ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯(後半)

2023-12-28 20:11:34 | ヨーロッパあれこれ

(大正13年(10年の誤りか?)3月30日、柳田国男の第1回渡欧を記念するために撮影したもの。前列向かって左から柳田国男、ネフスキー、金田一京助。後列左端が折口信夫)

 

第七章 大阪在住時代

一 宮古島民俗の研究

ネフスキーは宮古群島へ1922年と26年、28年と三度にわたって旅行し、その成果を雑誌『民族』などに発表した。

 

ネフスキーがまだ学生の頃、支那や日本の韻文を知りえた時、露西亜の韻文の特徴の一つである所の、生を讃美し、太陽を歌えるモチーフがほとんど完全に欠けていることに驚いた。物侘しげなところ、憂鬱な感傷的なところを具えている月のモチーフは日本および支那にあっては、極めて普通のものとなっている。

 

ネフスキーがいかなるいきさつから沖縄、しかもその先島である宮古群島に注目したかは正確には不明である。いずれにしても柳田国男や折口信夫、さらには沖縄出身者の影響によることは疑いないところであろう。

ただ問題は、当時の不便な交通機関をものともせず、そこに三度も旅行し、しかも表面的でなしに、言語的な側面から深く取り組み、その成果を中央の専門誌に発表したことである。

ネフスキーはその成果だけでなく、研究態度から見ても、宮古島研究のすぐれた先駆者というべきであろう。

 

二 台湾旅行と曹族(ツォウ)の言語調査

ネフスキーと浅井恵倫は当時台湾の「書かれざる言語」の研究を志し、なんらの予備知識を持たずに、原住民からじかに彼らの神話や伝説を聞き、その音声や文法を導き出すことをめざした。すなわち、言語的法則の探究と民話の紹介という一石二鳥をねらったものであった。

ネフスキーは抜群の音声学的能力をそなえていたので、この調査でもすぐれた成果を上げることができ、ロシア人のなかで南方語の研究に貢献した人としてはネフスキーをもって嚆矢とするのである。

 

第八章 西夏語の研究

「西夏」とは、11世紀から13世紀にかけて中国の北西部、今の寧夏を中心にして甘粛、オルドス地方などを領有した国家で、1227年、十代190年をもってチンギスハンに滅ぼされた。

 

一 ネフスキー以前の西夏語研究

 

二 コズロフによる西夏語文献の発掘

 

三 石浜純太郎との出会い。西夏語の研究

石浜は中国周辺諸地域の言語や文化に関心を示し、文献を集める一方、大阪外国語学校のモンゴル語聴講生だった。ネフスキーは西夏語を研究するにおいて、石浜の蔵書と学識に大いに助けられた。

 

四 大阪在住時代の日常生活

 

第九章 単身帰国とイソ母子のソ連渡航

一 ネフスキーの帰国

ネフスキーはなぜ帰国を決意したか?

柳田は地位の不安定さをあげ、中山太郎はその筋の眼がネフスキーの身の上に光るようになった、と述べている。

しかし最大の動機は、レニングラードにある世界で最も豊富な資料を使って、世界でまだほとんど未開拓の西夏語を徹底的に研究することであったのではないか。

 

二 残されたイソ母子の生活

 

第十章 帰国後の活動

一 西夏語の研究。石浜純太郎あての手紙

 

二 ネフスキーを通じて見た西夏文化

ネフスキーによれば、12世紀の西夏はチベットと中国という二つの文化の影響を受けた。

西夏の人々はチベット語訳を通じて仏教的占星術をよく知っていたが、同時に中国の占星術にも敬意を払っていた。

12世紀の西夏には占星術者をつかさどる特別の役所があった。

 

三 日本語と日本文化の研究

ネフスキーはロシア帰国後、日本語と日本文化について次のような論文を発表した。

「天の蛇としての虹の観念」

虹の語源が「天の蛇」であることを論証しようとした

「ムスクヴィヤからSSSRへ」

日本語の中に入ったロシア語の問題をあつかう

「古代日本の儀礼的詩歌(祝詞)」

「アイヌの民間伝承」

 

第十一章 学者ネフスキーの死

一 当時の日本とソ連の関係

ロシア革命後の日本とロシアの関係は事実上断絶し、シベリアに軍隊を派遣したりした。

 

二 ネフスキー夫妻の逮捕

 

第十二章 ネフスキーの「復活」

1960年、ネフスキーの西夏語に関する論文集『タングート言語学』がソ連科学アカデミーによって刊行された。

その巻頭のネフスキーの肖像写真の下に1892-1938と書かれている。没年がその当時まだ不明だったからか、学者としてのネフスキーの死を示すのか?

 

西夏の言語は、日本や朝鮮、モンゴル、契丹、女真、満州の場合とは違って、構造的に中国語と同じであり、したがって漢字を適用しても少しも差し支えなかったのに、あえてそれをしなかったことの意義をコンラドは強調している。

 

1962年、ネフスキーはソ連最高の国家賞であるレーニン賞を授与された。

 

付録一 回想のネフスキー

(一)柳田国男(1875-1962)

ネフスキーが日本のためにつくしてくれた仕事

・オシラ様の研究

・西夏の発掘事業のことなどを勉強

・沖縄の言語の研究

(二)折口信夫(1887-1953)

(三)中山太郎(1876-1947)

(四)石浜純太郎(1888-1968)

(五)オレスト・ド・プレトネル(1892-1970)

ネフスキーの部屋にはいつも柳田国男先生の写真がかけてあった。

(六)石田英一郎(1903-1968)

(七)高橋盛孝(1899-)

(八)九十九黄人(1894-)

 

付録二 エレナ・ネフスカヤ訪問記

「北極星はあれですか」

「いや、あの星ですよ」彼女はほとんど中天を指さした。そうだ、ここは北国のレニングラードだったんだ。