庁では、これは無罪として認定しています。そして裁判長も無罪として認定しています」
この発言を引用したあとに西山医師は、
「検察庁も裁判長も無罪を認めているなどという空想作話ないし空想虚言を持ち出して、自説の権威付けをしている。陳述自体がいい加減で、説明全般に真面目さ、真摯さ、深刻さがおよそ欠けている。出鱈目(でたらめ)を臆面もなく述べているが、病的思考は認められない」
と記している。「出鱈目を臆面もなく述べている」と「病的思考は認められない」との連関がまずは不明だ。反転の接続詞「が」の使われる理由が、どこにも記述されていない。話が破綻することは病的思考の症状のひとつだ。これを一刀両断にするならば鑑定の意味はない。
このときの麻原は、「日本のマスコミはこれ(自分や弟子たちは微罪であるということ――筆者註)を既に放送していたのです。しかし、もう日本がないというのは非常に残念です。これは、したがって17事件についての麻原彰晃の論証であり、話です。これをエンタープライズのような原子力空母の上で行うということは、非常にうれしいというか、悲しいというか、特別な気持ちで今あります」とも発言している。ハナゾノヨウイチ特別陪席なる実在しない人物が、発言に登場するのもこのときだ。
これらのすべてを引用しながら西山医師は、
「以上は作話、空想作話、空想虚言を取り混ぜた長い話であるが、これらの他に格別思考障害は認められない。被告人の話が時々脈絡を欠いていると見えるのは、空想作話や空想虚言が自在に挿入されているからである」
と解説している。また別のページでも、この日の証言を取り上げて、
「たわいない理屈をつけて犯罪行為を矮小化する(例:地下鉄サリン事件の殺人等を傷害に)、弟子に責任があるとして自己の共同謀議を否定する、無罪及び釈放を検察庁や裁判所が認めているというような空想作話ないし空想虚言を事々しく持ち出して、自己の無罪を主張し、補強しようとする。説明は全体に真面目さ、真摯さ、深刻さを欠いており、論理的に破綻しているばかりか、倫理的にも破綻している。最後には、第三次世界大戦が起きて、日本はなく、従って裁判もなく、自由であり、普通に生活できると言うのである。主任弁護人から今日は何日かと聞かれて、1997年1月5日か6日であると答えているが(実際は4月24日――筆者註)、これも時間的見当識障害ではなく作話である」
と断じている。まずは「倫理的な破綻」など、精神鑑定においては何の意味もないし、そもそも倫理的な考察など求められてもいない。思わず書き添えたのであろうこのセンテンスに、麻原彰晃など倫理的に許せないとする西山医師の主観が滲み出ている。
西山鑑定の欠陥
もちろん鑑定もひとつの視点である。つまり主観からは逃れられない。でも普通なら、ここまで筆は走らない。このとても倫理的な主観が、西山鑑定の全体を支配している。空想作話、空想虚言なる用語の正確な意味を僕は知らない。前述した他の6人の精神科医たちの意見書(これらはすべて現在の麻原には訴訟能力は失われていると診断した)も一読したが、西山医師以外の他の精神科医はこの用語を使っていない。文脈からは、自らの免罪を主張するために、ありもしない話をでっちあげているということを意味しているのだろう。「自説の権威付け」と西山は何度も強調するが、「裁判長や検察庁が無罪の認定をすでにしている」とかハナゾノヨウイチ特別陪席なる実在しない男の証言を持ち出すことで、自らが免罪であることを権威付けしていると麻原彰晃が本気で思っていると仮定するならば、それはすでに普通の意識状態ではないと考えることが、当たり前ではないだろうか。
「車椅子に乗ったまま、『ばか』と言葉を発したことや本月16日に弁護人面会後、職員がスリッパを脱がせようとしゃがんだところ、声を出して笑ったこと(職員の動作を見て笑ったものと思料される。)があげられる」
この事例を西山は、「日常生活において異常な言動の発現は認められない」とする結論の証左としてあげている。しかし、「職員がスリッパを脱がせようとしゃがんだところ、声を出して笑ったこと」がなぜ、「職員の動作を見て笑ったものと思料される」と短絡できるのだろう? その根拠は明示されていない。そんな推測ならば、別に精神科医の力を借りなくても誰にでもできる。さらに言えば、そもそも普通の精神状態にある男が、誰かが目の前でしゃがんだくらいで声を出して笑うだろうか? もしもそんな男が身のまわりにいたならば、それこそ精神科医を訪ねたほうがいいと忠告するほうが普通だろう。また、例えば失禁について西山は、
「なお、『失禁』という言葉には既に病的評価が付着している。起こったことを虚心に見れば、それは大小便の垂れ流しである。この行為は必ずしも脳疾患の症状ではなく、又、必ずしも重い心因反応の症状でなければならないものでもない。それはいざとなれば健康な人の誰もができることである」
などと述べている。「虚心に見れば大小便の垂れ流しである」とはどういうことだろう。虚心の意味がわかっているのだろうかと言いたくなる。文章の揚げ足をとる気はないけれど、「いざとなれば健康な人の誰もができること」との記述は(だから正常であるとの文脈ならば)さすがに看過できない。「いざとなればできること」ではあっても、その「いざとなれば」のハードルが際立って低いときに、人は正常な意識状態ではないと見なされるのだ。この論理を使えば、精神の病や障害など存在しなくなる。
