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映画 フェルメール

2024-02-05 10:32:06 | 日記

映画 フェルメール

 美術館へ行くよりお手軽と考えたが、どうしてもフェルメール自身より映画の製作者の意志が色濃くにじみ出るからそれに完全同意ならともかく不同意だといろんなことを考えてしまいちょっと映画を楽しめなくなる。

 この時期(17世紀)のオランダは国力の急な増大があったとみられる。同時代に題材はだいぶん違うが同じように光の扱い方がうまいレンブラントがいる。光の扱い方は、フランスで後々にできた印象派とは全く異なるから、フェルメール、レンブラントとは完全別物だろう。

 フェルメール、レンブラントは光の処理の仕方が同じように巧みなのに画風が全く異なるところがある。レンブラントは依頼者が居てお金を貰って制作したのに対してフェルメールの絵は誰が買ったのか。「真珠の耳飾りの少女」ならともかく、日本でいうやりて婆が主人公である「とりもちおんな」のような風俗を写した絵画は玄関はおろか自分の寝室にも飾れない絵である。子供の教育に極めて悪いことはたとえこの時代でも同じだと思う。女のヒトが牛乳を注いでいる絵も部屋に掛けて部屋が引き立つかどうか。多分フェルメールの絵は当時売れなかったと思う。

 フェルメールの絵にはレンブラントにはない際立った特徴がある。それは人間の表情からじかにそのヒトの感情、さらにはその人のそれまでの人生がどうであったのかを読み取ることができることである。「手紙を書く女」では、書いている女のヒトに関しても読み取れるが横に立っている召使の女性の表情からは「しょうがない人だわね」という気分が読み取れる。「とりもちおんな」では、他の登場人物からは読み取れないが老婆からは、うまいこと行ったとか世の中はカネやでとかの感情がその表情から伝わってくる。

 交易には、相手の感情を読み取ることが必須である。当時オランダは交易でのし上がりつつある国である。国の端々にまで相手の感情を読み取る意欲と能力がいきわたったと考えられる。この時代よりはるかにあとの日本の歌麿も広重も北斎を見ても、絵の登場人物の感情を読み取ることはできない。日本の絵画で感情が読めるようになるのは、多分黒田清輝だと思うが西洋に学んで描いた油絵が最初ではないか。どうも江戸時代には一部のヒトにはあったんだろうが、江戸市民全員に交易の精神はなかったようである。

 

「エチカ」を書いたスピノザが、フェルメールと同時代である。スピノザは故あってレンズ磨きをして生計をたてたという。船の運航のために望遠鏡その中に入れるレンズは大事な品物であったろう。天体観測は一部の好事家の趣味ではない、仕事に必須のものになっていた。レンズがあると、フィルムはないけれど写真機の原型のものはできる。多分暗室の中で様々なものを写して楽しんだだろう。その像を絵画にして残したいと思ったのがフェルメールだと思う。暗室の中に写るのは室内の様子であったろうから、室内が多かったと考えられる。

 フェルメールは子供の様な感性を持っていたに違いない。依頼者があって描いたのではない。売ろうと思ったのでもないだろう。ただただ自分が暗室の中で見た感激を写し取りたかっただけだと思う。またそんなことしても生活に差し支えない程度に豊かであったと考えられる。

 ただ、オランダは17世紀末には混乱に陥りフェルメールは貧窮のうちに亡くなったという。

 



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