ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

パリのノートルダム大聖堂再建とその採石

2022-04-16 08:09:00 | パリの思い出

 

 

まずはパリのノートルダム大聖堂再建のニュースです。

仏大聖堂、24年の再開確認 火災3年、大統領修復視察

 【パリ共同】2019年4月のパリ・ノートルダム大聖堂の火災から15日で3年を迎えた。フランスのマクロン大統領は修復に向けた作業が続く現場を視察し、24年に一般開放を再開する目標を改めて確認した。同国メディアが報じた。

 マクロン氏は修復に関わる関係者に対し、作業の進展をたたえ「新型コロナウイルス流行から脱しつつある一方、欧州で戦争が続く中、希望の証しとなる」と述べた。

 大聖堂では天井や壁、床のクリーニング作業が近く完了。今月中旬には一部が崩壊した石造りのアーチ天井を再建するのに使う石材をパリ周辺の採石場で切り出す作業が始まった。

 

続いてフランスアンフォから大聖堂に使用する石の採掘に関する記事です。

 

Notre-Dame de Paris : dans l'Oise, Benoît et Jean-François Horcholle extraient les pierres de la reconstruction


ノートルダム大聖堂:オワーズでは、ブノワとジャン・フランソワ・オルコールが再建のために石を採掘します

Une équipe de France Télévisions s'est rendue dans une carrière de pierres de l'Oise, à la rencontre d'artisans œuvrant pour la reconstruction de Notre-Dame de Paris. Les opérations d'extraction ont débuté, un travail à la fois titanesque et méticuleux.


フランステレビジョンの取材班は、ノートルダム大聖堂の再建のために働いている職人に会うために、オワーズの石切り場に行きました。採石作業が開始されました。これは、超人的で細心の注意を払った作業です。

 

Depuis des semaines, seul dans sa carrière de Bonneuil-en-Valois (Oise), Benoît Horcholle extrait des blocs. Sa concentration est extrême. "C'est une pierre dure, donc elle résiste au gel, aux intempéries. Elle a été sélectionnée pour Notre-Dame pour aller sur toutes les parties extérieures ou exposées", confie-t-il. Les pierres sont en de nombreux points similaires à celles utilisées au Moyen-Age pour édifier la cathédrale. Elles se sont formées il y a 45 millions d'années, quand la mer recouvrait encore le bassin parisien.


ボンヌイユ・アン・ヴァロワ(オワーズ)の採石場で数週間、ブノワ・オルコールは塊を採掘してきました。彼は極度の集中力の中にいます。「それは固い石なので、霜や悪天候に耐えます。ノートルダムですべての外装または露出部分に使用するために選ばれました」と彼は打ち明けます。石は多くの点で中世に大聖堂を建てるために使用されたものと似ています。それらは4500万年前、海がまだパリ盆地を覆っていたときに形成されました。

 

L'émotion des artisans
Le père de Benoit, Jean-François Horcholle, n'en revient pas d'avoir été sélectionné pour les travaux. "On a eu un frisson dans le dos et la gorge un peu serrée, parce qu'on était ému. On est une petite entreprise, quand même. On n'a pas trop l'habitude de travailler pour des monuments si importants", confie-t-il. Les pierres de l'Oise doivent servir à reconstruire la voute, qui s'est totalement effondrée quand la flèche de Notre-Dame est tombée. Une fois extraites, les pierres arrivent à l'usine de taille. Elles sont lavées, scrutées, et en cas de défaut, recalées. Les blocs sans imperfection sont eux découpés. Les tailleurs de pierres entreront bientôt en action pour que Notre-Dame retrouve l'ensemble de ses gargouilles.


職人の感動
ブノワの父、ジャン・フランソワ・オルコールは、彼がその仕事に選ばれて驚きました。「感動したので、背中と喉が少しきつくなり身震いしました。それでも私たちは小さな会社です。このような重要なモニュメントのために働くことに慣れていません」と彼は打ち明けます。ノートルダムの尖塔が倒れたときに完全に崩壊した丸天井を再建するには、オワーズの石を使用する必要があります。採掘されると、石は切断工場に到着します。それらは洗浄され、検査され、問題があれば使用されません。欠陥のない塊が切断されます。ノートルダム大聖堂がすべてのガーゴイルを取り戻すことができるように、石切機は間もなく稼働します。

 

