ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

尖塔に黄金の風見鶏が設置 ノートルダム大聖堂 フランス・パリ

2023-12-21 20:17:03 | フランス物語

【AFP=時事】フランス・パリで16日、ノートルダム大聖堂(Notre Dame Cathedral)の新しい尖塔(せんとう)に黄金の風見鶏の像が設置された。
ノートルダム大聖堂は2019年の火災で壊滅的な被害を受け、大規模な修復作業が続けられおり、来年12月に一般公開の再開が予定されている。
 風見鶏の像は青空に冬の日差しが降り注ぐ中、高さ96メートル地点にある尖塔に向かってつり上げられた。
 デザインは、再建事業の主任建築家フィリップ・ビルヌーブ(Philippe Villeneuve)氏が手掛けた。もともと設置されていた像は、火災で大きく損傷したため修復できなかった。
 ビルヌーブ氏は、新しい像の「炎の翼」は「大聖堂は不死鳥のように灰の中から生まれ変わることができる」ことを思い起こさせると述べた。
 像には、2019年4月15日の大火災をまぬかれた遺物や、大聖堂の再建に携わった約2000人の名前が記された封書が収められている。
 今月6日には、尖塔に装飾の施された十字架が設置された。【翻訳編集】 AFPBB News

もともと、尖塔など、大聖堂の改修案には、いかにも現代風の突飛な意見も存在していたのですが、普通の補修案が通って本当によかったです。
この風見鶏には、再建に尽力した人々の多様な気持ちが詰まった「ささやかで控えめな自己主張」がこめられているようです。

 

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アイルランド 自然・歴史・物語の旅

2023-12-20 20:44:33 | ヨーロッパ旅行記

 

アイルランド 自然・歴史・物語の旅

渡辺洋子 著

三弥井書店 発行

平成26年10月14日 初版発行

 

この本は第1部では地図を片手にアイルランドを旅しながら、行く先々の自然やそれにまつわる歴史、伝説、物語を紹介するという、いわゆるディンシェンハス(名だたる土地にまつわる伝承)の旅です。

第2部ではアイルランドの伝承の中でも最も人気のある英雄、フィン・マックールの物語を読みながらアイルランド各地を訪ねています。

 

第1部 アイルランドを旅する 旅のガイドブック

アイルランド本土には、ローマ人の侵攻はなかったが、アイルランド東部の沿岸の島々には、ローマ人の商人が渡来していた形跡が見られる。

 

第1章 首都ダブリンとその周辺

1 ダブリン市歴史散歩

わずかに残るゲルタハト(日常的にアイルランド語を話す地域)を除いては、全島民が英語を話している。

2 ダブリン市のランドマーク

3 ダンレアリー・ラスダウン地区

1807年、ダブリン港を出てイギリスに向かう二隻のイギリス客船が風に流され、ダンレアリー沿岸の岩礁にぶつかり、400名の命が奪われた。この事件を機にそれまで小さい村だった、ダンレアリーが発展することになる。

1817年から1857年の40年をかけて、現在のような西と東の埠頭を持つ港が完成する。

1821年に当時のイギリス王ジョージ四世が建設中の西埠頭からアイルランドに上陸したため、その後の100年間、ダンレアリーはキングスタウンを呼ばれるようになる。

1921年自治を獲得した後、名前はダンレアリーに戻る。

4 フィンガル地区

マーテルロー・タワー

イギリス軍が1804年から6年にかけて、ナポレオンの進軍に備えて、防御用の要塞としてアイルランドの主に東岸に建てた塔。ジョイス博物館もその一つ。

 

第2章 ボイン川を下る旅

1 ボイン川発祥の伝説

2 トリム城とその周辺

3 タラの丘

4 ニューグレンジとノウス

5 モナスターボイス

6 メリフォント修道院

7 ドロヘダ

 

第3章 「固い土」と「柔らかい土」 コネマラの泥炭地とバレン高原

1 泥炭地コネマラ

カイレモア・アビー

2 ゴールウェイ市

3 バレン高原

4 アラン諸島

 

