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ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

堀米庸三 著 ヨーロッパ歴史紀行(前半)

2023-11-02 21:02:45 | ヨーロッパ旅行記

 

ヨーロッパ歴史紀行

堀米庸三 著

筑摩書房 発行

1981年7月20日 第1刷発行

 

はしがき わがうちなる「ヨーロッパ」をもとめて

1971年、梅雨明け頃から2か月ほどヨーロッパを巡る堀米さん

 

ドナウ諸国をゆく

ベオグラードは古代以来、東西交通の要衝だった。

ベオグラードの西方シルミウムの附近を通過した民族

ゲルマン、フン、アヴァール、スラヴ、ハンガリー、オスマン・トルコ

 

12年前、2年に近い外国生活を終えて帰国した時最初に気付いてはっとしたことは、街を歩いて耳に入る人々の会話がみなわかるということ。

当たり前のことだが、その時の堀米さんは何か魔法によって鳥や獣の声が途端に分かるようになったという、おとぎ話の人間にも似た驚きを感じた。

 

精神の輝きが消えた東欧

ヨーロッパの東と西について、西ドイツの政治家の中には、アドリア海の奥のフィウメからバルト海奥のエストニアのレヴァル(現在のタリン)に向けて線をひくと、この線はちょうど哲学者カントの町ケーニヒスベルグ(カリーニングラード)の辺をとおる、この線の西が西欧ないし厳密な意味のヨーロッパなのだ、という人がいる。

この直線はウイーンも通る。

 

ソ連型の共産世界の中で、ユーゴはその限界を超えていた。可能だったのはそれが東欧共産圏の縁辺に位するのみならず、アドリア海に面しているためである。このユーゴをおさえることは、アメリカとの一戦を覚悟せずにはできない。

 

シルミウムの重要性は東西交通の要衝で、北方防備の拠点であった点だけでなく、4世紀には帝国貨幣鋳造所のひとつでもあった。

 

東ヨーロッパの救いは、どの都市にもみられる豊かな樹蔭。ブカレストやソフィアの市中公園と街路樹の見事さ。

 

ルーマニア語は周辺のどの言語とも異なっており、もし最も近い言葉はときかれるならば、ラテン語とこたえるほかはないとのことだった。

 

パリのブーローニュの森はドライブウェイが四通八達している点でやはり公園であることを免れない。ところがソフィアの公園は純然たる森林である点で、他に類がない。

 

世界の都・イスタンブール

イスタンブールは東西南北どの世界にも、どの文明に属すると同程度に、専属的にはどの世界にもどの文明も属さない独特の世界なのだ。

 

ケルコポルタという非常門

ある意味で1453年、コンスタンティノープル陥落の悲運を決定した扉

 

ブラケルネー宮

第四回十字軍のコンスタンティノープル攻撃に際し、ヴェニス海軍の金角湾制圧後における主戦場となった場所。

フランスの騎士ヴィルアルドゥアンの『コンスタンティノープル征服記』にあり。

 

ハギア・ソフィア

一口に言うと、コンスタンティノープル=イスタンブール千数百年の歴史が、それを彩る壮大絢爛たる事件の数々をともなって、あたかもかの大円蓋を渦巻き流れるかの印象を禁じ得ない。

 

ハギア・ソフィアの幅広い石畳の登り道

ローマの聖アンジェロ城中心部にある登路以外こんなものに出くわした記憶がない。

 

大円蓋というと、私たちがすぐ思い出すのは、ローマのパンテオンであり、カラカルラ、ディオクレティアヌスの浴場である。

前記のルメルルによると、建築における円蓋の使用はアーチと同じくメソポタミアないしイランに始まり、ローマに輸入されたものだった。

しかもローマでの円蓋使用はコンスタンティヌスとともにほぼ終了し、彼とともに東、つまりコンスタンティノープル、ないしはこれを中心とした帝国東半分にうつる。

 

円形(ロトンド)形式の礼拝堂や洗礼堂では既洗礼者と未洗礼者が区別しにくい。

バジリカ式の身廊に直角に交わる横断廊(トランセプト)を加えると、洗礼者の区別ができ、増大する聖職者や信徒を収容することが出来る。

 

ビザンツ絵画には「磔刑」が少ない。

ビザンツの聖画像なるものがすべて絵画であり、彫刻は丸彫りはもちろん、高浮彫さえもほとんど使われない。

 