選ばれし恍惚と不安。職人の緊張と心意気を強く感じます。

中世に大聖堂を建設した職人たちも同じような気持ちだったのでしょうね

石を採石し、丁寧に取り扱い、一つ一つ大切に積み上げていけば、破壊された大聖堂も輝かしく復活してくれることでしょう。

 

 

 


遠野の昔話 佐々木喜善 著

2022-04-14 19:06:44 | 小説

 

遠野の昔話
佐々木喜善 著 
山田野理夫 編・散文詩 
宝文館出版 発行・写真
昭和63年5月20日 初版第1刷発行

岩手郡昔話
陸中国岩手郡の昔噺(童話)や口碑伝説

遠野郷の旅びとへの挨拶は猿が石川の早瀬だ。水野葉舟、柳田国男、N.ネフスキー、折口信夫、桑原武夫も挨拶をうけた筈だ。

和賀郡昔話
佐々木の家内の幼時の記憶と、東奥古伝(一名吾妻昔物語)のうちから、和賀地方に縁のある話だけを採ったもの

胆沢郡昔話

鳥虫木石伝
岩手県紫波郡の口碑

 

遠野手帖
一片(ペニイ)ばかりの智慧
独逸の未知のHans Friedrick Rosenfeldという人から突然に一封の手紙をもらった佐々木さん。
英国では「一片ばかりの智慧」として知られている話
Komaki氏から、日本に於いてもまたある物語として知られているが、それが日本に起源を有するものか、欧州の翻訳であるか記憶せず。
独逸にまで名声高き佐々木さんもこの物語を聞いたことがない。自分が蛍の光ならちょうど太陽のように名声高き南方先生に聞いたらどうかという返事を出した佐々木さん。

縁女綺聞
人間の娘と馬や蛇などが交わった話など
(話の内容故やたら…が多い。性の話を書かなかった柳田国男の高潔さを改めて感じた)

佐々木喜善小伝
神田ニコライ神学校でロシア語、そして当時秋田雨雀などのエスペラント語運動に加わり、エスペラント語の学習を始めた。エスペラント語は柳田の勧めもあった。p309

 


フランス大統領選挙第1回投票の結果

2022-04-11 19:38:52 | フランス物語

 

フランス大統領選挙の第1回投票が終わりました。
BBCの記事からです。

 

ポール・カービー、BBCニュース、
パリフランス大統領選の1回目の投票が10日あり、現職のエマニュエル・マクロン大統領が首位に立った。2位には極右のマリーヌ・ル・ペン氏がつけ、両者は24日、この顔合わせとしては前回に続いて2度目となる決選投票に臨む。開票率97%時点の得票率は、マクロン氏が27.35%、ル・ペン氏は23.97%、ジャン=リュック・メランション氏は21.7%となっている。候補者12人のうち、10%を超えたのはこの3人だけだった。多くの有権者は、他の9人について決選投票に進む望みはないと判断し、「戦略的投票」(または「有益な」投票)という考え方を取り入れたとみられる。マクロン氏は歓喜の声を上げる支持者らを前に、「間違ってはいけない、まだ何も決まっていない」と強調した。マクロン氏は明確な差をつけて1回目投票に勝利したが、世論調査では、決選投票は接戦になると予測されている。ル・ペン氏は、マクロン氏に投票しなかった有権者らに対し、「フランスの秩序を回復する」ために自分を支援するよう呼びかけた。
 
極左のベテラン候補メランション氏は、5年前より得票を伸ばした。その結果、決選投票を左右する「キングメーカー」という、似つかわしくない役割を担っている。「マリーヌ・ル・ペンに1票たりとも投じてはならない」と、メランション氏は支持者らに警告した。ただ、他の候補者らと異なり、マクロン氏を支持もしなかった。メランション氏に投票した人は、全投票者の5分の1以上を占める。決選投票の行方を決める立場だが、単純に棄権する可能性もある。今回の大統領選は、フランスを動かしてきた歴史ある2政党、共和党と社会党にとって散々な結果となった。どちらも候補が泡沫のような負け方を喫した。パリ市長で社会党のアンヌ・イダルゴ氏は得票率が2%に届かなかった。 
 
 
 
(過去の大統領選挙における共和党系候補の得票率です)

右派・共和党のヴァレリー・ぺクレス氏も5%を下回った。候補者の得票率が5%に届かなかった政党は、国庫から選挙費用として80万ユーロ(約1億円)しか受け取れない。共和党はそれよりかなり多い額を自前で負担することになる。
 