第4章 山と海に囲まれた隠れ里 ディングル半島

1 地勢、気候、暮らし

2 リング・オブ・ディングル歴史探訪

オガム文字は四世紀から六世紀頃に使われていた、アイルランドで最も古い文字で、一本の直線の上下に、あるいはその線をクロスした、数本の短い線の組み合わせでアルファベットを表すものである。

 

第5章 シャノン川をさかのぼる

1 シャノン川

アイルランドの中央部を北から南に流れるアイルランドで最も長い川

2 リメリック市

3 クロンマックノイス

4 アスローン

アイルランドのちょうど真ん中にあり、交通の要衝として、流通業が盛んである。

5 リー湖

6 カリック・オン・シャノン周辺

 

第6章 スライゴー 不思議の世界への入り口

1 スライゴーの歴史

2 スライゴー市

3 スライゴーとイエイツ兄弟

4 スライゴー南西部 ノックナリーとキャラモア

5 ギル湖周辺

6 スライゴー北部 ベンブルベン山の麓

 

第7章 共和国の離れ小島 ドネゴール県

1 ドネゴール県の歴史と地形

2 ドネゴール沿岸の風景を楽しむ

3 トーリー島

4 ドネゴール山岳地帯を行く

 

第8章 最北の風景と歴史 北アイルランドを旅する

1 アルスターの歴史

2 ベルファスト市

3 デリー市の歴史

1618年に完成した城壁都市は、レイアウトも城壁も当時のまま残っていて、しかも現役である。これはアイルランドだけでなくヨーロッパでも稀有なことである。

4 アルスター沿岸の風景と伝承を楽しむ

 

第2部 フィン・マックールと旅する フィンの物語を読む

第1章 アイルランドの伝承文学について

アイルランドの伝承文学は古い時代に書かれた写本に残る物語と、農民たちが口承によって語り伝えられた物語の二つに分けられる。

 

第2章 写本に書かれたフィンの話を読む

1 フィン・マックールの誕生から少年時代

2 知恵の鮭

3 フィンがフィアナ戦士団の団長になる

4 ナナカマドの魔法の館

5 ヂアムジとグローニャの追跡

6 ガウラの戦い

 

第3章 アイルランドの民間伝承のフィンの話を読む

1 鍛冶屋ルーン・マック・リーファとフィンの仲間

2 フィン・マックールと小さい男たち

3 フィンの誕生

 

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地中海幻想の旅から 辻邦生 著

2023-12-17 20:30:46 | ヨーロッパ旅行記

 

地中海幻想の旅から 

辻邦生 著

第三文明社 発行

レグルス文庫187

1990年5月30日 初版第1刷発行

 

地中海沿岸国やパリを中心とするフランスなどへの旅のエッセイ集です。

 

Ⅰ 地中海幻想の旅から

世界で最も美しい街としてシエナをあげる人が意外に多い。深く谷の入りこんだ丘の背に黄褐色の壁と、乾いた赤屋根が層々として重なって城塞のような町の景観を作り上げ、その家々の上に、空中に浮かぶ白い船のように、美しいドゥオモ(司教座教会・カテドラル)が姿を現している。

 

アルジェリアの奥地にある古代ローマのティムガドを歩いているとき、図書館だったという半円形の遺構を見たが、私はその瞬間、数本の円柱のほか、何もないその空間に、無数の本がひしめいている様を見るように思った。そこにプラトンもあれば、ギリシャ悲劇もあり、ローマ盛時の文人たちの著作がぎっしりと並んでいて、机の前では白い寛衣を着た人々が、時間を忘れたように、そうした本に読みふけっていた。

 

信仰であれ、思想であれ、それが〈この世〉で存在権を得るためには、〈党派性〉を必要とする。しかし信仰なり思想なりは、各人の自由な参加によって初めてそれが光となる。本来、信仰や思想には強制はあってはならず、したがって〈党派性〉はありえないはずなのだ。この矛盾は現在まで続いていて、なお、なまなましい傷痕をさらしていはいないか。信仰、思想の〈自由〉と〈党派性〉は永遠に解決しない問題なのか。

