2002年「北九州連続監禁殺人事件」 人殺しの息子と呼ばれた「彼」は、自分から発信することを選んだ 2018/10/17

2018-10-22 | 死刑/重刑/生命犯

人殺しの息子と呼ばれた「彼」は、自分から発信することを選んだ
2018/10/17(水) 17:48配信 NewsweekJapan
<あまりに凄惨で報道規制が敷かれた「北九州連続監禁殺人事件」の犯人の息子が、テレビ局に電話をかけてきた。そしてプロデューサーは「彼」にインタビューを行うことになる......>
 『人殺しの息子と呼ばれて』(張江泰之著、KADOKAWA)は、「北九州連続監禁殺人事件」の犯人の息子との対話、そこに至るまでの経緯、“その後“のことなどをフジテレビ『ザ・ノンフィクション』のチーフプロデューサーである著者が明らかにしたノンフィクション。
 2017年10月15日に前編が、22日に後編が放送されて大きな反響を呼んだ『ザ・ノンフィクション 人殺しの息子と呼ばれて...』の内容を、後見人への取材などを追加して書籍化したものである。
 主犯格の松永太と緒方純子が、純子の父母、妹、義弟、姪、甥、知人を殺害したこの事件については、いまさら説明する必要はないかもしれない。監禁して金を巻き上げ、食事・排泄制限、拷問、通電による虐待によってマインドコントロール下に置き、被害者同士で殺害および死体処理を行わせたというもの。あまりに凄惨な事件であったため、当時から報道規制が敷かれていたことでも知られている。
 では、なぜ著者は、松永と緒方の長男である「彼」と出会うことになったのだろうか? きっかけは、著者が企画の立案から制作までの全責任を負うチーフプロデューサーとして制作した『追跡!平成オンナの大事件』という番組でこの事件を扱ったことだった。彼が、それを見て抗議の電話をかけてきたのだ。
  彼は切り出した。
 「あなたに言いたいことがたくさんあります」
 「なんでしょう?」
 「なぜフジテレビは、あんな放送をしたんですか。納得がいきません。事件からずいぶん時間が経って、ようやく風化しつつあるというのに......。おかげで俺のことがネット上で叩かれていて困っています」
 「というと......」
 「ふざけないでください。ネット上では、俺のことを人殺しの息子なのだから、ろくでもない奴にちがいないだとか、消えてなくなれ、とか書かれています。どうしてくれるのですか?」(中略)
  攻撃的な言葉を口にすることはあったが、理路整然と彼は話し続けた。その冷静さからも、電話の向こうの彼に、私はどこかでその父親、松永太の姿を重ねていた。(「序章 生きている価値」より)
 かくして著者は、「殺人者の息子」として25年を生きてきた彼と対面し、インタビューを行うことになる。
 人間関係が複雑なのだが、松永は緒方と男女の関係になっていく過程において、別の女性と結婚して子供をつくっていたのだという。高校の同級生だった松永と緒方が再会したのは1980(昭和55)年で、松永が別の女性と結婚したのは1982年。その翌年、その女性との間に長男が生まれている。
 ちなみにその女性とは、1992年に離婚が成立している。順子が自分の長男である「彼」を産んだのは1993年1月だというので、前妻の長男と彼との間に接点はない。
■実の子も例外ではない
 「パラパラマンガってわかりますか? 当時、俺には何も楽しみがなかったんで、それにものすごく感動してたんですね。ずうっとそれで遊んでいて、あるとき親父がそれを隠したんです。子供心にちょっと反発して“出してくれ“って言ったんですけど、そのときに“お前は本当の息子じゃない“みたいなことを言われたんですよね。そこらへんは漠然とした記憶しかないんですけど」
  子供にとってはつらい言葉だ。松永は前妻の長男のことをずいぶんかわいがったのに、彼には冷たく当たったようだ。少なくとも彼はそう感じていた。
 「俺はなんか邪魔みたいな存在やったと思うんですよ。保護される直前によく言われていたのが“お前さえいなければ純子と別れられる“ということで。何十回、何百回、言われたかなっていうくらいずっと聞かされていて。(そうすると)だんだん、自分がおることが悪いんやなって思えてくるんですよね」(59~60ページより)
 彼は間違いなく松永と緒方の息子なのだが、つまりはこれも松永のやり口なのだ。相手をとことんまで追い込み、絶望の淵に立たせ、さまざまな手段を駆使して監視下に置くのである。
 松永はアジトというべき2カ所のマンションに監禁している人たちを振り分け、完全な“支配者“になった。誰かを監禁すると、通電で恐怖を与え、食事などを制限した。それは“実の子“である彼も例外ではなかった。初めて通電されたのは、テレビのリモコンでチャンネルを変え、ひどく怒られたときだった。
 「導線を巻きつけたクリップを体のどこかに取り付け、電気を流すんですけど、俺は顔と手と足にされたことがあるんです。とにかく早く終わってほしかった。ものすっごい痛いんですよ。(中略)だいたい平均六回でした。一回の出来事に対して六回です。あいつの機嫌を損ねたら六回、その場でやられる。すぐ“アレ、持ってこい“って。誰も反抗しないんですよね。こいつがそう言うなら、そうせないけんっていうような。それが当たり前、それが正当化されたような本当に変な空間やったんです。当時、俺もそこにいたはずなのに、それがおかしいとか思うこともなく、当たり前やとなっていて。この人を怒らしたけ、そういうことされるんやっていう......。いま考えたらソッとしますけどね」(62ページより)
 やがて、虐待の末に命を落としてしまう人が出ると、松永の命令に従ってその遺体を解体して鍋で煮込み、ミキサーにかけて液状化してペットボトルに詰め、海などに捨てる作業を強制される。まだ子供だった彼もまた、それを手伝わされる。
