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古代史の謎

2019-08-03 14:40:07 | 歴史

関裕二著 『古代史はどうして謎めくのか』

 1 持統天皇は、どうして、壬申の功臣と天武天皇の皇子が多くいる中で、天智天皇の娘でありながら、即位できたのか?


 通説では、夫の天武の意志を継いで即位したとなっている。

 しかし、人事を見ると、持統が夫を裏切っている。なぜなら、、反天武の大友皇子を後押しした中臣鎌足の子の藤原不比等を大抜擢しているのである。

 持統は天武の死後、草壁皇子を即位させなかった。病弱だった草壁の命がわずかだと、知っていたのだろう。
 草壁を即位させても、早逝すると、皇位は多くいる天武系皇子のうちの誰かになる。すると、持統は用なしである。

 だから、持統は天武崩御後、三年間の空位をつくったのではないか。おそらく、藤原不比等の悪知恵を借りたののだろう。


2 日本書紀は藤原不比等が中心で作った?


 日本書紀の中で、天照大神が皇祖神を代表する神となるが、持統を皇祖とした王朝の正統性を証明したかったのではないか。

 天照大神は御子の降臨を画策する。急に、孫を降ろした。これは、草壁の死後、孫を即位させた事情と似ている。天照大神は持統天皇に、天照大神を補佐した高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は藤原不比等によく似ている。

 本来、男性のはずの太陽神を女神にすり替えたのは、天武を始祖とする王朝ではない。持統を始祖とする王朝という図式を築きたかったからではないか。

 3 額田王(ぬかたのおおきみ)と物部氏とはつながりがあった?


 物部氏の祖・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は三輪山に祀られた大物主神と同一の可能性が強い。

 天智天皇は近江に遷都するが、天智の愛人の額田王は、大変、嘆いた歌がある。三輪山をこよなく愛する額田王。これは、額田王が三輪山の神を祀る巫女であったからではないか。

 額田の名と物部は強い接点がある。
 額田臣(ぬかたおみ)は物部系の石上神宮の祭祀に関わった一族だった。
その祖は、伊香我色雄命(イカガシコオノミコト)で、物部同族である。

 額田王の縁者に「鏡」に名を冠した人物が多い。奈良県磯城郡田原本町の鏡作坐天照御魂(かがみつくりにいますあまてるみたま)神社の祭神は天照国照日子火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)で、物部氏の祖・饒速日命である。

 額田王の正体は日本書紀から抹殺されたようだ。
8世紀の朝廷からすると、物部氏(出雲)の権威がヤマト朝廷の屋台骨を支えていたことを後世に遺せなかったからだろう。 

 4 元明天皇は、皇位につきたくなかった?

 文武は生前から元明に禅譲を伝えたが、元明は反対した。しかし、強引に玉座に引きずり出したのは、藤原不比等だった。
 不比等は将来、首皇子(聖武天皇)を即位させたかった。持統の血をひかない天武系が皇子になると不比等の藤原天下は消えてしまうからという。

5 本当に宮子は精神を患ったのか?

 737年、宮子は皇后宮で僧正の玄昉に介抱してもらうと、「慧然と開悟」したという。

宮子は聖武天皇を生んだ後、鬱病で軟禁され、37年間も、息子に会わしてもらえず。たまたま、居合わせた聖武天皇と、再会した、という。

 母子を引き離したのは、不比等だろう。宮子は精神を患い、人に会うことを許されなかった。しかし、玄昉に会うと、どういう理由で全快したという。

 
 玄昉の呪験力によるのではない。宮子が正気に戻ったタイミングにある。
なぜなら、長屋王を陰謀で殺し、この世の春を楽しんだ不比等の四人兄弟が天然痘で一気に亡くなった。すると、反藤原が息を吹き返す。
 
 その直後に、宮子が元気になったからだ。
宮子は葛城山周辺の賀茂一族の出身。葛城山は蘇我氏と近い関係にあった。
 聖武天皇を藤原の子としたい不比等は、「賀茂の女」宮子に預けるわけにいかなかったからではないか。


 6 物部氏は吉備出身か?

 物部氏は河内に拠点があった。物部守屋が滅んだ大阪府八尾市の周辺から、三世紀の吉備系の土器が大量に出てきた。

 日本書紀では物部氏の祖・饒速日命は、天磐船でヤマトに舞い降りたという。「船で来た」という説話がヒントになる。
吉備は瀬戸内海で最も栄えた場所だ。海運の絶好の中継地だから。つまり物部氏は、吉備から土器を携えて,船に乗ってヤマトは乗り込んだのではないか。


 7  トヨの祟りを鎮めるために、神武を作った?
  初代神武天皇と第十代崇神天皇が同一人物ではないかという説が根強い。

 日本書紀には、崇神天皇が祟りに悩まされたと記している。


 北部九州の邪馬台国を潰したトヨがヤマトに裏切られ、南部九州に逃げた。しかし、トヨは非業の死を遂げた。そして、ヤマトを呪った。

 ヤマトでは、崇神の時代、天変地異が起こり、疫病が蔓延した。ここで、ヤマトの人々はトヨの祟りを連想したのではないか。

 その怒りを鎮めるために、トヨの末裔を王に迎え入れたのではないか。こうして、神武天皇を南部九州で捜し出し、現人神に祭り上げたのが、「天皇」の原型だったのではないか。

 8 上宮王家滅亡事件の黒幕は藤原鎌足か?

  山背大兄とその一族は、斑鳩宮で滅亡した。
事件の被害者だった法隆寺が、山背大兄を祀った気配がない。古代史最大の悲劇である上宮王家滅亡事件をの被害者たちの墓もどこにあるかわからない。


 日本書紀では、山背大兄と聖徳太子が親子だっとはどこにみ書かれていない。
 何故か。

 梅原猛氏は、上宮王家が滅亡に追い込んだんのは蘇我入鹿としても、その黒幕には中臣鎌足がいた、という。
 聖者・聖徳太子の末裔・上宮王家を入鹿が滅ぼしたことで、入鹿の悪は立証された。この図式を立証するためのカラクリが上宮王家滅亡事件だったという。

9 藤原鎌足は豊璋(ほうしょう)と同一人物か?


  中大兄皇子が百済遠征の時、鎌足は日本書紀の記述の中で姿をくらます。

 なぜ、鎌足は中大兄皇子の補佐をしなかったのか。

 不比等は日本書紀の中で、父の鎌足の功績を書くことで、藤原氏の正統性を示したかったはずだ。
 すると、百済遠征をはずすわけにはいかない。


 そこで、気になるのが、日本に人質として来日した百済王子の豊璋(ほうしょう)である。

豊璋は鎌足が歴史に現れる前に日本に来た。中大兄皇子の百済救援の直前に、百済本国に召還され、百済王となって、唐と新羅の連合軍と戦った。
白村江の戦いでヤマトの水軍が大敗北して、行方をくらます。
 豊璋の逐電の後で、鎌足がひょっこりと再登場するのである。

 豊璋と鎌足は同一人物だったのではないか。

 藤原氏が天下を取った奈良時代から平安時代にかけて、朝廷は百済の仇敵・新羅を蔑視しだす。
 藤原氏が百済王家出身と考えると、その理由がはっきりする


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