歴史家のひとり旅 堀米庸三 著 (後半)

2023-10-19 20:10:16 | ヨーロッパ旅行記

Ⅲ 思い出と再考

運動神経について

 

雪のカノッサ行

1966年11月25日、ミュンヘンを出発

雨期のイタリアのアペニン半島を縦横に走り回る。

カノッサは、アペニン山脈がロンバルディアにいたって、西方に大きく湾曲を見せるあたりの、アペニン山地北東部にある。

カノッサ城で番人の妻君は、堀米さんの職業を知って三つの質問をした。

・ハインリヒ四世はどこで生まれたが

・どこで亡くなったか

・どこに葬られたか

堀米さんは

・ゴスラールに生まれ

・墓はシュバイエルのカイザードームにある

ことは知っていたが、どこで死んだかは思い出せなかった。

しかし皇帝の生地を知っているだけでも「ブラヴォー」だという。

オックスフォードとかケンブリッジからの歴史家でも、皇帝の生地を正確に一度でこたえられた人はなかった。

ハインリヒ四世が赦免を乞うて雪の中に立った場所に、ほぼ九世紀の歳月を経て、極東の一歴史家が踏みあとない雪の中に皇帝と同じく立っているだと考えると、悪天候をおかしてきた旅の苦労もむくわれるようであった。

 

スペインの印象

スペインに関する二つの事柄

・ルイ14世に帰せられる「ヨーロッパはピレネーで終わる」ということば

・「スペインでは十六世紀以来、時計の針が止まったままである」という欧米でよくいわれてきた合言葉

 

スペインのゴシック教会の場合、内陣は身廊の中ほどからはじまり、トランセプトと交わる部分をのぞいてすべて高く厚い壁で囲まれている。

 

アルハンブラ王宮について知っておく必要のあるのは

・王宮のあの華麗さにかかわらず、建築自体は土と煉瓦という粗末な材料でできている。中庭には大理石もあるが、建物自体は土と煉瓦であり、その上をモルタルとタイルと木で装飾している。

・王宮の規模がこじんまりしている

・ハレムのかげを見ることは困難

 

シエスタの国

 

私のうちなるスペイン

スペインはハドリアヌス、トラヤヌス、テオドシウスの三皇帝、セネカやクィンティリアヌスといった哲学者や文化人を、ローマ帝国の中心部に送り込むほどの自発性さえ持った。

 

ロワールの旅

初期アンジュー家の最初の偉大な支配者は「黒(ネルラ)」と綽名されたフルク

二度目のエルサレム巡礼の際、キリストの墓を守るサラセン人は、それに放尿しなければ拝ませないと、とんだ難題をふっかけた。

機知にとんだフルクは、ヤギの膀胱に入れた白葡萄酒をズボンに隠してキリストの聖墓に注ぎ、まんまとサラセン人を欺いた。

そのうえ、彼は、この聖墓に口づけして石のもろいところを探し当て、歯でかきとって、ひそかに故国に持ち帰った。

貴重この上ないこの聖遺物を、彼は自ら建立したボーリュー修道院(ロッシュの近傍)におさめて、その魂の救いを祈っている。

 

1186年、ヘンリ二世と、カペー朝フランスの偉大な再建者、フィリップ二世(オーギュスト)との間に、ランジェ対岸のヴィランドリーで協定が結ばれた。

現在のヴィランドリーは16世紀半ばにつくられた後期ルネッサンス式の代表的シャトーだが、この建物の一部には12世紀につくられた張り出し付きの角塔(旧天守)があり、その協定はここで調印された。

お国自慢のフランス人は、この協定はここで調印されたという。

 

しかしその後ヘンリは戦いに敗れ病もあつく、シノンに運ばれ二日後に息を引き取った。(1189年)

また父を死に追いやったリチャード獅子心王も十年後、南フランスの攻城戦中に狙撃され、シノンに帰って息を引き取った。

百三十年ののち、ここで王太子シャルルは、ここでジャンヌ・ダルクを迎える。

シノンはロワールの数多くの城の中でも、格別に歴史の大きい転機をみとどけた証人である。

この城内からみるヴィエンヌ河谷の眺めも良いが、ヴィエンヌ対岸から見上げるシノン廃墟はその中世風の城下町とともに、比類の無きものである。

 

「冬のライオン」

 