  「記憶に残ってるのがペットボトルと船なんですよね。(中略)ものすっごい臭いがするんですよ、そのペットボトルに詰めていたのが。俺も一緒に手伝ってたんですよね、それを詰めるのを。で、船に乗って、何かをしてから家に戻ってたんですよね。(保護されてから)自分でいろいろと調べていくじゃないですか。それで全部、つながったんです。ああ、これやと思って」(78ページより)
 ものごころがついておらず、責任能力がなかったのだから、仮に死体遺棄に加担していたとしても子供に責任を負わせる必要はないだろう。しかし彼は「そういうのは関係ない」と思うのだそうだ。実際、したことに変わりはないのだから、と。
■獣医師になりたかった理由
 そのため、常にあるのは「申し訳ないな」という思い。そして、両親の逮捕に伴って9歳で保護されてから15年間、ずっと逃げて隠してごまかして生きてきたという。しかし、逃げ続けていたのでは両親と変わらない。だから外に出ることで、「俺はいまこうしているんですよ」ということを少しでも多くの人に知ってもらえる。彼が著者に電話をかけてきたのも、そんな理由があるからだ。
 戸籍がないまま育ってきた彼は、普通の子のように学校に通えるようになってからも苦難の連続だった。ずっと虐待されてきたからか、女の子から好きだと言われても、「好き」の意味が理解できなかった。「お前の父親は犯罪者だ」と言われることもあり、当然のことながら荒れた時期もあった。人間不信に陥ったからだ。小学生の頃は獣医師になりたい気持ちがあったというが、それも「動物は素直で、言葉の裏を読んだりする必要がない」という理由からのものだった。
 「動物は、お腹が減ったらご飯を欲しいとねだり、あまえたかったらあまえてくる。体調が悪かったら体調悪そうにするじゃないですか。純粋な生き物やなあって思いますね。絶対的に自分より弱い立場の生き物なんで、恐怖心や不安感を抱くこともなく、何かをしてあげたいという気持ちになるんですよ。で、人間と関わると、また失望するんです。嘘ついて、ごまかして、こんなに醜い生き物がおるんかな。人間って嫌やなって。でも、自分もその人間なんですよね」(151~152ページより)
 中学卒業後、里親の家から高校に通っていた彼は、里親とうまくいかなくなったことがきっかけで高校を中退。社会からの「自分のような存在が面倒くさいだけなんやろうな」という思いを肌で感じながら、職を転々とする。そんななか、小学校の頃の幼馴染だった女性と再会して同居。彼女も、社会保険などにも入っていないような複雑な家庭に育った人だった。
 やがて籍を入れたのも、「籍を入れることで彼女に社会的な保証がつくようにしよう」と考えたからなのだそうだ。そして現在は、高校時代の友人から紹介された会社で正社員として働いている。もう5年以上勤めているという。
 「こんな俺でも必要としてくれる人たちがいる会社......。会社が俺を必要としてくれてるというんじゃなくて、その会社で働いている人たちが、みんな何かあったら相談してきてくれたりするんです。俺も、何かあったら相談しますし、人間に恵まれてるっていうのがすごくあります。それがたぶん長続きしているいちばんの理由だと思いますね」(162ページより)
 しかしそれでも、世間はたびたび両親の事件のことを取り上げた。そういうものが目につくたび、もうやめてほしいという気持ちになっていたというが、いつしか「やめてくれ」というだけではなく、自分から発信していくことを彼は選んだのだ。
■地に足を着いて暮らしている
 「それ(自分の発言など)に対しては何を言われてもいいんです。たぶん、良くない意見というか、心に刺さるような意見も出てくると思うんですけど。俺に興味をもってくれてるから、そういう意見も出てくると思うんですよね。何もなかったら何も出ないじゃないですか。だから、人の意見で落ち込んだりすることもないように、これからは逃げずに、いまの自分を知ってもらおうかと。ここまでできるようになったよっていうのを見せたいなって思ったんです。今回の件に関して、ネットに何か書かれたり、世間の人からなんて言われても、なんとも思わないです。これまでは俺の知らないところで勝手にそういうことをされていて、それに付随して野次が飛んでくるような感じだったので、耐えられなかったんです。今回は自分から発言をしているんで。中途半端な気持ちでこういうふうに話もしてないですから」(164ページより)
 彼はこうして、現在も地に足を着いて暮らしている。無期懲役の判決が下った母親、そして死刑判決が下された父親にも何度か面会に行っている。かといって関係が修復できたわけではないし、父親に至っては反省の色を見せず、(死刑執行までの時間稼ぎをするために)「署名を集めてくれ」と言われたりもした。
 放送終了後に会いに行ったときには言い合いにもなったが、「俺はあなたのあやつり人形じゃない」とはっきり伝えた。その結果、謝ることのなかった父から手紙が届き、そこには“一応の父より“と書かれていた。
 だからといって彼は父親を許せたわけではないだろうし、これからも本当の意味で許すことはできないのかもしれない。母親に対しても同じだ。しかし、それはともかくとしても、今後も彼はきちんと自分の人生を生きていくことだろう。「もう一度読みたい」という思いに駆られて彼の発言を何度も読み直した結果、そのことを強く実感した。
. 印南敦史(作家、書評家)
 最終更新:10/17(水) 18:42 ニューズウィーク日本版

 ◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
――――――――――――――――――――――――
◇ 2002年北九州連続監禁殺人事件『人殺しの息子と呼ばれて』松永太死刑囚と緒方純子受刑者の息子 フジテレビ『ザ・ノンフィクション』2017/10/15・22

 

...........


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。