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清廉の人 南原繁

2018-06-15 18:26:34 | 日記

加藤節著 『南原 繁』

 

1 南原 繁は香川県大内郡に、1889年に生まれる。

 

2 少年時代、母のきくの教えに、「天には見る目があって、我々のしていることをちゃんんと知ってくださる」という。この言葉が、少年の南原に生涯を支配する。

 

3 近くの在野の漢学者によって、儒教を学ぶ。論語、中庸など素読が大きな影響を与えた。

 

4 南原に政治に興味を持たせたのは、儒教の天下国家の経国済民であった。

 

5 阿波の人形浄瑠璃を好み、人形による人情の表現を見て、生の緊張感を自覚した。

 

6 南原が一高に入学した際、校長の新渡戸稲造により感化され、キリスト教に改心する。その時に、儒教の「名を立て家を興すは孝の道である」という生活信条を捨てた。

 

7 新渡戸稲造は内省して、人間形成せよ、と言い、ヒューマニズム精神と世界平和の国際協調を重んじた。

 

8 新渡戸の感化で、カーライル、ヒルティ、ゲーテ、トルストイ、ドストエフスキー、高山樗牛、漱石、鴎外を読みふけった。南原は読書によって、真の自己を見出したい、と一心だった。

 

 

9 しかし、その時、不思議な事が起こった。内省につとめればつとめるほど、自己がわからなくなった。ついに、自分は無価値に見えた。

 

10 キリスト教会に通い出し、ついに内村鑑三を知ることになる。内村の二つのJで、イエス(Jesus)と日本(Japan)に対する愛と、「日本的キリスト教」に感化された。

 

11 内村との出会いで、世俗的立身出世をあきらめた。キリスト教的神性と国民共同体と結びつける生き方に変った。

 

 

12 キリスト教を嫌う母のきくを失望させ、将来を南原の妹につがせようとした。

 

 

13 入学した法科大学は、筧克彦が哲学講義をしていた。仏教哲学と西洋哲学をこの筧から教わり、大きな影響を受けた。筧は法理学の講義で、ラファエロの絵「アテナイの学園」を注釈した。「プラトンはゆびでもって天を指し、アリストテレスは書物をかかえて地を指している」と語ったという。南原は感銘し、天を指すプラトンに興味を持った。

 

14 南原はプラトンにより超越的なものを目指す方向を意識した。

 

15 南原は高く理想をかかげ、その実現を考えるイデアル・リアリストとなる。一校への進学、無教会主義、内務省への就職、そして、内務省を辞め、大学帰る選択もその理想からだった。

 

16 南原、ドイツベルリンへ留学して、カントの三批判書を原典のみを読みこみ、研究書に全く依存しなかった。自己と原典の対話を行った。カントを通して、研究対象というよりも、会話を通して哲学をした。

 

17 ベルリンでは旅行をせず、音楽会だけは鑑賞した。特に、オペラハウスの「モーツァルトの魔笛やベートーヴェン」を聞くことで、心が安らいだ。

 

18      南原はナチスの没落を予言し、批判した。その先には日本のファシズムに向かった。「日本精神の固有性」を作ろうとした京都学派の哲学者田辺元の国家論を国家信仰を説くものだ、と厳しく批判。

 

19 南原は丸山真男に語ったところによると、太平洋戦争について、このまま枢軸が勝ったら世界の文化は終わりだ、と言った。

 

20 南原にはカントとともに、「正義をして成らしめよ、たとえ世界が滅びても」と考えた。

 

個人の自由を脅かすファシズム下の日本もドイツも、ともに滅びなければならないという。

 

 苦悩しつつも、正義の勝利を信じて、米英側に人類文化の未来を託した。

 

21 南原は天皇制は維持するが、天皇自身は大尉して責任をとるべきであると。

天皇を退位して、戦争への道義的責任をとることで、かえって、天皇制をうちに含む「道義国家日本の建設」への道が開かれると。

 

22 南原は戦後、全面講和と日本の永世中立を訴えた。吉田茂は、現実を重視し、南原の考えを空論をもてあそぶ曲学阿世の徒だと非難した。

 

 対して、南原は吉田を学問の冒涜であり、学者の権力的弾圧だ、と反論。

 

23 南原は1974年に、胃がんで84歳で亡くなるが、三つのライフワークとして、フィヒテ論、政治学史、政治哲学の完成をなした。

 

以上、南原繁の自伝だが、この清潔な精神が今だに学界を支配している。

現実との乖離がはなはだしいと思うが、いかに。


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