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ウラジオストク 日本居留民の歴史 1860~1937年

2022-04-24 17:17:00 | ヨーロッパあれこれ

ウラジオストク
日本人居留民の歴史 1860~1937年
ゾーヤ・モルゲン 著
藤本和貴夫 訳
東京堂出版 発行
2016年8月2日 初版発行
 
自分がウラジオストクに興味を持ったのは、石光真清の「曠野の花」を読んでからでした。石光は明治32年から、ウラジオストクを起点として大陸で活動します。ウラジオストクでは僧に扮していた花田仲之助少佐と出会っています。
ウラジオストクには近場ということもあり、一度行って見たかったのですが、昨今のコロナやウクライナ侵攻もあり、当分の間は行くことは難しそうです。

 

第1部
ウラジオストクへの最初の日本人の出現から日露戦争の終結まで

ウラジオストクの建都は1860年6月20日と考えられている。
コマロフ少尉補に指揮された40人の下士官と兵士の部隊が軍事輸送船マンジュール(満洲)号でここに到着した。p15

1871年は、ウラジオストクの歴史上特筆すべき年となった。ロシア政府は港と軍務知事の官舎をニコラエフスクからウラジオストクに移転することを決定した。p18

日本外務省は、職員である瀬脇寿人に、太平洋岸ロシアの拠点としての展望がすでに見えているウラジオストク港の状況視察を命じた。p18
瀬脇はウラジオストク訪問後に覚え書きを残した最初の日本人であった。彼の残した『ウラジオストク見聞雑誌』p19
1875年4月16日、彼らはロシアの軍用輸送船に乗船した。p20

 

ウラジオストクの日本人に関する情報が現れるのは、1862年のこと。
日本人ジャーナリスト大庭柯公は、1925年に刊行された『露国及び露人研究』の中で1862年の渡航者について書いている。
1862年に稲佐の若い日本人たちがロシア船マンジュール号に乗ってウラジオストクに到着した。
幕末の徳川将軍最後の時期(1853~1867)に、長崎、稲佐とロシアの結びつきが確立した。ロシアの船舶は糧食の調達のために、一方沿海州を目指す軍艦の水兵たちは1860年彼らのために稲佐に建設された娼家で休息するために寄港した。p26-27

 

1855年、下田で調印された日露通好条約において、二国間の外交関係が樹立された。
日露通好条約により、長崎は太平洋艦隊の越冬拠点となり、船は冬に備えてウラジオストクから温暖な長崎港に入った。長崎港は太平洋艦隊の第ニの母港だった。
長崎港対岸の稲佐村に、特別にロシア人船員たちのための滞在拠点が建設された。ここは「ロシア・セツルメント」(おろしあ租界)と呼ばれるようになった。p44

おエイ(道永エイ)という日本人女性は長崎とウラジオストクの歴史に鮮明な足跡を残した。彼女の運命は、19世紀末から20世紀初頭の稲佐の女性たちに関する一連の作品の中で、日本人著者らによって敬意をもって描かれている。p48

 

第2部
ポーツマス条約から日本の軍事干渉終了まで(1905~1922)のウラジオストク日本人居留民
 
中島正武少将は、石光真清(日本軍の情報機関と関わる幹部軍人)と有能な島田元太郎(ニコラエフスク・ナ・アムーレの大商人)と共にブラゴヴェシチェンスクに到着し、革命派との戦いに没頭した。ブラゴヴェシチェンスク日本人居留民会では、日本人義勇団(30人)が結成された。p158

第3部
日ソ外交関係の樹立前後から1937年の全日本人引き揚げまでのウラジオストク日本人社会
 
解説 ウラジオストク小史

現在のロシア沿海地方南部にあたる地域は、8~10世紀初頭には中国東北部から朝鮮半島北部に広がる渤海国の版図に入っており、日本との間でも使節団の往来があった。p299

ウラジオストクという名前をいつ誰がつけたかという点は、よくわかっていない。マトヴェーエフは『小史』のなかで「ウラジオストクに関する最初の報道は1859年のペテルブルグの新聞に現れた」と書いている。
ウラジオストクの研究者A.A.ヒサムトジーノフ氏によれば、それは『サンクトペテルブルク報知』紙に掲載された記事で、1859年7月1日に書かれた。p301
この記事を誰が書いたかということも、なぜウラジオストクと名づけられたかもわかっていない。
ヒサムトジーノフ氏は軍事技師D.I.ロマノフが書いたと類推している。p302
 
ウラジオストク市を含む沿海地方は、行政単位として複雑な変遷をたどっている。
1888年以降、ウラジオストクは沿海州の州都
1921年の極東共和国の樹立により、極東共和国の沿海州
1922年末に極東共和国がロシア・ソビエト社会主義共和国と合併すると、旧極東共和国の領域は極東州となる。
1926年にハバロフスクを中心とする極東地方が成立し、それが9管区に分けられ、ウラジオストクはウラジオストク管区の行政の中心都市となる。
1938年10月、極東地方はハバロフスク地方と沿海地方に分割され、ウラジオストクは沿海地方の中心都市となる。p318p321