2002年北九州連続監禁殺人事件『人殺しの息子と呼ばれて』松永太死刑囚と緒方純子受刑者の息子 フジテレビ『ザ・ノンフィクション』2017/10/15・22

2017-10-22 | 死刑/重刑/生命犯

『人殺しの息子と呼ばれて…』勇気ある告白に大きな反響 - 取材者が明かす衝撃インタビューの裏側
マイナビニュース
  2017年10月22日 07時00分  (2017年10月22日 08時10分 更新)
●頭の回転はものすごく良いと感じた
 フジテレビのドキュメンタリー枠『ザ・ノンフィクション』(毎週日曜14:00~ ※関東ローカル)で、15日に衝撃の番組『人殺しの息子と呼ばれて…』が放送された。2002年に発覚した北九州連続監禁殺人事件の犯人の息子(24歳)が、初めてメディアのインタビューを受けたもので、その想像を絶する証言の数々に大きな反響が集まった。
 取材をしたのは、フジテレビの張江泰之チーフプロデューサー。きょう22日に放送される「後編」を前に、今回のインタビューが実現した経緯や、実際に対面した息子の印象、さらには「前編」放送後の本人の反応なども聞いた――。
 メディアが報道を差し控えたほどの残虐な方法で、犯人の親族ら7人が殺害され、日本の犯罪史上、類を見ないと言われた北九州連続監禁殺人事件。逮捕されたのは、松永太死刑囚と、内縁の妻・緒方純子受刑者(無期懲役)で、2人の間に生まれたその息子が、今回『ザ・ノンフィクション』の取材に応じた。
 両親が逮捕され、保護された当時は9歳。「前編」では、幼いながらの記憶で目撃した事件の真相や、自らが受けた両親からの虐待までを明かし、"人殺しの息子"が背負った悲しい過去の勇気ある告白に、前編の放送後には衝撃と同情、共感の声があがった。
○"謝罪"受けて態度が変化
 インタビューが実現したきっかけは、同局で今年6月に放送された特番『追跡!平成オンナの大事件』。北九州連続監禁殺人事件を追跡取材したものだが、この放送に対して、息子がフジテレビに抗議の電話を入れてきた。
 通常の視聴者センターでの対応では収まらず、担当プロデューサーの張江氏が、直接対話することになったのが、彼との出会いだ。
 張江氏は「彼は、平日昼の11時くらいから、延々と思いの丈を私にぶつけてきました。
 『なぜあの事件をいつまでも取り上げるのか。ネット上で自分まで非難されて迷惑をしている。本気で番組を作るのであれば、どうして自分のところに取材班が来てくれなかったのか?』と言ってきたんです。たしかに、あの番組は両親を知る人たちを中心に追跡取材することに多くの時間をかけましたが、当時9歳だった子供を取材するのは、事件を蒸し返すことになり、あえてやめようと判断したのです。でも、私は、息子の言い分も分かりましたので、『ごめんなさい。本当に申し訳なかった』と謝ったんですよ。そしたら、息子はまさか謝罪されるとは思わなく、とても驚いたようでした。そして、そこから態度が変わったんです」と振り返る。
 その後も電話で何十時間にわたって会話を重ねるが、息子はいつも二言目に「大人は信用できない。どうせあなただって、この電話が終わって縁が切れたら関係ない人になるし、深い付き合いなんかもできるわけないじゃないですか」と言っていたそうで、「相当人間不信で生きてきたんだなっていうのを電話口で強く感じました」という。
 一方で、「時折、理路整然とこちらを追い込んでくるようなしゃべり方もしてくるんです。両親が逮捕される9歳まで、小学校には通わせてもらえなかったのですが、頭の回転はものすごく良いと感じました」という印象も。
 これは皮肉にも、被害者をマインドコントロールしていた父親に似ているところもあると、本人も認識しているようだ。
○肉声を公開するリスクも負って
 そうして、1週間にわたるやり取りを経て、息子は覚悟を決め、「自分の人生をこのまま隠して生きるより、きちんと世間に伝えたい」という思いで、番組のインタビューを承諾。その思いを伝えるために、音声加工はせず、肉声を公開するというリスクまで負った。そんな彼の決意に対し、張江氏は「動きのある映像は撮れないけれど、君の24年間の人生を1時間だけで伝えることはできないから、一か八かだけど2週連続で放送する覚悟でやってみせる」と応えたという。
 『ザ・ノンフィクション』では、常に40ものチームが同時に動くディレクターたちが取材し、チーフプロデューサーはそれを統括する立場だが、こうした経緯もあって、極めて異例ながら、今回は張江氏自らがメインで取材することになった。
 「このインタビューをただ普通に『1人の青年がフジテレビに語ってくれました』というところから始めたとしても、伝わらないような気がしたので、取材プロセスも含めて全部明かした上で、私の1人称で語るスタイルにしました。息子は私に対して誠心誠意答えてくれたと思うので、『自分も君のために逃げも隠れもしないぞ』という気持ちで、姿を出す形になりました」と説明する。
●前編放送後に出た言葉…「やっと報われる」
○取材を通して親子のような関係に
 前編の放送では、息子が目撃した残忍な犯行の表現も語られたが、「日曜日の昼間に流すことは躊躇(ちゅうちょ)しましたね。実際に視聴者の方からのクレームもあったんですが、そこを抜きには語れない」という判断で放送。後編では、母・緒方純子受刑者から届いた手紙を初公開し、父・松永太死刑囚との面会の様子も明かされる。
