ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

軍服を脱いだ鴎外 青年森林太郎のミュンヘン 序~第3章

2022-01-13 18:23:19 | ヨーロッパあれこれ

 

軍服を脱いだ鴎外
青年森林太郎のミュンヘン
美留町義雄 著
大修館書店 発行
2018年7月20日 初版第1刷発行

森鴎外のドイツ時代の内、ミュンヘン時代に限定して書かれた本です。ちょうど独逸日記の現代語訳を読んだ後だったので、更に興味深く読めました。写真なども多く、わかりやすかったです。

序 奇跡の一年

表紙の鴎外の写真は1886年8月、ミュンヘンのスタジオで撮影されたもの。カメラに向かって得意げに笑みを浮かべ、その面持ちには稚気すら漂っているように思える。
ミュンヘン時代の鴎外の特性を、凝縮した形で表しているようにも見える。
監視下にあったベルリン時代や、更には鴎外の全生涯から見ても、自己を解放できたミュンヘン時代は稀有なものだった。

 

第1章 非日常の世界へ 越境する鴎外
カーニヴァル
1886年(明治19年)3月8日、北ドイツのドレスデンを発ち、南部のバイエルンに向かう。
ミュンヘンはカーニヴァルの狂騒の中だった。
ミュンヘンに着くや早々に、鴎外が自ら仮面を被って興じたという事実。
謝肉祭の騒ぎと高揚に乗じながら、従来とは異なる自分を演じようとする意思の表れではないか?p27

バヴァリア像
下宿から見えるバヴァリア像という巨大な女神像
『うたかたの記』のヒロインであるマリイに、女神バワリアの面影が見える。

アンデックス修道院
巡礼地と聖遺物、そしてビール
敬虔なる巡礼と愉快な行楽、荘厳な教会と酔客が騒ぐ酒房、祈祷の声と学生たちの狂歌

カフェ・ミネルヴァ
1924年、斎藤茂吉が探索するが、とうに閉店していた。

 

第2章 芸術の都ミュンヘン 画家たちとの交流
原田直次郎(1863~1899)
洋画を学ぶ美大生としてミュンヘンの美術学校に在籍
『うたかたの記』のモデル
ハンス・フェヒナーという画家の自伝の中に原田についての記述あり。
1885年8月、ミュンヘンで開催された「日本展覧会」における原田の姿

ユーリウス・エクスター
羽織袴の原田の等身の姿を描く
バイエルンにおいて生じた前衛芸術運動に付き従う

ガブリエル・マックス
森鴎外の隣人で、原田直次郎の師

 

第3章 シュタルンベルク湖 「その美言はん方なし」
『南独漫遊草』と『独逸日記』
公爵近衛篤麿(1863~1904)、欧州留学中の1886年7月27日、ミュンヘン中央駅に降り立つ。
『南独漫遊草』は近衛公の旅日記
その中に森林太郎の名前もあり。シュタルンベルク湖への遠足を提案する。
そこで相撲や競争する鴎外たち

遊覧船
1851年、湖上に定期の遊覧船が就航し、1854年ミュンヘンからの鉄道が開通すると、たちまち人気の観光スポットとなる。

1886年6月13日、この湖畔でバイエルン国王ルートヴィヒ2世が溺死体で発見される。

鴎外は真冬を除いて頻繁にこの湖に足を運び、日記に載っているだけでも七度も当地を訪れている。
『うたかたの記』でも出てくる。

 

レオニ
湖の東岸に位置するレオニと称する土地
イタリア人のオペラ歌手、ジュゼッペ・レオニのレストランとホテルにちなむ。

ロットマン丘
カール・ロットマン
ルートヴィヒ1世お気に入りの画家であるとともに、バイエルン王国を代表する風景画家
ロットマンはホテル・レオニの裏手にある小高い丘からの眺望をこよなく愛した。

「素食家」ディーフェンバッハ
画家でベジタリアンで独自のコミューンをつくる。
鴎外はロットマン丘でその親子に出会う。
シュタルンベルク湖岸は王家の一族や宮廷画家だけでなく、新進の若きアーティストをも魅了していた。
後年その息子ヘリオスは、生活信条・習慣の違いから父親と対立し、二人の間で争いが絶えなくなる。p189
(息子の気持ちもよくわかります)

 


グラン・テスト地域圏からのアルザス欧州自治体離脱協議の新聞広告

2022-01-09 06:25:29 | フランス物語

(「アルザス欧州自治体が、グラン・テスト地域圏から離脱し、それ自身が再び地域圏に戻ること」に対する意見を募る新聞広告に関する、フランスアンフォの記事です。日本語訳はいつもの通り怪しいです・笑)

 

グラン・テスト地域圏からのCEAの離脱に関する市民協議:フレデリック・ビエリーは大きく考えている

Consultation citoyenne sur la sortie de la CEA du Grand Est : Frédéric Bierry voit grand

アルザス欧州自治体の議長は、大きな賭けに売って出ることを決めました。全国紙に掲載された広告により、フレデリック・ビエリーは、フランス全土にグラン・テストからのCEAの離脱に関する市民協議の風を吹き込むことを望んでいます。

Le président de le Collectivité européenne d'Alsace a décidé de sortir le grand jeu. A grand renfort d'encarts publicitaires dans la presse nationale, Frédéric Bierry veut que la France entière ait vent de la consultation citoyenne sur la sortie de la CEA du Grand Est

 

目立つように、ル・モンドやル・フィガロの全ページに、大きく「アルザスはグラン・テスト地域圏を離れて、それ自体が地域圏に戻るべきか」と書かれています。これは調整というより、むしろ攻撃を開始しています。12月21日にアルザス欧州自治体のグラン・テストからの撤退に関する市民協議を開始したフレデリック・ビエリーは、それがその地域、特に地元メディア、そして地域の境界を越えて知られることを意図しています。

Difficile de passer à côté. Des pleines pages dans Le Monde ou Le Figaro, avec en gros "L'Alsace doit-elle sortir du Grand Est pour redevenir une région à part entière?". Voilà qui donne le ton ou plutôt lance l'offensive. Frédéric Bierry, qui a lancé le 21 décembre dernier une consultation citoyenne sur la sortie de la Collectivité européenne d'Alsace du Grand Est, entend que cela se sache dans la région bien sûr dans les médias locaux notamment, et au delà des frontières régionales.

