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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「左手第四指」と「魔法」

2018年05月13日 | 古代史

 天智が「無名指」を切り落としたという説話の中では「天智」は「崇福寺」建立に際して、「寶鐸」や「白石」が掘り出されたこと、またそれが「夜光る」ということを「奇瑞」であるとして、喜んでおり、ためらわずその「左手無名指」を「燃やし」また「切り落として」、供えています。
 これはやはり、この「第四指」に「供える」にふさわしい「霊力」があるとその当時考えられていたこと、少なくとも「天智」自身がそう考えていたことを示していると思われます。
 しかし、この行為は仏教の教義に則ったものというより、「仏教以前」の世界に属するものと考えるべきであり、前代まで行われていた「神道」的要素が強いと考えられます。
 このような「血」の儀式様のものは仏教の教えとはかなり遠いものと思われ、このような「生け贄」的考え方は「神道」など当時の日本における「俗」としての古典的要素が強いと考えられます。
 しかし、以下の中国の例においても、「出家」しようという人物が、指を切断している例があり、中国ではそのような思考法がそれほど珍しくなかったともいえます。

「祖堂集卷第十八」「仰山和尚」の段
「仰山和尚嗣?山,在懷化。師諱慧寂,俗姓葉,韶州懷化人也。
年十五,求出家,父母不許。年至十七,又再求去,父母猶?。其夜有白光二道,從曹溪發來,直貫其舍。父母則知是子出家之志,感而許之。師乃斷左手無名指及小指,置父母前,答謝養育之恩。…」

 この中では「父母」に「恩」を示すため「指を切断して」供えたとされています。「父母」への「恩」を示すために、自分の「指」を切断するというのは一見わかりにくい論理ですが、「恩」に「答謝する」為には「拝礼祭祀」を行なう必要があり、そのためには「神」に供えるものが必要であったと言うことではないでしょうか。
 この段階では彼は「出家」する前ですから、「中国」の民間に流布していた宗教の中で暮らしてきていたものであり、そのような状況下でこの行為を行なったと考えられますが、そのような中では「神」に供え物をする、特に「血」を「供える」ということが重要視されていたと言うことが考えられます。
 そもそも仏教では「不殺生」というのが「戒律」の重要な要素であったものであり、「五戒」の第一に数えられるものです。しかし、「中国」では仏教発祥の地である「インド」とは違って、以前より「犠牲」を伴う「儀礼」を行う文化がありました。それは仏教伝来後もかなり後代まで遺存したものであり、例えば「南朝」「梁」の「武帝」は、深く仏教に帰依した結果、宗廟へのお供え物についても「疏菜果実」つまり「肉類」は取り止めとしたとされています。つまり、この時点までは「宗廟」で犠牲を用いた儀式を行なっていたものであり、それは代々の皇帝の「義務」でもあったわけです。しかし、彼の代になって「儀式」には「犠牲」を用いないということとなったものです。
 「生類」全てに「人間」と同等の「命」の重さを見て、殺生を禁じ、解放するという考え方や行動は、「生贄」という「傷を付け」「血を流す」儀式を行なう思想とはかけ離れています。
 このような「生贄」やそれを伴う儀式は「殷」や「周」など「古代中国」に淵源するものといえますが、仏教以前の古代的感覚であると思われます。
 「唐」時代以降についても状況は余り変わらなかったものと見られ、「唐皇帝」は「道教」の開祖である「老子」について、「唐皇帝」の祖先であるとして「道教」を重視しましたが、これは「天師道」と呼ばれ、後漢時代の「五斗米道」の流れをくむものとされています。その基本は「天地」の神への感謝と豊作と幸運を祈念した「禮際」を行なうものであり、それには「供え物」(生贄)が必須であったと考えられます。

 この「仰山和尚」の「出家」に関するエピソードでもやはり「天地」の神と祖先神への感謝が基本であったと思われ、「指」を切り落として供え物とすると言うのは当時それほど珍しいものではなかったのかも知れません。
 「天智」の例でも、『扶桑略記』の文章では「奉為二恩」とされ、「奇瑞」とされる「寶鐸」等が掘り出されたことを「父母」に感謝し、そのために「薬王菩薩本事品」にある「指灯」の行を行なったあと、今度は「神祇」に対して「祭礼」を行ない、その際に「お供え」(生け贄)として燃やした自己の「第四指」(無名指)を差しだしたと言うことが考えられ、共に同じような「祭式儀礼」であったと思われます。

 ちなみに、この『祖堂集』の「仰山和尚」のエピソードはそのほかの点でも「天智」のそれと酷似しています。
 「元亨釈書」等では「白石」が掘り出され、それが「夜有光」とされており、これを「奇瑞」としているわけですが、『祖堂集』では「其夜有白光二道」とあって、やはり「夜光る」ものであり、それを「奇瑞」であるとするのも共通です。
 そして、その結果「天智」と「仰山」は共に「左手無名指(仰山は小指も)」を切り落として、それを「父母」に感謝の意を表するとして、「天地の神に」「供えて」祭礼を行なったということとなります。
 この「逸話」が記された『祖堂集』(そどうしゅう)は、五代十国の「南唐」時代(十世紀)に成立した中国禅宗の記録です。しかし、『祖堂集』は中国国内で編集されたものの、いわばそのまま「お蔵入り」となり、その後「高麗」に持ち込まれ、一二四五年「順佑五年」に高麗大蔵経の附録として刊行されたものの、それも二十世紀初頭に発見されるまでその存在は知られていなかったとされます。 
 しかし、上に見る記事の酷似は偶然とは言いがたく、上に見た諸資料中でも一番早い時期と考えられる『三宝絵』(「十世紀頃」か)に『祖堂集』が影響を与えているという可能性が考えられるところです。

