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ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

ジョイス博物館の旗の謎

2024-01-27 20:30:25 | ヨーロッパ旅行記

 

最後にジョイス博物館の裏から写真を撮っていました。

よく見ると青い旗がはためいています。

最初はEUの旗かなと思ったのですが、確認するとアイルランドのマンスター州の旗でした。

マンスター州は南部地域で、この旗のある地域のレンスター州とは異なります。

なぜここにその旗なのか、理由はよくわかりません。

wikiによると、今のレンスターのハープの紋章が現れる前は、アイルランド全体を象徴する徽章であったということなので、昔のアイルランドを象徴する旗という意味があるのかもしれません。

 

最後に現地の日本語パンフレットからユリシーズについて述べている箇所を引用します。

 

ユリシーズはタワーで有名ですが、書き出しの場面はタワーの頂上から「威厳のある、しかし、ずんぐりした」“ボック・マリガン”が階段を下りてくるところから始まります。彼が髭を剃っている時スティーブン・デダルスが現れ、亡くなった母親の事を未だに嘆いているスティーブンをボック・マリガンは嘲笑います。第一章はボック・マリガン(ゴガティ)、スティーブン・デダルス、英国人のハインツ(トレンチ)が円形の部屋で朝食をとっている描写が続きます。この描写は、ゴガティや彼の友人、賃貸料に関する資料などから、ユリシーズの場面を再現することができます。


現代語訳 欧米漫遊雑記

2024-01-20 20:27:50 | ヨーロッパ旅行記

 

現代語訳 欧米漫遊雑記

鎌田栄吉 著

舘川伸子 訳

博文館新社 発行

2014年3月28日 初版第一刷発行

 

慶応義塾の鎌田栄吉先生が明治29年(1896年)3月から1年9か月をかけて欧米(トルコ・エジプトも含む)を視察した際の記録・紀行文です。

当時の各国、そして国民性の見方が、現代にも通じるものもあれば、無いようなものもあるので、その微妙なギャップが面白いです。

 

第一章 フランス

英仏両国民の最も大きな違いは名称である。

フランス人は規則を画一化して名と実が適合することを好む。

英人は自然の成り行きに任して旧態を改めず、たとえその物にどんな変遷があっても名称を変えることはないので、官庁などの名称もほとんどその実態を表さなくなってきている。

 

アヴィニョンの兵営は、昔ローマ法王の居城だったところにあった。

(過去にはそのような使われ方をしていたのですね)

 

フランスのスペインとの国境にある町セート

スペイン製の酒を輸入して精製し、フランス葡萄酒の銘をつけて外国への輸出品にあてている。

 

第二章 英国

旅行者が、ロンドンを訪れて最も驚くことの一つは、ドイツ人の移住者が多いことである。

ドイツ人は大商、小買、代言人、学者、給仕人、職工、手代として侵入している。

 

第三章 英国のスコットランド

グラスゴー市では、欧州では珍しくない裸体美人画も厳重に取り締まっている。

あるとき、利に敏い一商人が、グラスゴーで発禁となった裸体美人画をロンドン市中で売り歩いた。しかしそれはなんのことはない平凡な画だった。

 

ロンドンは現代のローマである。様々な国の人、様々な宗教、様々な人種、様々な主義がここにやって来るが、来たもので容れられないものはない。

 

英国の下院議会は午後三時から始まるが、昼間はあまり面白くない。午後十時前になるのと、議場は賑やかになってくる。二時、三時まで平気である。昼間職務に忙しい実業家や法律家や学者も出席できるため、夜分に重要な議論をする。

 

英国の下院議員ではアイルランドの議員が時々大騒ぎをする。

一般にアイルランド人は軽佻の気風がある点、英人よりもフランス人に似たところがある。

また女王即位の六十年間は英人にとっては黄金時代だったかもしれないが、アイルランド人にとっては貧困、憂患、不平の暗黒時代としている。

 

第四章 ベルギー、オランダ

1830年独立で、新しくて小さな国であるため、新制度を取り入れやすい。新法制の試験所とでもいえるかもしれない。

 

ベルギーの都市にはそれぞれ特色がある。

ブリュッセルは貴人を誇り、アントワープは金銭を誇り、ゲントは首輪を誇り、ブルージュは美人を誇り、ルーヴァンは学者、マランは馬鹿を誇る。

マランに対するこの酷評は、寺院の塔の上に月が出たのを見て火事と誤り消防器を持ち出して水を注いだ、という話に始まったという。

 

第五章 ドイツ

ドイツは学者が集中する学問の本場というべき地だが、学者が増えてもそれに対応するだけの事業がない。

 

