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ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

アイルランド 自然・歴史・物語の旅

2023-12-20 20:44:33 | ヨーロッパ旅行記

 

アイルランド 自然・歴史・物語の旅

渡辺洋子 著

三弥井書店 発行

平成26年10月14日 初版発行

 

この本は第1部では地図を片手にアイルランドを旅しながら、行く先々の自然やそれにまつわる歴史、伝説、物語を紹介するという、いわゆるディンシェンハス(名だたる土地にまつわる伝承)の旅です。

第2部ではアイルランドの伝承の中でも最も人気のある英雄、フィン・マックールの物語を読みながらアイルランド各地を訪ねています。

 

第1部 アイルランドを旅する 旅のガイドブック

アイルランド本土には、ローマ人の侵攻はなかったが、アイルランド東部の沿岸の島々には、ローマ人の商人が渡来していた形跡が見られる。

 

第1章 首都ダブリンとその周辺

1 ダブリン市歴史散歩

わずかに残るゲルタハト(日常的にアイルランド語を話す地域)を除いては、全島民が英語を話している。

2 ダブリン市のランドマーク

3 ダンレアリー・ラスダウン地区

1807年、ダブリン港を出てイギリスに向かう二隻のイギリス客船が風に流され、ダンレアリー沿岸の岩礁にぶつかり、400名の命が奪われた。この事件を機にそれまで小さい村だった、ダンレアリーが発展することになる。

1817年から1857年の40年をかけて、現在のような西と東の埠頭を持つ港が完成する。

1821年に当時のイギリス王ジョージ四世が建設中の西埠頭からアイルランドに上陸したため、その後の100年間、ダンレアリーはキングスタウンを呼ばれるようになる。

1921年自治を獲得した後、名前はダンレアリーに戻る。

4 フィンガル地区

マーテルロー・タワー

イギリス軍が1804年から6年にかけて、ナポレオンの進軍に備えて、防御用の要塞としてアイルランドの主に東岸に建てた塔。ジョイス博物館もその一つ。

 

第2章 ボイン川を下る旅

1 ボイン川発祥の伝説

2 トリム城とその周辺

3 タラの丘

4 ニューグレンジとノウス

5 モナスターボイス

6 メリフォント修道院

7 ドロヘダ

 

第3章 「固い土」と「柔らかい土」 コネマラの泥炭地とバレン高原

1 泥炭地コネマラ

カイレモア・アビー

2 ゴールウェイ市

3 バレン高原

4 アラン諸島

 

第4章 山と海に囲まれた隠れ里 ディングル半島

1 地勢、気候、暮らし

2 リング・オブ・ディングル歴史探訪

オガム文字は四世紀から六世紀頃に使われていた、アイルランドで最も古い文字で、一本の直線の上下に、あるいはその線をクロスした、数本の短い線の組み合わせでアルファベットを表すものである。

 

第5章 シャノン川をさかのぼる

1 シャノン川

アイルランドの中央部を北から南に流れるアイルランドで最も長い川

2 リメリック市

3 クロンマックノイス

4 アスローン

アイルランドのちょうど真ん中にあり、交通の要衝として、流通業が盛んである。

5 リー湖

6 カリック・オン・シャノン周辺

 

第6章 スライゴー 不思議の世界への入り口

1 スライゴーの歴史

2 スライゴー市

3 スライゴーとイエイツ兄弟

4 スライゴー南西部 ノックナリーとキャラモア

5 ギル湖周辺

6 スライゴー北部 ベンブルベン山の麓

 

第7章 共和国の離れ小島 ドネゴール県

1 ドネゴール県の歴史と地形

2 ドネゴール沿岸の風景を楽しむ

3 トーリー島

4 ドネゴール山岳地帯を行く

 

第8章 最北の風景と歴史 北アイルランドを旅する

1 アルスターの歴史

2 ベルファスト市

3 デリー市の歴史

1618年に完成した城壁都市は、レイアウトも城壁も当時のまま残っていて、しかも現役である。これはアイルランドだけでなくヨーロッパでも稀有なことである。

4 アルスター沿岸の風景と伝承を楽しむ

 

第2部 フィン・マックールと旅する フィンの物語を読む

第1章 アイルランドの伝承文学について

アイルランドの伝承文学は古い時代に書かれた写本に残る物語と、農民たちが口承によって語り伝えられた物語の二つに分けられる。

 