 また、確かに「指を燃やす」というような行は上に見るように「法華経」にあるものであり、その意味では上の行為は仏教と必ずしも食い違っている訳ではありませんが、それを「切り落として」「石壇」(地中)に納めるということについては、どう考えてももはや「仏教的」とは言えないと思われます。このような仏教の経義と微妙に異なる儀式が行なわれている事から考えて、この時の「天智皇帝」なる人物の時代は、「仏教的」な雰囲気で満たされていた訳ではなく、以前からの「民間信仰的」が色濃く残っていた事が想像されます。
 それは仏教に深く傾倒している人物でさえもその「時代的限界」の中にいたと言うことを示すと思われ、逆に言うとそのような事が行なわれるということはこの時代が、もっと古い時代のことではないかという事をも考えさせるものとも言えます。それから想起させられるのは『隋書俀国伝』の「知卜筮、尤信巫覡。」という記事です。
 この記事は「六〇〇年」に派遣された「遣隋使」の口頭報告をまとめたものと考えられていましたが、実際にはもっと早期の「開皇年間の始め」が時期として推定できるものであり、その時点付近の「倭国」の状況を窺わせるものですが、そこでは「俗」つまり民衆レベルでは多くが「巫覡」つまり「男女」の「祈祷」や「占い」をする人達に頼って生活していたことを示すものであり、そのような時代的雰囲気というものは、「天智」と称される人物が行った「左手第四指」を切り落とすという行為が行なわれた背景としての時代的雰囲気とよく重なるものではないでしょうか。
 つまり「天智皇帝」が本当に「天智天皇」を指すのか、「崇福寺」の創建は本当に「六六八年」なのかと言うことが問われていると言えるでしょう。


(この項の作成日 2013/06/08、最終更新2013/09/17)(ホームページ記載記事を転記)


「天智」と「左手無名指」

2018年05月13日 | 古代史

 『今昔物語集』など複数の資料に「天智」が「左手無名指」を切り落としたという記述があります。

「『今昔物語』巻十一 天智天皇、建志賀寺語第二十九」
「…其時ニ、天皇□(底本の破損による欠字)□召テ宣(のたま)ハク、翁、然々(しかしか)」ナム云テ失ヌル。定(さだめ)テ知ヌ、此ノ所ハ止事無(やむごとな)キ霊所也ケリ。此ニ寺ヲ可建(たつべ)シト宣(のりたまひ)テ、宮ニ返ラセ給ヒヌ。
其明ル年ノ正月ニ、始メテ大ナル寺ヲ被起(たてら)レテ、丈六(じやうろく)ノ弥勒(みろく)ノ像ヲ安置シ奉ル。
供養ノ日ニ成(なり)テ、灯盧殿(とうろでん)ヲ起(た)テ、王自(みづか)ラ右ノ名無シ指(および)ヲ以テ御灯明ヲ挑(かかげ)給テ、其ノ指ヲ本(もと)ヨリ切テ石ノ筥(はこ)ニ入(いれ)テ、灯楼(とうろう)ノ土ノ下ニ埋(うづ)ミ給ヒツ。」

 これによれば「指」そのものを灯明とした後、それを「埋納」したという事と理解されます。
 また、この『今昔物語集』と同様の記述は『元享釈書』や『扶桑略記』などの仏教資料にも見られます。

『元亨釈書巻二十一』「天智皇帝の段」
「七年正月初三。帝即位。曷為緩。考也。帝創建福寺于志賀都。當平基趾得寶鐸。長五尺五寸。又得白石。長五寸。夜有光。帝喜奇瑞斬左手無名指。納殿前燈幢石壇中。…」

『扶桑略記』「天智天皇の段」
「七年戊辰正月十七日。於近江國志賀郡。建崇福寺。始令平地。掘出奇異寶鐸一口。高五尺五寸。又掘出奇好白石。長五寸。夜放光明。天皇殺左手無名指。納燈爐下唐石臼内。奉為二恩。…(已上同寺縁起より)」

 更に「九八四年」に「源為憲」が著した『三宝絵』の下巻の「僧宝の十」にも、次のようにあります。
 
「…天智天皇、寺をつくらむの御願あり。此の時に王城は近江の国大津の宮にあり。寺所を祈りてねがひ給へる夜の御夢に、法師来りて申さく、「乾(いぬい)の方(北西)にすぐれたる所あり。とく出でてみ給へ」と。…
あくる戊辰の年(六六八年)の正月に、はじめてつくらしめ給ふ。土ひきて山を平ぐるに、宝鐸を堀り出でたり。また白き石あり。夜光をはなつ。
御門いよいよつつしみたうとび給ひて、堂をつくり、仏をあらはし給ひつ。御門、左の方の無名指をきりて石のはこに入れて、とうろうの土のしたにうづみをき給ふ。
これ、て(掌)に灯火を捧げて、弥勒に奉り給ふ志を表はし給へるなり。『志賀の縁起』にみへたり。」

