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都立上水高校 第1期社会科部OB・OG会公式ブログ

第1期社会科部は平成21年3月12日消滅。本ブログは現在活動中の新生「社会科部」様や都立上水高校とは一切関係ありません。

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第20回

2006年02月22日 22時04分28秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
立てば茶屋
 出発するのは良いのだが、しだくら吊橋を折り返さなければならない。今回は特に班編成はせず、準備ができた方から渡っていった。私は最後から2番目となり、殿(しんがり)は顧問が引き受けて下さった。
 心地よい揺れを感じながら、渡っていった。後ろをふり返ると、顧問は顔を下にさげ、肩をすくめながら歩いておられた。そのため向こう岸に着いた際、顧問に「以前、高い所は好きとおっしゃっていましたが、こういうものは苦手なんですか?」と尋ねると、「いや、高所恐怖症なんですけれど展望台とかは登りたがる性格なんです。」という答えであった。
 さて、こうしてしだくら橋を離れ、12時24分頃より私どもは歩いて行った。
すると12時32分頃、馬の水のみ場・立てば茶屋跡が見えた。昔、馬方衆はここで馬を休ませ、自分たちは「たてば」と呼称された茶屋で一服したそうで、しみず・大島屋・ごーろという3つのお店があったそうな。
 ここで顧問が、クイズ形式のガイドをして下さった。青梅街道は内藤新宿を出発し、いくつもの宿場町を越えていくが、新宿の次の宿場はどこかという質問が出されたが、私どもはなかなか答えが出せなかった。中央線沿線というヒントが出され、荻窪とか小金井という答えが出てきた末に、正解の中野という声が上がった。青梅街道の宿場は、内藤新宿→中野→田無→小川→箱根ヶ崎→青梅にあったそうである。しかし、青梅から先にも私どもが歩いているこの道が青梅街道として甲斐国の方へ続いていたが、途中に宿場などはあったのかという疑問があった。が、ここのように、青梅から先には宿場ではなく茶屋などの休憩所がいくつかあったのだろう、ということであった。
道所吊橋
 さて、立てば茶屋跡を出発し、12時39分頃にむし歯地蔵尊を越えながら歩いて行った。すると12時44分、道所(どうどころ)吊橋が現れた。またも吊橋である。しかし顧問などが難色を示されたため、希望者だけが渡ることにした。
 すると突然会長が、吊橋を走って渡りはじめた。これは蛮行である。そのため、顧問などから「走るな、走るな!」と言う声がとんだ。どうも会長は、この行動を軍事演習にタイアップしていたとみられる。
 私も半分ぐらいまで渡り、川の様子を写真撮影した。吊橋を支えるワイヤー部分を見ると、やはり恐怖を覚える。
 さて、こうして吊橋を堪能した私どもは、再び歩き始めた。しばらく登り坂が続いた。

※本連載本文で表記されている役職は、すべて平成17年11月5日現在のものです。現在とは大きく異なっております。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)


奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第19回

2006年02月21日 15時19分39秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
しだくら橋(2)
 さて、そんなしだくら橋前にして、私どもはみんなで渡ってみることにした。しかし、渡れるのは5人で、さらに反対側から渡ってくる人もいるため、私どもは3人ずつで渡ることにした。そのため、顧問の音頭のもとグー・チョキ・パーで3つの班にわかれた。班編成は次の通り。
 1班:全権代行・私・構成員B
 2班:会長・出納担当・副代表
 3班:構成員A・顧問
 早速、私ども1班から渡り始めた。確かにゆらゆら揺れる。これは普段味わう感じではないので、私どもに恐怖心を抱かせる。
 構成員Bは羽黒三田神社で階段降りに恐怖を抱かれていたように、こういった高所での活動が苦手のようで、叫びながら渡っておられた。又、普段は冷静沈着な全権代行も、この時ばかりは普段より甲高い声をあげられていた。橋の真ん中に来た時、私はデジカメで川を撮影したが、構成員Bらに早く渡れと怒られてしまった。
そして、ようやく向こう岸に到着した。私どもの後から、続々とやって来る。出納担当は「こんなの楽勝じゃん。」と言いながら、余裕の表情を浮かべておられた。又、副代表はビデオを回しながら渡っていたそうだ。後日視聴したが、副代表の後を歩いていた構成員Aの叫び声がたくさん入っていた。
昼食とガイドと
 さて、こうしてしだくら橋を渡ったのだが、とくにこちら側に用があるわけではない。また戻らなければならないのである。それを知って構成員Bは「えーっ!又渡るのー!?」と悲痛な声をあげておられたが、ここにはスペースがあるので昼食にしようと顧問が提案された。確かに、ここで昼食を取っている方が前方に見え、私どもも昼食とすることにした。
 しかし、特に椅子があるわけではないので私どもは石組みの上などに座り、各自で昼食を取った。顧問だけが、少し離れた所で食べることになってしまい、大変申し訳ありませんでした。私は今朝ファミリマートで急いで買った納豆巻き(と思われる)とパンを食べた。食べていると、5人までしか渡れないしだくら吊橋をおじさん・おばさん集団が一挙に渡っていた。おそらく10人ほどだったと思われるが、度胸があることよ。
 これまでの研修旅行から分かるように、顧問などは食べるのが早く、私はとても遅い。そこで、この時間を利用して、快速進行のためこれまでの場所で実施を延期してきたガイドを行って頂くことにした。
 まずは出納担当より、「奥多摩ビジターセンターともえぎの湯」。小平グリーンロード研修の時と同じように、原稿をメールで保存し携帯電話に表示しようとしていたが、なかなか電波が受信できず難儀しておられた。ガイドからは「ほっほー、ビジターセンターはそういう所であったのか。」という知識を得ることができた。
続いて、会長による「奥多摩の自然」。奥多摩町役場は海抜339mの所にあり、奥多摩町は東西に19.5km.、南北に17.5㎞で、面積の94%が森林であるそうだ。
 3番目は全権代行による、「奥多摩むかしみち」について。むかしみちは旧青梅街道であるが、その昔青梅街道は「甲州裏街道」とも言われていたそうである。
12時13分より、4番目副代表から「奥多摩町の歴史」について。古代からの歴史を話して下さったが、制限時間6分を越えたため、中断となった。
 尚、ガイドの途中で構成員Aが、吊橋を支える鉄柱にしがみつきぶら下がるという蛮行をなさったため、会長などが遺憾の意を表明し、顧問が「おい、やめろ。」と注意しておられた。
 ガイドが終了し全員が出発の用意ができたため、出発することになった。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第18回

2006年02月20日 22時14分10秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
天候危うし(2)
 さらに歩き続ける。11時39分ごろ、又も民家が散見されるようになった。しかし、ここの民家は何となく趣きが違う。かなり古そうな建物であり、軒先で何かを天日干ししているなど、昔からの風習を維持しているかのような感がするのである。顧問も非常に感動しておられた。
 11時41分、惣岳(そうがく)の不動尊の前に到着した。しかし、中は石段があり、木々に囲まれた神秘的な雰囲気で、非常に険しそうな感じがしたため、希望者のみ入ってみることにした。そのため、全権代行は入口で待機することになり、その他のメンバーは中へ入っていった。
 不動明王と書かれた石碑の隣にある鳥居をくぐり、石段を登って行った。すると小屋が現れた。ここで何かを祀っているとは思えないのだが、その小屋の上の方ではおばさん集団が座って弁当を食べておられるだけで、周りには何も建物は見えなかった。ただ、石段がさらに上の方へのびていたが、さすがに登るのは断念した。
顧問が「ここは鳥居があってそれは神社なんですけれど、隣には不動明王とかかれた石碑がありましたよね。あれはお寺なんです。なので寺の本殿みたいなのがあるはずなんですけれども、見当たりませんね~。それに、神仏習合というのは明治時代に廃仏毀釈でつぶされていきましたから、何でここだけ残っているんだろう。」と、解説を交えながら疑問点を出して下さった。
 石段を降り、鳥居をくぐって全権代行と合流。そして11時44分、再び出発した。段々と雲行きが怪しくなり、雨が降りそうな気配がしてきた。

