jump in the box

この小さな箱の中で飛んだり跳ねたりしてみます(笑)

覚悟と想像

2011年04月15日 | 生活
震災から1ヶ月が過ぎた。

僕は長野県南部で生まれ育った。
震度3程度の地震は何度も体験していたし
東海地震に備えて学校での教育や避難訓練を繰り返し
地震に対する知識や防災意識は高い方だと思っていた。

高校卒業後、大阪に来ると
「関西は地震が来ない」というのが常識として通っていて
僕も安心な土地に来たのだと本気で思っていた。
1995年のあの日そんな常識は一気に覆された。

アスファルトはうねり、ビルが傾き、
立っているだけで平衡感覚を失うような神戸の街に立って
「この国に住む以上、地震と無縁の地はない」のだと気づいた。

そして僕は「覚悟」を決めた。
どこにいても何をしていてもどんなに備えても
いつ災害が自分に降りかかってもおかしくないという事を。
そしてひとたび巻き込まれたら
何一つ抵抗できないまま全てを失うという事を。

今回の震災でも、津波などの防災意識も高かったはずの
東北沿岸の街ですらなすすべなく波に飲まれてしまった。
絶望的な気持ちで映像を眺めながら改めて「覚悟」を決めた。

自然の猛威は人間の予想を遥かに超えて襲い掛かってくる。
そうなったら僕なんてひとたまりもない。
だからと言って諦めるということではない。
「覚悟」するという事は
普段からいつそうなってもいいように準備をしておく事だ。

何もこれは自然災害に限った事ではない。
今回の原発の事故にしたって
「安全だと言ってたのに騙された」と言う意見を見かけた時
「この世に100%の安全がある」と信じていたのかと耳を疑った。

100メートルの防波堤を作ろうといくつものバックアップをしようと
そんな人間の想定など軽々と超えてくるのが自然の力であり、
人間の狂気は予想だにしない方向からやってくるものだと
そんなのは当たり前の事だと思わなかったのだとしたら
それは「覚悟」が足りなかったと言わざるを得ない。

原発に隕石が落ちたら?
どこかの国が原発にミサイルを撃ち込んだとしたら?
そんな「想像」をしてみれば
「安全です」なんて言葉は何の意味も持たない事は明らかだ。

今回の報道やネットの情報に右往左往して不安を煽ったり
買占めに走ったりデマに踊らされた人々に足りなかったのは
「覚悟」と「想像」だったのではないかと思う。

例えば
自動車は生活に欠かせない道具であるが
車を運転している人、歩道を歩いている人は
一体どれほどの「覚悟」と「想像」をしているのだろうか?

通勤や買い物で車が人とすれ違う。
生身の人間のすぐそばを、1トンもの鉄の塊を時速40キロ以上で移動させているのだ。
それも見ず知らずのどんな性格かもわからない人間同士が。

5キロの鉄アレイを高さ5センチの所から足に落としたと「想像」してみよう。
考えただけで眉間に皺がより顔が歪む。
車を運転するという事はその鉄アレイの何百倍もの物体を、5センチから落とす以上の速度で生身の人間にぶつけてしまう可能性があるという事だ。

居眠り運転の車、急に飛び出してくる子供、急な故障でコントロールを失った車、風に煽られて車道に出てくる自転車
いつ、どこで自分がそんな状況に遭遇してもおかしくない。
そんな「覚悟」を持って道を歩く人がどれほどいるだろうか?
車を運転しながらそんな「想像」をしている人がどれほどいるだろうか?

僕は車を運転しながら、通勤で道を歩きながら
時折そんな「覚悟」と「想像」を意識する。
そうすると、自然に周囲の状況に目を配るようになり
できる限り危機を回避するように心がけるようになる。
そして万が一そうなった場合にどうする事がベストなのかを
考えたり学んだりするようになる。

例えば地震が来た時、家族がバラバラでいる時に被災したらどうするか、
どこに避難してどうやって連絡を取るか、家には何を備えておくべきか、
そういった決め事や意識は家族で話し合って共有しておく。
実際にはそう上手くいかないだろうけれど、
それでも万が一被災した時に落ち着いて正しい行動が取れるよう
「覚悟」と「想像」を常に持っていたいと思うのだ。

僕は地震と火山のある自然の美しいこの国に生まれ
僕が生まれた時にはすでに原子力発電所があった。
今の政権も過去の政治家も選んだのは僕ら自身であり
低い投票率で半分以上の権利を放棄してきたのも僕らである。

そういう現状にはもう「覚悟」を持って対応するしかないが
どうすればいいのか「想像」を働かせて次世代のために行動する。
僕らがやらなくてはならないのはそういう事なんだと思う。





最新の画像もっと見る