秋らしい快晴です。 近隣の町まで絵画展を「モーニングサービスの朝食」のついでに訪ねて見ました。
かなり描き繋がれた方々の写実風景作品が大半です。 安心しで見られる作品ばかりですから、何となく静かな時間を過ごせました。 グループ展手すから、同じメンバーで、気心の解ったものばかりが、週1回集まられて8人で研鑽をつまれているようです。 つまり、サロン的な意味で続いているのでしょうね。
この展覧会を見た後、午後の2時間をatelierでの制作に費やしました。 出かけて見ると、ベランダ辺りに栗が幾つか落ちています。 毬栗のまま何個か持ち帰って、玄関先に飾ってみました。 今年は、栗は不作です。 毎年拾いきれないほど「芝栗」も取れるのですが、自然もいろんなバイオリズムがあるのでしょうね。 「今年は○○は生り年ですね」と言うような言葉が交わされるのも、田舎町ならではの光景です。
マチェール(地肌・地塗り) を終えた制作途上の作品がイーゼルごとに架かっています。
徐徐に描き加えていくうちに、自分らしい「絵」が表情を見せ始めています。 この2点も、もう一息です。
ついでに旧いサムホール作品も掲載を続けます。
美術ってなんだろう、何を訴えかけようとしているのだろうと、自問しつつの制作です。
そんな思考の経緯の中で、筆を運ぶことを「美術する」と呼ぶのでしょうね。
サムホールは、22.7㎝×15.8㎝の小さな空間です。
描き易そうで、なかなか手強いものです。
たくさん描きました。 「センス」を磨くには格好の大きさであると同時に、テーマが1点に集約できるような定番の大きさとして、ヨーロッパでは、手軽に描き続けられてきたのですね。
ハガキの大きさも意外に難しいものです。
もう何点描いて来たでしょうね。 ほとんど、郵送してしまっていますが、このブログに載せた絵は、それでもちょっと置いておこうかと思ったものなのです。
子供のアトリエも、ギプスで作った動物のような造形と、「発泡スチロール」の器に傷を付けて、ギプスを流し込んだ作品です。
今日は、誰もが喜んで持ち帰りましたので、玄関や自分の部屋に飾られていることでしょう。
今年で10回目に成る「サムホール大賞展」。
その展覧会の企画に10年ばかりかけて、、ビエンナーレ展として立ち上げてから今回で10回展に成ります。
つまり、準備段階から30年も「サムホールに関心を寄せてきました。
18年前に立ちあがった展覧会も、ようやく全国に浸透して、今回も1900点以上もの作品が寄せられたそうです。
そんなこともあって、今年は、何の関わりもなく進められていることにも淋しくもなりましたが、次代が変わるとはそんなことなのでしょうね。
第1回目から審査に立ち会ってきたこともあって、同じ「画家」がどんな気持ちでサムホールに取り組むのだろうと、私自身も、一気に400点近い作品を造り続けたことがあったのです。
その作品たちを加古川の現代美術画廊「ロロ」で、会場いっぱいに並べて見たことがありました。
外国航路の船の乗務員として世界を廻って来たことのあるオーナー/長沢ご夫妻の思い入れも凄かったことも想い出になっています。
その後も「サムホール作品」を何点も描きつづけました。 いろんな時代の作品たちが、段ボールの箱に入れられたまま何箱か出て来ました。その作品の何点かを掲載して見ようと今日も5点掲載して見ました。
マチェールづくりに時間を懸けて進めている何点かのうちの2点に、モノクロで表情を付けいてるうちに、逡巡するいろんな想いが滲み出てきました。
丁度、知友の写真家・阪上さんと「写真とはなんだろう」「写真の芸術性とはどんなことだろう」などと小一時間も話し込んでしまいました。
空模様もはっきりしないまま、夕日の時間に成って終いました。 「今日はここまで」と、岐路に立つと、東の空にこんな素敵な虹が一瞬掛りました。 県道に降りる坂の途中には、子供地と造ったモニュメント「星へのメッセージ」も、足場を取り除かないまま古びて終って居ます。
毎日通っているatelierも、もうすっかり、周辺の雑木たちに馴染んでいます。
ベランダの脇まで、伸びてきた「あけび」も今年10個以上も実を付けいています。
「栗」もそろそろ実が落ち始めました。 「栗」は今年は不作のようですのに、友人が、「庭に成った栗の実」で「赤飯」を造りました。と、隣町の和菓子屋さんに頼んで作って持ち込んで頂きました。 毎年の事で、恐縮しながら、その赤飯もおいしくご馳走になったのです。
瞬く間にやって来た深秋。 深呼吸をするように、一日一日を大切に過ごしたいとも思ってみたり…。