2024年2月6日(火)
運命である。この世は次の世に生まれ出る為の参道のようにも思える。
しかし二人の運命の前には、一人の女性とその父の強い念が感じられる。
力強い魂は途切れることなく生き続けている。つづく・・その先へと続いています。
2024年2月6日(火)
運命である。この世は次の世に生まれ出る為の参道のようにも思える。
しかし二人の運命の前には、一人の女性とその父の強い念が感じられる。
力強い魂は途切れることなく生き続けている。つづく・・その先へと続いています。
2020年12月1日(火)
11月22日(日)JR奈良駅に10時の待ち合わせで、藤本さんの車で橘嘉智子さんのお墓参りに行った。
山での先導役はいつも武部さんである。
平坦な山ほど危険であり注意を要すると武部さんはいつも言う。私もそう思う。
登りは一点を目指すのでまぁ問題ないが、頂上から下りる方角を少しでも間違うととんでもない方へと行ってしまう危険がある。
武部さんが同行してくれることは非常にありがたく感謝している。
無事お墓から駐車場へと帰り、その足で三笠山山頂へと行って、そこでも山頂の古墳の調査をした。
三カ所に石室があることが分かった。そして山を下りて、ちょっと空海寺へ立ち寄ってもらった。
連休で秋深まる奈良東大寺付近の道路は大変渋滞していた。そしてそこから、牧浦さんに教えてもらった龍田大社へと行って、JR王寺駅から神戸へと帰路に着いた。
家に帰ってから、その日現場で計測して帰った角度を地理院地図に落としていくうちに・・、何か気になる、気がかりな場所が浮かんできた。
それは、前々から不思議な石組で、寝屋川市にある『石宝殿古墳』だった。
どうも私には、その石宝殿古墳が橘嘉智子に深い関係があるように思えてしかたありませんでした。
それで次の日、23日連休で休みなので気になるその石宝殿古墳に行くことにしました。
その古墳から車でさほどかからないところに、この不思議物語の最初の頃、いろいろ教えてくれた松重さんに電話してみると「いいですよ、駅まで迎えに行きます」と言うことで、古墳の入口である高良神社まで連れて行ってもらいました。
知らない人が車で行っても悲鳴をあげるような道でしたねぇ。事前に良く調べて、車は軽でなければ入れない細く狭い道でした。
寝屋川市の石宝殿古墳が教えることは、橘嘉智子の生い立ちでした。
どうも私に、「一刻も早くお父さんに会いたい、連れてって!!」と言うことのようでした。 ・・つづく
図面に記入された角度は、コンパスグラスでの角度です。
図面は、1990・3 寝屋川市教育委員会がまとめた文化財資料14『石宝殿古墳』より引用させていただきました。
2020年10月16日(金)
弘文天皇の墓へ行った翌日には、天武天皇の墓へと行きました。
壬申の乱の立役者二人が、1300年の時を超えて再開し仲直りできればと思って武部さんに無理なお願いを聞いてもらいました。
その後、二人の墓との関係を地図上から調べると、直角二等辺三角形の位置にある場所が知足院であり、そこにはナラノヤエザクラがありました。
その近くで同じ二等辺三角形を描くポイントに空海寺です。
これは太古の昔に弘文天皇と天武天皇の二人の墓の場所を知っている人物が、二人を供養するためにナラノヤエザクラを植樹したことでしょう。
そして空海もその桜の秘密を知っていたでしょうし、空海寺からいつも壬申の乱の二人に平等に祈りを捧げていたと私には響いてきます。
この日本には、素晴らしい先人先輩方が居られましたねぇ。
このようなことを知った上で、春には知足院の奈良の八重桜を見に行って、そこから空海寺へ行って先人達の思いにふれてみたいものです。
寺院の庭からコンパスグラスで、84度 と 174度の方角がそれぞれの墓です。
後日、174度のライン上に、天武天皇と弘文天皇にとって大切な人が眠っていることが分かってくるのでした。
・・
んん?? 何!? 角度の数字から響いてくる言葉は、春を待たずとも「ハヨ イキナヨ!」とな。