しだくら橋
 雨も気がかりであるが、私どものお腹も又、気がかりである。そのため顧問と相談の結果、12時になったらどこかで昼食を取ることにした。
 そう考えて歩いていると、11時49分ごろ、しだくら橋が現れた(26分早い)。吊橋である。

「この橋を渡る際、五人以上で渡らないで下さい。」という看板のある、いかにも揺れそうな怖い橋である。尚、今私はパソコンでこの紀行文を書いているが、「しだくら橋」という表記を、この項の見出し共々「しだらく橋」と書いてしまった。第5回研修のしおりも見てみたら、こちらも「しだらく橋」となっていた。申し訳ない、完全に私の誤った思い込みによるミスである。私が中学1年生の時、地理の授業で「ヒマラヤ山脈」というのを習った。有名である。しかし、私はこれをどういうわけか「ヒラヤマ山脈」と覚えてしまい、定期テストでもそのように書き、×を受けたことがある。よく考えれば、「平山山脈」なんておかしいなと気づいたはずなのだが、カタカナ語というのは間違えやすいものだよ。(つづく)(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

奥多摩をゆく ~文字でふり返る奥多摩研修~ 第17回

2006年02月19日 17時57分34秒 | 【連載】奥多摩をゆく(完結)
白髭神社
 11時12分、白髭神社入口に到着した。白髭神社へは石段を登るようになっていたので、構成員Bが非常に難色を示した。すると、石段の前にいた、例の観光ガイドボランティアと見られるおじいさんが「ここの階段は大したことないよ。」とエールを送ってくださり、私どもは勇ましく石段を登って行った。
 お話の通り石段は非常に易しいもので、11時14分、白髭神社境内に到着した(予定より11分早い)。やはり観光ガイドボランティアご一行がいたが、しばらくしていなくなったので、色々と神社を観察した。
 神社の建物の右横には、非常に大きな石灰岩の断層面が露出しており、壮大な感じがした。高さ約30m、横幅約40mだそうだ。

 顧問が神社の建物のつくりなどについて、いくつか解説して下さった。その後、何人かがお賽銭を入れてお参りされていた。
 19分早い11時21分、白髭神社を出発した。
天候危うし(1)
 しばらく行くと、弁慶の腕抜き岩というものが現れた(11時25分)。高さ3mほどで、腕の通る岩が下の方にあることから弁慶伝説となったようである。試しに私が穴に腕を通してみたが、余裕であった。
 耳神様を越え、どんどん歩いて行った。すると11時29分、お隣に青梅街道が現れた。全権代行が青梅街道の白髭トンネルの方に向けて、携帯電話を構えた。写真撮影をされるようだったが、顧問が驚いて「全権代行どうしたの?トンネルなんかとって面白いの?」と私に耳打ちされた。私は「いや、きっとあれだと思います。」と言って、はるか上の方にある橋梁を指差した。

その橋梁は写真のように、異常な高さで架かっていたので、顧問はまたも驚かれて少々感激していた。これも、やはりダム建設鉄道線路のようである。よくこんなものをつくった、と私も感激してしまった。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

新シリーズ小笠原 最終回(第25回)

2006年02月18日 17時07分37秒 | 【連載】新シリーズ小笠原(完結)
濱江丸

3日目(7)
濱江丸の章
 1時30分乗船し、兄島を出発して父島二見港へ向けて出発した。2時28分頃、父島境浦海岸沖合いに至り、沈没船を目撃した。
 これは濱江丸(ひんこうまる)というそうで、大戦中は南方方面に物資輸送を行っていた。しかしサイパン陥落前々日の昭和19年6月12日、サイパン北方で爆撃され、操縦不能に陥り1ヶ月太平洋をさまよった。その後復旧し北上したが、7月末、父島近海で雷撃機による魚雷を受けたが撃沈はせず、境浦沖合いに座礁して乗組員は陸にあがったという。
 昭和38年のチリ地震の津波で海岸近くの現在地に流され、その後放置されて現在はだいぶ沈んでいる状況である。
 3時5分頃、二見港に上陸した。(おわり)