 ここで不思議なのは、前編では母親に対して、比較的強い口調で「すごく嫌いなんです」と嫌悪感をあらわにしていたが、その母からの何十通もの手紙を、捨てずに保管していたことだ。張江氏はこの疑問に対して、「そこが愛憎ですよね」と解釈。「最初は私に『捨てたからもう無い』って言ってたんですが、2回目に会った時にカバンから出して、『これを煮るなり焼くなり使ってください』って渡してきたんです。でも、封筒の破り方がひどくて、そこに彼の感情がものすごく表れていると思いました」と振り返る。両親にはいずれも面会に行っているが、回数は圧倒的に母親が多いという。
 また、10時間にわたるインタビューを後編まで見ていると、息子のある変化に気づく。張江氏に対して、だんたん"タメ口"で答えるようになっているのだ。それは、心を開いていったことの表れで、最近では何かあるごとによく電話がかかってくるという。
 今年50歳の張江氏とは、ちょうど親子ほどの年齢差。父親の愛情を全く受けずに育ってきた彼にとって、まるで親代わりのような存在となっており、「『これをきっかけに、出版社とかから発信することがあったら、張江さん付き合ってくださいね。すごい不安だから裏切らないでください』とも言われました。後編では、養護施設を出てから世の中のひどい仕打ちにあったことを語っていますが、またそんな経験をするんじゃないかという恐怖心があるんですよね」と思いやる。張江氏は彼のことを、本名の下の名前で呼んでいるそうだ。
 前編の放送が終わり、反響を伝えたときの息子の反応はどうだったのか。「『放送が無事に終りました。Twitterの反響もすごいです』とLINEで送ったら、それに対して『ありがとうございます。どんな意見が寄せられているか教えてください』って返ってきたんです。それで、『見る限りでは共感が多いよ』と送ったら、彼がこんなことを言ってくるのは初めてなんですけど、『よかった。本当にいい映像を作ってくれてありがとうございます。やっと報われる』って書いてきたんですよ。この"報われる"というひと言は重いですね…」と、驚きとともに、胸を締め付けられるメッセージが届いたそうだ。
○同じ境遇の人たちに「少しでも勇気を」
 今回のインタビューを受けた背景には、自身以外にもたくさんいるであろう、犯罪者の子供として"日陰"の人生を送ってきた境遇の持ち主に対して、自らがテレビに出て話すことで「少しでも勇気を与えたい。1人で悩まないでほしい」という思いもあったそう。これまで、メディアが犯罪者の子供に焦点を当てることもなかったことから、強い決意があったようだ。
 犯罪被害者のネットワークは存在するものの、加害者の幼い子供が同様の組織を作ることは不可能に近い。
 また、殺人の被害者遺族には、現行で最高3,000万円の給付金制度がある一方で、犯罪者の子供は1銭も支援されない。理不尽さを感じる制度だが、「後編」の放送日は偶然にも衆議院総選挙の投票日でもあり、張江氏は「この番組を見て、こういう現実もあるということを知った上で、投票の参考にしてもらってもいいかもしれませんね」と話した。
●宮崎勤に金正男も…フジテレビでスクープ連発の背景は?
○『ザ・ノンフィクション』の改革
 そんな張江氏は、NHKで『クローズアップ現代』や『NHKスペシャル』で、文化庁芸術祭やカナダ・バンフテレビ祭など、数々の受賞歴を持つエースディレクターだったが、フジテレビに中途で12年前に入社。「NHKはやっぱり自分が作りたいものを作るんですよ。でも、視聴者にいかに見てもらうかという競争の中で、自分の力を確かめてみたいと思ったんです」と振り返る。
 『ザ・ノンフィクション』を担当したのは3年前からだが、当時は視聴率が低迷。そこで、「時間をかけて『いい番組ですね』と評価されてはいたんですけど、時間をかけすぎることで時代の空気とかけ離れている企画が出ていたと反省し、視聴者が何を求めているのかということを相当意識するようにしました」と改革に乗り出した。
 具体的には「日曜の午後2時の大票田であるF3(女性50歳以上)を取り戻そうということで女性目線のネタに徹底して、昨年は同時間帯で1位になりました」と成果が。
 そこから視聴習慣がつき、現在は「今回のようなある種の"冒険"もして、社会的なテーマを考えていく企画を散りばめています。ただ、今何を求められているのかということは、四六時中考えていますね」と余念がない。
○フジテレビ復活へ報道・情報番組も汗を
 最近、フジテレビでは、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(1988~89年)の宮崎勤元死刑囚の取り調べでの肉声や、今年暗殺された金正男氏の生前最後の映像、そして今回の北九州連続監禁殺人事件犯人の息子へのインタビューと、報道・情報部門でスクープを連発している。
 その背景について、張江氏は「とにかくフジテレビの再生を図るには、ドラマとバラエティの復活はもちろんであるが、一方で報道と情報でどれだけ自分たちが汗をかいたものを見せられるかということで、信頼を回復していくしかないだろうという話をよくしてます」と説明。
 「報道局でスクープがあれば、われわれ情報制作局も『頑張らなきゃ!』ってなるし、情報が頑張れば、報道も『次は俺たちだ!』って刺激になる」と、相乗効果による"フジテレビ復活"へ力を込めた。