第2章 写本に書かれたフィンの話を読む

1 フィン・マックールの誕生から少年時代

2 知恵の鮭

3 フィンがフィアナ戦士団の団長になる

4 ナナカマドの魔法の館

5 ヂアムジとグローニャの追跡

6 ガウラの戦い

 

第3章 アイルランドの民間伝承のフィンの話を読む

1 鍛冶屋ルーン・マック・リーファとフィンの仲間

2 フィン・マックールと小さい男たち

3 フィンの誕生

 


地中海幻想の旅から 辻邦生 著

2023-12-17 20:30:46 | ヨーロッパ旅行記

 

地中海幻想の旅から 

辻邦生 著

第三文明社 発行

レグルス文庫187

1990年5月30日 初版第1刷発行

 

地中海沿岸国やパリを中心とするフランスなどへの旅のエッセイ集です。

 

Ⅰ 地中海幻想の旅から

世界で最も美しい街としてシエナをあげる人が意外に多い。深く谷の入りこんだ丘の背に黄褐色の壁と、乾いた赤屋根が層々として重なって城塞のような町の景観を作り上げ、その家々の上に、空中に浮かぶ白い船のように、美しいドゥオモ(司教座教会・カテドラル)が姿を現している。

 

アルジェリアの奥地にある古代ローマのティムガドを歩いているとき、図書館だったという半円形の遺構を見たが、私はその瞬間、数本の円柱のほか、何もないその空間に、無数の本がひしめいている様を見るように思った。そこにプラトンもあれば、ギリシャ悲劇もあり、ローマ盛時の文人たちの著作がぎっしりと並んでいて、机の前では白い寛衣を着た人々が、時間を忘れたように、そうした本に読みふけっていた。

 

信仰であれ、思想であれ、それが〈この世〉で存在権を得るためには、〈党派性〉を必要とする。しかし信仰なり思想なりは、各人の自由な参加によって初めてそれが光となる。本来、信仰や思想には強制はあってはならず、したがって〈党派性〉はありえないはずなのだ。この矛盾は現在まで続いていて、なお、なまなましい傷痕をさらしていはいないか。信仰、思想の〈自由〉と〈党派性〉は永遠に解決しない問題なのか。

 

『背教者ユリアヌス』の中で、何度か北アフリカのことを「ローマ帝国の穀倉」と書いたが、北アフリカが古代には豊穣な土地だったが、次第に砂漠化したのだろうと思っていた。

しかし私が旅を続けて、アルジェからセティフにゆき、セティフから美しいジェミラの遺跡を経てコンスタンティーヌにゆくにつれて、こうした考えがいかに間違っていたかを理解した。

穀倉は野を越え、丘を越えて、なお遥かに連なっていたのだ。

 

パリで北杜夫に5回あっている著者。

 

Ⅱ フランスの旅から

1957年、マルセイユからパリへの急行列車

自分が乗り、車窓の外を走ってゆくフランスの田園風景を見ていると、私は、何度も夢を見ているような気持になった。広い耕地と、明るい森と、ゆったりとした川と、ポプラの並木、赤い屋根の並ぶ村落、どこにも人間が見当たらなかった。印象派の絵にあるような雲が、のどかに森の向こうに浮かんでいた。

「この世に、こんな幸福な瞬間があるのだろうか」わたしはフランスの山野を汽車の窓から眺めながら、真実そう思った。

 

一瞬のうちに愛の真実を生きた人にとって、その結果がどうであろうと、ともかく生きるに価した生があったのである。p68

 

打ちひしがれたアルジェリア人や、眉と眉の間に深い皺を刻んだ女が、そのどうにもならぬ宿命の重さを。形にくっきりと表し、足を引きずるようにして、魚屋や八百屋の呼び声でにぎわうルピック街をのぼってゆくのを見たとき、彼らを待っているのは、いったいどんな部屋だろうか、と思ったものだった。

そこには一つのドラマがあり、ひとつの詩があった。そしてこうした生が描き出す深い感動に比べると、セーヌ河の向こうの、カルチェ・ラタンの知的スノビズムなどは、色あせた、退屈な、虚栄と自尊心の混淆のように見えてきて、本を買いに行く外は、あまり近づく気にはならなかった。

 