ドイツでは官権が様々なことにまで事の大小にかかわらず干渉し、それでよい結果が出ている。

 

第六章 ロシア

サンクトペテルブルクからモスクワまでの鉄道

その間がまったく茫漠たる原野で、全く人家を見ることがないのは、設計にあたって沿道の村の便を考慮せず、一直線に鉄道を敷設したからである。

ニコライ皇帝が地図上に両都の間に一直線を引き、このように敷設しろと命じたから。

 

ワルシャワ市はもとポーランドの首都で、分割、消滅の後、ロシアに属し、ロシア国総督府の所在地となった。

(当時のポーランドの亡国の哀しみを感じます)

 

第七章 オーストリア・ハンガリー

 

第八章 ブルガリア

 

第九章 トルコ

コンスタンティノープルはトルコ人、ギリシャ人、アルメニア人が大部分で、他にユダヤ人、西欧人などがいる。

ギリシャ人はアルメニア人は卑屈でトルコ人の機嫌を取っていると嘲り、アルメニア人の方はギリシャ人は不正不義であると罵っているが、その両者が会えば、一緒になってトルコ人は無学で怠け者だと笑っている。

 

トルコ人の生涯の目的は文武の官吏になることである。商業などは大いに賤しんでアルメニア人かギリシャ人の業とみなし、学問は西欧人の業とみなしている。

 

トルコ人の長所は、性格は率直であり剽悍にして決死の気性に富んでいるから、軍人としては屈強の兵士として賞賛してあまりある。

 

第十章 ギリシャ

ギリシャ人は忍耐に欠けるところはあるが、文学、商業、政治などの才に富んでいる。

 

第十一章 エジプト

なぜピラミッドのような巨大なものを築いたのかというと、砂漠の中では、通常の墓標のようなものをどんなに巨大にしても、土砂のため埋もれてしまうからである。

 

エジプトの病と言えるのが外債だ。このために列国の干渉を被り、首も回らない状況だ。

 

第十二章 イタリア

かの偉人マキャベリは稀世の材を抱いてイタリア統一の策を画した。そのためには尋常な謀計では充分でないと考え、まず英主にして獅子のような胆勇と老狐のような狡知を兼ね備えたものを求め、内外に隠顕出没の詭計を行い、しかも豪胆な政略で、密かにミラノ王やサルジニア王に望みを属したが、時は未だ熟せず、むなしく幽囚の身となった。

 

第十三章 スイス

 

第十四章 スペイン、ポルトガル

スペインの闘牛は残酷である。

ポルトガルでも闘牛は行われているが、法律で禁止されているので牛や馬を殺すことはない。

ポルトガルは小国である上に外国人の勢力が強いので、動物ほどなども行われているのだ。

 

第十五章 アメリカ

英人は閑散を装ってこれを人に誇り、米人は多忙を装ってこれを人に示す。

 

 


氷上旅日記 ミュンヘン~パリを歩いて

2024-01-08 21:04:29 | ヨーロッパ旅行記

 

氷上旅日記 

ミュンヘン パリを歩いて

ヴェルナー・ヘルツォーク 著

藤川芳朗 訳

中沢新一 解説

白水社 発行

1993年2月15日 発行

 