 ◎上記事は[excite.]からの転載・引用です *強調(太字)は来栖
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ザ・ノンフィクション
次回 | 10月22日(日) 14:00~14:55
ザ・ノンフィクション 人殺しの息子と呼ばれて・・・後編

  

 主人公はあの北九州連続監禁殺人事件の犯人の息子▽9歳で保護…今24歳 ▽冷徹な社会と闘う裏で… ▽母・緒方純子からの意外な手紙初公開▽両親へ…憎悪と生きて

次回、10月22日(日)放送の
 ザ・ノンフィクションは
人殺しの息子と呼ばれて…後編

 自分の身体に殺人犯の血が流れている…。その恐怖と闘いながら生きる一人の青年。
 北九州市に住む会社員の男性、24歳。
 彼の両親は、日本の犯罪史上、類を見ないと言われた、あの「北九州連続監禁殺人事件」の犯人です。
 両親が殺害したのは、親族ら7人。その殺害方法があまりに残虐すぎて、当時、メディアは報道を差し控えたほどでした。
 逮捕から15年。当時、9歳で保護された息子は現在24歳。今回、私たちは、息子に接触し、メディアとして初めてインタビューが実現しました。
 10時間に及ぶインタビューの中で語られたのは、目撃した事件の真相と、両親から受けた自らへの虐待そして、私たちの想像をはるかに超える悲しき人生でした。
 後編では、身寄りも金もなかった息子が、養護施設を出て自立するまでの地獄の日々を赤裸々に告白。また、番組では、母・緒方純子受刑者から届いた手紙を初公開、そして、手紙に対する息子が抱いた意外な感情。さらには、父・松永太死刑囚と面会し、どうしても自分に言って欲しかったこと…。
 殺人犯である両親への愛憎をメディアで初めて語ります。
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ザ・ノンフィクション 人殺しの息子と呼ばれて・・・後編 2017年10月22日 171022 
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◇ 北九州監禁殺人事件(松永太死刑囚と緒方純子受刑者)『人殺しの息子と呼ばれて』 張江泰之CPが3カ月ぶり再会の『息子』に感じた変化とは  
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北九州連続監禁殺人事件
北九州監禁殺人事件(きたきゅうしゅうかんきんさつじんじけん)とは、2002年(平成14年)3月に北九州市小倉北区で発覚した監禁、殺人事件。