※お知らせとお詫び※
 筆者、会長就任による多忙のため、及び本連載への人気が低迷していることを受け、本連載は今回で打ち切ります。ご愛読下さいました皆様、突然の終了となり大変申し訳ありません。
 今後は連載中の「奥多摩をゆく」をはじめ、さらにクオリティーが高く楽しめる記事を書いてまいりますので、本ブログ御愛読のほど、何卒宜しくお願い申し上げます。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

鉄道大回り乗車の旅(八高線編)その9

2006年02月17日 21時30分34秒 | 【連載】鉄道旅行記
高崎線は行く(2)
 倉賀野。上り電車は隣のホームなので、そちらに移動。ホームの案内表示には大宮,上野のほかに新宿や横浜方面といった行き先があった。湘南新宿ラインが開通してからはこのような行き先の電車も来るのである。ホームには高麗川行きの列車がやってきた。もちろんキハ110系。客を少し降ろしてすぐに発車していった。高崎側にはEH200型電気機関車らしきものが停まっていた。奥のホームに高崎方面行き電車が到着。車両はE231系だった。こちら側にも、もうそろそろ電車が来るだろう。
思ったとおり電車が近づいてきた。遠目で見た感じだが車両は211系らしい。私は車両がクロスシート車かどうか確かめるため端の方へ移動した。車両は5両×2編成の10両。大宮側の5両はロングシート、つづいて高崎側5両はいかに…。
 全バツだった。どちらもロングシート。ということで相談の結果、途中の籠原まではこの電車で行くことになった。
 高崎線211系に乗車。電車は倉賀野を発車した。再び鏑川を渡り、右に北藤岡を見つつ通過。関越自動車道をくぐり新町に到着。ここから本庄まではひたすら真っ直ぐでカーブらしいカーブがない。私はほかのメンバーと籠原で降りることを確認して、後ろの車両に移った。9号車はM(電動)車だがエアーコンプレッサー(CP)の音がうるさい。10号車はMc(電動制御)車。私はここに座った。神名川橋を越え神保原(じんぼばら)に到着。ここからはATOS(「アトス」と読む)区間に入る。車窓の景色は本線沿いなので、住宅が目立つ。本庄に到着。ここで特急「水上・草津」3号上野行きの接続待ちのため7分間停車。電車は車内保温のため、ドアが開かない。すると、車外に大学生らしい集団がいるのだが、ドアが開かないことに戸惑っている。開け方は分かっているみたいだが、ボタンをしっかりと押さないと開かないというものなので、軽く押しただけでは開かないのだ。この集団はしっかり押し切っていないがために、ドアが開かないのである。そこで、私は内側からドアを開けた。すると、この方々からは「ありがとう」と言われた。特急電車は5・6分ほど遅れているらしく、この電車は特急の後に発車することになり、ここで5分ほど遅れることになった。
 5分ほどして特急「水上・草津」3号上野行きが来た車両は185系古い部類の電車である。特急電車は本庄を発車。この電車もすぐに発車する。高崎線では半自動時は発車間際にドアを開く方式で、八高線とは逆である。
 本庄を発車。次は岡部。ここまでの遅れを取り戻すため、飛ばしてゆく。岡部を発車し、次は深谷。深谷の次が籠原である。深谷を発車したあたりで、私はほかのメンバーがいる車両に戻った。放送部長と構成員Aはゲームをしていた。
 籠原に到着。この電車は後ろに5両をつなぎ、15両で上野に行く。私たちは電車を降り、後ろの増結車両を見ることにした。後ろの車両もロングシートだった。そのため、次の上野行きに乗ることにした。211系は一度ドアを閉めた。いよいよ連結である。後ろから211系5両が到着。双方共に非常口を開け、作業員の方が、連携を取りながらゆっくりと近づいてゆく。残り1メートルほど、連結は、遅すぎると噛合わないし、速すぎると追突事故になる。速度を微調整して連結器が接続される。「ガチャン」と音が鳴り後ろの電車にわずかな衝撃が走る。連結完了だ。15両になった211系は上野に向けて5分ほど遅れて発車していった。
                                (つづく)
                          著者:研究関連担当代表
PS.掲載されている写真はこの際に撮った物ではありません。