■決選投票に向けてスタート
これから票の争奪戦が本格化する。ル・ペン氏は、自らよりも強硬な国家主義者のエリック・ゼムール氏を支持した人たちの票を期待できる。同氏は7%を得票し4位に入った。国家主義者ニコラ・デュポン=エニャン氏もル・ペン氏を支持している。これらの候補者の票を合わせると、得票率はすでに33%に上る。一方、マクロン氏の陣営は、いくつかの大規模集会と大々的なテレビ出演を予定している。左派候補たちの多くに加え、ぺクレス氏もマクロン氏を支持している。ただ、社会党候補として過去に1度だけ大統領選に出たセゴレーヌ・ロワイヤル氏は、マクロン氏について、今回は勝利を「つかむ」必要があると述べた。仏世論調査会社IFOPは、マクロン氏が51%、ル・ペン氏が49%を獲得すると予測している。同社のフランソワ・ダビ氏は、これまでにない接戦だとしている。仏テレビ局BFMTVの世論調査はマクロン氏52%、ル・ペン氏48%と予測。仏調査会社イプソスの世論調査は、両者の差がさらに広がるとしている。
 
■マクロン氏の演説
マクロン氏は支持者らを前に、ほっとした表情を見せた。そして、決選投票に向けて、これまでより選挙活動に力を入れると支持者らに約束した。ロシアがウクライナで起こした戦争に多大な関心を払ってきたマクロン氏は、つい8日前に選挙活動を始めたばかりだった。「あらゆる形で極右がこの国の多くを代表している現状では、物事がうまく行っているとは思えない」とマクロン氏は演説。ル・ペン氏に投票した人たちについては、「今後数日のうちに、私たちのプロジェクトがその人たちの不安とこの時代の課題にしっかり答えるものだと納得させたい」と述べた。 
 
■ル・ペン氏は選択迫る
これに対しル・ペン氏は、「偉大な転換」の時を迎えていると主張。4月24日に2つの正反対の考え方に関して、根本的な選択をすることになるとし、「分断と無秩序か、社会正義が保証されたフランス国民の団結かだ」と述べた。ル・ペン氏は、ヨーロッパの多くの人が直面している生活の苦しさを中心に、選挙戦を繰り広げてきた。減税と30歳未満の所得税の免除を約束している。ナショナリズムは前面に出していないが、移民規制、欧州連合(EU)の抜本改革、イスラム教徒による公共の場でのヒジャブ着用について、国民投票を実施したいとしている。今回の大統領選は、投票の2週間ほど前になってやっと関心が高まった。新型コロナウイルスの流行と、ロシアによる戦争のためだった。投票率は、春の日差しのおかげもあって懸念されていたほど低くならず、75%ほどだった。 
 
■ル・ペン氏とロシアの関係 
マクロン氏の演説からは、彼が今後、ル・ペン氏とロシアの関係の濃さを批判することが明らかだ。ル・ペン氏はロシアのウラジーミル・プーチン大統領を非難しているが、前回大統領選の前にはプーチン氏を訪ねており、彼女の政党もロシアから融資を受けていた。仏調査会社エラベの世論調査では、若い世代の有権者の4人に1人がマクロン氏を支持した。一方で、18~24歳の3人に1人以上がメランション氏を選んだ。ル・ペン氏は35~64歳の有権者で最も支持が多かった。マクロン氏は65歳以上の人々の支持を得た。(英語記事 Macron and Le Pen to fight for French presidency)

(決選投票では、基本的にはマクロンさん優位だと思いますが、争点が中道VS極右ではなく、富裕層VS貧困層や、既存勢力VS新興勢力のような見立てになってしまえば、ルペンさんの勝利もなきにしもあらず、という感じです)
 

 

カント先生の散歩 池内紀 著

2022-04-10 07:57:05 | ヨーロッパあれこれ

カント先生の散歩
池内紀 著
潮出版社 発行
2013年6月20日 初版発行

以前、池内さんの「消えた国 追われた人々 東プロシアの旅」という紀行文を楽しく読ませていただきました。その東プロシアから一歩も出なかった哲学者カント。自分は名前だけは知っていても、思想は全く知りません。それでも彼の半生をユニークなエピソードを織り込みながら、平易な文章で描いたこの本も興味深く拝読することが出来ました。
大学での争いや老いの描写は、池内さんの経験も反映されているのかと思うと、読んで切なくなる箇所もありました。

 