百歩譲って西山医師の論に唯一、整合性を見出すのならば、麻原が精神障害を装っている、すなわち詐病であるとの認定がなされた場合だろう。ならば西山は、何をもって麻原が精神障害を装っていると証明するのだろうか。多くの報道でも紹介された「鉛筆をプロペラのように指で回した」とのエピソードは、原文では以下のように記述されている。
「被告人が車椅子に戻って座り、右手を軽く丸める形にして右膝の上に置いていたので、その拇指(ぼし)と人差し指の間に鑑定人が鉛筆を黙って置いたところ、3本の指が微妙に動いて鉛筆を把持(はじ)し、更には鉛筆の中ほどを3本の指で持って、くるくるとプロペラ様に振ってみせた。(中略)鉛筆を取り戻そうとすると、被告人は右手で強く握って離さない。鑑定人が引っ張ると、被告人はいよいよ硬く握り締める。鑑定人が更に力一杯鉛筆を上方に引くと、被告人は握った右手の上に左手を当て、両手で掴んで離さない。(中略)以上の検査から判明したことは、意志発動が可能で、鉛筆を握って離さないことも、これを離すこともできるということである。逆に言えば、握る能力はあるのに握らないことがあるということである」
このときの体験を、西山は以下のように分析する。
「言いたくないから言わないというのは無言であり、権利の自由な行使であって、疾病(しつぺい)でも障害でもない。言いたいのに、疾病のために言うことができないので言わないというのが無言症で、言うことを妨げているのが疾病の症状である。結果現象は同じ『言わない』であるから、これだけからは見分けがつかない。ここで我々の現在症の握力検査を想起してみよう。被告人の左右の掌に鑑定人の左右の手指を2本ずつ置き、『力一杯握ってごらん。』と命じても、被告人の手は握らない。これは握りたくないから握らないのか、握れないから握らないのか、このテストだけでは分からない。後で分かったように、被告人は握ることができたのである。つまり、被告人は握力検査の時は、握れるのに握らないでいたのである。意志発動が行われないために外界の刺激に反応しない状態を昏迷と呼ぶのであるが、そのような昏迷は被告人には存在しなかった。つまり、意志と行為との間の転轍(てんてつ)障害は存在しないのである」
この後、平成16年10月20日、拘置所内での運動の時間に麻原が「大リーグボール3号だ」と口走り、さらに還室を促すために刑務官が彼の手をとったとき「ちょっと離して」と言ったとの記録を引用しながら西山は、
「すなわち平生はものを言わないけれど、ものを言う能力はあり、実際にものを言うことがあるのである。(中略)このような状態は昏迷ではない」と断じている。
麻原の鑑定書の欠陥については、拙著『A3』でもっと詳細を書いた。今回のテーマは植松聖の事件であり法廷だ。だからこれ以上は書かない。でも読者には知ってほしい。結果として裁判所は、西山鑑定を根拠に麻原は訴訟能力を保持している(つまり現在の状態は詐病である)と結論づけ、控訴趣意書がないことを理由に一審だけで判決が確定した。つまり戦後最大級と称される事件の首謀者の裁判は、事件を解明するうえで最も重要な動機について、本人が何も語らないまま(あるいは語ろうにも語れないまま)断ち切られるように終了した。
……未練がましいがもう少しだけ。面会した6人の精神科医はほぼ異口同音に、治療すれば相当に回復する、と意見書に記述した。僕は麻原の死刑回避とか裁判の中断を求めたわけではない。実際に拘禁障害は、環境を変えることで劇的に回復することがある。その可能性を試すべきだとは主張した。中断は数ヵ月で充分のはずだ。そのうえで裁判を続ければいい。でも裁判が一審だけで終了して麻原の死刑が確定したとき、この国の多くの人とメディアは、むしろ遅いくらいだとこれを歓迎した。その結果として事件が理解できない。形や経緯はわかっても本質がわからない。そして多くの人は本質がわかっていないことをわかっていない。
だからこそ相模原事件について、僕は強い既視感を持つ。このまま終わらせていいのか。忘れていいのか。吉岡が言う。
「植松の裁判の判決も、弁護側の精神鑑定書の記述を引用しながら、確かに言動のおかしさは認めるけれど、だからといって異常な判断だったとは認められない、という論旨になっているよね。そのつながりがまったくわからない。で結局、最終的には責任能力はあるという結論になっちゃってる」
僕はうなずいた。一例を挙げる。犯行時に植松は施設の職員に対して、自分は宇宙から来たと言っている。それを認めながら判決は、どのように植松は正常であるとの論旨を組み立てたのか。
森 達也(映画監督・作家)
◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
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* 「生きがい(マリファナ)を得て死を考えれば…」植松聖からの手紙 ■吉岡忍が考えていること 2020/7/8 森達也
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* 獄中の麻原彰晃に接見して 会ってすぐ詐病ではないと判りました 拘禁反応によって昏迷状態に陥っている