鉄道大回り乗車の旅(八高線編)その8

2006年02月17日 00時33分12秒 | 【連載】鉄道旅行記
八高線は行く(6)
 寄居に到着。列車交換のため、発車まで10分ほどある。そのため私と放送部長は一度列車から降りることにした。例のごとくドアを開けてホームに降りる。ホームが低いため、車両にはステップがついている。外ではエンジンのアイドリング音が聞こえるので、一見バスのようにも見える。ホームが低いことから車両の床下が見える。そこからエンジンが見ると、やはり回っていた。今首都圏では、ディーゼル車の排ガス規制がされているが、鉄道もやはり対象なのだろうか。
 隣には東武東上線と秩父鉄道線がある。双方共に電化されている。この路線は依然非電化だ。ホームの時刻表は非常にローカル的なもので、1時間に1本とない。しかも年中同じダイヤなのである。(平日も休日も関係なし)ホームの看板も昨日の写真の通りどこか国鉄チックである。昔はここを5・6両編成が走ったというが、今では考えられない。
 そんな事で、すぐに時間が経ってしまったので、高麗川行きの列車が来た。入線するところを取るのもおつだが、そんな事をして列車に行かれてしまっては大変なので、すぐに車両に戻った。
 列車は寄居を発車。隣を秩父鉄道線が走っているのだが、電化されている線路は分かっても、その存在に最初は誰も気づかなかった。途中で、貨物列車とすれ違った気がした。ちなみに秩父鉄道を走っているのは国鉄の101系と元東急車、そして蒸気機関車(SLパレオエクスプレス)である。この先用土、松久、児玉、丹荘と進んでいく。乗客は次第に増えてゆく。この区間の途中で私はトイレに行った。
 児玉に到着。ここの看板は国鉄時代から変わってないそうな。ここまで、八王子から約80キロほど。寄居あたりが高麗川-高崎間の中間点で、ここまでが45分ほど。踏み切りも数多く越えてきたので、八王子からまもなく100箇所目に突入する。しかしその100箇所目がどこにあったかは知らない。丹荘を発車し、神名川橋りょうを渡る。ここからは群馬県だ。
 群馬藤岡。この駅前は多少栄えているようで、イトーヨーカ堂があったここでこの看板を見ることになるとは・・・。八高線もあなどれない。群馬藤岡を発車。車内は混雑し始めいよいよ立ち客が現れた。上越新幹線、上信越自動車道をくぐりいよいよ北藤岡に到着した。隣は高崎線の線路がありここからは実質的な高崎線になる。(「八高線は行く」おわり)

高崎線は行く(1)
北藤岡を発車。高崎線に合流。頭上に架線が復活し、電化路線をマスコンフルノッチ(アクセル全開)で加速してゆく。一度本線と別れ、単線のまま鏑(かぶら)川を越える。再び本線が右に出てきて3車線の中を2両編成のディーゼル気動車が快走する。そして列車は静かに減速してゆくいよいよ八高線の旅も終わりだ。降りる仕度をして、到着を待つ。
 倉賀野に到着。私たちは列車から降りた。ここのホームもキハ110系に合わせて低い。キハ110系は再びエンジンを唸らせ、高崎へ最後の駅を発車していった。ここからは本格的な高崎線。列車が来るまで少しかかりそうだ。
                                (おわり)
                          著者:研究関連担当代表

PS.2月16日から新しい役職に正式に代わりました。それに伴い、一部構成員の名義が変わります。
 2/10現在 → 2/16より
    会長 → 渉外担当代表
研究関連担当代表 → 会長
総合統括副代表 → 研究関連担当代表
会長全権代行 → 会長全権代行
出納担当代表 → 出納担当代表
                  その他変更はありません。

ダイジェスト国分寺研修旅行 下

2006年02月16日 22時15分47秒 | Weblog
国分寺市Ⅱ
 現在の国分寺を見学し、続いて「史跡武蔵国分寺址」を訪れました。建物などは建っていなく、石碑などがあって当時をしのぶことが出来る場所でありました。
 そして、近くの国分寺市立第四中学校敷地内にある「国分寺市立文化財資料展示室」を訪れました。国分寺市内に分散している、小規模展示室の3つめですが、一番新しくて綺麗な展示室でした。
 その後、さらに南下して府中市に入り、府中刑務所北の三億円事件発生現場付近を訪れました。

