愛する者の苦しみを取り除くために、その命を絶つ行為は罪か--妻は「これでやっと楽になれる」と遺書

2009-10-20 | Life 死と隣合わせ

【産経抄】10月20日
2009.10.20 02:52
 ピンピン元気で暮らして、ある日コロリと死ぬ、ピンコロ願望が強い人が多いけれど、寝たきりや長患いと比べて、どちらも一長一短がある。敬老の日のコラムで、元東北大学医学部長のこんな言葉を紹介したら、「納得いきません」とのお手紙を読者からいただいた。
 ▼Aさんとしておこう。数年前にご主人に先立たれたAさんは、自身と知人の介護体験から、「私は寝たきり、長患いは拒否したい」と書いていた。介護の末に起こる殺人事件のニュースに接するたびに、「つらくて、とても人ごととは思えない」ともいう。
 ▼神奈川県相模原市で今月12日、妻(65)に「死にたい」と言われた夫(66)が、包丁で妻の首を刺し殺害する事件があった。妻は5年前、自宅で介護していた難病の長男を殺害していた。
 ▼裁判では、長男が死を望んでいたことが認められ、執行猶予付き判決を受けて、自宅に戻っていた。すっかりふさぎ込んでいたそうだ。きのうの社会面によると、妻は「これでやっと楽になれる」と書き残していた。Aさんは悲痛な思いで、この記事を読んだはずだ。
 ▼長く病の床にある弟が、カミソリでのどを切って自殺を図ったが死にきれない。兄の喜助は、弟に懇願されてカミソリを引き抜き殺してしまう。森鴎外は、江戸時代の京都で実際にあった事件を素材にして、『高瀬舟』を書いた。愛する者の苦しみを取り除くために、その命を絶つ行為は果たして罪か。
 ▼鴎外は、高瀬舟で喜助の話を聞いた同心に「お奉行さまの判断を、そのまま自分の判断にしよう」と語らせただけだ。重い問いに対する答えを留保した。相模原市の事件が裁判員裁判の対象となったら、裁判員一人一人が、その答えを出さなければならない。
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妻を刺殺した夫(66歳)菅野幸信容疑者 妻は難病長男の人工呼吸器を止め(嘱託殺人)執行猶予中だった  
 介護の末…再び悲劇 5年前に妻が長男を、その妻を夫が殺害
 讀賣新聞 2009年10月19日(月)08:05
 悲しすぎる。家族にしか分からない苦労と苦悩の果てに、「死」を懇願された母は息子を、夫は妻を…。神奈川県相模原市で今月12日、妻に「死にたい」といわれた夫が、包丁で妻の首を刺し殺害する事件があった。妻は5年前、介護していた息子を殺害して起訴されたが、執行猶予付きの有罪判決を受けていた。介護される側とする側。それを見守った家族。高齢化や核家族化が進む中、介護は誰にとっても身近な問題となっている。その末路が「殺人」ではやり切れない。
 神奈川県警相模原署に殺人容疑で逮捕されたのは同市の無職、菅野幸信容疑者(66)。12日午後2時半ごろ、自宅寝室で妻、初子さん(65)の首を包丁で刺し殺害した疑いがもたれている。
 初子さんは、全身の運動神経が侵され体が動かなくなる難病「筋委縮性側索硬化症」(ALS)を患っていた長男=死亡時(40)=を、平成13年から約3年間、自宅で介護した。人工呼吸器をとりつけられた長男の食事も排せつも、ほとんど面倒を見ていたという。床ずれの心配もあり、夜も2時間おきに起きなければならなかった。「体格の大きい息子さんを抱えて看病しながら、病気に負けないように励ます毎日。本当に大変そうだった」。近所の人はそう振り返る。