 これは上の『三宝絵』では「弥勒」と関連したものとしていますが、実際には『法華経』の「薬王菩薩本事品」に見える以下の内容を下敷きにしたものではないかと考えられているようです。

「…若有發心。欲得阿■多羅三貌三菩提者。能燃手指。乃至足一指。供養佛塔。勝以國城妻子。及三千大千國土。山林河池。諸珍寶物。而供養者。…」『法華経薬王菩薩本事品第二十三』
 
 これらから理解されることは、「(崇)福寺」を造るに際して土地を開削したところ、「寶鐸」と「白石」を掘り出したとされ、「鐸」という表現をしているところから見て「内部」に「舌状」のものが吊り下げられている形状を想定させますから、いわゆる「銅鐸」ではないかと考えられますが、それと共に掘り出された「白石」が「夜光る」と言うことから、「帝」は「奇瑞」であると喜び、「左手無名指」を「灯籠」代わりとしてその身を燃やした後、その指を「本から」「切り落として」、「灯籠」の土の下(あるいは「燈幢」つまり「燈籠」と「幢」(旗竿状のもの)を建てる「石壇」の中)に「納めた」というわけです。
 これについては『元享釈書』では「殿前」とされ、この「殿」という表現からは「創建」された「建福寺」ではなく「宮殿」の「殿前」ではないかと思料されるものであり(「寺院」には「堂」はあっても「殿」はないと考えられます)、「宮殿」(この場合「淡海宮殿」か)の「正殿」の前には「燈」(明かり)「幢」(旗)があり、それらが立てられている基礎部分の石壇の中に自らの「左手無名指」を切断して「納めた」と言うことであると推定されます。
 更に「鑑真」と共に来倭した「思託」の『延暦僧録』によると(これは逸文として『本朝高僧伝』に記載されているものです)によれば、「無名指を切り落として」それを「灯明」に入れて燃やしたとされています。また『今昔物語集』以外ではそれを「左手」としています。(「 鳩摩羅什」の訳による『大智度論』 (No. 1509 龍樹造 ) in Vol. 25 などでは「…即時薩陀波崙右手執利刀刺左臂出血。割右髀肉復欲破骨出髓。…」とあり、右手に刃物を持つのが通常とされているようです。)
 このようにその事情に複数の説があるようですが、いずれも「指を切り落とした」という一点は共通であり、その行動の特異性が際だっています。
 これは明らかに一種の「生け贄」を捧げる儀式であると考えられるとともに、それが複数の史料では「左手」の「無名指」とされているのはなぜかと言う事が疑問とせざるを得ません。

 「第四指」は現在日本では「薬指」と称されていますが、これは以前「薬師指」であったことの名残であるとされています。またその「薬師指」の由来は、「薬」を解く(かき混ぜる)指がこの指であるとされていたからのようですが、なぜ「第四指」がその役目を負っていたのでしょうか。それはこの指に「魔法」の力があるとされていたという説が有力です。
 第四指は古代には洋の「東西」を問わず「無名指」などと表現されていた事が明らかになっています。例えば「サンスクリット語」や「ラテン語」「ペルシャ語」「ロシア語」「ガリア語」等々で「無名指」と同等の表現がされています。それはこの指に「魔法の力がある」とされていたからであるという研究があります。(※1)
 それによれば、その「魔法の力」がある「指」が「無名」であるのは、「名前」を知られると効果がないと考えられたからであるとされ、それは古来「戒名」や「古代の天皇の「諱」(いみな)なども「本名」であり、生前はそれを「魔物」に知られないように「伏せて」あったものであって、死んで始めて明らかになるという考え方に通じます。
 また「中国」などでは「名前」については通常「字」で呼称されまた表記されていたとされます。死後略歴などを記す場合には「本名」を書き、その後に「字」を書いていたものですが、例えば「百済根軍墓誌」の場合を見ると「公諱軍、字温」と書かれています。「諱」である「軍」が本名であり、「字」とされる「温」は通称です。生前は「諱」が明らかになったり、使用される事はなく、「字」が使用されますが、死後は「諱」が使用されるようになります。それは「本当の名前」が「鬼神」に知られると「災い」が起きるとされていたからであり、「名前」にはそのものの「本質」が現れていると考えられていたようです。このことから、「名前」を知られることを極力避けていたと考えられます。
 この「第四指」についても、備わっている「魔法」の力が、その名前が知られることにより「減ずる」こととなってしまうと考えられ、そのため「無名指」(つまり名前のない指)となったのだと考えられます。
 日本で「薬師指」と呼ばれるようになったのは、「薬」が効くのは「魔法」の力があるからであり、そのためにはこの指を使う必要があるからと考えられたものと思料されます。(薬壺の中で薬剤をかき混ぜるための指とされた)
 「薬師如来」像も「左手」に薬壺を持ち、右手の「薬指」だけを上げて前方に伸ばしている形で造形されています。このことからこれらを造物する際にすでに「第四指」に意味を持たせているのは明らかであり、このことから「第四指」が「薬師指」と称される原因となったものと考えられます。

 この「第四指」に「魔法の力」あるいは「霊力」を認める考え方は上に見るように全世界の各地に見られるものであり、特に「左手の薬指」は、「心臓」が「左」にあるように見える事から特に重視されたものと思われます。そして、その指に装着する装飾具も同様に「霊力」を保持していると考えられたものであり、「指輪」がこの「第四指」に装着するものとされていた事もそれが理由であったと思われます。中でも「結婚指輪」が典型的な例であり、この指につけられることにより、その指輪をつけてくれた相手だけを好きになる「魔法」がかけられることとなるというわけです。