 府中街道を北上し、武蔵国分尼寺址を見た後、伝鎌倉街道を通りました。先生によると、かつては舗装がされていなく、大変趣きのある道であったそうです。

 こうして、小平・小金井・国分寺・府中市を舞台とした「第8回特別研修旅行」は、古代・中世・近世をしのびながら終了しました。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

東山道武蔵路

ダイジェスト国分寺研修旅行 中

2006年02月15日 22時58分54秒 | Weblog
国分寺市Ⅰ
 国分寺街道を南下し、一時小金井市に入った後に国分寺市域に入った私どもは、「国分寺市立民俗資料室」を訪れました。たった1室に、国分寺市で江戸時代などに使われた農具等が置かれた、大変小さい施設でした。この現状は、悲惨すぎますよ。来館記録を見ると、1日平均1・2組程度しか来ていないことがうかがえました。

 さて、さらに南下し国分寺駅北口に至った私どもは、マクドナルドで昼食をとりました。

 食後、先生のご案内のもと、丸井の8階へ向かいました。郷土博物館がない国分寺市は、先ほどの民俗資料室のようなこじんまりした施設や、ここ丸井8階のほんの一部を使った「こくぶんじの歴史と文化財」という展示で、歴史的資料をカバーしているという、大変情けない状況なのでした。

 国分寺駅を出発し、私どもはお鷹の道へと向かいました。冬であるため、湧水が枯れているのではないかと危惧されていましたが、わずかながらも何とか水があり、趣きを感じながら散策いたしました。

真姿の池
 
 そして現在の国分寺を訪れ、文化財保存館や万葉植物園、薬師堂などを見学しました。(つづく)(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)


新シリーズ小笠原 第24回

2006年02月14日 13時49分05秒 | 【連載】新シリーズ小笠原(完結)
兄島で

3日目(6)
兄島の章
 この後、1時30分頃まで自由時間となり、海で遊んだり休憩をしたりした。(つづく)(執筆:研究関連担当代表)

鉄道大回り乗車の旅(八高線編)その7

2006年02月13日 22時50分41秒 | 【連載】鉄道旅行記
本日2発目です。
八高線は行く(5)
 小川町に到着。今度は東武東上線と接続している。ここから寄居までは、東武線との競合区間だが、電化の東武と非電化の八高、スピード、運賃共に到底勝ち目がない。あるとすれば乗り心地のよさだけであろうか。小川町は八高線では乗客の多い駅である。確かに数人の客が乗降をしていたように見えた。
 小川町を出発。次は竹沢。この区間のほとんどを東武線と並走する。分岐してすぐが東武竹沢の駅。こちらは竹沢駅に入る。このあたりは無人駅もある。
 竹沢を発車。次は折原。このあたりで少し車内を探索した。私たちが乗っている車両は椅子がグレーがかったシートだが、後部車両は赤みがかっている。
 ←このとおり。
後ろには乗務員室があり、そこには車掌がなんと3人もいた。また戻ってくると、トイレの外壁に温度計があり、それによると25℃近くまで上がっていた。やけに暑いわけである。すると放送部長がトイレに入っていった。その間に折原に到着。放送部長が出てきて暑かったのか、ドアを開けて涼んでいた。少ししたらまた閉めて席に戻っていった。
 折原を発車。次は寄居である。私は席に戻らず最前部へと向かった。傍から見れば若いもんがうろうろしているように見えてであろう。余り快い光景には映らなかったかもしれない。その後に席に戻った。
 寄居に到着。ここですれ違いのため、7分間の停車をする。私と放送部長は一度列車から降りることにした。
                                (つづく…)
                            著者:総合統括副代表