パリの女性的な伝統に対して、世界でも珍しい革命の伝統をもっている。中世にもしばしば領主と争った自由市だったが、ルイ王朝の治世で最大の叛乱だったフロンドの乱もパリ市民の蜂起がきっかけとなっている。1789年のフランス大革命から19世紀の三大革命(七月革命、二月革命、パリ・コミューン)までいずれも主体はパリ市民だ。

 

1968年の夏の終わりのパリ。

カルティエ・ラタンでは、パリ名物の石畳の道の上を、アスファルトで厚く覆う工事が進んでいた。五月事件の激しさを物語っている。

この都市は『ハドリアヌス帝の回想』で日本でも読者のあるユルスナル(ユルスナール)女史が『黒の過程』で全員一致の票を得てフェミナ賞に推された。

 

パリに残る12世紀フィリップ・オーギュストが建てた城壁の一部

現在、城壁の裏手の通りはカルディナル・ルモワーヌ通りと街と呼ばれているが、これは昔の聖ヴィクトール堀(フォッセ)である。

城壁に沿って堀が続いてきたわけで、その堀を埋め立てたあとを道にして、何々堀通りと呼んでいるのである。

 

ゴシックの観念を象徴する、天にそそり立つ大尖塔や、尖塔形の窓などは、神へ近づこうとする人間の意志を表していると説明されるが、単にそれだけでなく、超地上的な世界の壮麗さ、永遠の厳しい相貌、最後の審判に到る時間を収斂した劇的空間性といったイデーを、全体的に象徴している。

 

Ⅲ 北の旅 南の旅から

ロシア、ハドリアヌスの城壁、インドなどの旅

 


ブダペスト日記 徳永康元 著

2023-12-11 20:20:58 | ヨーロッパ旅行記

 

ブタペスト日記

徳永康元 著

新宿書房 発行

2004年8月10日 第一版第一刷発行

 

山口昌男さんとの古書の話と1939年から1942年、第二次世界大戦の足音がひたひたと迫る中でのハンガリー留学記が特に興味深かったです。

 

Ⅰ ヨーロッパの旅日記から

ハンガリーの読書界近況(1995)

学問的な概説書として、ボーナの『フン族とその大王たち』

考古学の近年の成果を援用して、ハンガリー人の現在の領土カルパチア盆地の先住民だったアッティラのフン族の歴史

 

中央の旅 ハンガリーとドイツ(1995)

ハンザ研究で知られた高村象平氏の『回想のリューベック』に古本屋の老舗の話が出てくる。

 

ハンガリー、イタリアの旅(1996)

 

日洪文化交流史(1988)

ハンガリーの漢字表記は「洪牙利」

日本への初期のハンガリー人渡航者

江戸時代末期の

・ベニョフスキー・モーリツ(ポーランドの独立運動参加の後カムチャッカへ流刑になったが、脱出し四国と奄美に短期間滞在)

・イェルキ・アンドラーシュ(ハンベンゴローという名前でしられる)

ハンガリーへ来た日本人

岩倉使節団はハンガリー訪問は取りやめになった。

日本の憲法制定のため、ウィーンの法学者シュタインに教えを受けに来た時、短期間ハンガリーに滞在したと思われる在野の政治家の丸山作楽や文筆家の福地桜痴

 

Ⅱ 映画・演劇・音楽

東中央の映画(1993)

市電映画の魅力(1996)

外濠線のころ(1997)

モルナールと『リリオム』(1998)

ハンガリーの作家モルナール。その作品『リリオム』を日本へはじめて紹介したのは森鷗外

バルトークのこと(1994)

1940年のバルトークの祖国ハンガリーへの告別演奏を聴いた著者。バルトークはその後アメリカへ亡命しニューヨークで客死

ヴェレシュさんの思い出(2000)

「暗い日曜日」余聞(1996)

この歌はフランスのシャンソンと思っている人も多いが、実はハンガリー人がつくった歌

堀正人先生の思い出(1999)

 

Ⅲ 古書・読書を語る

古本漁りはパフォーマンス 聞き手・山口昌男(1988)

年を取ると、本集めはかえってやめちゃいけない。90になっても、死ぬ二、三日前まで買っていた人が幾人もいますよ。そういう人は、頭がちゃんとしているね。

昭和三十年代後半の神田の古書会館。柳田国男さんなんかも奥さんがついて見えていた。

日本人の書いたヨーロッパ旅行記

明治二十年以降、漢文ではなく散文で書かれる。そして面白いのが二十年代、三十年代で、日本が大国になってからはつまらない。

芥川龍之介の『奉教人の死』

『レゲンダ・アウレア』は芥川のホラではなく実際にあった。12,3世紀の『黄金伝説』

芥川はアナトール・フランスが大好きだったからそれが出てくる『シルヴェストル・ボナールの罪』も知っていたのでは?