 長男の身体は動かなくなっていった。ひらがなの文字盤を目で追わせ、視線の動きで意思を読み取る方法でしか、長男との“会話”は成立しなかった。「死にたい」。長男は初子さんに視線でこう訴えるようになったという。
 横浜地裁の判決によると、初子さんが無理心中を決意したのは、16年8月26日深夜。初子さんが人工呼吸器を外すことを伝えると、長男は目で「おふくろ、ごめん。ありがとう」と応じたという。
 結局、初子さんは死に切れず、殺人罪で起訴された。裁判では「嘱託殺人」と認められ、執行猶予判決を受けて自宅に戻ってきたが、「すっかりふさぎ込んでいた」と近所の男性は話した。
 初子さんは、長男に語りかけるように家の仏壇を拝むようになり、夫婦で墓参する姿もたびたび見かけられた。精神的に不安定にもなっていたようで、病院にも通っていたという。
 初子さんは足が悪かったが、勤めていた会社を退職した幸信容疑者が病院や買い物に車で送り迎えをしている姿を、近所の人たちはたびたび目にしていた。
 「妻が『死にたい』と言うのをずっとなだめていた」「妻が包丁を持ち出した」。相模原署によると、幸信容疑者はこう供述しているという。
 「長男を手にかけるというつらい事件があった自宅に5年近く住み続けた2人には、想像を絶する思いがあったはずだ」。署幹部は複雑な表情で話す。
 幸信容疑者と初子さん、長男が暮らした自宅の郵便受けには、いまも3人の名前が書かれたままになっている。初子さんが殺害された後、ベッド脇のテーブルの上には、書き置きが見つかった。そこには、こう書かれてあった。
 《これでやっと楽になれる 葬式の心配はしないでください 長男の七回忌をお願いします…》(読売新聞 中村昌史)
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日経新聞 春秋(10/15)
 65歳の妻を包丁で刺殺して自首した66歳の夫が逮捕された。妻は5年前、難病に苦しんでいた40歳の長男の人工呼吸器を止めて嘱託殺人罪に問われ、執行猶予中だった。神奈川県相模原市で先日起きた事件に、言葉を失うばかりである。
▼長男の病はALS(筋萎縮性側索硬化症)。全身の筋肉が徐々に動かなくなり、症状が進んだ場合、自分で呼吸ができなくなる。4年近く看病を尽くした母はある夜、「死にたい」と訴え続ける子に「一緒に逝こう」と伝えた。体がもう全く動かない子は文字盤を目で追い、「ごめん、ありがとう」と答えたという。
▼呼吸器の電源を切ったあとで自殺を図った女性の命を救ったのは夫だ。その夫が今度は妻を刺した。すぐ自首し、「妻はうつ病で日ごろから死にたいと言っていた」と供述した。「母さんが息子にしてあげたぶん、彼女の力になりたい」。5年前の週刊朝日の報道に夫の言葉が残る。なぜ、の思いが頭を離れない。
▼5年前は、事件も裁判もずいぶん騒がれた。難病患者や家族を支える仕組みや終末医療のあり方も問題になった。でも、また悲劇が起きた。二つの殺人は罰せられねばならないが、どんな境遇にあっても「生きたい」と思える社会が当たり前である。それはないものねだりだ、という空気がありはしないか、怖い。
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〈来栖の独白〉
 上の記事を「事件」「犯罪」と呼ぶのは、相応しくない。親子三人の悲しみ、苦しみが胸を詰まらせる。この世で生きること、生き難さは並大抵ではない。お三方の悲苦のまえに言葉を喪うばかりだけれど、それでも書かないではいられない。