概要[編集]
人の弱みにつけこんで監禁をして金を巻き上げ、拷問と虐待によってマインドコントロール下に置き、お互いの不満をぶつけさせることにより相互不信を起こして逆らえなくし、被害者同士で虐待をさせることで相互不信を一層深くさせ、自分の手は汚さずに用済みとなった人間を殺害して死体処理を行わせた(裁判では6人の殺害と1人の傷害致死)。犯罪史上稀に見る凶悪犯罪とされ[1]、第一審で検察側は「鬼畜の所業」と被告人男女を厳しく非難した。2011年12月、最高裁判所によって主犯Xの死刑と共犯Yの無期懲役が確定した。
非常な残虐性・悪質性にもかかわらず、事件に報道規制がかけられたとされ、事件の知名度は高くない。当初は地元の報道機関を中心に報道をしていたが、途中から報道機関が自主規制して報道量が少なくなり、全国の報道機関での集中報道に結びつかなかったといわれている。報道量が少なくなった理由としては「あまりにも残酷な事件内容のため表現方法が極めて難しいこと」「家族同士が殺しあった事件の性格から被害者遺族がメディアに積極露出をして被害を訴えづらいこと」があるとされている。

人物[編集]
事件関係者の相関図

  
便宜上、加害者と被害者としたが、状況に応じて加害者が被害者になり、被害者が加害者になったりした。

加害者X[編集]
1961年4月28日[2]。北九州市小倉北区出身[2]。実家は[2]。7歳の時に父が実家の家業を引き継ぐため柳川市に転居[2]。小学校の全学年でほとんどの科目でオール5であり、学級委員長や生徒会役員を務め、中学校1年生時には校内の弁論大会で3年生を差し置いて優勝し、中学では部活でキャプテンを務めた。Yと同じ高校に進学し風紀委員長になるも、不純異性交遊が発覚して男子校に転校させられた。
転校先の高校を卒業して父の店を受け継ぎ、家業を布団販売業に転換、有限会社化のちに株式会社にする(社名ワールド)[3]1992年指名手配されるまで詐欺商法を繰り返す[4]1980年に結婚して1男をもうけるが、1992年に前妻と離婚[5]。その後に内妻Yと2男をもうける。
病的な嘘吐きで自意識が強く目立ちたがり屋。饒舌でいくつもの顔を持ち、エリートを演じる傾向がある。礼儀正しく愛想が良いが、猜疑心・嫉妬心が強い(アフェクションレスキャラクターの傾向) 。異常なまでに執念深く嗜虐的。神経質で臆病な面もあるが虚勢を張る。
Xは「東大卒のコンピューター技師」「京大卒の予備校講師で物理学者の逸材で小説家志望」「実家は村上水軍の当主」「兄は東大卒の医者」など様々な嘘の経歴を名乗っていた。
Xは容姿や話術から女性から好感を持たれる魅力があり、それにより様々な女性遍歴があった。Xは同時に複数の女性と肉体関係を持っており、交際女性とその母親と同時に肉体関係を持っていることもあった[注 1]。Yと元妻はXが同時に複数の女性と肉体関係を持っていることを知っていたが、中々Xと別れようとしなかった。Xの証言によると、この事件関係者である内妻のYの家庭については、YだけでなくYの母DやYの妹Eとも同時並行で肉体関係を持っていた。Xはこのことについて「奇妙な人間関係」と表現している。死亡したYの母DやYの妹Eの肉体関係については相手が誘ってきたとXは主張しているが、Yや元妻などXと交際して生存している女性によると交際のきっかけはXから誘ってきたと述べている。また、Xは女性と性行為をする際に写真を撮影することがあり、Xが撮影した性行為の写真はYだけではなくYの母DやYの妹Eのものも存在して監禁事件における材料として使われ、事件発覚後に警察に押収されたという。
事件発覚後に元妻は「Xはとにかく自信家で大きなことばかり言って、人に夢を持たせる」「Xは自分を"世の中の救世主"と語っていたが、Xと出会った人は全員不幸になった」「Xによっていつか死人が出ると思ってた」「多くの嘘で上塗りをしていくと、Xの中では本当のことになる」「あんな人間、二度と出てこない」という言葉を残している[6]
両親を含めた親族は取材を拒否している。なお、Xが経営していた会社の元従業員は「Xは暴力団幹部と付き合いがあった。Xの実父からピストルを見せられたことがある」と法廷で証言している[7]。またXの親戚に結婚詐欺や手形詐欺など詐欺についての知識が豊富な人物がおり、殺人事件前に他界しているものの、X家やXが経営する会社に出入りし、Xの詐欺にはこの親戚の影響を受けていたという[8]