鉄道大回り乗車の旅(八高線編)その6

2006年02月13日 22時50分21秒 | 【連載】鉄道旅行記
 少し記憶が薄れ始めています。急がなくては…。
八高線は行く(4)
 毛呂。高麗川の次の駅に着いた。何だか変な名前だが、これは町の名前から取っている。ちなみに町名は毛呂山町。この名前について、構成員がひらがなだとなんかおかしいよねと言った。確かに「もろ」では変だ。乗降客はまばら、そもそも乗客もまばら。しかしラッシュ時は3両編成でも立ち客が出るという。(都幾川に住むいとこの話)なんとも寂しい駅だが、近くには埼玉医大もあるのだ。次は「越生(おごせ)」東武線との接続駅である。左に道路を望み、途中から東武越生線と並走する。東武線は電化、八高線は非電化、ここだけ時代が変わっていないようである。
 越生。隣の東武線からは池袋行きも出るのにこちらは高崎行き。客は東武線の方が多いのだろう。なにせ八高線は90分間隔なのだから。駅についてもドアは開かない。自分で開けるのである。発車の際もベルはならない(いわゆる無音発車)で、車掌の笛だけ。しかもワンマン運転ならいきなり発車するかもしれない。しかし、乗り遅れても、待ってと言えば止まってくれるらしい。これも都市部では考えられない。なんせ、普通はドアが閉まればどんなに急いでいても無情にも発車してしまうのだから。
 さて、越生を発車。次は明覚である。ここは、先ほど述べた都幾川のいとこが使っている駅である。私は「みょうかく」を「みょうがく」と間違えていた。車窓は林あり田んぼあり荒野ありの景色が続く。いわゆる武蔵野の縁で、もっと言ってしまえば、関東JR線の外枠と言ったところだ。車内は蒸し暑くなってきた。窓からは想像以上に日光が差してくる。カーテンを閉めてもいいのだが、せっかくの景色が台無しになる。
 各駅間は1区間平均7分かかる。そのため、居眠り運転を防止する装置がついている。いわゆる「EB(イービー)」と呼ばれるものだが、前回述べたとおり、この列車は運転席の音が筒抜けに聞こえるので、その他の安全装置の音もすべて聞こえてくる。例えばEBだとブザーの後5秒以内に応答がない(何も操作しない)と強制的に停車させる装置である。私は、列車運転シミュレーター(「電車でGO!」のようなもの)を持っていて(パソコンです)安全装置の警報音とその後の列車の挙動を覚えているので、条件反射的に身構えてしまう。
 明覚に到着。周囲は大きな集落がある。どこも駅前は少し栄えている。列車はすぐに明覚を出発した。次は小川町。10分間の長時間行程だ。この区間はほぼ道路に沿って線路が敷かれている。直線もおおいがカーブはきつい。どのくらい経っただろうか。余りに距離が長いので、「もう小川町を出ましたか。」と聞くと、放送部長が「多分出た」と言う感じの応答をしたのだが、実際にはまだ着いていなかった。10分は長い。
 まもなく小川町に到着する。
                              (つづく…)
                      著者:総合統括副代表(2/10現在)

会長が辞任 本日 新会長就任

2006年02月13日 22時09分32秒 | お知らせ
【代表部13日(月)発表】
 本同好会会長が一身上の都合により会長職を辞任する意思を固め、2月8日(木)に辞表を提出しました。このため、即日、第3回会長選出選挙が実施されました。
 立候補者は研究関連担当代表(2年)と総合統轄担当副代表(1年)の2名で、会長選出選挙はじめての一騎打ちとなり、投票の結果、研究関連担当代表(2年)が新たに会長に就任する事が決定し、本日13日(月)、第3代会長に就任しました。

 前会長の辞職に伴い前代表部は昨日総辞職し、本日、新代表部が成立しました。

<新代表部人事> 
 会長:元研究関連担当代表(2年)
 会長全権代行:会長兼任(臨時代行)
 出納担当代表:会長兼任(臨時代行)
 研究関連担当代表:会長兼任(臨時代行)
 渉外担当代表:会長兼任(臨時代行)

 広報・特別研修旅行の各事業担当者会人事は、前代表部の通り留任とする。尚、映像番組制作事業担当者会は12日(日)付けで廃止とする。

 今回の出来事が突然の事態であり、且つ、第8回特別研修旅行が昨日実施されたことなどから業務が煩雑である状況のため、全役職を新会長が臨時兼任代行しております。16日(木)に役員補任を実施し、正式な人事を決定する予定です。