著者が重病になった大切な人を、助けなければならないという思いのため、ミュンヘンからパリまで歩いて行きます。

1974年の11月23日に、ヤッケとコンパス、そして最低限必要なものを詰め込んだリュックサックとともに、冬の悪天候の中、西へ向かいます。

歩いて行くなんて荒唐無稽な話なのですが、やはりそこには巡礼の精神があるのかなと思われます。

途中、ホテルにも泊まりますが、それ以外では空いている別荘や納屋に勝手に入り込んで、宿泊地としています。

とりあえず一読目、小説のような紀行文の流れに身をゆだねながら、一気に読めました。

二読目、グーグルマップで地名をなぞりながら読んでいきましたが、場所がよくわからない地名をあり、土地勘も無いので感覚がつかめませんでした。

ミュンヘンからパリまでの直線ルートだと、途中ストラスブールを通るようになります。

今ならシェンゲン協定のおかげで、また共通通貨ユーロのおかげで、独仏国境もスムーズにいけますが、当時はどうだったのか気になりました。

しかし話の中では、国境管理も通貨の両替も出てこないので、著者がどうしたのかよくわかりません。

それでもライン河越えは、橋ではなく、フライブルグの西方面にある、カッペルというところの渡し船のようなフェリーに乗っていたのが、新鮮に感じました。

グーグルマップで調べてみると、今でも同じような渡し船があるようです。

フランスに入ってからは、有名な町としてはドンレミとプロヴァンに滞在していました。

ドンレミではジャンヌ・ダルクの家に行ってます。ほんの少し、観光的な行動です。

フランスの聖女の地を訪ねるのは、パリの大切な人に向かって巡礼するのと重なるのかもしれませんが。

そこでジャンヌ・ダルクのサインをのぞき込み、Jehanneと書いてあるのを見つけます。誰かが彼女の手を取って、一緒に書いたものと思われる、と述べていました。

プロヴァン(Provins)は、文中ではプロヴァンスとなっていました。

ドイツ語では最後のsを律儀に発音するのでしょうが、南仏のプロヴァンスと紛らわしくなってしまっています。

著者はこの中世の古都で、町の高いところに行って、建物を見て、千年前の歴史がどんなに暗いものだったか、思い浮かべます。

12月14日、よれよれになりながらパリに着きます。

パリで彼女に会った時の情景が、短く、そして美しく語られています。

 

解説によれば、巡礼の目的は、目的地ではなく、旅の途上にある、とのことです。

目的地や、目的となる女性の存在は、単なる口実に過ぎない。しかしその口実のために、へとへとになって旅をするばかばかしさ、無意味さを通して、彼は意味の根源にたどり着くことができる、と書いてありました。

 


ジョイスが滞在していた頃の塔(アイルランド)

2023-12-30 20:47:57 | ヨーロッパ旅行記

 

ジョイス博物館を出て、外から開館時の写真を撮ります。

日本語パンフレットに掲載されていた、「ジョイスが滞在していた頃のタワー」について転載しておきます。

 

オリバー・シンジン・ゴガティが住んでいた1904年8月に、彼は、22歳の若き新鋭作家、ジョイスをタワーに招いています。当時、ジョイスは詩集”The Holy Office"に専念しており、この詩集によって、当時のダブリンの文人らの思想と全く異なった世界を築き上げます。ゴガティは、ジョイスの詩集の中で自分が批判されていることに気付いたことから、9月9日にはジョイスはあまり歓迎されません。しかし、彼が滞在を承諾したのも、そうでなければ自分への批判が更に本に書かれると恐れていたからでしょう。数日後、二人はゴガティの友人で、アングロ・アイリッシュのサミュエル・シュニヴィックス・トレンチに会います。トレンチはオックスフォード訛りのアイルランド語を始終話したため、タワー内の緊張が更に深まることになりました。

 

ジョイスの滞在6日目の事、トレンチは黒豹の悪夢を見、叫び声を上げた上、銃を取り出し、暖炉に向かって銃を発射しました。しかし、その直後、何事もなかったように再び眠りにおちました。一方、ゴガティは「あいつのことは俺にまかせておけ!」と叫びながら、ジョイスの枕越しの棚にあった調理鍋を銃で撃ち落としました。これをきっかけにジョイスはタワーを離れ、その後決して戻ることはありませんでした。それから一月後、彼自身、ノーラ・バークナルと大陸へ駆け落ちをしました。

 


ジェイムス・ジョイス・タワー内博物館に展示されたマティスの挿絵

2023-12-23 20:32:36 | ヨーロッパ旅行記

 

開館時間の二十分後くらいにやっと、ジョイス博物館の職員が車でやってきました。

待っていたみんながぞろぞろ中に入っていきます。

画像はジェイムス・ジョイスタワー内部で唯一撮った写真です。

あまり上手く撮れていませんが、マティス(マチス)によって描かれた、ジョイスの本の挿絵です。

彼が挿絵という分野にまで作品を残していたことは意外でした。

展示品について、当地でもらった日本語パンフレットより引用します。

 

展示ホールには、ミルトン・ヘバルドによって製作されたジョイスの胸像などがあります。また、壁に展示された作品、写真などから、ジョイスの一生を振り返ることもできます。1922年にシェークスピア&㏇によって出版されたユリシーズの初版本を始め、ジョイスの全作品の初版本が展示されています。また、マチスの挿絵のユリシーズの豪華本も含まれており、"Finnegans Wake"の手書き現行もあります。

弾薬庫にあるケースにはジョイスの祖母が刺繍を施した狩猟用のウエストコート、愛用のギター、サミュエル・ベケットに贈ったネクタイなど、ジョイスの個人的な持ち物が展示されています。また、1941年にジョイスが亡くなった日に、彫刻家ポール・スペックによって製作されたデス・マスクや銅の鋳型も展示してあります。