Dr. Jason's blog

IT, Engineering, Energy, Environment and Management

この違和感は何だろう...

2005-07-10 | Weblog
 最近,ある団体での委員会的活動にかかわるやりとりで,色々と勉強になることがあった.

 
 [会議と実際の仕事,参加の立場]
 まず,委員会活動のあり方について.委員会では「会議で色々相談したい」という面もたしかにあるが,各委員に何らかの具体的な仕事をアサインした場合には,(時間的なリソースが限られている場合)どちらかと言えば,「会議」よりも「アサインされた仕事==作業を実際に行う」ということがより優先であると思う.なぜなら,会議は他にも沢山出席者がおり私が欠席することの損失の大半は私の意見が反映されないという部分だけだが,アサインされた仕事は私がやらなければ他の人は(特に補助や後任としてアサインされなければ)やらないことは自明である.(少なくとも,私にとっては,このことは「自明」である)

 団体の性格や委員会の内容によっては,各委員は勤務先の体面,名誉,社会的責任,間接的な利益等を担っている場合がある.例えば,勤務先が,地元の大企業や,地元の教育機関だったりする場合には,明らかに,委員の活動に勤務先の看板が否応無しについてくる.そのような場合には,会議への参加そのものは,(その人ではなく,その人が所属する勤務先とともに)非常に重要な意味をもっているだろう.
 しかし,大半の委員がそうであっても,委員によっては,その団体や委員会の活動が,完全に個人的なものである場合もある.そのような場合には,私の意見が反映されないことは,私だけの個人的な問題に近いだろう.この立場の違いについて,理解できない,もしくは,無視する人もいる.

 このような状況においては,委員会活動の委員としての,役割あるいは貢献について
   会議への参加
   委員としてアサインされた仕事==作業の実行
 とは,別々に評価されるべきものであると,私は考えているが,人によっては,そうでないと考えている人もいる.
 会議に出席せず,実際の仕事も何もアサインされていない人も沢山いる状態で,私が委員としてアサインされた仕事については,少しづつではあっても,目に見える形で実行されているのに,それには言及せず,「(貴方は会議に)参加されていないから...」というフレーズを使う人を見ていさかか驚いた.


 [忙しい]
 このような社会情勢であるので,大都市近郊では,程度の差はあれ「忙しい」と感じている人は少なくないはずだ.昔から「貧乏暇なし」ともいう.
 人によって,業界によって,実際に何時間働くと「忙しい」と感じるかは大分差があると思う.「忙しい」という言葉は,本来,相対的,主観的なものであるはずだ.
 一日に50通しかメールを受け取らないには一日に200通以上メールがくる人の忙しさは理解できないかもしれないし,残業しても一月200-250時間までしか働かない人には一ヶ月で350時間以上働く人の忙しさは想像できないかもしれない.

 そいういう中で,
  『「忙しい」というのは,「私は,貴方よりも重要な仕事をしているので忙しい」と聞こえる,よって,失礼である.』といった人もいる.
 これは,場合によってはもちろん一理あるだろう.

 しかし,一般的には,ざっと考えても,様々なパターンや意味があると思う.
  単に忙しいといいたい (口癖敵な発言)
  (同僚,同業者への牽制として)私は忙しといっておきたい
  (自分の能力が相対的に足りないので)忙しい
  たまたま(今は)忙しい
  (定常的に)いつも忙し
  私の業界は(貴方の業界より)忙しい
  私の役職は(貴方の役職より)忙しい
  私は(デマンドが高い仕事をしているので)忙しい
 
 このような,言葉の意味や状況の多様性は斟酌せずに,ただ
  「私は忙しいので...」
 と言われたり,書かれたりすると
  「私は貴方よりも重要な仕事をしていて,貴方よりも忙しいので...」
 と読めてしまうというのは,とても違和感を感じる.何かコンプレックスやトラウマがあるのだろうか?
  

 [事前の打診]
 ある種の委員会では,委員に,色々な役割,役職等を割り振ることがある.役職の中には,形式的なもの,実務的なもの,名誉的なもの,様々である.
 一般に,ある会議の席で,ある役職なり委員の「候補に推挙したい」「XXXX委員一覧案に名前を載せたい」などという場合には,事前に(その会議の前に),「貴方を,XXXX委員の候補としたいが,いかがか?」というような,打診が,メールや電話であるのが,普通であると考えている.たとえ,その会議が,準備会議的なものであっても,何らかの「事前の打診」があるのが,普通だと考えている.(少なくとも,私のまわりで活動している色々な団体では,そのようにしている.逆に,準備会議をメール上の討論ですませることはある.)
 しかし,これも,「こっちだって忙しいだから,そんなことしてられないでしょう~」ですませてしまう人もいる.同じ勤務先の上司と部下,先輩後輩,同じ出身大学の先輩後輩,仕事上の貸し等,しがらみがある場合には,「多分OKしてもらえると思った」ということで「事前の打診」を省略するということがあるのは理解できるが,そのような関係が一切ない,委員相手の場合には,やはり,予備会議の場合でも,「事前の打診」は礼儀だと思うが,そうは思わない人もいる.


 [前提の共有,異なる意見の説明]
 委員会の活動の中で,意見の相違あるいは,意見のすれ違いがあるときに,私は,前提なり,スタンスなりもふくめて,こちらの趣旨を説明して理解がされるように努力する.つまり,「前提を共有」することが重要であるという,考え方で行動している.
 しかし,ある人に,色々なやり取りの過程で「私の立場あるいは主張について,その前提がそちらに通じていないと思う.前提やスタンスは重要なので,それを改めて説明しようとしている.というのは,ご理解いただけますね?」というと,
 前提の説明などはどうでもいい
 そんな議論は不毛だ
 落としどころが聞きたい
 結論がききたい
と言われたので,非常に驚いた.

 確かに,同じ職場の,上司と部下のような関係で,上司が「結論が聞きたい」ということはありうる.また,判断の単純化/高速化ということが,ある場面で最も重要であるということもあろう.
 しかし,同じ勤務先の中での職位などの関係が無い場合に,つまり,特別な上下関係や貸し借りがない場合の,少なくとも,私のまわりで活動している人々(企業人も,大学人ともに)で,このようなことをいう人はいない.今回初めて遭遇した.
 この人が,会社の中でどのような立場で,どのような業務をされているのかは,実際には全くわからない.しかし,なにかの議論について,自分の判断の単純化あるいは高速化を強く指向して,表面的な結論だけを求め「その前提となる事項の共有」を軽視するスタンスは,今日的な「組織における知識共有」「組織における学習」「組織における知的生産」などの最新の知見からは,だいぶ違和感がある.

 もしかすると,本質的に,「意見の多様性」そのものを認められないということか?


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