オックスフォードのハイテーブル

 

Ⅳ ひとりあるき

人間、スポーツ、文化

 

私のスポーツ

 

鎌倉の裏山

 

私と心臓

東大紛争では、健康を損なった教師の数は決して少ないものではない。

紛争のおかげで胃潰瘍になった堀米先生


なかなか開館しないジェイムズ・ジョイスの塔(アイルランド)

2023-09-06 20:09:21 | ヨーロッパ旅行記

 

ジェイムズ・ジョイスの塔に開館時間前に到着します。
まだ電気も着いておらず、旗も掲げられていません。
しばらく待ち、開館時間になりましたが、開きません。
入り口の前には、結構観光客も集まっています。
二十分ほどして、やっと職員が車に乗ってやってきました。

ここはジョイスの博物館になっています。
日本語のパンフレットもわざわざ作成してくれていましたので、この機会にその内容を紹介していきます。
まずはこの塔の紹介から

サンディコープのマーテロタワーは、時のイギリス軍がナポレオンの侵略を恐れ、防衛のために1804年に建てられたものです。タワーは高さ12フィート、幅8フィートもあり、柱を立てかけた金属製のドアから中に入りました。銃砲台はタワーの最上階にあり、今でも大砲が発射されたレールの跡が見られます。砲弾は螺旋階段上のオーブンで温められました。
タワーとそれに隣接している砲台は1904年まで英国軍により占領され、その後、当時医学生で、機知に富んだ詩人としても知られていたオリバー・シンジン・ゴガティが一般市民では最初の住人となりました。彼が住んでいる間、数多くの文人達がこのタワーを訪れたと言われています。
1962年には、ユリシーズを出版したシルビア・ビーチがタワーをジョイス記念館として開館しました。現在はダブリン観光エンタープライズが所有しています。


EU結束基金の看板(アイルランド)

2023-09-02 20:27:58 | ヨーロッパ旅行記

 

ダンレアリー湾から、ジェイムス・ジョイスの塔へ、海沿いをてくてく歩いて向かいます。
途中で、画像のような看板を見かけました。

Dun Laoghaire-Rathdown
County Council
ダンレアリー=ラスダウン
市議会

Dun Laoghaire drainage
Bulloch Pumping Station
ダンレアリー排水
ブーロックポンプ場

This project has received financial assistance from the cohesion fund of the European Communies.
この事業は欧州共同体の結束基金による財政援助を受けています。

結束基金(Cohesion Fund=CF)とは
一人当たりの国民総所得(GNI)が、EU平均の90%未満の加盟国における経済的・社会的格差を是正し、持続可能な成長を促進することを目指す。2014年~2020年の予算枠組みではブルガリア、クロアチア、キプロス、エストニア、ギリシャ、ハンガリー、ラトビア、リトアニア、マルタ、ポーランド、チェコ、ルーマニア、スロヴァキア、スロヴェニアが対象。

とのことです。
現在はEU拡大などにより、アイルランドは対象外のようですが、訪問した2001年前頃は該当国だったようです。
EUに関しては、なにかと恩恵を受けることの方が多いのでしょうね。
そしてブレグジットによって、アイルランドのEUでの立場は強くなったようです。

(EU MAG のサイトを参考にしました)

 


ダンレアリー港の建造物と謎の島?(アイルランド)

2023-08-29 20:35:48 | ヨーロッパ旅行記

 

ダンレアリー港のイースト・ピア(東桟橋)から、目を転じて海側に向かって写真を撮ります。
向こうに、ちょっとした建造物があります。
ネットで確認すると、BandstandとSunshelterと書かれていました。
Bandstandを辞書で確認すると、(通例屋根付きの)野外(音楽)ステージと書いてありました。
しかし実際の野外音楽ステージにしては、小さ過ぎるように思えます。
散策中の休憩所みたいな感じでしょうか?
もともと1890年代に建てられたものだそうですが、この写真を撮った約十年後の2010年に、新しいバンドスタンドが建てられました。
それはビクトリア朝時代の装飾で、よりオシャレになっています。

更に向こうには、島のようなものが広がっています。
確認してみると、どうやら島ではなく、ダブリン湾を挟んだ対岸のホウスヘッド(Howth Head)半島のようです。
こちらもダブリン近郊で、海岸の美しい風景を楽しめるようです。

(BUILTDUBLINのHPなどを参考にしました)