私のカント先生の紹介
1724年4月22日、革具職人の息子として、東プロシア(プロイセン)の首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に生まれる。
1747年(23歳)ケーニヒスベルク大学卒業
1770年(46歳)ケーニヒスベルク大学哲学教授となる
1781年(57歳)『純粋理性批判』を出版。その後88年に『実践理性批判』、90年に『判断力批判』を刊行。
1795年(71歳)『永遠平和のために』を出版。 
1804年2月12日、79歳で死去。
p4

第二次世界大戦の終わりまで、たしかに東プロシアは実在したし、ケーニヒスベルクという美しい町があった。歴史の長さでは、
ケーニヒスベルク 約700年
カリーニングラード 約70年
p13

 

カントがイギリス商人であるジョゼフ・グリーンを知ったのは40歳頃と言われている。グリーン家を訪問し、議論した。
敏腕の商人は世情によく通じ、最新情報をいち早く手に入れていた。
カントについては、ひたすら哲学的思考の人と見られがちだが、まるきり違っている。名うての商人から口伝えに、刻々と変化する現実社会を知らされ、最新情勢に基づいて「先を読む」コーチを受けていた。ディスカッションという個人教育を通して、厳しい訓練にあずかった。
またカントはグリーンの商会に投資し、相当の資産を蓄えることができた。p45

カントは俗にいう「遅咲き」の人だった。46歳にして、ようやく母校ケーニヒスベルク大学哲学科教授になった。主著は57歳、64歳、66歳にして世に問うた。
また住居に関しても遅咲きで、自宅を入手したのは59歳の時だった。

 

カント先生は旅行記が大好きで、自分はケーニヒスベルクからほとんど出ず、東プロシアからは一歩も出たことがなかったが、他国のことをよく知っていた。とりわけイギリスに詳しく、ロンドンの通りや広場や橋を、まるで昨日ロンドンから帰ってきたばかりのように言うことができた。p56

ゲーテの『ファウスト』第二部出だしの「玉座の間」では、皇帝を囲んで幹部たちが頭を抱えている。国庫が底をつき、もはやなすすべがない。このとき天文博士の口を借りて悪魔メフィストフェレスが、とっておきの「錬金術」をささやきかける。手っ取り早い金の作り方。いたって簡単であって、新しい紙幣をどしどし出せばよろしい。p113-114
(現代のどこかの国のような話ですね)

目的をとげさえすれば、圧倒的な力に対して膝を屈しても不名誉ではない。そもそも膝は、ときに折り曲げるためにある。p136

 


オーセールのサン・ピエール教会

2022-04-09 06:45:51 | フランス物語

 

画像はオーセールのサン・ピエール教会です。
ファサードの形状が、フランスの聖堂に慣れた目からするとユニークに感じました。
オーセール市のHPによると、「ルネッサンスが感じられる17世紀の古典様式のファサードに由来しています」とのことです。
その一方、後ろの塔はフランスでは見慣れたゴシック様式です。
この教会の周辺地区にはワイン生産者と肉屋の同業組合があり、教会にはそれらの守護聖人である聖ヴァンサンとSaint Cartaud(Cartault?)の彫像があるそうです。

ワインとお肉という、グルメにもありがたい存在ですね。

Diocèse de Sens & AuxerreのHPから、サン・ピエール教会の歴史をたどってみます。
6世紀
修道士の建物が設立される
887年
サラセン人に略奪される
910年頃
ノルマン人に略奪される

11世紀末
修道院の周りに新しい地区が設立され、川でのワイン取引の発展と都市の復興に引き付けられてオーセールに集まったワイン生産者と職人が住む
1107年
小修道院は聖アウグスティヌス修道会の正式な司教座聖堂参事会員に託される
1169年
修道院が建てられる
1174年
教皇アレクサンデル3世によって認められる
1567年
ユグノー(16-17世紀のカルバン派新教徒)によって荒らされる
16世紀末から1672年
ルネッサンス式教会を再建する
1789年
司教座聖堂参事会員が5人だけになる(大革命の影響か)
1793年
修道院は廃止され、礼拝が禁止されていた教会は硝石工場に変わる
1801年
(ローマ教皇との)政教条約とともに、サンピエールは再び小教区になる
1862年
歴史的建造物に指定される
1940年6月、1944年6月と7月
爆弾が内陣と南の歩行者用窓のステンドグラスの窓を損傷
21世紀
すべての修道士の建物の発掘調査が行われる

 

こうしてまとめて見ると、この教会もサラセン人、ノルマン人、ユグノー、大革命、世界大戦など、歴史の荒波を乗り越えてきたことが、よくわかります。