 

『背教者ユリアヌス』の中で、何度か北アフリカのことを「ローマ帝国の穀倉」と書いたが、北アフリカが古代には豊穣な土地だったが、次第に砂漠化したのだろうと思っていた。

しかし私が旅を続けて、アルジェからセティフにゆき、セティフから美しいジェミラの遺跡を経てコンスタンティーヌにゆくにつれて、こうした考えがいかに間違っていたかを理解した。

穀倉は野を越え、丘を越えて、なお遥かに連なっていたのだ。

 

パリで北杜夫に5回あっている著者。

 

Ⅱ フランスの旅から

1957年、マルセイユからパリへの急行列車

自分が乗り、車窓の外を走ってゆくフランスの田園風景を見ていると、私は、何度も夢を見ているような気持になった。広い耕地と、明るい森と、ゆったりとした川と、ポプラの並木、赤い屋根の並ぶ村落、どこにも人間が見当たらなかった。印象派の絵にあるような雲が、のどかに森の向こうに浮かんでいた。

「この世に、こんな幸福な瞬間があるのだろうか」わたしはフランスの山野を汽車の窓から眺めながら、真実そう思った。

 

一瞬のうちに愛の真実を生きた人にとって、その結果がどうであろうと、ともかく生きるに価した生があったのである。p68

 

打ちひしがれたアルジェリア人や、眉と眉の間に深い皺を刻んだ女が、そのどうにもならぬ宿命の重さを。形にくっきりと表し、足を引きずるようにして、魚屋や八百屋の呼び声でにぎわうルピック街をのぼってゆくのを見たとき、彼らを待っているのは、いったいどんな部屋だろうか、と思ったものだった。

そこには一つのドラマがあり、ひとつの詩があった。そしてこうした生が描き出す深い感動に比べると、セーヌ河の向こうの、カルチェ・ラタンの知的スノビズムなどは、色あせた、退屈な、虚栄と自尊心の混淆のように見えてきて、本を買いに行く外は、あまり近づく気にはならなかった。

 

パリの女性的な伝統に対して、世界でも珍しい革命の伝統をもっている。中世にもしばしば領主と争った自由市だったが、ルイ王朝の治世で最大の叛乱だったフロンドの乱もパリ市民の蜂起がきっかけとなっている。1789年のフランス大革命から19世紀の三大革命(七月革命、二月革命、パリ・コミューン)までいずれも主体はパリ市民だ。

 

1968年の夏の終わりのパリ。

カルティエ・ラタンでは、パリ名物の石畳の道の上を、アスファルトで厚く覆う工事が進んでいた。五月事件の激しさを物語っている。

この都市は『ハドリアヌス帝の回想』で日本でも読者のあるユルスナル(ユルスナール)女史が『黒の過程』で全員一致の票を得てフェミナ賞に推された。

 

パリに残る12世紀フィリップ・オーギュストが建てた城壁の一部

現在、城壁の裏手の通りはカルディナル・ルモワーヌ通りと街と呼ばれているが、これは昔の聖ヴィクトール堀(フォッセ)である。

城壁に沿って堀が続いてきたわけで、その堀を埋め立てたあとを道にして、何々堀通りと呼んでいるのである。

 

ゴシックの観念を象徴する、天にそそり立つ大尖塔や、尖塔形の窓などは、神へ近づこうとする人間の意志を表していると説明されるが、単にそれだけでなく、超地上的な世界の壮麗さ、永遠の厳しい相貌、最後の審判に到る時間を収斂した劇的空間性といったイデーを、全体的に象徴している。

 

Ⅲ 北の旅 南の旅から

ロシア、ハドリアヌスの城壁、インドなどの旅

 

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星の王子さまの眠る海

2023-12-13 21:10:14 | フランス物語

 

