徐福と童男童女3000人の子孫
昔、海岸を一人で歩いている夢を見た。どうやら和歌山の海岸であるらしかった。なぜそこへ行ったのかとか、何に乗って行ったのかとかは記憶にない。大きな石の人物像があって横に「徐福上陸の地」というこれも大きな記念碑が建っている。徐福なら知らないわけではない。あの不老不死の仙薬をとりに行きますとか言って秦の始皇帝をだまくらかした人で、高校の世界史の教科書に載っている。しかしそのあとの活躍が無いようで、信長や道長のようにテレビドラマにとりあげてもらえてないから知名度は良くない。
記念碑のそばに小屋掛けのお茶屋があって、徐福饅頭350円と書いてある。いくら何でもぼりすぎだと思ったけどふらふら入ってしまった。30を超えたぐらいの若い主人がお茶と饅頭を持ってくる。饅頭には「徐福」と焼き印が押してある。店の奥では30くらいの多分お嫁さんだろう人が、せいろに蒸しあがった饅頭に次々焼き印を押している。お客は私しかいない。
これはいくら何でも作りすぎだろうと思っていると、それを見透かしたのか主人は「ここは中国の人が次々に観光にお見えになるものですから」と言った。こんな石の像だけでは見に来る甲斐がないじゃないかという言葉を飲み込んでいるとき、主人は、自分は徐福の百何十何代目かの子孫であると名乗った。徐福は途中船団が別れ別れになり和歌山の他にも高知県宮﨑県に上陸してそれぞれ徐福の像が建っている。そのそばで徐福饅頭を売っているのは自分の姉妹店であると言った。そして次のような長い長い物語を語った。忘れないうちにこれを記す。
中国で戦国時代が始まったころ、徐何某という人が田を耕すより儲かる仕事はないものかと思案を巡らし今でいう手品を考案して村の衆に見せた。オヒネリをたくさんもらえたが、田を耕すのとそのくらい違いがない儲けであった。しかし何某の子孫はこれを生業として世を渡っていった。家訓は「ヒトの心を獲ればこちらが儲かる。」というものであった。今でいう芸能人に近い生き方ではないか。
その何代目かの子孫に徐福という人が出た。お捻り程度では不満である、もっと儲けられる仕事がないかと思っているころ、西の方秦の国が強大になり とうとう大統一国家を作ってしまった。秦の始皇帝は、地を支配すると同時に時間も支配しようと考えた。不老不死の仙薬を持っているものは名乗り出よと国中に御触れを出した。徐福は、ひらめくものがあった。村の衆の懐からおひねりを貰う程度では努力の割にはうまいものが食えない。仙薬または仙薬もどきを提供すれば、うまいものが食えるに違いない。
それからが徐福の偉いところであって、ありたっけの手品の道具を弟子に売りつけて少しばかりのお金を作ると黄山に住むという仙人のもとに出かけた。仙人というのは本当にいるのである、しかもあちこちに点在する。今なら、オタクとか引きこもりとかニートとか呼ばれているが趣味を極める生き方である。その趣味の中に不老不死の仙薬の研究というのがあって、この研究家というのもあちこちにいる。 研究家は完全孤立ではない、大方針というのがあってこれは共有している。丹すなわち水銀化合物を炉に入れて長時間焼くことで仙薬になる、問題は焼く温度と時間と添加物であるという。仙人はこれをいろいろに変えて仙薬の開発にしのぎを削っている。世間の人は、もちろんこれを冷たい目で見ている。親の財産を食いつぶしているろくでなしに見えたのである。そのろくでなしのところに弟子入りしたのであるから徐福は思い切ったことのできるヒトである。
なお、仙人は立派な人であるというのは、この仙人グループがお金を出し合い後の言論界のリーダーである李白や杜甫などの詩人を抱き込み 何となく俗界にまみれていない立派な人というイメージを作り上げたことが今に尾を引いている。こういった作戦は今でもほかの分野で行われていて成功しているものもたくさんある。イメージ作りには多くの才能が使われている。これが成功すると人々の心を獲ることになる。人々の心を獲ることは人々を支配することである。こういう作戦でやっていく人を方士という。徐福はすでに方士になっていた。
さて徐福はここで純粋水銀の作成法も学ぶし、本当は効くかどうか疑わしいけれど丹の作成法を学んで山を下り、始皇帝に不老不死の仙薬を持参したと告げた。さっそく引見するとのことで、出ていくと階(きざはし)の上にいるのは今までに見たこともないタイプの人間で、さすがの徐福も旨いものを食いたいばかりに却って自分の命を縮めることになったことを悔やんだ。
とっさのことで、徐福はこう答えた「これは不老の薬でございます。不死の薬にするには、東方蓬莱国にたなびいております不死の山の煙にいぶさねばなりません。もし費用を出していただけるならそれがしがこの薬を持って蓬莱国に赴き、あの山の煙にいぶして不死の霊薬にしてご覧にいれます。」多少の問答があった末、皇帝は費用を出すことになった。ただし、不老の薬は今ある分を献上して持って行く分は新たに作成していくこととなった。その後始皇帝はまず不老薬を飲んで徐福の帰りを待って今度は不死薬を飲むつもりであった。徐福献上の不老薬のせいで始皇帝が命を縮めたことは歴史書にも記されている通りである。また富士山の名が不死の煙に由来することも周知のことである。
さて、徐福は艦隊の製造に取り掛かった。古代の船は葦を編んでそこにアスファルトを塗る。アスファルトは岩または石と考えられていたのでこれを石船という。名前の割には軽いので黒潮に乗れば蓬莱国に着くのに時間はかからない。種もみから家畜野菜の種に至るまで載せねばならない。農業技術者、土木技術者、何より製鉄技術者を大量に募集しかつそれらの人は若い人でないといけない。また男女同数でなければいけない。徐福は、不死の仙薬なんか作る気はなかった。蓬莱国でこれらの若い人を指導し自分の理想の国づくりをして、自分が国王になるつもりである。
秦の始皇帝が帝国を作れたのは馬車を戦場で用いたからであるが、一番大きな理由は鉄の製造技術による。その鉄の製造ができれば、蓬莱国を統治することは可能であるとみた。