風の樹人日記

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「芥川賞は事件」でした。

2012年02月18日 | アート・文化

芥川賞の選評を繰り返し、丹念に読みました。  なにしろ「芥川賞は事件だ」と言うのですから。

やはり、小説の持つ役割、手法までが大きく社会に同化する傾向があると思うのです。

  古典が小説との概念を持っている私などの時代に比較して現代小説は、骨格すら社会を凝縮反映するものが多くなっていますね。

  「夏目漱石」がロンドンから逃げ帰って来た理由は、文化が異なる中で生活していて、価値観にずれのある中では、英文学に憧れながら自分の小説が書けないこと気付いたためでしょうね。 宗教や、生活の中に根付いている家、人の関係などが、ほんのこの40年ほどの間にすっかり日本でもすっかり変わってしまったのですから、何となく似通っているように思います。

  つまり、イギリスなどの「慣例主義」的な社会が培ってきた生活に馴染めなかった大作家。

  しかも、日本のように「恥」などを基本に敷いた生き方の日常からすら、社会全体が逸脱してしまった現代ですものね。  当然「漱石」だって、逃げ出していたかも、などと想う最近の社会です。

 若い頃に文芸3誌を定期購読していた頃だって、芥川賞は、「時代をそのまま反映」していたのでしたもの。  小説が時代の羅針盤的な位置を持っていた様にすら記憶しています。

 実験的である小説を通して出来る試みが評価されての受賞だったのでしょう。あるいは核心を審査員の大半が肯定しての今回の結果だったのです。「共喰い」だって、そんなに読みにくい小説ではないばかりか、書き出しの情景の表現、構成は、凄いとその筆力に賛同してしまうのです。

   美術だって、1950年代から始まった「アンフォルメル」の作品群は、現状否定ではなく、迸る気慨の知的な表現に終始しました。  それ以降に多様な模索が繰り返されています。

   現在開催中の兵庫県立美術館の「アールビュリット・解剖と変容」展は、まさに、芥川賞受賞小説2作とまったく同じ美術の表現手法とすら思いますし、肯定的に読みとれる「潜在する心の視覚表現」 が同時期に展開されているのと同じだと、共鳴しました。

  横尾忠則の朝日賞受賞の選考理由に、「社会に、常に共振する制作活動」に賞を贈った、との紹介がありました。

 社会に働きかける普遍性よりも、作品に対する自問が優先される時代なのかも知れませんね。

   今回の芥川賞の選評の中で、川上弘美の評から学ぶところが多く、黒井千次の見識に圧倒され、高樹のぶ子の「都会に浮遊する若者に較べて、地方の若者は質量が大きい」といる分析など、私自身が最近持っている関心事項「天文、素粒子、ニュートリノ、宇宙、野生、動的平衡など」と併行する「発言者」を発見したのでした。  この芥川賞で・・。

     今イーゼルに架かっている制作途中の自作品の部分です。

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 上手く思いを伝えられませんが、芥川賞も随分先鋭化して来たものだとも思ったのです。  そのことこそ、創作者の使命だと・・。