五木寛之著『人間の覚悟』
 親鸞の唱えた悪人正機説は、生きている人間はみな必ず悪を抱えているという意味であって、善人と悪人を隔て分けて、悪人こそすくわれると言っているのではありません。
 ただ、悪の背景には必ず「悲苦」があって、だからこそ阿弥陀如来という仏は、まず最もそれを多く味わっている人間からすくうのだと考える。それは貧乏人であると金持ちであるとにかかわらず、最も苦しみ嘆いている、痛みを感じている人間からすくう思想ですから、親鸞の悪人正機説はかなり誤解されていると思います。(中略)
 親鸞の言葉を、弟子の唯円がまとめた『歎異抄』の中の、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という考え方は、最初は親鸞の独創といわれ、次いで法然から伝えられたものだとされました。
 しかし、平安末期に編まれた『梁塵秘抄』の中にも、「念仏一つですくわれる」という内容の歌があることから、既存の仏教思想や大衆社会の底流としてはぐくまれてきたとも考えられます。
 それでもやはり悪人と善人を超えたところで、心に悩みを抱いて深く悲しみ、自らを恥じて懺悔の気持ちを抱いている人こそが、「南無阿弥陀仏」と唱えることですくわれると親鸞は言っているのです。

 フランシスコ会・本田哲郎神父の「小さくされた者の側に神はおられる」という思想に私は20年ほどまえに出会った。ちょうど死刑被告人勝田清孝と出会ったのと時期を同じくしており、救われた。本田師の著書『小さくされた者の側に立つ神』は、歎異抄「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と一致していると私は受け止めた。「善人でさえ救われるのだ。悪人が救いから漏れることなど、ない」、深く共感し支えられながら、しかし私は落ち着かなかった。「善人」「悪人」「側」といった区別に、心が落ち着かなかった。いわゆる「善人」で生きている人も、言うに云えない苦しみを抱えていたり、だいじな人を喪って塗炭の悲しみの中にいたりした。それをなぜ、「救い」に関して「善人」「悪人」と分ける(側)のか、私には傷ましさがつきまとった。人は、「善人」「悪人」「側」と明確に分別できるほど簡単な生きものではないだろう、そう思った。
 長い私の疑問に答えてくれたのが、五木寛之氏であった。新聞小説『親鸞』を通して、そして上記『人間の覚悟』によって。しかし小説の中で慈円の弟子良禅が「善人と悪人の区別さえつけないという考えのように思えます」と言ったときには、私にはまだ五木さんの、ひいては親鸞の云わんとしている意味がわからなかったのである。
 いま、やっとわかる。「心に悩みを抱いて深く悲しみ、自らを恥じて懺悔の気持ちを抱いている人こそが、『南無阿弥陀仏』と唱えることですくわれる」と。人の間でさえ、「グリーフ・ケア」という言葉がある。
 この世は、なまなか(生半)なところではない。悲苦に満ちている。

五木寛之著『親鸞』
「善信は師の法然の示した道を、さらに一歩ふみだすことで、もっとも忠実な弟子となろうとしているのではないでしょうか」
「さらに一歩とは?」
「悪人、善人の区別さえつけないという考えのように思えます」
「なるほど」
「善人、悪人の区別をつけないということは、この世に生きるすべてのものは、だれもみな心に深い闇をいだいて生きている、ということでしょう。それを悪とよんでもよい。(略)われらはすべて悪人である、と、彼は人びとに説いております。その考えをそのまま受けとれば、高貴なかたがたも、立派な僧たちも、貴族も、みな悪人ということになりましょう」(略)
「彼は辻説法はいたしませぬ。寺や、市場で人をあつめることもしない。ただ、ひたすら歩きまわって、さまざまな顔見知りの男女と話をかわすだけです。最初は餌取(えとり)小路のあやしげな店の女主人と親しくなって、そこから話をききたいという者たちが家にまねいたり、庭先でしゃべったりして、たちまち何十人、何百人と話をきく者たちが増えてきたようです。そのほとんどが、世間でさげすまれている者たちで、いわば都の闇にうごめく影のような男や女たちだという。牛飼いもいる、車借(しゃしゃく)、馬借(ばしゃく)もいる、辻芸人たちや、傀儡(くぐつ)も、行商人、遊び女、神人(じにん)、博亦(ばくえき)の徒、そして盗人や、流れ者たちや、主のない武者(むさ)たちなど、さまざまな者たちが善信を仲間あつかいしているとききました。善信自身も、汚れた黒衣(こくえ)に、のばし放題の頭という、まさに野の聖(ひじり)そのものの格好で、ただぼそぼそと相手の問いに答えているだけだそうです。ときには殴られたり、追い払われたりもするようですが、それでもすでに何千人もの人びとが善信のことを頼りにしているそうです」

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死を望む妻、引き留め続けた夫「裁判所は深い同情を感じています。命の大切さを確かめ、生き抜いてほしい」
妻(難病長男の殺人罪で執行猶予中)を嘱託殺人 夫・菅野幸信被告に執行猶予判決 2010/3/5 横浜地裁
妻(ALSだった長男の殺人罪で執行猶予中)を嘱託殺人 夫を起訴 殺人罪適用見送る 2009/11/02


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