星の王子さまの眠る海

エルヴェ・ヴォドワ

フィリップ・カステラーノ

アレクシス・ローザンフェルド 著

香川由利子 訳

ソニー・マガジンズ 発行

2005年8月10日 初版第1刷発行

 

1944年7月31日コルシカ島からフランス南東部サヴォワ方面の写真偵察に飛び立ち、そのまま消息を絶った「星の王子さま」の著者、サン=テグジュペリ。

この本は1992年に行われたサン=テグジュペリ搭乗機の初の本格的な捜索作業から、1998年のブレスレット発見とその真贋をめぐる一連の騒ぎ、2000年の搭乗機発見、2003年の残額引き揚げ作業、そして翌2004年の最終確認まで記録しています。

美しい表紙と違って、内容は関係者の間のドロドロとした騒動が目立っています。

どうしても発見者や捜索者の視点になってしまうので、サンテックス(サン=テグジュペリの愛称)の遺族側はどうしても悪役になってしまいます。

でも少なくとも、ブレスレット発見者の漁師のおじさんは、偽造者扱いされてしまった時もあったので、本当に気の毒でした。

なお、原題はSaint-Ex La fin du mystère(サンテックス、謎の終わり)です。

 

プロローグ

1944年7月31日にマルセイユ沖で墜落した飛行機

 

第1章 「星の王子さま」帰投せず

7月31日、離陸前のサンテックスたち。そして行方不明になる。

 

第2章 さまざまな情報に踊らされて

サンテックスの運命に対するさまざまな説

1992年の捜索に反対するがしぶしぶ承認する遺族

 

第3章 奇跡を起こしたマルセイユの漁師

1998年のサン=テグジュペリの名前などが入ったブレスレットの発見

 

第4章 必死の機体捜索にもかかわらず

ブレスレット発見地域海底の捜索

サンテックスの機体はわからなかったが、その過程で古代ローマ時代の難破船(古代ローマのタイタニック号といわれた)を発見する。

 

第5章 ブレスレットは本物か偽物か

ブレスレット発見が日刊紙ラ・プロヴァンスの一面を飾るが、その時発見者はバカンスに出かけていた。

真贋論争で汚名をきせられる発見者たち。

サンテックスがブレスレットを所持していたかどうか証明するためニューヨークに飛ぶ筆者。

 

第6章 相続人から送りつけられた抗議文

ブレスレットの件や、飛行機捜索に抗議する相続人

 

第7章 最初の手がかりを追え!

ライトニングの機体であることを確認

 

第8章 全世界に流れた衝撃のニュース

マルセイユはスキューバダイビングの発祥地。ガニャンとクストーの開発したアクアラングの試作品が、第二次世界大戦中、ここでテストされた。

 

サン=テグジュペリの飛行機の残骸発見のニュースがニュースが全世界に流される。

 

第9章 確認された製造番号「2734L」

型番が、実際にサン=テグジュペリのが乗っていた飛行機と確認できた。

 

日本人ジャーナリストから著者に連絡があり。この件に探りを入れてくる。

「日本では、サン=テグジュペリは非常に人気があるんですよ」

フランスでもそうだ。

 

第10章 「墜落のシナリオ」を読み解く

サン=テグジュペリの死の真相は今でもわからない。

事故?、失神?、撃墜?、自殺?・・・

 

エピローグ

1944年夏、マルセイユ沖のリュー島に打ち上げられた飛行士の死体。彼はサン=テグジュペリだったのだろうか?

 

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ブダペスト日記 徳永康元 著

2023-12-11 20:20:58 | ヨーロッパ旅行記

 

ブタペスト日記

徳永康元 著

新宿書房 発行

2004年8月10日 第一版第一刷発行

 

山口昌男さんとの古書の話と1939年から1942年、第二次世界大戦の足音がひたひたと迫る中でのハンガリー留学記が特に興味深かったです。

 

Ⅰ ヨーロッパの旅日記から

ハンガリーの読書界近況(1995)

学問的な概説書として、ボーナの『フン族とその大王たち』

考古学の近年の成果を援用して、ハンガリー人の現在の領土カルパチア盆地の先住民だったアッティラのフン族の歴史

 