 この「左手無名指」に関する世界的な共通性について考えてみると、「チェス」と似ていると感じられます。
 「チェス」の起源は「インド」にあり「チャトランガ」と呼ばれる(サンスクリット語)「四人制」の「博戯」(当初はさいころを使用していた)であったとされます。それが「西方」に伝わり「チェス」となり、「東方」に伝わったものが「将棋」(日本の場合)「象棋」(中国の場合)となったとされます。(日本将棋の場合途中に「タイ」の「マックルック」を経由するようですが)
 このように「インド起源」のものが東西に拡散していった例があるわけであり、「無名指」の場合も「サンスクリット語」に於いても「無名指」と呼ぶと言うことを考えると、「第四指」を「無名指」と呼び、「霊的力があると考える」ことの起源が「インド」にあり、「チェス」や「将棋」と同様、「東西」に広がったものという推測が出来ると思われます。
 その起源は紀元前後であったと思われますが、それが周囲に伝搬するにはやや時間がかかり、「チャトランガ」が「チェス」や「将棋」として伝搬したのと同様の時期として推定すると、日本には六-七世紀には到着していたと見られます。(※2)
 それはこの「各資料」に出てくる「倭国王」が『隋書たい国伝』の時期の人物であるという推定が不自然ではないことを示すものです。
 ちなみに「第四指」が「霊的力」があるとされたのは、家族や村で共同作業などの際に「非力」である、「要領が悪い」というようないわば「役立たず」の人間のできる事は「祈ること」だけであったと言うことが関係しているのではないかと推察されます。(「卑弥呼」が支持された点もこの付近にありそうです)
 というより当時にあって一番大事なことは「神」に祈りを捧げることであり、その役割は「実作業」において重要性を持たないタイプの人間が受け持っていたのではないかと思われ、それを「指」に置き換えて考えると「第四指」がそれに相当していたと言うことではなかったかと思われます。他の指より「可動範囲」も狭く、「他と独立して動けない」(腱がつながっているため)などハンディを背負っている指であり、そのことが「集団」における「祈祷」などを行うのが役割の人間と見立てられる理由となっていたのではないでしょうか。
 (このようなタイプの典型的なものが『倭人伝』に言う「持衰」ではなかったかと考えられます。彼は「航海術」にも長けておらず、「船」には「不要」「無用」の人間であったと思われますが、そのような人間だからこそ「一心不乱」に祈って始めて航海の安全が確保されるという当時の「常識」があったのではないかと考えられるものです)

(※1)ラースロー・マジャール氏「Laszlo A. Magyar『DIGITUS MEDICINALIS - THE ETYMOLOGY OF THE NAME」Actes du Congr. Intern. d'Hist. de Med. XXXII., Antwerpen, 1990. 175-179. 」
(※2)木村義徳『持ち駒使用の謎』日本将棋連盟二〇〇一年(木村氏は第十四世名人木村義雄氏のご子息であり、当時将棋八段であって、発表当時「将棋博物館館長」でした)

(この項の作成日 2013/06/08、最終更新2016/02/14)(ホームページ記載記事を転記)


阿弥陀信仰と「阿毎多利思北孤」

2018年05月13日 | 古代史

 「古賀氏」の研究により、「九州島」が「筑紫・九国・大宰管内諸国・鎮西・西海道」というような名称を「九州」という名称に変えて使用し始めるのが「平安」の終わり頃の話である事が判明しています。(※)

 嘉承三年(一一〇八)の太政官符案(観世音寺文書)にみえる「九州」が九州島を指すものとしては現存最古のようであるようです。この時「最初」に「九州」という呼称を使用し始めたのが、「観世音寺」であることがこれにより判明しています。
 「観世音寺」はこのように平安時代の末期という時期になって、自身の存在する「地名」として「九州」を自称し始めるわけですが、これは「古賀氏」が言うように「律令体制の崩壊」と「武士の台頭」という時勢が社会不安を呼び、「封じ込められていた記憶」(以前九州と呼称された、という記憶)が呼び起こされたものであろうと思われますが、さらにこの要素に付加・補強するものとして「末法思想」による「浄土信仰」を挙げたいと思います。

 「律令体制」がなぜ崩壊していくのか、ということはなかなか難しいですが、最も決定的な理由は、このような「律令体制」が「天皇親政」を原則としており、そのことは必然的に「強い天皇」の存在が必須であったことと関係していると思います。
 そもそも「律令体制」の発祥である「統一国家」(国郡県制)というものは「始皇帝」により始められたものであり、それは彼の後継が「弱い人物」であったがために即座に崩壊したことからも、「強権」というものと不可分のものであったものです。
 中心権力がその強さをを減じると「末端」に対する統制が効かなくなります。「日本」の場合、「律令制度」の「末端」で、「民衆」と直接接する領域である「国司」(受領)たちの自己保身と「摂関家」に対する奉仕などのため、苛烈な「搾取」が全国的に行われることとなり、それを中心権力はそれを阻止、修正できなくなったものです。
 このように統制が効かなくなると、「律令」として決められたことが「無視」「軽視」され、「班田」であるとか、「出挙」などの「公正」な執行を大きく妨げるものとなったと思われ、数々の違法行為が横行する土壌となったものであり、そしてそのような状態を制御できない「朝廷」に対し、誰もその継続を望まなくなったのではないかと思われます。
 つまり、「律令体制」の崩壊とは、すなわち「天皇家(朝廷)」による政治(親政か摂関かによらず)が「望まれなくなった」状態と思われます。特にこれらのことは「西海道」(旧倭国)で著しく、国家に対して「社会正義」の執行が望めなくなったとき、人々は「宗教」に救いを求めるようになったのです。