 

(中略)

 

少なくとも10万人の投票者?
現時点では、2月15日に終了するこの協議への参加に関する数字はありません。しかし、フレデリック・ビエリーは、指標とするには少なくとも100,000人であることが重要であることを知っています。「スイスの投票を例に挙げてほしい。国民は協議を通じて自らを表明し、それが結果に反映されるだろう。フランスでのこれらの協議には、市民が投票したくなるような気持ちを再び起こすような規制範囲を持たせたい」

Au moins 100.000 votants ?
Pour l'instant, pas de chiffres concernant la participation à cette consultation qui doit s'achever le 15 février. Mais Frédéric Bierry sait qu'elle doit être importante, au moins 100.000 personnes, pour peser dans la balance. "J'aimerais que nous prenions exemple sur la votation suisse. Le peuple s'exprime via des consultations et cette volonté se traduit ensuite dans les textes. J'aimerais que ces consultations en France aient une portée réglementaire pour redonner aux citoyens l'envie de voter".

 

大地域圏に歯ぎしりさせ続ける発議。グラン・テスト地域圏の議長であるジャン・ロットナーがこの問題について話すことを拒否するたびに、特にロレーヌから選出された多くの議員は、地域の報道機関に彼らの苛立ちを隠しませんでした。フレデリック・ビエリーの楽観主義をがっかりさせるものは何もない。会談は結果が判明する、2月15日になります。

Une initiative qui n'en finit pas de faire grincer des dents coté grande région. Si Jean Rottner, le président du Grand Est a refusé de s'exprimer sur la question, des nombreux élus, lorrains notamment, n'ont pas caché leur agacement dans la presse régionale. Pas de quoi doucher l'optimisme de Frédéric Bierry. Rendez vous est pris le 15 février pour la clôture des résultats.

 

(大統領選も控えている中、この離脱協議が盛り上がりをみせるか気になるところです)

 


鴎外・ドイツ青春日記

2022-01-02 09:14:07 | ヨーロッパあれこれ

 

鴎外・ドイツ青春日記
著者 森鴎外
訳者 萩原雄一
発行 未知谷
2019年6月10日 初版発行

鴎外のドイツ留学時代、1884年(明治17年)鴎外22歳から1888年(明治21年)25歳までの日記の現代語訳です。
最初読み始めたところ、一人称がおれで書かれており、文体も軽くて違和感があったのですが、読み進めるにしたがって、慣れてきました。
鴎外のドイツでの活動、そして活躍がイキイキと描かれています。
ちなみに、おれという一人称は、鴎外の作品「沈黙の塔」でも使われていました。

1885年4月26日
「脚気」はその予防法で陸軍と海軍とが激しく対立している。
海軍では「脚気は微量栄養素の欠乏説」を基に、イギリス海軍の経験知に倣って麦飯を食わせている。
だが、わが陸軍では「白米を食わせる」を宣伝文句に、農家の次男坊や三男坊をかき集めては入隊させている。 
このため陸軍軍医部では「米食中心説」をどうにも譲れない。
この結論が先にあって、鴎外にその学問的根拠を求めている。
(結局海軍の方が正しいということになり、鴎外の汚点となってしまうのですが、このような背景があったのですね。)

 

1885年5月13日
ドレスデンの画廊は、世界の名画を集めている。 
なかでも、ラファエロの「システィーナの聖母」は、おれが本物を観たくて仕方なかった油絵である。
それがここドレスデンで、現実に観られるなんて、至福の時を過ごした。
(鴎外さんいいご趣味ですね)

1886年3月6日
ナウマンの「日本」というタイトルの講演を聞きにいく。
ナウマンの日本に対する失礼な講演内容に怒る鴎外さん。 
講演後の酒席で仏が女性には心がないと言った、とナウマン。
それに対し、女性が成仏する例がたくさん挙げられていると反駁する鴎外さん。

1887年4月15日
「ミュンヘン」という土地名は「僧侶」が語源であり、ビールの名産地として有名。
「ベルリン」の語源は「抜け落ちる羽毛」の意である。昔は土着の人々が牛や羊を飼う牧場であった。

 

あとがきに代えて
ベルリンでの日記の中に、「友侶」(つれ)などという、不思議な普通名詞が出てくる。
1887年12月31日
友侶と除夜の宴を開いた。元日の朝まで肩を寄せ合って過ごした。
とある。やはりこの友侶はエリーゼではないのか
しかし12月24日、クリスマス・イヴには
江口、片山などと石君の家で会った。日本料理のもてなしがあった。友侶はクリスマス・イヴやクリスマスには関心がない。
と書いてある。
恋人が耶蘇教徒ではなくて、ユダヤ人であるならば、クリスマス・イヴは単にケの日の晩である。