中央の旅 ハンガリーとドイツ(1995)

ハンザ研究で知られた高村象平氏の『回想のリューベック』に古本屋の老舗の話が出てくる。

 

ハンガリー、イタリアの旅(1996)

 

日洪文化交流史(1988)

ハンガリーの漢字表記は「洪牙利」

日本への初期のハンガリー人渡航者

江戸時代末期の

・ベニョフスキー・モーリツ(ポーランドの独立運動参加の後カムチャッカへ流刑になったが、脱出し四国と奄美に短期間滞在)

・イェルキ・アンドラーシュ(ハンベンゴローという名前でしられる)

ハンガリーへ来た日本人

岩倉使節団はハンガリー訪問は取りやめになった。

日本の憲法制定のため、ウィーンの法学者シュタインに教えを受けに来た時、短期間ハンガリーに滞在したと思われる在野の政治家の丸山作楽や文筆家の福地桜痴

 

Ⅱ 映画・演劇・音楽

東中央の映画(1993)

市電映画の魅力(1996)

外濠線のころ(1997)

モルナールと『リリオム』(1998)

ハンガリーの作家モルナール。その作品『リリオム』を日本へはじめて紹介したのは森鷗外

バルトークのこと(1994)

1940年のバルトークの祖国ハンガリーへの告別演奏を聴いた著者。バルトークはその後アメリカへ亡命しニューヨークで客死

ヴェレシュさんの思い出(2000)

「暗い日曜日」余聞(1996)

この歌はフランスのシャンソンと思っている人も多いが、実はハンガリー人がつくった歌

堀正人先生の思い出(1999)

 

Ⅲ 古書・読書を語る

古本漁りはパフォーマンス 聞き手・山口昌男(1988)

年を取ると、本集めはかえってやめちゃいけない。90になっても、死ぬ二、三日前まで買っていた人が幾人もいますよ。そういう人は、頭がちゃんとしているね。

昭和三十年代後半の神田の古書会館。柳田国男さんなんかも奥さんがついて見えていた。

日本人の書いたヨーロッパ旅行記

明治二十年以降、漢文ではなく散文で書かれる。そして面白いのが二十年代、三十年代で、日本が大国になってからはつまらない。

芥川龍之介の『奉教人の死』

『レゲンダ・アウレア』は芥川のホラではなく実際にあった。12,3世紀の『黄金伝説』

芥川はアナトール・フランスが大好きだったからそれが出てくる『シルヴェストル・ボナールの罪』も知っていたのでは?

座談会 図書館とことば(1980)

座談会 本を読むにも気力と体力がいるぞ(2000)

徳永氏はプルーストの『失われた時を求めて』を七十過ぎてから読んだ。

 

Ⅳ 日記に魅せられて

私の日記論(1994)

インタビュー 日記に魅せられて(1993)

わが青春回顧(2002)

1942年5月、ブダペストからブカレストに出て、ドナウ河を船で渡り、ソフィアでソ連のビザを受け、イスタンブールまでトラックで行きアンカラからソ連領コーカサスに入る。トビリシからカスピ海沿岸のバクー港に着き、船でクラスノヴォック港に着き、そこから中央アジア鉄道でタシケントなどを通り、中ソ国境の天山山脈のを遠くに見てノヴォシビルスクからシベリア本線に入り、ソ満国境の町オトポールに着いた。

 

昭和20年の7月、満州に行くがそこで空襲にあい、逃げる途中で赤痢に罹り、虎石台という寒村の駅でソ連兵が襲ってくるということでみんな逃げて、赤痢の自分は動けなくて一人仰向けに寝て一面の青空を眺めていた。それでも何時間かするとみんな戻ってきて助かった。

 

Ⅴ〔抄録〕ハンガリー留学日記(1939~42年)

 

思い出の記

回想の中の徳永康元先生 山口昌男

徳永康元さんの思い出 坪内祐三

思い出 徳永祥子

 

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