 平安末期になると「末法の世」と言われるようになり、貴族や皇族に「阿弥陀信仰」(浄土信仰)が起こります。
 「末法」とは、釈尊(仏陀)入滅から二千年を経過した次の一万年のことを言い、「教えだけが残り、悟りを得られなくなる」と言う時代になるとされています。このような考えは上述した「律令体制の空洞化」と「武士階級の台頭」という流れの中で、貴族も民衆も「不安」に駆られ、その「不安」が「この世では救済されない」という思いになり、「来世で浄土に生まれ変われる」という「浄土思想」に結びつき、「浄土」といえば「阿弥陀如来」が生まれ変わったという「西方浄土」に特に結びつけられて信仰されることとなったのです。
 「末法思想」は民衆に対して現状(社会の不安定さ)を「根拠」を以て説明できると共に、そのような不安にあえぐ人々に「救済」の道を示したのであり、それは「西方浄土」にあの世で生まれ変わることしかない、と言うことでした。こうして「浄土信仰」の隆盛につながっていくのです。
 「西方浄土」におられ、人々を導いているのは「阿弥陀如来」であり、「浄土信仰」は即座に「阿弥陀信仰」につながるのです。
 このような背景があるとするならば、特に「九州」の地で「阿毎多利思北孤」或いは「利歌彌多仏利」に対する「信仰」が「復活」したとしても不思議ではないと思われます。それは「倭国」で「阿弥陀信仰」が早くに起こり、その中心とも言うべき場所が「筑紫」であったと思われるからです。なかでも「元興寺」は彼が倭国内に「阿弥陀信仰」を強く推進した場所そのものと考えられ、その「本尊」(繍仏)も「阿弥陀来迎図」が書かれた「繍帳」であったと考えられるものです。

 この「阿弥陀信仰」は「平安」の末に初めて現れたわけではありません。それは「飛鳥時代」「六世紀」から「七世紀」の始めにかけての動きであったと考えられ、「法華経」伝来と共に始まったと考えられます。
 『二中歴』等の解析からは「五八七年」に「法華経」講義が「隋」からの使者により行われたものであり、これが「阿弥陀信仰」の始まりと考えられます。この「法華経講義」を承けて、「阿毎多利思北孤」が自らを「阿弥陀如来」になぞらえ、国内に「法華経」拡大策をとり、各種寺院の建築を行なわせました。
 他にも彼は「王都」の建設を行いました。そして、その「王都」中に「法華経」を具現化した「寺院」を建立したのです。その寺院は後に「奈良明日香」に移築され「法隆寺」となったと考えられます。
 そして「移築」の際に「筑紫」には「三十三間堂」が残されたため、そこに「観世音寺」を創建したことで「観世音寺」がその後「阿弥陀信仰」の「中心」として存在することとなったものと考えられます。

 「平安時代末期」の律令体制の空洞化とその原因である天皇家の権威低下という事態が起きたとき、「太宰府」官人や「観世音寺」の関係者をして必然的に「三十三間堂」の存在と、それが「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」という二人の人物と関連して記憶が甦ることとなったとと思われます。
 彼(彼ら)こそ、倭国王として初めて「天子」(天王)を自称したものであり、直轄統治領域として「九州」という用語を使用した王なのであって、「法華経」に帰依した「阿弥陀信仰」の中心にいる人物であったのです。
 
 「観世音寺」はその後も「九州」の仏教の一大拠点でありつづけ、「鑑真」が「倭国」に初めて来たときも「観世音寺」の隣に「戒壇院」を設け「授戒」しています。その後も「下野」の「薬師寺」とともに東西の「戒壇院」として存在していましたし、「観世音寺」という寺号も「阿弥陀」の「脇侍」としての「観世音菩薩」の存在に深く関係していたものです。
 「観世音菩薩」が信仰される根拠、というのは「浄土宗」(浄土教)の根本教典である「浄土三部経」の中の「無量壽経」にこの菩薩がいること、「観無量壽経」という教典では「観世音菩薩」を観ずる方法が説かれていることなどがあり、また「法華経普門品」(第二十五)では「観世音菩薩」を念じれば災難・恐怖から救われるという教えが説かれています。このように「観世音菩薩」は「阿弥陀仏」の「慈悲」「救済」を象徴した「菩薩」とされるのです。(もう一人の脇侍である「勢至菩薩」は「阿弥陀仏」の「智慧」を象徴した「菩薩」とされています) 
 