 尚、本日からの記事においての署名は、新人事決定までの間、新会長以外は前代表部時の役職を記載します。(執筆:会長<元・研究関連担当代表>)

ダイジェスト国分寺研修旅行 上

2006年02月12日 22時48分32秒 | Weblog
プロローグ
 本日、社会科同好会では「第8回特別研修旅行 ~国分寺市方面~」を実施し、東京都小平市・小金井市・国分寺市・府中市を訪れました。
 そこで本日から3回に渡って、今回の研修旅行について簡単に報告いたします。詳しい報告(紀行文)は、4月発行予定の「部報 JS社会」第3号に掲載する予定です。又、準備が整った場合は本ブログでもお伝えする予定ですので、ご期待下さい。
玉川上水
 今回は午前9時35分に、西武国分寺線・鷹の台駅裏の小平市立中央公園に集合しました。しかし1名が遅刻し、又、もう1名が参加か不参加かが不透明な状況となってしまい、10分ほど遅れての出発となりました。
 まず訪れたのは、小平市立ふれあい下水道館です。

 ここは地下20メートル近くまでもぐることが出来、実際に下水道管の中に入って、下水の様子・においを体感することが可能な画期的な施設です。

 又、自館所蔵資料は少ないのですが写真パネルで様々な資料・写真が展示してあり興味深いものでした。本同好会は玉川上水をこの1年間追い続けていたため、羽村市立郷土資料館や東京都水道歴史館、小平ふるさと村などで見たことのある資料が多くあり、これまでの総集編というかたちになりました。
 玉川上水沿いに歩き、上水桜橋を越えて、わき道にそれました。本校の付属中学校と言われている「小平市立上水中学校」の周囲を見学するためでした。

 上水中学校から上水高校にたくさんの生徒が入学し、本同好会へ入部して下さればと思います。
 その後、私どもは喜平橋まで歩き、そこからは国分寺街道を南下し、一時小金井市に入った後に国分寺市域へと入りました。(つづく)(執筆:研究関連担当代表)

建国記念日と吉野家記念日

2006年02月11日 16時22分09秒 | Weblog
川越・喜多院(平成17年2月撮影)

 本日は建国記念日であります。本年は土曜休みと重なってしまい、あまりありがたみを感じないのですが、お祝い申し上げます。
 さて本日2月11日は、建国記念日である以外に、2つの大切な意味を持った日となっております。
 1つ目が、本同好会の第1回特別研修旅行実施から1周年ということです。丁度1年前の本日、埼玉県川越市にて研修旅行を実施しました。それから1年。これまでに7回の特別研修旅行を行い、明日は第8回目、3月には第9回目が予定されています。第1回特別研修旅行については「部報 JS社会」第1号でご報告されていますので、どうぞお読み下さい。
<参考:これまでの特別研修旅行>
 第1回:川越市方面(平成17年2月11日)
 第2回:立川防災館(4月4日)
 第3回:小平グリーンロード(5月15日)
 第4回:東京都心・日本の中枢 ~今と昔と、水と放送と政治と~(7月16日)
 第5回:奥多摩むかしみち(11月6日)
 第6回:東京都水道歴史館(11月20日)
 第7回:羽村市方面(平成18年1月7日)
 第8回:国分寺市方面(2月12日) <予定>
 第9回:横浜市方面(仮称:3月19日/21日) <予定>

 2つ目は、吉野家牛丼販売停止2周年であるということです。あの味とお別れしてから、もう2年になるのです。昨年2月11日には1日限定で牛丼が復活しましたが、川越研修と重なり食べることが出来ませんでした。そのため、今年2月11日からの牛丼復活を大変待ち遠しく思っていましたが、皆様ご存知のような事態となってしまい食べることが出来ません。
 吉野家の牛丼の早期復活を願い、本日は日の丸ではなく、吉野家の写真を掲げ申し上げます。

後楽園店(平成17年11月撮影)

青山店(平成18年1月撮影)

 皆さま、良い祝日の1日をお過ごし下さい。(執筆:研究関連担当代表)