鏡川早朝ウォーキング ファンクラブ

平成の名水百選に選ばれ、”龍馬も泳いだ鏡川”周辺を歩いて、健康増進と交流を図ります。

 ~鏡川のいわれ~

2010-12-21 | 鏡川の見所・名所・史跡

  ~鏡川の謂れ~

 市街地を貫流して、浦戸湾に注ぎます。元禄年間、この荒れる川を清め、
鎮めるため『影を映すこと鏡の如し』との祈りを込めて名付けられた。

   ⑫ 河田小龍寓居跡

狩野派の画家で知識人。中浜万次郎口伝による「漂巽記略」を山内容堂に献上。

   ⑪ 水天宮

 鏡川堤防内側一段低い場所にあるため、文政7年久留米市の水天宮を勧請して
遷座したもので、河童のいたずら封じ、子供の水難除けとして信仰されてきた。

   ⑭ 石立大砲鋳造所跡

嘉永6年、藩が石立村鍋焼で大砲の鋳造所を造る。俗称「鍋焼」と呼ばれる。

   ⑩ 日根野道場跡

 日根野弁治が築屋敷に開いた小栗流道場(柳生家認可)。龍馬もここで
14歳から19歳まで修行し、「小栗流和兵法事目録」を授かった。

   ⑨ フランク・チャンピョンの碑

米人飛行士。大正6年高知市で戦争に於ける飛行機の有効性飛行中墜落死。

   ⑬ センダン

花や実など四季折々に楽しめ、高知市を代表する木である。

   ⑥ 山内神社 ⑦ 土佐山内家宝物資料館

 山内神社の祭神は、維新に功績のあった十五代藩主豊信と十六代豊範。
資料館は山内家代々の遺物一万点余りを保管・展示している。

   ④ 旧山内家下屋敷長屋 

 山内家下屋敷の附属長屋として慶応元年、豊範の時代に建築された。
一階は下屋敷を警護する足軽の詰所で、二階は物置であった。

   ③ 山内容堂・西郷隆盛(号は南州)会見の地

 西郷の來国の目的は、島津久光の命を受け山内容堂の上洛を促すためで、
結果、上洛の了解を得ている。場所は県民文化ホールの近く、散田邸の敷地内で
鏡川を眺められる堤防上、物見座敷〝此君亭(今は残って無い)〝で開催された。

   ② 馬場弧蝶・島崎藤村交歓の地

 明治26年、明治学院の同窓生 島崎藤村が共立学校(現土佐女子)の
英語教師 馬場弧蝶を訪れ、その下宿に滞在、そこで鏡川を隔てて、
天満宮から筆山を見渡しながら、文学談義を交わした。

   ⑯ 真如寺(曹洞宗)

一豊改宗後の菩提寺で一寺を建立。筆山の北の麓には山内家歴代の墓所。

   ⑰ 要法寺(法華宗)

 一豊の土佐入国と共に滋賀県長浜から菩提寺として移された、一豊が改宗後
二代目康豊が保護していた。野中兼山の位牌もこの寺には置かれている。

   ⑱ 天神のクスノキ

高さ25㍍、周囲7.5㍍、樹齢400年とされる。
高知市指定の文化財。この木から樟脳を抽出してた。

   ~ミカドアゲハ~

要法寺、潮江天満宮が生息地。オガタマノキがあり食樹に。

 

  城下町の建設にあたって~水防と水利から

 山内一豊は高知城下町を建設するにあたり、まずは鏡川(当時は潮江川)の洪水を防ぐことが主眼であった。その為に大堤防の建設に着手、次に廓中堤防・升形堤防・上町堤防・・・を築き、洪水対策を1661年までに完成させている。さらに着目すべきは、組織づくりで(堤防沿いには下級武士を居住させ、警護の任にあたらせた。)警護・維持管理のために、生活の場として、築屋敷と水防の警護組織として水丁場制度作った。
 また水防組では、越戸(人が渡るところ)として金子橋と掛川町があるが、そこには水防蔵が設けられて、緊急時には出動義務が課せれた。生活用水を得る水利施設は杓田村(現旭高知市水道取水所)に廓中堰を設け、この水路を廓中まで引き込んで生活用水としている。

   ~築屋敷(つきやしき)~

 もと城下を護る鏡川の大堤防の外側河川敷の竹藪の地であったが、前に広い河原があったことから、宝永元年(1704)町人等が範の許可を得て自力で石垣を築き開発した東西330間の片側町。そこに築屋敷を築き住んだ。さらに西の本覚寺越戸まで石築(いしづき)が延長された。坂本龍馬が少年時代に通った日根野道場もあった。


   ⑧ 水丁場

 水防の為の防衛分担区域のこと。鏡川北岸の堤防を思案橋から雑魚場橋までを12の区画に分け、武士と町人が協力して水防に当たる組織のこと。
境界を示す柱石が今も2箇所残っています。

参考文献
  鏡川小特集~土佐地域文化第5号2002年6月号
  改訂版高知の城下町読本
  龍馬を育てた道の小冊子(高知市観光課)

 

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