 『二中歴』によれば「六二三年」に「仁王経」(「仁王般若波羅密経」)が伝えられたので「法会」を行った、という記事があります。これは「法隆寺」の「釈迦三尊像光背」に書かれた「上宮法皇」(「阿毎多利思北孤」)夫妻とその母の鎮魂を目的として法会を行ったものと考えられ、そのために「唐」の国から招聘したものとも考えられます。
 また、これを「契機」として「仁王」と改元しているようです。このとき伝えられたという「仁王般若波羅密経」というのは、「世尊(仏陀)」が霊鷲山(りょうじゅせん)に住し、瞑想に入られた時、「世尊」を取り囲んでいた僧や菩薩たちの中から「観自在菩薩(観世音菩薩)」が立って説法を始めた、という内容の文章があるなど「観世音菩薩」との関係が深い経典です。このように「観世音寺」という寺号の中には「阿弥陀」信仰が表現されているのです。
 そして、最初に「阿弥陀信仰」を推進した人物といえば「阿毎多利思北孤」(「上宮法王」)というように、強く記憶に残っていたのだと思われます。
 「観世音寺」(三十三間堂)における「阿弥陀信仰」は即座に「阿毎多利思北孤」信仰であったのです。その信仰は「太子」である「利歌彌多仏利」が推し進めたものであったと思われます。

(※)古賀達也「九州を諭ず 国内史料にみえる「九州」の変遷」(『市民の古代』第15集「「九州」の成立」1993年 市民の古代研究会編)

(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2016/12/25)(ホームページ記載記事を転記)


「大房」と「三十三間堂」

2018年05月13日 | 古代史

 (以下の論は「米田良三『建築から古代を解く』新泉社一九九三年十一月に相当の部分依拠しています)

 現在京都に「三十三間堂」という建物があります。(「通し矢」などのイベントで有名です)この「三十三間堂」は、「平忠盛」が「鳥羽上皇」に寄進したものとされ、当時「得長寿院」という名称でした。(一一三二年創建とされます)
 平家物語にもそのことが語られています。

「(平家物語)巻の第一」「殿上闇討」の段
「しかるを忠盛備前の守たりし時、鳥羽院の御願、得長寿院を造進して、三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏をすゑ奉る。」

 彼は(平家は)この後「肥前神埼の荘」へ赴任しており、九州にも勢力を伸ばしている時期であったと見られます。
 その後「一一八五年」に起きた「元暦大地震」により「得長寿院」は大被害を受けています。
以下平家物語の記事の当該部分。

「巻の十二」「大地震」の段
「赤県(せきけん:都に近いところ)のうち、白河(白川。京都市左京区)のほとり、六勝寺皆やぶれくづる。九重の塔(法勝寺にあった九重塔)もうへ六重ふりおとす。「得長壽院」も三十三間の御堂を十七間までふりたうす。皇居をはじめて人々の家々、すべて在々所々の神社仏閣、あやしの民屋、さながらやぶれくづる。くづるる音はいかづちのごとく、あがる塵は煙のごとし。天暗うして日の光も見えず。老少ともに魂をけし、朝衆悉く心をつくす。また遠国近国もかくのごとし。(以下略)」

 このように「一一八五年」に「近畿」地方に大地震が襲ったことが窺えるわけですが、この時点で「得長寿院」が存在していたことが確認できます。また、この時「得長寿院」は上に見るように多大な被害を被ったこととなっていますが、その後それが再建されたかどうかについては記録がありません。
 現在京都にある「三十三間堂」(正式には「蓮華王院本堂」と言う)は、「一一六四年」に「平忠盛」の子「清盛」が「後白河法皇」に寄進したものとされています。これも直後に火災に遇いその後「一一六六年」に再建されたものとされています。
 この経緯を見ると、「得長寿院」と「蓮華王院」とは同時に存在していたように見えます。しかも、上で見た「一一八五年」に起きた「元暦大地震」の際にはこの「蓮華王院」については『平家物語』中には何も触れられておらず、建物は倒壊しなかったようにみられますが、それもまた不審です。つまり「年次」から言うとこの地震の際には「京」には「三十三間堂」が二つあったと言う事となりますが、かなり不審であるように思われます。
 この辺の年紀にも不可思議な部分があり、「得長寿院」の創建記事が載っている資料には「蓮華王院」の創建記事が載っていなかったりします。

 ところで、現「太宰府天満宮」の所蔵資料の中の「一〇〇一年次」の記録に(大房の中に)「千躰観音像」がある、という記事が存在します。そして、京都に「三十三間堂」が出現する直前の記録には「筑紫観世音寺で大房が転倒し消失した」という記事が残っています。
 このような流れから見ると、「大房」がこの時期に「都」へ「移築」されたものと考える事ができると思われます。
 つまり、「三十三間堂」は「筑紫」の地から「観世音寺」の「大房」が移築されたものと考えられるのです。(これが現在残っている「蓮華王院本堂」なのかどうかは前述したように「得長寿院」と「蓮華王院」の変遷から考えると不明です)
 そして、「平忠盛」もそしてその息子である「清盛」も、送られた側の「後鳥羽上皇」も「後白河法皇」も、関係者一同この「大房」がそもそも「何」であるかをよく承知していたものと考えられます。
 この「大房」の持つ意味を双方が把握していなければ「寄進」の意味がありません。これは「歴史的」な遺産ともいうべきものであり、また「法華経世界」の上等の表現としての「千躰仏」とそれを納めた「三十三間堂」は、彼等にとって最高の価値のあるものであり、寄進の意味もそこにあったと思われます。
 この「寄進」については、「天皇」は行幸しなかったとされ、それは「異例」という表現がされています。これが「旧王朝」の遺物であり、いわば「公然の秘密」ともいうべきものであったと考えられますから、「寄進」に際しても大々的なイベントも行わず、天皇自身行幸もしなかったものでしょう。
 この当時「末法思想」の蔓延で、誰もが「西方浄土」での救済を願っていました。そのような中で「由緒」ある「三十三間堂」が「寄進」されたとすると、「上皇」の喜びも特に極まったものとなったでしょう。彼はこの功績で「殿上人」に加えられ、「昇殿」を許されています。