加害者Y[編集]
1962年2月25日[9]久留米市出身[9]。実家は農家。従順で没個性的。ほとんど叱られたことがなく、学校の制服や髪型を全て規則通りにする真面目な性格。高校時代は男性と交際はなかった。短期大学を出て幼稚園教諭になる[10]。Xの内妻となり、Yは1993年1月に長男を、1996年3月に次男をそれぞれ出産した。子供好きであったため、「どんなにひどい状況でも子供達に接している時だけ忘れられた」と語っていた[11]。しかし、逆に子供達の存在が、Y一家の家族を脅す材料としてXに利用されるようになった。指名手配後にXの愛人を含めた他の人間に会う時はXの知人もしくは姉と名乗っていた。一連の事件解明における最重要証人の1人。Xからの虐待で喉を攻撃されて40代ながら老婆のような声になり、通電で右足の小指と薬指が癒着し親指の肉が欠けていたことが明らかになっている。[12] 

被害者[編集]

  • A - XとYに虐待され、2002年に脱出した少女。1984年生。Xの支配下の間は小学生時代からを飲まされ、夜中の4時頃に寝て朝7時に起こされて登校した学校で居眠りをし、貧血を起こしたり吐き気を催したり、生理が3ヶ月遅れ、クラスで2番目の高さだった身長がほとんど伸びなくなりクラスで2番目の低い身長になり、1997年から2000年までの中学生3年間は約180日欠席するなど、学校に通いながらも身体を含めて生活に悪影響が出ていた。XとYの子2人を含めた4人の子の子守役をしていた。一連の事件解明における最重要証人の1人。19歳時の2004年に法廷で証言音声が流れたが、司法記者達は「19歳にしては幼い気がした」と語っている。被害者であるが死亡せずに生存した。報道機関や書籍では実名表記はされていない[注 2]
  • B - 少女Aの父。元不動産会社勤務。1961年生でXやYと同学年。死亡した被害者であるが他の死亡者と異なり、報道機関では顔写真が非公開で実名表記が伏せられており、顔写真や実名表記は一部書籍のみとなっている[注 3]。1番目に死亡。
  • C - Yの父。農協土地改良区副理事。1936年生。久留米市の集落一族の本家で、父方の祖父は村議会議員を務めるなど名家。兼業農家の傍ら、民間企業労組委員長を経て、農協の幹部になる。愛妻家[13]。プライドが高く、心配性で世間体を気にするタイプの一方で、我慢強く、痛くても口や顔に出さない性格。2番目に死亡。
  • D - Yの母。主婦。Cの3歳年下。久留米の農家出身。地元高校卒業後にCの家に嫁入り。良妻賢母だが、気丈な性格。Xと肉体関係を結んで人生が暗転。Xによる支配下で夫の死体処理に関与。3番目に死亡。
  • E - Yの妹。歯科衛生士1965年1月生。同級生の友達と比較すると真面目ではあり親の前では大人しかったが、姉Yと比較すると親に隠れる場所では活発で遊び好きであった。また結婚前に妊娠中絶経験をし、結婚後も職場不倫をするなど複数の男性と肉体関係があった(このことが夫Fとの夫婦仲を悪化させて事件が早期露見せずに一層深刻化させる要因の一つとなった)。Xによる支配下における外出では主に買い物役を担当。母Dの絞殺において足を押さえる役で1人の殺害に関与し、2人の死体処理をした。4番目に死亡。
  • F - Eの夫(Yからみて義弟[注 4])。農協系土地改良区事務所職員。1959年4月生。久留米市出身。実家は農家で次男。地元の高校卒業後に千葉県警警察官になるも、父親の看病を機に退職して実家に戻ってCが勤務する農協の職員となり、婿養子という形で1986年にEと結婚。気がやさしく生真面目な性格。Xによる支配下における外出では主に車の運転手役を担当。義母Dと妻Eの2人を絞殺し、3人の死体処理をした。5番目に死亡。
  • G - EとFの長女。小学生。Yからみて姪にあたる。Yの家族と親しくなかったAは3歳年下の同性のGとは親しく、GLAYファンのAはSPEEDファンのGと流行歌について語り合った。弟Hを絞殺・母Eを絞殺の際に足を押さえることで2人の殺害に加担し、5人の死体処理に関与。7番目に死亡。
  • H - EとFの長男でGの弟。保育園児。Yからみて甥にあたる。Yの家族の中で唯一通電を受けず、事件現場を直接目撃しなかった。6番目に死亡。

 (以下略=来栖)

 ◎上記事は[ウィキペディア]からの転載・引用です
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