座談会 図書館とことば(1980)

座談会 本を読むにも気力と体力がいるぞ(2000)

徳永氏はプルーストの『失われた時を求めて』を七十過ぎてから読んだ。

 

Ⅳ 日記に魅せられて

私の日記論(1994)

インタビュー 日記に魅せられて(1993)

わが青春回顧(2002)

1942年5月、ブダペストからブカレストに出て、ドナウ河を船で渡り、ソフィアでソ連のビザを受け、イスタンブールまでトラックで行きアンカラからソ連領コーカサスに入る。トビリシからカスピ海沿岸のバクー港に着き、船でクラスノヴォック港に着き、そこから中央アジア鉄道でタシケントなどを通り、中ソ国境の天山山脈のを遠くに見てノヴォシビルスクからシベリア本線に入り、ソ満国境の町オトポールに着いた。

 

昭和20年の7月、満州に行くがそこで空襲にあい、逃げる途中で赤痢に罹り、虎石台という寒村の駅でソ連兵が襲ってくるということでみんな逃げて、赤痢の自分は動けなくて一人仰向けに寝て一面の青空を眺めていた。それでも何時間かするとみんな戻ってきて助かった。

 

Ⅴ〔抄録〕ハンガリー留学日記(1939~42年)

 

思い出の記

回想の中の徳永康元先生 山口昌男

徳永康元さんの思い出 坪内祐三

思い出 徳永祥子

 


ジェイムズ・ジョイスの塔あたりからの風景

2023-12-09 20:03:53 | ヨーロッパ旅行記

久しぶりにアイルランドに戻ります。
ジェイムス・ジョイスの塔の博物館が開館するまで、周りの風景を写真に撮っていました。
上の画像は歩いて通ってきた、ダンレアリーからの海沿いの風景です。
面する湾はスコッツマンズ・ベイ(スコットランド人の湾)と呼ばれています。ダンレアリー港創設の技術監督者であったスコットランド人のジョン・レニー(1761-1821)にちなんだ名前です。
下の画像はもう少し南側でしょうか。家並みの向こうには緩やかな山というか丘陵が見えます。
ダブリンの南の海岸沿いにあたるこの地域はアイルランドでもわりと裕福なエリアらしいです。
緑に恵まれていますが、アイルランドの東岸などあちこちをめぐると、まだこれは単なる前哨で、全土が緑でいっぱいだと思い知らされることになります。


堀米庸三 著 ヨーロッパ歴史紀行(後半)

2023-11-03 20:01:35 | ヨーロッパ旅行記

地中海世界の覚え書(1)

極度に偶像を忌み嫌ったキリスト教が偶像崇拝的になったのは、ヘレニズムのせいであったということ、そしてキリスト教のヘレニズム化になしには、キリスト教は世界宗教たりえなかった。

 

フィディアスがアテナ女神像のコンクールに応募した時、その作品が、そのまま地上に置かれたのではプロポーションの点でみるにたえなかったが、一旦高い台座に置かれると、見事なプロポーションを示したという逸話が示すように、ギリシャの芸術家は目の錯覚を利用することを心得ていた。

アクロポリスのアテナ神殿も目の錯覚を利用

 

地中海世界の覚え書(2)

ギリシャのポリス間の争いでは、相手を痛めつける第一の方法はオリーヴの樹を切り倒すことにあった。

オリーヴの樹は実をつけるまでに年数が要り、大きくなればなるほど収穫は良い

 

ブイヤベースのマルセイユ風とパリ風

マルセイユ風はオリーヴ油のみ

パリ風はバターを加える

 

イチジクは地中海世界では当たり前の果物であり、しかも濃厚で甘くて旨い。

 

チュニジアのチュニスの街角に立って、まず第一に地中海世界は北も南も、著しい人種混淆が一大特質だと感じる堀米さん

ローマ人が地中海を「吾等の海」とした結果

 

ベルベルとは古代ローマ人が北アフリカを征服した際に出会った人種で、野蛮人バルバロスと名付け、それがなまってベルベルとなる。

ベルベル人は金髪碧眼、白晢という意味ではケルト、ゲルマン、スラヴなどと同じ

 

ハンニバルはどこから象を連れてきたか?