 ちなみにこのような「筑紫」からの移築という前例はかなりあったと思われますが、同じ「平安」時代(「平安」の初期)に「筑紫尼寺」を(少なくともその「梵鐘」を)移築して「檀林寺」としたという可能性を指摘しましたが、このような先例が彼等には重要であったのではないでしょうか。
 「とわずがたり」でも示されたように「鎌倉時代」においても「筑紫」から「寺院」に関する多くのものが移動されている現実があった模様であり、王権に近い人々には「筑紫」が「仏教」特に「法華経」の聖地として映っていたものと思われ、そのような地から寺院その他を自家のものとすることは彼等にはいわば「贅沢」でありまた「至上の幸福」であったものと思われるわけです。


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2015/03/13)(ホームページ記載記事に加筆)


「千躰仏」と「法隆寺」

2018年05月13日 | 古代史

 「法隆寺」は「営造法式」によって造られている事が明確になっています。また「大宰府政庁」や「観世音寺」の遺跡から判断して、これらの建物も同様に「営造法式」に則って作られていると見られ、これらのことは「法隆寺」が元々あった場所を如実に示しているものと思われ、やはり「移築元」としては同じ「筑紫地域」の建物を想定する必要がある、ということになるでしょう。
 このことは「観世音寺」と「法隆寺」との間に何らかの関係があっても不思議ではないことを示唆します。それを端的に示しているのが「観世音寺」にあったとされる「大房」です。この「大房」は「千躰仏」を収容するものであり、それは元々「観世音寺」にあったと考えられるからです。

 前述したように「観世音寺」には「大房」があったとされ、それを示す「基礎」が残っています。
 「観世音寺」の発掘調査により東西三十三間(103.8メートル)×南北四間(10.2メートル)の東西に非常に細長い礎石が確認されており、これは平安時代に書かれた「観世音寺資材帳」に記載されている「大房」寸法とほぼ近似するものです。そこには「長三十四丈二尺」「廣三丈五尺五寸」と記されており、これを「曲尺」としてみてみると「103.6メートル」と「10.8メートル」となり、これは発掘の結果の数字とおおよそ近似していると言えるでしょう。
 また、「養老絵図」という「絵図」にも「観世音寺」の姿が書き残されていますが、その中にも「長大」な「堂」のようなものが描かれています。そして『観世音寺資材帳』によればこの堂が該当すると思われる「大房」の中に「千躰仏」があったとされているのです。
 
 ところで、「千躰仏」というと『孝徳紀』に「千躰仏」に関する記事があります。そこでは「難波宮殿」建設の際に「山口直大口」が「奉詔」して「千躰仏」を刻んだとされています。

「白雉元年(六五〇年)…是歳。漢山口直大口奉詔刻千佛像。…」

 彼は「法隆寺」の「金堂」内陣の「四天王像」(広目天)の「光背」に作者としてその名がある人物です。さらに、「法隆寺」の「玉虫厨子」には「千躰仏」が「レリーフ」されています。
 この「玉虫厨子」は「金堂」の完成模型という説もありますが、実際の「金堂」には(法隆寺全体としても)「千躰仏」はありません。このことからこの「千躰仏」がどこにあるかが問題となっていたのです。(この「厨子」がそうであるという説もあったようです)

 この「白雉元年」記事はこの年に刻んだのか、刻むよう詔勅がでたのかやや曖昧ですが、文意としては「是歳」は「刻」むという動詞に係っていると考えられ、そうであれば、それ以前から出ていた「詔」により「千躰仏」を刻み終わったのがこの年であったと考えられます。つまり「完成年次」を示すものと考えられるでしょう。
 「千躰」の仏像を刻むのにどれだけの時間を要するか定かではありませんが、「三十三間堂」の場合、後の「戦禍」(源平の合戦)にあった際に復興事業として「千躰仏」の再作製が行われました。(実数は八百程度か)その時点で造られた「仏像」の銘を見ると仏師一門総出で行っているようであり、それでも十数年を要したとされていますから、「白雉元年」の際にもやはり同程度の年数を要した可能性があるでしょう。(たとえば千体作成するためには十人が各々年間十体作製しても十年かかるわけです)そう考えると、この「千躰仏」作成は、「阿毎多利思北孤」が健在であった時点から刻み始めたとみるべきであり、「元興寺」創建と同時点で製作が開始されたと見ることができるでしょう。つまり、「千躰仏」とそれを収容する「大房」は当初の設計にあったという可能性が高いと思われます。
 この「元興寺」の創建が伝承では「六〇七年」とされているようですが、実際には「宣諭」事件の以前であった可能性が強く、「隋の開皇年間」つまり「五九〇年代」ではなかったでしょうか。そこから十数年後の完成と考えると、「千躰仏」の完成年次としておよそ「六一〇年代後半」が想定され、『二中歴』に言う「倭京」改元付近が推定されることとなります。またそれは「難波天王寺」の創建年次と接近していたという可能性もあるでしょう。これらのことから『書紀』の記事が「一世代分」ずれているという可能性が高いということと関係していると思料されます。