アルジェリアとモロッコの国境に近いグイール渓谷こそ、ローマ時代、象、ライオンなどの野獣が棲息していた土地だった。

 

地中海世界の覚え書(3)

チュニジアのテストゥールのモスクの時計。文字盤がなぜか左に向かってアラビア数字が記されている。

 

フランス領有時代の美しい海岸の別荘地帯を眺めていると、サハラの石油資源の問題を除いても、フランスがアルジェリアにかけた執念がわかってくる。

 

アルジェリアのティパサからアルジェに戻る途中の女性キリスト教徒の墓の遺跡。クレオパトラの娘の墓という話がある。彼女はキリスト教徒を受け入れる可能性はなかったが、墓自体は彼女かその夫のユバ二世の可能性はある。

十字架状の浮彫があるから、キリスト教徒の墓と呼ばれただけで、その十字は単なる模様らしい。

 

地中海世界の覚え書(4)

スペインはラテン的で西欧的な文化の影響を強く身に帯びながら、しかもイスラムとそれを通して遠く東方にまでつながる文化的伝統を排除しえない。

フラメンコのメロディを聴いて、そのマグレブ的、あるいはイスラム的東方の色調を否定できるものはいないであろう。

 

建築の空間意識と文化

ローマのイエズス教会は最後のルネサンス式で、同時に最初のバロック式だというのも、あながち妥協的な説明とはいえないだろう。

 

北フランスのボーヴェの大聖堂

高階秀彌氏は、そのゴシックの堂内空間の印象を「底知れぬ深淵というものがあるとすれば、その縁に立たされた時に覚える感情がそれに似たものであろう。限りない喪失感に捉えられながら、人間は天に向かって落ちていくのである」

(ボーヴェの大聖堂は外から見ただけで、中には入らなかった。どのような感覚なのか感じてみたかった)

 

西スコットランドへの旅 アイルランド文化拾遺

西スコットランドのアイオナ島

アイルランド・キリスト教の偉大な伝道者、聖コルンバが、そのイギリス伝道の最初の根拠地として建てた修道院のあるところ

七世紀はアイルランド・キリスト教の全盛期であった。

またスコットランド王の墓所としても知られる。アイオナを800年から1180年のあいだ、スコットランド王のウェストミンスターであるともいわれる。

 

旅と歴史

歴史家はヘロドトス、司馬遷の昔から、よく旅をしている。

ヘロドトスは「歴史」(ペルシャ戦争の歴史)を書くにあたり、ギリシャ本土や小アジア沿岸はもとより、北は黒海、南はエジプト、西はシチリアから東は遠くペルシャ帝国の内部まで、くまなく旅をしている。

 

犯罪捜査において現場主義が第一の格率とされるように、犯罪捜査と基本的に性格の一致する歴史研究においては、事件の調査にも似た史料を尊重すると同時に、事件の起こったその場に臨むことなくしては、史料を正確に解釈することは難しい。

 

世界の観光名所であるパリが、いわゆる名所でなくなるときに初めて、本当の意味でその人の名所になる。

永くパリに住んでいると、最初は夢中で訪ね歩いた寺院や旧跡に満ちたパリも、やがては無記名の家並みや街角に分解してしまう。

しかしやがてある時、フランスのあちこちで見た美しい建築が、パリそのものの中に総合して再現されていること、名もない民家にみたさまざまな意匠の美しさが、ノートルダムをはじめとするパリの歴史的寺院建築の中に比類なき美しさをもって総合されているのを見出すのである。

 

明治維新は、日本史における比類なく大きい文化的伝統の断絶をもたらした。

この断絶が大きければ大きいほど、日本人にとっての精神の「ふるさと」はヨーロッパに求められたのである。

第二次世界大戦後の今、人々が争ってヨーロッパに出かけるのは、意識すると否かに関わらず「ふるさと」への旅を求めてそうするのである。

 

堀米庸三の追悼に 堀越孝一

堀米庸三は末期の眼を抱いてヨーロッパ世界を歩いた。

その眼に映ずるヨーロッパ世界は影の内に沈み、ヨーロッパの辺境が光を浴びて輝いている。