 そもそもこの完成が『書紀』の言うように「六五〇年」であったとしても、この時点では「観世音寺」は「まだ存在していない」わけですから納められる道理がなく、この「千躰仏」は予定通り「元興寺」つまり後の「法隆寺」に入ったものと考えられ、「観世音寺」に「千躰仏」が入るのはその後のことと思料されます。(つまり、「観世音寺」に「千躰仏」が入ったのもまた「移築」であったものと考えられるものです。)
 
 「法隆寺」と「筑紫都城」とは深い関係があり、「筑紫宮殿」が当初「都城」の中心部付近に造られたことが推定されていますが、それはまた「勅願寺」と推定される「法隆寺」(というより「元興寺」)もまた「都城」の至近に造られた事を意味します。
 この段階で「千躰仏」が刻まれ、「大房」の中に納められたと推定されるわけですが、実際には「礎石」の残存状況からは現「観世音寺」遺跡以外、そのような長大なものは検出されておらず、当初からこの場所に「大房」が作られたことを示しますが、その意味では「元興寺」が移築した跡地に「七世紀」半ばになり、「難波副都」が造られる際に、「筑紫都城」の改修と拡大が行われることとなり、「宮殿」を「拡張都城」の北辺に移動し、「元興寺」の「大房」もそれに併せ「新都城」の「北東隅」に先行して移築された時点で、「半島」の情勢が急展開し、中途で止まってしまったと見られます。
 それに対し「観世音寺」の建設は、それとほぼ時を同じくしてこの「筑紫」で亡くなった「斉明」の「菩提」を弔うためとされ、「六六〇年」付近にその作業が開始したものと考えられています。
 その際、「天智」はその「移築」されていた「大房」の中の「千躰仏」に目をつけ、それを取り込んだ形で「観世音寺」を造ろうとしたものではないでしょうか。

 ところで『二中歴』に書かれた「天王寺」と「観世音寺」に関する記事には明白な違いがあります。
まず「天王寺」の場合、以下のように書かれています。

「倭京五戊寅(六一八~六二二)(二年難波天王寺聖徳造)

そして、「観世音寺」の場合

「白鳳二三辛酉(六六一~六八三)(対馬採銀観世音寺東院造)

 上に見るように表現方法が両者で異なっています。
 「観世音寺」記事の方では「筑紫」という地名が入っていません。それに対し「四天王寺」は「難波」という地名が入っています。
 このことは、この『二中歴』の原資料となったものの成立時点では、「筑紫」は「言うまでもない」ものであり、何もつけなければ「筑紫」のことを意味したものと思料されます。それに対し「筑紫」以外の地についてはその「地名」を前置すると言うことが必要であったと考えられ、そうであれば「難波」が「筑紫」以外の土地であることの証明とも言えます。
 もしこれが「近畿中心」の視点で書かれていたとすると「観世音寺」には「筑紫」と前置きし、「天王寺」(四天王寺)には何もつけない、という表現法がとられたと思われますが、実際にはその「逆」になっているわけですから、「視座」の中心が「筑紫」にあることは明白です。
 このような記事の書き方は「筑紫」に日本の中心があった時代の名残をとどめる資料が『二中歴』の原資料となったものであることを意味するでしょう。
 また、「天王寺」記事の方は、明らかに「聖徳」という人物(これは「利歌彌多仏利か」)が「天王寺」を造ったと判断できるわけであって、それはとりもなおさず、「観世音寺」の方の記事においても「東院」が「観世音寺」を造ったという記事であると判断されることとなります。もしこれを「観世音寺」の「東院」が造られたと「受け身」で判読するなら、ここには造った「主体」が書いていないこととなります。
 『日本帝皇年代記』などもそうですが、「寺院」の創建については必ず「主体」となる人物や組織が存在し、それが明記されるものです。この「東院」を人物と想定しないかぎりその創建の主体が不明とならざるを得ず「不審」というべきです。また「東院」が何か建物名であるとすると、「東院」以外はいつ造られたのか『二中歴』では何も語っていないことにもなるでしょう。それは明らかに「不自然」です。この事は「東院」が「聖徳」同様、個人名であり、また「聖徳」が「利歌彌多仏利」の「法号」である可能性が指摘されているところから、この「東院」についても同様であると考えられるものです。この「院」という「称号」が「出家」した「天子」や「天皇」を指す用語と考えられることも(法王「法皇」と同じものと考えられます)、「東院」が「法号」であることを示唆しています。
 ところで、「観世音寺」創建に関する他の資料では全て「天智」の発願とされています。それはとりもなおさず、この「東院」が「天智」を指す事を意味するものであり、「東国」に支援勢力があった「王権」の「王」であったと考えられる「天智」(近江大津宮御宇天皇)について「東」という方向指示を表す単語が使用されているのも首肯できるところです。

 『書紀』等には詳しくは書かれていませんが、「天智」も深く仏教に帰依していたものと考えられ、そのために「三十三間堂」を「観世音寺」に移築するという事業を実施したとも考えられます。
 彼は「三十三間堂」に展開されている「法華経世界」を深く理解していたからこそ、これを熱望したのではないでしょうか。しかし、『書紀』によれば「薩夜麻」帰国後「天智」は死去し、その後「壬申の乱」により倭国王として再度「薩夜麻」が君臨する事態となったため、「観世音寺」については工事が停止され、与えられていた「寺封」についても停止されたと思われます。


(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2017/02/22)(ホームページ記載記事を転記)